鬱病になった私と結婚したいヘタレ泣き虫声優の僕







 出来ることなら、ふんわりと別れたいと思っていた。急に出て行ったら心配かけるし、急に会わないようにしたら、文哉はきっと会社に来るだろう。ふんわり、やわらかく、そっと壊れかけのモノが机に着地した瞬間に壊れるくらいの力加減で別れたかった。

「いいから食べてよ。お腹が空いてるから変なこと言うんだよ。最近寝れてないでしょ?目覚まし鳴る前に起きてるの、俺気が付いてるからね?それって鬱病一歩手前の症状だからね?食べて寝る。それが出来なくなったら人間終わりだよ?そんな状態でハネちゃん一人暮らしするとか無理でしょ」

 無理じゃない。そう言い返したかったけど、一人になる不安がないわけでもなかった。高校卒業後、新潟から二人で上京して、今までこの部屋でずっと二人で暮らしてきた。

 でも、もう大人になった。私は歯科技工士、彼は飛ぶ鳥を落とす勢いの若手人気声優。

 お互いなりたいものにはなれた。夢は叶っている。だから住む世界が違うのに帰る居場所が一緒なんて変だ。もとからおかしな組み合わせすぎたんだ。

「もう無理だって」

 そう口に出したら、ギターの一番太い弦が切れたような、頭の中で変な音が聞こえるくらい、私の中でキレちゃいけないものが切れた。

「別れたいって言ってるの!」

「嫌だって」

「知らない!」

「じゃあハネちゃんは誰と結婚するの?俺以外と結婚するの?」

 まるで幼稚園児の会話みたい。

「そうだよ!私は普通の一般男性と結婚するの!」

「俺が普通の人間じゃないみたいじゃん!」

「普通じゃない!全然普通じゃない!声優なんて全然普通じゃない!」

「普通だよ!」

「声優になりたい人間がこの国に何万人いると思ってるの?何万人が諦めなくちゃいけない夢のような仕事で成功する普通の人なんていない!」

 ああ、疲れてる。明日も仕事。歯科医院への配達もあるから二時間前には出勤しないといけない。でも早く出勤したってお給料は変わらない。

 何も変わらない。私がこの仕事を続ける限り、彼が声優を続ける限り、もう何も変えられない。

「普通じゃないのハネちゃんの方だよ」

「どこがよ!」

「歯科技工士になってから何キロ痩せた?タバコ休憩取る人が羨ましいからってタバコ吸うようになったり、俺が無理やり食わさないと朝飯も食わないし、昼休みがたったの五分とかカップ麺も食う暇ないじゃん。それで夜ご飯も食わないなんて、普通じゃない。今すぐ仕事辞めて来てよ!」

 私が普通じゃないのだってわかってる。でも、コレが普通で日常。こんな私が人気声優の恋人もなんて、このプレッシャーに日々心が擦り切れていく。

 これ以上、今日は話し合うのはやめよう。

 もう壊れそう。

「ごめん。本当に疲れてるみた……い」

 あー。きっと倒れた。一気に色々吐き出したせいだ。

 床に体が押し付けられてるみたいに、地球の重力を感じた。

 きっとこのまま死ぬ。過労死するくらいなら、別れ話なんてしなくてもよかったのに、最悪。

 別れようって決意したのは、二一連勤してやっと手に入れた二日前の休日の夜。最後にしたセックスの最中だった。

 エッチしてる時、文哉がでたBLのCD聴いてるみたいだったのが、嫌だったんだよね。

 文哉はずっと優しかった。傷つけたかったわけじゃない。

 でも、一緒に暮らしてたらいつか『人気声優 千代文哉 一般女性と同棲発覚』とかニュースになっちゃう。そうなったら、文哉のファンが傷つく。ファンが納得するようなお嫁さんじゃないと、今度は文哉が攻撃されるかもしれない。

 そんなの嫌だって、ちゃんと言えばよかった。

 私は、てっきり自分は死んだと思っていたけど、次の日の昼、病院のベッドの上で目が覚めた。だけど意識が朦朧としていて、ベッドの上から動けなかった。

 声も出せなかった。ただ眠くて、疲れていて、それから、寂しかった。

 死んでもよかった。そう思った時、鬱の一歩手前ではなく、踏み込んでしまったと気が付いた。

 そのまた次の日は、新潟から両親が来てくれたし、歯科技工士の専門時代の友達のスズッキーさんも茨城からお見舞いに来てくれて、みんな手を握ってくれたけど、握り返せないほど握力もなかった。申し訳なかったけど、喋ることも謝ることも出来なかった。

 なにより、文哉がお見舞いに来てくれなかったのが寂しかった。

 うまく別れられたのかもしれない。自分から願ったことなのに、寂しくてたまらなかった。

 眠ると、過去のことをいっぱい思い出していた。

 どの思い出も、愛おしく思った。

 文哉はいくつ覚えているだろう。

 微睡の中、私の思考は過去に戻った。まるで走馬灯のようだった。やっぱり死んじゃうのかなって弱気になるくらい。過去が美しいものに思えた。

【十八歳進路】

 私と文哉は地元の同じ高校に進学した。モモノキパンとうい美味しそうな匂いがそとにまで漂うパン屋の前で待ち合わせをして自転車で毎朝駅まで行き、同じ電車に乗って、学校に行った。

 学校ではお互い別々の友達がいたし、学校で喋らない日だってあった。でも、中学の時と違って通学を一緒にしていたから全く喋らない日はなくなっていた。

 駅のホーム、十一月の末ともなるともう新潟は風と共に雪がボトボト落ちてくる。

「寒い」

「東京は今日十度もあるらしいよ」

「いいなぁ。雪かきのない日々」

「ハネちゃんは来年から雪かきしなくて済むんじゃない?」

 私は東京の板橋にある歯科技工士の専門学校に合格していた。

「冬休みになったらこっちに帰って来るもん。雪かきからは逃れられないよ」

「俺たちの宿命だよな」

「玄関と車庫の前は雪どかさないと生きてけないもんね」

「あのさ、俺も受験結果来たんだ」

「え、今日だったの?」

「俺もメール見てびっくりした」

 コートに入れっぱなしだった文哉の手にはスマホが握られていて、ちょっと画面を操作すると、私にスマホを渡してきた。ほんのりスマホは温かかった。

「千代文哉様、この度は……」

「恥ずかしいから読み上げないで」

「あ、ごめん」

 千代文哉様、この度は日本ボイスクリエイティブアカデミー 声優科への合否通知をお知らせさせていただきます。厳正なる審査の結果、当校の、声優科 特待生として 合格とさせていただきます。おめでとうございます。下記のURLとご自宅にお届けする資料をご確認の上、返信をよろしくお願いいたします。

「受かってんじゃん。ってか特待生って凄いんじゃない?」

「うん。二年間の授業料が免除」

「無料ってこと?……すご」

「うん」

「嬉しくないの?」

 文哉は東京の新宿にある声優の二年制の専門学校に合格した。しかも特待生だ。でも、ニコリともしてなかった。私が先月、歯科技工士の専門学校に合格した時は、自分のマフラーを外して振り回してくれるくらい喜んでくれたのに、何が不満なんだろう。

「ハネちゃんはさ、俺の顔どう思う?」

「顔?声じゃなくて?」

「うん」

「正直に言ってもいい?」

「うん」

 私は冷えたスマホを彼に返した。

「我々新潟血統の血を色濃くひいた、素晴らしい骨格と肌と目鼻立ちはしてると思う。歯並びもいいし、背も高い方だし、指も綺麗だし、出会った中学一年生の時からは想像できない程、第二次成長の成功例だと思う。髪の毛もいつの間にか長岡駅まで行ってお高めの美容院に行ってるんでしょ?」

「なんで知ってるの?」

「フミママが教えてくれた」

「母さんかぁ。なんでも話しちゃうんだから仲が良すぎるのも困るよ」

 この頃にはもう、私は文哉のお母さんをフミママと呼び、お父さんをフミパパ、文哉の兄のことをフミアニと呼ぶようになっていた。

 ちなみに文哉は私の母のことはハネママと呼び、父のことはハネパパと呼んでいる。


 付き合ってからこの日までの六年間、私たちは家族も公認する仲になっていた。フミ家とハネ家と家族は呼び合い、庭で夏はバーベキューもするし、長岡の花火大会も車一台で一緒に行くくらい良好な関係だ。

「特に三年生になってから、私には常に七人の敵がいたよ。付き合ってるってはっきり言わない私たちも悪かったんだろうけど」

「ああ、まぁ急にモテだした感じはしてたよ?でも、俺はさハネちゃんを一番大切にしたいと思うんだよね」

「あざーす」

「ちょ。急に拗ねないで」

「拗ねてないけど、アイコが最近ダルイ」

「米田アイコな。ちょっとアイツだけ攻撃的だよな」

 米田アイコ。高校に入って初めて現れた恋敵だった。まだ前髪が鬼太郎みたいだった文哉をオタクと弄るような発言をしつつも、文哉の飲みかけのペットボトルのお茶を飲んだり、体育の時にジャージを忘れたと言って、勝手に違うクラスだった文哉ジャージを着ていってしまったりするような女だった。

「俺がハネちゃん以外好きになるわけないのにな」

「まぁ、確かに文哉が誰かに取られるようなビジョンは私もないんだよね」

 想像力の欠如。

 思い出の欠陥。

 修正できない過去。

 今思えば、私たちは米田アイコを放置してはいけなかったのだ。どこかで徹底的にマウントでも取っておけばよかった。

 だけど、高校生になる時、私から提案してしまったのだ。文哉が声優になった時、彼女がいたなんて歴史をファンは知りたくないだろうから、あえて付き合ってるというのは避けようと。高校生の間、周りには、大島羽根がカノジョらしいと察してもらおうと。本当のことは秘密にしてしまえばいい。今思えば浅はかな悪知恵だった。

 私たちが付き合ってると、はっきりさせなかったせいで、卒業アルバムを使って米田アイコはやりやがった。