鬱病になった私と結婚したいヘタレ泣き虫声優の僕





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 文哉の家から車で十五分。その間私は、静かにティッシュ五枚分鼻水をかんだ。本当は泣きたかった。我慢すればするほど、鼻水ばかり出た。

 けど、それも落ち着いてきて、ただ黙って、外の白い世界を見ていた。

 その間。運転席のフミアニは黙っていてくれた。何の励ましもなく、ただ、静かに私を見守っていてくれた。

 懐かしさの薄れた、実家の門の前で車が止まった。

「送ってくれてありがとう」と、車を降りようとした時、フミアニに強く腕を掴まれた。「自分のこと追い詰めたって、今は意味ないからな。とにかく、休め。寝ろ。酒は控えて、寝ろ。大丈夫。上手くいくよ。大丈夫だから、悩むだけ悩んで、落ち着いたら俺のところに来いよ。俺は絶対味方になるから」

「……ありがとう」

 ポンポンとフミアニに頭を叩かれた。脳みそがグラグラして、本当にこれからどうしようって、思った。

【涙も出ない】

 近所で有名な湯野寿司名物の、日本海丼を広間で何十年前からあるのかわからないけど、正月の時にしか出さない木の机を出し、声優五人で「すげぇ!」とか「うまっ!」とか言いながらみんなで食べた。

「今日は泣かないの?」

 隣に座っていた水戸くんがボソッと呟いて、僕は「うん」と答えた。

「俺とは、結婚、しないってはっきり言われちゃった」

「まぁ、仕方がないって。けど、千代くんまだ二十二歳なんだから、なんとかなるよ」

「そうだといいんだけどね」

 ロメくんが、母さんが作った茶碗蒸しを絶賛して「千ちゃんママー!茶碗蒸し超うまうま!」と隣のダイニングに向かって叫んだ。すると「うれしいわぁ、もう一個食べる?あと一個だけ残ってるのよ」と言った。

 遠慮することなくロメくんは「くださーい!」というと、母さんが湯煎して温めてきた茶碗蒸しをもう一個持ってきた。

 ハネちゃんの分だったんだろうなって思った。よほど美味しかったのか、食べ方も、まるで頬っぺたが落ちないように、ロメくんは両頬を時々モミモミしながら、ラッコみたいに食べていて、年上だけど、可愛いなって思った。

 けど、ふっと我に返った。

「これからどうしよう」

 漠然と思ったことを言ってしまった。

「午後から何して遊ぶかってことぉ?」

 ロメくんの言葉に、違う……って思ったけど、それも考えないといけないような気がした。

 でも、日口さんが甘エビの尻尾を醤油の皿の淵に置くと、シンプルに言った。

「いい声優になりなよ」

 胸がドキッとして、ちょっとだけ痛みを感じた。

「いい声優って、どんな声優ですか?」

「役者として、タレントとして、アーティストとして、こんなにマルチな仕事も珍しいと思うよ。頑張ったら何か変わるかもしれないし、そもそもこの業界にいれば、何も変わらないなんてこともないだろうし」

 感心していると、さっちゃんは箸をおいた。

「同業者と結婚した僕が言うのも変かもしれないけど、カノジョさん、声優の千代くんのことが嫌いなんじゃないと思うんだ。声優の千代くんの邪魔になりたくないっていうネガティブな感情と自分の仕事が上手くいかなかったことを気にして、今は一緒にいたくないって短期的な感情なのものかもよ?本当に嫌いだったら、昨日千代くんの部屋に泊まったりなんてしないと思うし」

 さっちゃんは意外にも食べるのが早くて、丼の中が空になっていた。

「大丈夫。僕は二十五の時に二十二歳の田辺ハルノって一番ノリに乗ってた超人気アイドル声優と結婚できたんだから。焦らなくても平気だよ」

 確かに、焦っても仕方がないのかもしれない。

「勉強になりました。ハネちゃん、アニメが好きなんです。ハネちゃんの好きなアニメ全部に出られるくらい俺、頑張ります」

「ま、それ言われると、ねぇ?」

 水戸くんがニヤニヤすると、ロメくんもさっちゃんも日口さんも、ニヤニヤして僕を見てきた。

「オーディション、俺らが受かっても文句言うなよ」

「僕も、家族養っていかないといけないし」

「おいらも負けねーし」

 と、言葉に圧をあけられた。

 忘れていた。みんな仲間だけどライバルなのだ。しかも全員先輩だ。言葉には気を付けよう。

 近所のお寺にみんなで散歩しに行くことになって、全員スニーカーでゆっくりあるいていたら、結構な時間がかかったけど、運よくお寺の前で『ポッポ焼き』が売られていた。

 僕が、五人だからと思いとりあえず「五十本ください」というと、水戸くんが「そんなに食えないだろ」と言ったけど、五分後には全員が日本海丼を食べた後だって言うのに、跡形もなく食べつくしていた。

 最後のポッポ焼きをハムハムしながら、水戸くんが屋台を見つめながら僕に質問してきた。

「ねぇ千代くん。このポッポ焼き、なんで九本、二十一本、三十本、三十九本、五十本ってキリの悪い本数で売られてるの?」

「さぁ、あんまり考えたことなかったですけど、確かに三の倍数で売られてる店が多いですね」

「でも、五十本って三の倍数じゃなくない?」

「いや、一度に頼める最大数は例外で五十本なんですよ」

「へー。なんかローカルルールなんだな」

 言われるまで考えたこともなかった。

 ハネちゃんは焼き立てのポッポ焼きが本当に大好きで、中学生の時一人で三十本一気に食べて、お腹を壊したこともある。二人で二十一本買って食べる時は僕が十本で、ハネちゃんが十一本だった。

 そうだ。昔は、よく食べる子だった。

 庭でバーベキューをやれば、自分の肉は自分で焼いて育てて食べるような子だった。

 昨夜、久しぶりにハネちゃんを抱きしめて眠ったけど、やっぱり細く弱々しく思った。

 ハネちゃんが新潟に帰ってから、母さんにも頻繁に連絡していたけど、兄ちゃんのカフェにハネママとたまに来て、ランチをしたりしているときいてたから、食欲は戻ったのかと思ってたけど、久々のハネちゃんの頬はこけたままだった。

 とても嫌な予感がしていた。

 結婚を断られたことじゃない。

 そんなことにはならない。そう思っていても、ハネちゃんはもしかして……この不安がどうか取り越し苦労であってほしいけど、もしかして……ハネちゃんは、、、鬱病なのかもしれない。

 だとしたら、僕に、何ができる?何もしないのが一番なのか?本当に?

 お寺でお賽銭を入れて『ハネちゃんの健康をお守りください』そう願っていた。

 この辺じゃ珍しいコンビニに寄り、帰りに車の中で食べるものや飲み物を買って、夕方、水戸くんの運転する車に乗って東京へ帰った。

 新潟は車がないと生活できない場所が多いから、それなりに車を見るけど、やっぱり東京の道路のギチギチ感は凄いなぁと思ってしまう。

「千代くん、まだカノジョさんのこと諦められない?」

 後部座席の三人が雪遊びで疲れ切って眠っている間、運転する水戸くんそう言ってきて、僕は今までみたいに「当たり前だよ」と即答できなくなっていた。

「俺もね、凄く、とんでもなく好きな人がいたんだ」

 名前はわからないけど大きな橋を六十キロで走りながら水戸くんは、語りだした。

「大好きだったんだ。五年付き合ってた。俺が声優の仕事勝ち取ってこられるくらいになった頃だった。だから、もう少し頑張ったら、俺はカノジョにプロポーズするつもりだった。でもさ、ダメだったんだ『結婚は怖い』って言われた。何が怖いんだろうってわからなくて、随分カノジョに俺のどこが悪いのか訊きまくった。でも、今の千代くんと一緒で、普通の人と結婚したいって言われたんだ」

「普通……」

「ショックだった。声優になるの応援してくれてるって口では言ってたのに、いざ売れたら離れていった」

「そう、なんだ……」

「今の千代くんと同じ。でも、俺は諦めたよ。だって俺の嫁として生きるなんて、大変だもん。俺が一番わかってたんだ。ずっと日陰で暮らして、お相手の一般女性なのに、プライバシーがなくなる生活に俺はカノジョを引きずり込めないって思った。もう、連絡も取ってないけど、千代くんには頑張って欲しいって思ってる。だって、カノジョさん本当は千代のこと大好きなんだろうなって、今日会って思った。俺は最後まで応援するよ」

「あ、ありがとう」

「千代くんなんか曲かけてよ」

 僕はFMラジオから自分のスマホをブルートゥースに繋いで、ハネちゃんと中学生の時に同じアイコンだったアニメの主題歌を流した。

「この曲、もう十年以上前の曲なんてびっくりだよね」

 水戸くんにそう言うと、水戸くんは息を飲んだ。

「やべぇな!でも、俺この曲、今の事務所はいるときの面接で、アカペラで歌ったぜ。なんか、お陰様でって感じだな。そうかー。もうそんなに前か。全然そんな感じしないな」

「ハネちゃんと東京に来てから二回しかカラオケ行かなかった」

「二回?四年も東京にいたのに?」

「うん。身バレしたら大変だからって、ハネちゃんそればっかりだったんだけど、二回だけ付き合ってくれた」

「なんで?」

「怒らないでよ?」

「わかった」

「オーディションに落ちた時だけ付き合ってくれたんだ……痛ッ!」

 僕の後ろの席で眠っていたはずのロメくんが椅子をドンっと蹴って首がカクンってなった。

「おい!こら!ロメ!椅子蹴るな!汚れるだろ!でも、許す!今すぐ千代くんの頭をチョップしろ!横腹にデュクシでもいい!オーディションに二回しか落ちたことないってお前化け物だよ!何がヘタレ癒し系だ!声優界の怪物じゃねーか!」

「デュクシ!デュクシ!」

 ロメくんは水戸くんと僕の間から手を伸ばし横腹に二回強めのデュクシを入れてきた。

 デュクシとチョップって何が違うんだろうと思った。

「怒らないって言ったのにぃ~!」

「はい!出ました!ヘタレボイス!ロメ!やっぱり頭にもチョップ入れとけ!」

 水戸くんの言うことをロメくんはしっかりきいて、僕は五発頭にチョップをくらった。

「オイラなんかオーディション落ちる方が多いんだけどーぉ!」

「ごめんって!でも、俺も一生懸命やってるんだよ!」

「一生懸命でどうにかなるもんかな?!」

「ハネちゃんの喜ぶ顔が見たかったんだもん」

 そういうと車のエンジン音だけになった。

 だから言いなくなかったのに。ちょっと拗ねてると水戸くんが「千代くん、声優界でも普通じゃない」と言った。僕は何故か「すみません」と謝った。

「千代くんはこの先も声優として生きていくでしょ?」

「うん」

「じゃあ、役者の仕事と、エッセイ本と、アーティストとしてライブやって、テレビに出られるくらい有名になって、何もかも手に入れないと駄目だな。その上で、遠距離にいるカノジョさんに惚れなおしてもらうのが、今の千代くんの目標だな」

「何もかも……何もかも手に入れるにはどうしたらいいんだろう、本当にまた俺のところにハネちゃんは戻ってきてくれるかな?」

「そこはわかんないけど、カノジョさんが今日、千代くんを拒絶したって、明日がどうかは、わからないだろ」

 そっか……。そうかもしれない。一年後、三年後、五年後、いや、十年でも、ハネちゃんと物理的に距離を離れていても、僕を見続けてくれるかもしれない。

「俺、頑張る」

「うん。頑張れ」

 日口さんの家に着き、日口さんは「また誘って」と言って降りて行った。

 ロメくんも「今度はスノボー行きたーい」と車を降り、窓を開けた水戸くんの頬にキスして、歩き出した。

 さっちゃんは「おやすみ。千代くん水戸くん、明日の現場一緒だよね。よろしく」と眠そうにしながら、マンションの前のコンビニで別れた。

 二人になってから「あの、水戸くんロメくんとはキスする仲なの?」と、おそるおそる聞くと「いや、ただの挨拶だなロメは海外暮らしが長かったから」と、気にもしていなかった。僕にとっては結構な衝撃映像だったけど、本当に純度百パーセントの親しい人への挨拶だったらしい。

 僕も挨拶だって言って、ハネちゃんの頬にキスすることを妄想した。

 でも、拒絶されたら?

 甘い想像なんて、今は出来なかった。

 涙が一滴もでないくらい、ハネちゃんと恋人じゃなくなった現実を受け止められなかった。