鬱病になった私と結婚したいヘタレ泣き虫声優の僕





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【今じゃない】

 マネージャーの藤原さんにハネちゃんが家に帰ってきたとメッセージを送ってから眠ったら、朝の六時に電話がかかって来た。

 幸い、ハネちゃんは眠ったまま起きなかった。

「どうしたんですか?こんなに朝早く」

 僕が慌てて電話に出ながらダイニングに行くと、耳がキーンとなるほど怒られた。

『米田アイコさんとの交際を否定して好きな人がいるって言ったことまでは、プライベートだから一万歩譲って大目に見てたけど、若手人気声優だからって調子に乗んないでよ!カノジョさん一時的に別の物件に引っ越ししてもらって!こんなに早く帰って来るなんて思わなかった!とにかく家にかくまって!』

「それはダメです!」

『はぁ?』

「ハネちゃんは今日病院に行くんです。もう、絶対、俺は彼女と添い遂げます。ご迷惑おかけします。何年後になるかわからないけど、俺は彼女と結婚します。一緒に暮らしていて何が悪いんですか?」

『ああ!もう!今夜、お宅訪問していい?私が対応する』

「対応って?」

『お相手の一般女性の品格を叩きこむ』

「その必要ないですよ」

『なんで?』

「彼女、今日心療内科に行くんです。多分、鬱だって診断されます」

『え、カノジョさん鬱なの?』

「ブラック企業で脳に怪我をしたんです。ハネちゃんと話したいなら藤原さんが来ていいですよ?三人で話しましょ?」

『わかった。その代わり、今日のプロヴォイスプロジェクトのオーディション必ず受かってきてよね』

「はい!」

 完全に目が覚めたけど、まだ朝の六時。ハネちゃんが仕事をしていた時にはもう、ハネちゃんは家を出ている時間だった。

 だから朝ご飯を作るか考えていた。

 オーディションは十時から、全然間に合う。

「ふみやぁ」

 ハネちゃんの声がして、ハネちゃんの部屋のドアを開けると、横向きで布団に鼻まで沈んで目だけ僕を見ているハネちゃんがいた。

 寝られなかったのかな。

「どうしたの?」

「頭痛い」

「え?」

 こんなこと思うの不謹慎かもしれないけどハネちゃんが、とんでもなく可愛く見えた。弱っていても、大丈夫!とイライラしていたハネちゃんじゃなくなっている。

 可愛い。凄く。可愛い。

 僕はリビングのテーブルから魔法の杖を持ってきて、ハネちゃんのオデコに杖の先っぽで、ちょんちょんと突いた。

「ピーリカピリララ ポポリナ ペンペルト 頭痛よ治れ~」

「その呪文、人の怪我とか治しちゃいけないんだよ?禁断の魔法だよ?」

「でも、治ったでしょ」

「治ったかも」

「けど、病院行かなきゃダメだよ」

「なんか行きたくなくなっちゃった」

「そう言うと思った、ちゃんと行かないとダメ。魔法じゃ心は治せない」

「わかった。今何時?」

「まだ六時。僕は八時半には家を出なきゃいけないけど、病院予約してるんだよね?何時から?」

「十時」

「じゃあ、オーディション始まる時間と一緒だ。一緒に戦おうね」

「うん」

 布団に手を突っ込んで、ハネちゃんの手を探して握りしめた。ちゃんと暖かくて安心した。
病院以外のことは、今は考えて欲しくなかった、今夜藤原さんが来るから、会ってくれる?なんて今言ったら、何か別のプレッシャーをかけてしまうかもしれない。黙っておこう。

「もう少し寝ておきな。寝られそう?」

「うん」

 熱があるわけでもない。咳をしているわけでもない。でも、重病だ。

「治らなくても、ハネちゃんならきっと取り戻していけるよ」

「ありがとう」

 そう言って、ハネちゃんんは目を瞑った。

 電車の音がうるさく響くのに、電車の音をハネちゃんときけて嬉しかった。

 近所の牛丼屋で牛丼の並みとミニを買った。ハネちゃんがミニを完食出来たらいいなぁと思っていた。まだ今は並みを食べきれない気がするし、食べ物を残す罪悪感より、完食出来た喜びを感じて欲しい。

 家に帰って一人、プロヴォイスプロジェクトの漫画を読み返していた。主人公に今日はなる。そう強く心に思っていたけど、なんか、ケンのセリフというかキャラの方が、今日の気分に合っているような気がした。

 このオーディションは個別で行われる。そして審査員の人から複数の役を指示されて。もらったセリフの書いてある紙を見ながら演じる。毎回当たり前のように緊張するけど、今日はいつも以上に緊張する。コレが決まったらハネちゃんにちゃんとしたプロポーズをしたい、ロケーションに指輪に……想像するだけで楽しい。

 まぁ、もう散々結婚しようって言っちゃってるし、断られてるけど、でもやっぱり、言葉に、声に出すだけで恥ずかしいのに嬉しいような気持ちになる。期待しちゃうんだ。戻ってきてくれたハネちゃんの笑顔を。

 八時三十分。ハネちゃんの部屋にそっと入り、寝ているハネちゃんを揺さぶった。

「ごめんなさい!」

「え?」

 今までにきいたことないくらい切羽詰まったハネちゃんの声に驚いた。

「あ、いや、ごめん。仕事中に居眠りした夢見ちゃって」

「俺の方こそ、ごめん。次からはキスで起こすよ」

「ふふ。その方がいいかも」

 ハネちゃんの困ったような笑顔が、なんだか寂しくさせた。今日はずっと一緒にいたいなって本気で思ったけど、今日のオーディションだけは蹴るわけにはいかない。

「少し早いけど起きた方がいいよ。牛丼買ってきたから食べれるだけ食べて」

「ありがとう」

「今日だけ頑張ろう。明日は頑張らなくていい明後日もずっと寝てていい。元気な日だけ頑張れば充分だよ」

「うん」

 久々にハネちゃんの唇にキスをした。

 とてもとても久しぶりだと思った。だけど、出会った時よりもずっと上手になったと思う。十年間、大島羽根という女だけを知ろうとした。この先の十年も、二十年も、その先も、死ぬ直前までも、この物体について僕は知りたいと願い求めるのだろう。

「じゃあ行ってくるね」

「うん」

 本当は一人で家に残すのが不安だった。でも、僕は笑顔でハネちゃんの頭を撫でて家を出た。それに、ずっと笑ってなかったハネちゃんが少しだけでも笑顔になった。それだけでも、失いかけたこの四カ月を少し取り戻せた気がする。

 オーディジョンの会場は今回、ガラス張りのダンススタジオだった。防音のマイクテストスタジオより、歌声が反響しやすいから、歌った時の手ごたえが全然いいから嬉しかったけど、他のライバルも一緒だ。

 控室のオーターサーバーで白湯を紙コップに注ぎ、フーフーしながら空いている席に着いた。

 控室には無名の新人から選ぼうとしてるのかなってくらい知らない人ばっかりだった。

 僕と同じ歳くらいの人が六人。みんなカッコイイ。どんな声してるんだろう。

 時間をずらして次の組と入れ替え制だから、水戸くんが来るのは次の組かな?

「あの、千代さん!」

 後ろから話しかけられてドキッとして振り返ると、知らない僕と同じ年頃の男の子が立っていた。

「えっと……」

「俺も同じ専門学校出身です一個歳下です」

 なんだか目がギラギラしていて、ちょっと怖いくらい前のめりでまくしたてるように彼は話し続けた。

「学校でも何度かすれ違ったりしてるんですけど、話しかけられなくて、でもいつか現場で会ったらちゃんと挨拶しようって思ってたんです!俺 金村小玉 って言います!コダマとかあと何故かタマって猫みたいに呼ばれたりします!」

「タマちゃんか、可愛いね」

 素直に感想を伝えると、彼は小さく飛び跳ねるのを我慢してるみたいに肩を上下に揺らして、喜んでいるみたいだった。

「もし、俺がこのオーディション受かったらメシ行きませんか?」

「いいけど……」

「よっしゃー!じゃあ!連絡先交換しましょ!」

「ああ、うん」

 オーディションの時の僕のジンクス。オーディション会場ではスマホの電源を消す。を、破ることになる。それは嫌だ。

「あの、さ。俺オーディションの時はスマホの電源入れないって決めてて、普通にオーディション終わってから昼ごはん行かない?」

「いいんですか?!よっしゃー!肉行きましょ!焼肉!」

「うん。いいよ」

「ってか、ずっと知りたかったことがあるんですけど千代さんの好きな人って、大島ハ……っぐ!」

 人の口を手でふさいだのは初めてだった。でも、他にも知らない人がいる狭い部屋でハネちゃんの名前を出してほしくなかった。

「いや、すみません。俺が軽率でした。ほんとすみません。だた、今SNSのトレンドに『千代文哉のお相手の一般女性』ってトレンド入りしてますよ?」

「は?」

 小玉が持っていたスマホの画面いっぱいに高校の卒業アルバムのハネちゃんの写真が載っていた。

「まじか」

 はらわたが煮えくり返るってこんな気分か。

「オーディションに影響ないといいっすね!」

 皮肉か?いや、根が素直なだけかもしれない。けど、オーディション前に言って来るところに何か陰謀めいたものを感じる。

「なんか、今、俺大変そうだから、食事はまた今度にしよう」

「えー!じゃあ、電話番号だけ教えてもらっていいすか?」

「ごめん」

 ちょっと、余裕ない。

「やっぱりオーディション受かってからにしよう」

「わかりました」

 素直に引いてくれたけど、なんかしてやられた気分だった。けど、なんか役者のスイッチ入った気がする。

 絶対受かってやる。

 いつものオーディション前のルーティーンを、僕はひっそりと行った。

 目を閉じて、鼻で呼吸をする。鼻は右か左どっちかしか実は活動していない。今、どっちの鼻の穴が呼吸に使われているかを確認する。そして、唇を口の中にしまって舌で唇を三十秒マッサージする。最後にゆっくり肺の中の空気を空っぽにするくらい息をゆっくり吐く。

 うん。受かる。

 そう勝手に思い込むまでがオーディション前の僕のルーティーンだった。

 サクッと役取って、帰る。ハネちゃんのところへ。僕だけが帰る。