鬱病になった私と結婚したいヘタレ泣き虫声優の僕





12

 この先も、使ってもらえる声優に、もうなっている。

 でも、まだ二十二歳の文哉が今日か明日にでも結婚するかもなんてファンは思ってないだろう。今の文哉にはもっと多くの人から推してもらう必要がある。ファンの人口がもっと増えれば、結婚して離れていくファンの数も少なくて済む。

 けど、誰かが傷つく。実際にはショックを受けるって感情が近いのかもしれない。芸能人が結婚を発表するとSNSは祝福の声と悲鳴を同時にあげる。

「ハネちゃんがなにもかも背負う必要なんてないんだからね」

「え」

 フミママは手をエプロンで拭くと、ポケットからハンドクリームを出して、塗りながら私にハンドクリームを渡してきたので私も手に塗った。

 歯科技工士を辞めたら、あんなに何を塗っても荒れていた手の皮膚は随分回復して、引っ掛かりはなくなっていた。

「文哉がしっかりすればいいのよ」

「案外しっかりしてますよ?文哉だって凄く忙しいのに、私は全然家事も出来なくなって、全部文哉に頼っちゃってましたし」

「共働きだもの。そういう時期だってあると思うわよ?私は保育士だし、旦那は高校教師でしょ?行事とかイベントごとのたびに繁忙期が来るから、その都度頼り合ってるもの。ハネちゃんは働きすぎたのよ」

「働きすぎて、文哉には何度も歯科技工士辞めて欲しいって言われました。今思えば初めてそう言われた時に辞めてたら、鬱病の症状なんて出なかったと思います」

「頑張っている人に頑張れって言っちゃいけないって育ててきたから、仕事辞めて欲しいなんて言ったのかもしれないと思うと、なんだか私の育て方が悪かったのかなってちょっと反省することもあるわね」

「いいんですよ。のびのび育ってる文哉が羨ましいなって思うこといっぱいあるし、そこが好きです。素直で心配性で、程よく甘ったれなところが文哉のいいところなんです」

「そんな風に思ってもらえて私は嬉しいわ。達也と違ってしっかりものじゃないと思ってても、ハネちゃんの支えになれるくらいになってたなら私も安心」

 お風呂洗いからフミパパが戻ってきて、フミママは「お茶入れますね」といって、電気ケトルに水を汲んだ。

 私は、フミアニと宅飲みをさせてもらうことを告げ、文哉の部屋のある二階に向かった。

 文哉の部屋のベランダを開け、置いておいたフミアニからもらった缶酎ハイはキンキンに冷えていた。

 一本飲んじゃお。

 鞄から文哉をイメージして作られた香水を取り出して、胸と首の間に向かってワンプッシュした。

 スッキリとしたアルコールに紛れお花の石鹸の匂いに蜂蜜のような甘い香り。

 いい匂いだけど、どこが文哉なんだろう。私のイメージする文哉はアスファルトが雪で濡れてキンと冷えた香。もしくは夏の田んぼに水が張られた時の芝刈りされた香。ううん。イメージはそうでも、本当の文哉の匂いじゃない。

 缶チューハイの二本目を飲んだ。レモンの味がする。さっきのグレープフルーツも美味しかったけど、柑橘系の酎ハイってなんでこんなに美味しいんだろう。

 文哉の香水の匂いが嫌で、三本目に手を出していた。つまみはないけど、空きっ腹ってわけじゃないから、四本目、五本目とスマホに入れておいた文哉と水戸錬太の二人ラジオCDを聞き流した。

 文哉の、穏やかでのんびりした声と、水戸くんのパワフルで大袈裟な喋り方が凄く相性がいいなと思った。

 気がつけば六本目。全部飲んじゃった。

 さすがに酔っ払っている。

 眠いんじゃないけど、なんかクラクラする。全部アルコール9%。無理もない。お酒は強い方だけど、キッチリ酔っ払っていた。

 フミアニ、なかなか帰ってこないな。お店閉める直前にお客でも来たんだろうか。

 私は握りしめていた香水を今度は誰かに向けて噴射するように前にツープッシュした。

 綺麗な匂いだと思う。でも、違う。全然違う。嫌い。

 ワイヤレスイヤホンの充電が切れて、部屋が無音になった。

 するとコンコンと部屋のドアがノックされ、私がボーっとして何も返事を返さないでいると、フミアニがやっと部屋に入ってきた。

「うわ、なんか凄い匂いだな。コレが文哉をイメージして作られた香水?」

「……うん」

 フミアニは酔ってボーっとしている私の腕を引っ張って、文哉のベッドに座らせてきた。そして、テーブルに置いたままの私が飲み干してしまった缶チューハイを次々手に取っていく。

「ハネ、お前これ全部一人で呑んじまったのか?」

「うん。ごめん。でも来るの遅いんだもん」

「悪かった」

 ベッドのふちに座る私の頭の上に手を置かれ。なんとなくそれだけで許してしまった。別に怒っていたわけでもないし、むしろ一本も缶チューハイを残していない方が申し訳ないくらいだった。

「で、今ハネからするこの匂いが文哉の匂いなわけ?」

 フミアニは私の首筋に顔を近づけ、私の両肩を優しく掴んだ。

「そうみたい。でも、文哉の匂いじゃない。そこの枕の方がよっぽど文哉の匂いがする気がする」

「ふーん」

 興味のない返事をしたフミアニは私の肩に顎を置いた。

 近い。でも、不思議。兄弟だからなのか文哉の匂いがする。この部屋の元の匂いと限りなくDNAが一緒だ。落ち着く。

「文哉とはレスだったのか」

「ちゃんと応えてたつもり。まぁ最後のエッチは最悪だったけど」

「なに、最悪って」

「BLのCDもちゃんと聴いてたからさ『ああ。この喘ぎ声聞いたことある』ってなっちゃって。なんかそれは違うんじゃないのって気分になっちゃって。それなら初めてのエッチの時の方がよかったなぁって」

「初めての時は、どんなだったの?」

「ココでした」

「やらしー。そん時、家に俺いた?」

「いなかったよ。フミアニはね、大学の友達と旅行に行ってた。多分」

 そうだったのような、そうじゃなかったような、いつもだったらはっきりしている記憶が曖昧で、多分と付け加えてしまった。

「旅行?ああ、沖縄か」

 そうだ。沖縄だ。

「そうそうそう。ただのちんすこう買って来るならいいのに、フミアニ『ちんちんすこう』なんて変なの買って来るから、文哉とちょっと気まずくなったんだから」

「ちんちんすこうに謝れ」

「じゃあ私と文哉が修学旅行で買ってきた北海道の『おっぱいチョコレート』にも謝って」

 ああ。ふざけてないで、帰らないと。お母さんに迎えに来てって電話しなくちゃ。

 次にしなきゃいけないことは決まっているのに、フミアニが話を続けてくるし、スマホもどこに置いたのか忘れた。

 フミアニからする文哉に近い匂いが、火照った身体を寂しくさせてくる。

「初めてした時って、文哉が脱がしたの?」

「ううん。自分で脱いだ。新品の上下お揃いの可愛い下着を見せびらかしたの。だってしようって作戦会議立ててたのに、文哉正座したまま固まっちゃって、何も言えなくなっちゃって、私も初めは恥ずかしかったけど、だんだんアホらしくなっちゃって」

「アホらしいって」

「だって最初の一回ってだけで最後の一回じゃないのに、ねぇ?」

 酔っ払ってる。血管の中を確実にアルコールが泳いでいる。体が熱い。

「ハネは文哉しか知らないでいいの?」

「わかんない」

 フミアニが私のパーカーのファスナーをおろして脱がした。セーター。トレーナー。長袖のインナー。シャツを脱がして、ブラジャーだけにされた。

「何枚服着てんだよ」

「わかんない」

 気がついたら柔らかい羽毛布団に体が埋まっていた。

「初めての時も水色だった?」

 ジャージ。レギンス。靴下を脱がされて、そう言われた時、今日はたまたま上下一緒の水色の下着だと思い出した。

「はぁ?ピンクだったでしょ?!」

「そうだったな」

 なんか変。変だ。だけど、お酒が体の自由や思考を曖昧にしていく。文哉ではない。はず。フミアニと喋ってる。はず。

「ハネちゃん」

 呼び捨てじゃないってことは文哉なのだろうか?

 でも、文哉の声と少し違うような似ているような本物のような。

 思考がハッキリしない中。文哉らしきものが私の上にピッタリ乗っかってきた。なんかお寿司のシャリになった気分だった。

 でも、そこでフミアニだと明確に分かった。文哉は私の上に全体重を乗せることなんてない。

 いつも『ハネちゃんが折れちゃったら困る』と言っていつも手と手を絡めるだけだ。

「フミアニ、これどういう状況?」

「やっぱ、俺ってわかっちゃうか」

「当たり前じゃん」

「なぁ初めての時、文哉は何から始めた?ブラジャーを外した?それともキスした?ないとは思うけどパンツに指突っ込んだ?」

 フミアニが私の右頬にキスをした。

「文哉は……」

 続けて左頬にキスをした。

「文哉は……」

「次は唇にする」

 そう宣告された声は文哉の声にそっくりだった。でもなんか違う。物まねにしては似すぎだけど、違う声だってちゃんとわかる。今喋ってるのはフミアニ。

 唇が近づいてきて、私は反射的に唇を口の中にしまい込んで、横を向いた。

 そんなことより、文哉は、私に何から始めた?どうしたっけ?文哉が緊張していたのは覚えている。でも、文哉は、下着姿になった私に何をした?いや、最後までしたのは覚えてるけど、文哉は、確か私を抱きしめて、それから、なんか言った?ううん。喋ってた。なんか会話をした。どんな顔だった?どんな声だった?どんなしぐさだった?

「なぁ、俺としちゃおうぜ?」

 今の、フミアニの言葉で、体に充満していたアルコールを裂くように記憶が蘇った。