ガタンと電車の揺れが、ブレーキ音と共に静かに止まった。
小さな無人駅。乗り降りする人は少ない。
裕翔は立ち上がり、少し重くなった鞄を肩に掛けた。
駅から出ると、風の匂いが懐かしかった。田んぼ、古いバス停、さびた自販機。どれも変わらない。けど、自分だけが、ほんの少し変わった気がした。
道を歩きながら、ふと1年前の記憶がよみがえる。
あのとき、自分はこの道を、俯きながら、ほとんど走っていた。逃げるように、振り切るように。
それが今は自分の意思で戻ってきている。
不安は、ある。でもそれ以上に、ちゃんとけじめをつけるべきだって思えた。
実家の前に立つ。
少し古くなった玄関。郵便受けに新聞が溜まり、植木鉢が枯れかけていた。けど、それでも帰る場所には変わりなかった。
裕翔はインターホンを押そうとして、一度手を止めた。
深く息を吸って、そして押した。
しばらくして、扉が開いた。
出てきたのは母だった。
最初、目を疑ったように彼を見つめ、それから口元を押さえ、涙ぐんだ。
「……裕翔……?本当に……?」
裕翔は小さくうなずき、言葉を選びながら声を絞り出した。
「……帰ってきた。話がしたいんだ」
中に通され、リビングはどこか空気が薄かった。
そこには父親もいた。
険しい顔で腕を組み、ただじっと裕翔を見つめていた。
裕翔はソファに座り、まっすぐ父を見た。
「……俺、去年ここから出てった。あのときは、何も考えられなかった。飯もろくに食べられなかったし、家の中も毎日冷たくて……。でも、逃げたのは俺だ。自分の選んだ道だった」
母が静かに鼻をすする音がした。
「けど、ある人に拾われて。カフェで住み込みで働いて、学校にも通わせてもらって……俺、今ようやく、人に感謝するってことが分かるようになった気がする」
父は少しだけ視線を落とし、ため息を吐いた。
「……あのときは、お前も、家の中も、全部うまくいってなかった。俺もどうしていいか分からなかった。だから、何も言わずに出ていったお前を責める資格は、たぶん俺にはない」
裕翔は拳を握ったまま、少しだけ頭を下げた。
「ここに戻ってきたのは、全部をやり直すためじゃない。ちゃんと、これから先に進むために、一度向き合っておきたかった。……俺には、戻りたい場所がある。4年後に、叶えたい約束がある。だから、そのために、ちゃんと自分で未来を掴むために、もう一度この家族とも向き合いたかったんだ」
父はゆっくり立ち上がった。そして、近づいてきて、裕翔の肩に手を置いた。
「……帰ってこい。もう、逃げなくていい。お前がそうしてくれるなら、俺たちも変わる」
裕翔の視界が、にじんでいく。
母が泣きながら、テーブルにご飯を並べはじめた。
「ご飯、まだ食べてないでしょう? 裕翔の好きだったやつ、作ってあるから」
胸の奥が熱くなる。
裕翔は、こくりとうなずいて、静かに席についた。
やっとひとつ、過去にけじめをつけることができた。
それはきっと、未来に進むために必要な一歩だった。
あと3年。やることは山ほどある。
でも今なら、もう迷わない。
春の風は、懐かしさと少しの寂しさを連れて吹いていた。
駅前のバス停で揺れる制服の袖。裕翔は、鏡に映った自分の姿を何度も確かめていた。
ネクタイの結び方。カバンの中身。少し伸びた髪。全部、昨日の夜に何度もチェックしたはずなのに、不安は消えない。
「高校、変わるだけだろ」
そう自分に言い聞かせても、やっぱり、怖かった。
一ノ瀬さんに拾われて、あの家で暮らしていた1年間は、まるで夢だった。
家族じゃない人たちの中で、初めて本当の家族みたいな温かさを知った。
美桜との日々は、何もかもが新鮮で、まっすぐで、心が息を吹き返したみたいだった。
……だからこそ、別れは痛かった。
でも、あの約束があったから、前に進めた。
「大学を出たら戻ってくる」
その言葉は、胸の奥に刻みつけたまま、彼の背中を押し続けている。
バスに揺られながら、窓の外を見る。
実家に戻ってからの生活は、まだぎこちない。
両親との距離は、以前よりは縮まったけど、完全に埋まったわけじゃない。
でも、それでいいと思っている。少しずつ、時間をかけて。
失った時間は簡単には埋まらないけど、これからの時間で少しずつ、積み重ねていけばいい。
高校に着いた。
新しい校舎、知らない顔ばかりの生徒たち。
教室のドアを開けた瞬間、視線が一斉に集まる。
裕翔は軽く頭を下げた。
「今日から転校してきました、吉岡裕翔です。よろしくお願いします」
淡々と、最低限の自己紹介。
拍手もない、歓声もない。けど、それでいい。
目立ちすぎず、埋もれすぎず。それが彼の今のモットーだった。
最初の1週間は、正直つらかった。
何も知らない土地、何も知らない人たち。
ノートを借りたくても声をかけづらく、昼休みもひとりでパンを食べて過ごす。
空気のように存在を消して、何事もなく1日を終える。
だけど、心のどこかでいつも誰かを思い出していた。
「裕翔、ほら、ここ間違ってる」
「そっちじゃなくて、こっちの棚からだよ」
「まったく、あんたってほんっと不器用だなぁ」
思い出すのは、美桜の声、笑顔、怒った顔、全部。
彼女の存在が、彼をここまで連れてきた。
そして、2週間目のある日。
授業が終わり、教室を出ようとしたときだった。
「ねぇ、吉岡くん!」
振り返ると、明るめの茶髪の男子が手を振っていた。
「次、体育だろ?場所どこか知ってる?」
「……あ、体育館って聞いたけど、どこかわかんない」
「んじゃ一緒に行こうぜ!俺、山田翔太っていうんだ。よろしくな!」
こうして、初めてクラスメイトと自然に話せた瞬間だった。
そこから少しずつ、裕翔の高校生活は変わっていった。
話しかけてくれる人が少しずつ増え、昼休みに机を並べて弁当を食べるようになった。
放課後に勉強を教え合ったり、たまには部活の見学にも顔を出した。
そして、裕翔は目の前の毎日に、自分なりの居場所をつくっていった。
家では、親とぶつかる日もある。
「本当に大学行く気あるのか?」
「働いても生活はすぐ変わらないぞ」
厳しい言葉に、心が折れそうになることもある。
でも、裕翔は答える。
「行くよ。自分の足で立てるようになるために」
「ちゃんと、戻るために」
あの日交わした約束は、裕翔の心を支え続けている。
6年は、長い。
でも、約束のためなら、そのすべてを努力に変えられる。
夜、部屋の机の上。
大学案内のパンフレットを広げながら、美桜の連絡先を開いた。
画面には、1週間前に交わしたLINEのメッセージが残っている。
『勉強、無理しすぎないでね』
『ちゃんと寝なよ』
『応援してるから』
それを見て、ふっと笑う。
この言葉だけで、裕翔はまた頑張れた。
そして、ベッドに潜りながら小さく呟く。
「待ってて……絶対、戻るから」
高校の教室で、裕翔は深呼吸をした。
「先生、ちょっと話があるんです」
担任の先生は優しい目を向けてくれた。
「どうした?何か困ったことでも?」
裕翔は家の事情や、これから大学に行くためにもお金が必要なことを伝えた。
「実は、バイトを始めたいと思っています。勉強との両立も頑張るつもりです」
先生は少し驚いた顔をしたけど、すぐに真剣な表情に変わった。
「そうか、裕翔。大変だと思うけど、応援するよ。無理しない範囲で頑張ってね」
それから数日後、裕翔は近くのカフェでバイトを始めた。
初日は緊張で手が震えたけど、カウンターの中でコーヒーの淹れ方を教わりながら、少しずつ慣れていった。
「いらっしゃいませ!」
笑顔でお客さんを迎え、注文を取るたびに胸の奥が熱くなった。
「俺、ちゃんとやってる」
そんな自分を誇りに思えた。
放課後の時間は、教室とは違う戦いの場になった。
疲れた体を引きずりながら、家に帰る途中で寄り道せずにまっすぐカフェへ。
皿洗いや掃除、時には接客も任される。
「裕翔くん、慣れてきたね」
先輩の声が励みになった。
美桜との連絡も、バイトの合間にこまめに取った。
『今日も頑張ってね』
その一言が、何よりのエネルギーだった。
バイトで疲れても、大学への夢を忘れなかった。
「いつか、ちゃんと戻ってくる。あの場所に、あの人たちに」
バイトを終えて、家に戻った裕翔はスマホを手に取った。
画面に美桜の名前が光る。
『電話しますか?』
迷うことなく「はい」を押した。
「もしもし、美桜?」
「あ、裕翔!お疲れ様」
声が聞こえた瞬間、疲れが一気に飛んだ気がした。
「今日もバイトでヘトヘトだよ」
「うん、でも頑張ってるんだね」
電話の向こうで、美桜も学校の話や友達のこと、ささいな日常を楽しそうに話していた。
裕翔はその声を聞きながら、心の底から安らぎを感じていた。
「なんだか、ここにいるみたいだな」
「そうだよ。私たち、すぐそばにいるんだよ」
時間がどんどん過ぎていった。
お互いのことを話し続け、気づけば夜中を過ぎていた。
「もうこんな時間か」
「うん、でも話せてよかった」
電話を切る時、裕翔はそっと言った。
「ありがとう、美桜。お前がいるから、俺は頑張れる」
「私もだよ、裕翔」
そして、画面が暗くなった。
寂しさと希望が入り混じった夜だった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む頃、裕翔は眠い目をこすりながら起き上がった。
バイトのある日々は忙しいけど、やりがいがあった。
カフェに着くと、いつものように店長さんが笑顔で迎えてくれる。
「おはよう、裕翔。今日もよろしくな」
「おはようございます!頑張ります」
注文を受けてコーヒーを淹れ、皿を洗い、テーブルを拭く。
汗が滲むけど、働くことで自分の足で立っている実感が湧いた。
忙しい時間帯を乗り切ると、少しの休憩時間。
スマホで美桜とやり取りをして、また笑顔が戻る。
そんな繰り返しの中、ある日、店長さんに誘われて街の宝石店へ向かった。
店の中に入ると、光るガラスケースの中に様々な指輪が並んでいた。
裕翔は少し緊張しながらも、指輪のひとつひとつを見て回った。
「結婚指輪って、未来の約束なんだな」
裕翔の胸に熱い思いが込み上げる。
ふと美桜の笑顔を思い浮かべた。
「いつか、これを贈るんだ」
そう心に決め、裕翔は指輪をそっと手に取った。
店員さんの優しい声が聞こえた。
「何かお探しですか?」
「はい…将来のために、結婚指輪を見に来ました」
店員さんは笑顔で説明をしてくれた。
指輪には様々な形やデザイン、意味があること。
裕翔は熱心に耳を傾け、未来の自分を想像した。
店を出る時、指輪の重みがポケットの中で心強く感じられた。
「必ず、あの子のために」
その日の夜、裕翔はベッドの中で静かに考えていた。
あの輝く指輪は、ただのアクセサリーじゃない。
約束であり、未来への覚悟だった。
でも、現実はまだまだ厳しい。
新しい高校での生活も、バイトも、全部が慣れないことばかり。
朝、目覚ましが鳴る前に目が覚める。
少しの不安と期待が胸の中でせめぎ合う。
制服を着て、鏡の前で深呼吸。
「よし、今日も1日頑張ろう」
学校では新しいクラスメイトがいて、まだ誰とでも仲良くなれてはいなかった。
話しかけたいけど、どう声をかけていいかわからない。
そんな時、同じバイト先の先輩が声をかけてきた。
「裕翔、バイト頑張ってるね。学校はどう?」
「まだ緊張してて、うまく馴染めなくて」
「大丈夫、みんな最初はそうだよ。焦らなくていい」
先輩の言葉に少し気持ちが軽くなる。
放課後はバイトへ。
慣れない仕事に必死に向き合う日々。
ある日、店長さんから提案があった。
「裕翔、来月からカフェのイベントスタッフやってみないか?」
イベントは大変だけど、人と接するスキルがつく。
裕翔は迷ったが、挑戦してみることにした。
イベント当日、初めての大勢の人の前での仕事。
緊張と戸惑いで手が震えそうになる。
でも、美桜の「頑張ってね」というメッセージが何度も頭に浮かんだ。
なんとか乗り越えた後、達成感と充実感が胸に満ちた。
帰宅後、美桜との電話で今日の話を伝えると、彼女も喜んでくれた。
「私も頑張るね、裕翔のために」
2人の未来はまだ遠いけど、確かに繋がっている。
次第に学校にも慣れ、友達ができ始めた。
そんな中、進路調査票が配られ、将来のことを真剣に考える日々がやってきた。
裕翔は、自分の夢と家族の期待、そして美桜との未来を天秤にかけながらも。
「絶対に幸せにする」
と心に決めた。
朝、目が覚めると、いつもより少しだけ早かった。窓の外からは、まだ薄暗い空に、鳥のさえずりが聞こえてくる。今日も学校に行く準備をするのは、少しだけ勇気がいる。けれど、俺は少しずつ前に進んでいる。新しい環境、新しい友達、新しい自分。
制服に袖を通し、鏡の前で自分の顔を見つめる。まだ慣れない表情だけど、確かな決意がそこにある。昨日先輩に言われた言葉が頭をよぎる。
「焦らなくていい、みんな最初はそうだ」
その言葉に支えられて、俺は玄関を出た。
学校へ向かう途中、教室での緊張感がよみがえる。教室のドアを開けると、クラスメイトの視線が一瞬こちらを向く。まだあいさつもぎこちなく、話しかけることもままならない。けれど、そのうちに、休み時間になって隣の席の奴が話しかけてくれた。
「裕翔、昨日のバイトどうだった?」
「まだ慣れてないけど、頑張ってるよ」
少しずつだけど、会話が生まれ始めて、緊張が少し和らぐ。学校の1日は長いようで短い。授業の合間にノートを取る手も少しずつ慣れ、友達との笑い声も増えていく。
放課後、バイトへ向かう。新しいバイト先は、駅近くの小さなカフェ。ここでの仕事もまだまだ覚えることが多い。コーヒーの種類、オーダーの取り方、接客マナー。何度も失敗しながらも、先輩たちが優しく教えてくれるのが救いだった。
ある日、バイトの先輩が声をかけてきた。
「裕翔、今度の週末、店のイベントがあるんだ。スタッフとして手伝ってくれないか?」
「イベント……ですか?」
「そう。たくさんのお客さんが来るけど、みんなで楽しくやれば大丈夫さ」
俺は迷ったけど、新しいことに挑戦したい気持ちもあって、引き受けることにした。
イベント当日、カフェは朝から忙しくなった。いつもと違う雰囲気に緊張が募る。慣れない仕事に手が震えそうになるけど、美桜の笑顔を思い浮かべて踏ん張る。
電話の画面に。
「美桜からの着信」
と表示されたとき、胸が熱くなった。
電話口での彼女の声はいつもより少しだけ心配そうだった。
「裕翔、無理しないでね。応援してるから」
その言葉でまた頑張れる。
イベントは無事に終わり、達成感が心を満たした。
帰り道、夜空に浮かぶ星を見上げる。遠くで聞こえる街のざわめきの中、俺の決意はますます強くなる。
「俺はもっと強くなる。必ず、美桜のそばで幸せにする」
次の日、学校では進路調査票が配られた。将来のことを真剣に考える時が来たのだ。
俺は自分の夢、家族のこと、美桜との未来、全部を天秤にかけながらも、揺るがない決心を胸に抱いた。
この日々は、辛くても大切な一歩。
歩みを止めるわけにはいかない。
放課後の学校の廊下は、いつもより少し静かだった。教室からはちらほらと笑い声や話し声が漏れてくるけれど、俺の心はそれを遠くで聞いているような気がした。バイト先での疲れがまだ体に残っていて、足取りも重い。制服の襟を直しながら、ふと視線が窓の外に向く。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
「もうすぐ秋だな……」
そんなことを思いながら、机の上に置いてある進路調査票を見つめる。どの進路を書けばいいのか、どんな未来を選べばいいのか、まだ答えは見つからない。ただ、はっきりしているのは、これからの道は自分で決めていかなきゃいけないってことだった。
カバンの中からスマホを取り出す。画面には美桜からの最新メッセージが何件か届いていた。俺は指先でゆっくりとメッセージを開く。
『今日もバイト頑張ってる?疲れてない?』
『無理しないでね。私、いつでも応援してるよ。』
その優しい言葉が胸にじんわりと染みてくる。疲れているはずなのに、なんだか少し元気が湧いてきた。俺は急いで返信を打ち始める。
「ありがとう、すごく助かってるよ。君のこと考えると頑張れる」
送信ボタンを押した後、深呼吸をひとつ。教室の窓から見える空はどんどん暗くなり、夜の帳が降りてきた。
家に帰る途中、駅の改札を抜けると、バイト先の先輩が笑顔で待っていた。
「裕翔、今日もお疲れ!この前のイベント、すごく良かったよ。店長も感謝してた」
俺は照れくさそうに笑い返した。
「ありがとう。正直、まだ慣れないことばかりで……でも、みんなが支えてくれるから頑張れてる」
先輩は親身に頷いた。
「そうだ、今度の日曜、店の新メニューの試食会やるんだ。よかったら来てよ。みんなで意見出し合うんだ」
俺は少し迷いながらも、自然と頷いた。
「行くよ。絶対行く」
そう言った自分の声に、自信はなかったけれど少しずつ居場所を感じ始めていた。
家に帰ると、狭い部屋の中に差し込む電球の暖かな光が迎えてくれる。夕飯は簡単なものだったけれど、腹の底からほっとする味だった。両親と離れてからは、毎日の食事すらもおぼつかなかったけれど、今は違う。自分の居場所があるって、こんなに心を満たしてくれるんだ。
食卓の片付けをしながら、俺はふと指輪のことを思い出した。あの日、見に行った婚約指輪。輝く宝石の美しさと、それに込められた未来の約束。俺にはまだまだ遠い未来だけど、いつか必ず彼女に渡したいと思う。
深夜、布団に潜り込みながらも、眠れなかった。頭の中は、今日あった出来事や、明日のバイトのこと、美桜との会話でいっぱいだった。窓の外には冷たい夜風が吹き込み、街の灯りが静かに揺れている。
「俺はこの場所で、少しずつ変わっていくんだ」
自分にそう言い聞かせて、やっと瞼を閉じた。
翌朝、目が覚めるとまだ薄暗かった。今日は週末、バイトの試食会の日だ。カフェに着くと、いつもより少し緊張した表情のスタッフたちが集まっていた。新メニューの試食会は、みんなが自分の意見を言い合い、一緒にカフェを良くしていくための大事な場だ。
先輩が笑顔で俺に話しかけてくる。
「裕翔、君の意見も聞かせてくれよ。まだ経験は浅いけど、君の素直な感想が必要なんだ」
俺は深呼吸をして、試食したスイーツやドリンクの味、盛り付け、サービスの仕方について一生懸命に話した。緊張していたけれど、先輩たちは真剣に耳を傾けてくれた。
「それいいね、裕翔。次のイベントで早速試してみよう」
そんな言葉をもらって、心の中に小さな灯がともる。
夜、スマホの画面にまた美桜からのメッセージが届く。
『今日のバイトはどうだった?』
『一緒に頑張ろうね。私も今日は部活でくたくただよ。でも、裕翔のこと考えると元気出る』
俺は目頭が熱くなって、すぐに返信を打った。
「今日は新メニューの試食会でいろいろ学んだ。お前の応援があったから乗り越えられたよ」
電話がかかってきて、2人は夜遅くまで話し込んだ。未来の夢や、不安、楽しかった思い出、そしてお互いの大切さを確認し合った。
そんな日々を繰り返しながら、俺は少しずつ自分を取り戻していった。悩みながらも、笑いながらも、毎日が宝物になっていく。
この街で、そして新しい仲間たちと共に生きていく。
「俺は負けない。絶対に幸せになる」
裕翔は、自分にそう誓ったのだった。
朝の通学路は、少し肌寒くなってきた風に吹かれている。地元の高校に転校してから、もうしばらく経つ。けれど、未だにクラスに完全に馴染めてはいない。
制服のポケットに手を入れながら、裕翔は俯きながら歩く。美桜のことが頭から離れなかった。毎日連絡は取り合っている。けれど触れられない距離の中で、不安になるときもある。
「頑張んなきゃな」
口に出してみても、その言葉が空気に消えていくだけだった。
教室の扉を開けると、クラスメイトたちのざわめきがいつも通り流れてきた。まだ裕翔と声をかけてくれる友人は少ない。それでも、隣の席の男子、川瀬が小さく手を振ってくれる。
「おはよ」
「おはよう……」
ぎこちなく返して自分の机に座ったとき、少しだけ救われる気持ちになる。
午前中の授業は早く進む。ノートを取りながら、ふと窓を見ると、空の青色が美桜の目の色を思い出させた。あの日、花火の帰り道で命を賭けて守った彼女。その笑顔。
会いたい、そう思った。だけど、今は距離があるからこそ、お互いが頑張る時間だとも思っていた。何の力もなかった自分が、これからどんな未来を切り拓けるのか。彼女に相応しい男になるために。
放課後、バイト先のパン屋に向かう。こじんまりした地元密着の店で、オーナー夫婦が切り盛りしていた。裕翔は、裏口から入って制服を脱ぎ、エプロンを身につける。
「おお裕翔くん。今日もよろしくね」
奥さんが笑顔で声をかけてくれる。
「よろしくお願いします」
今日のシフトは夕方から夜。食パンの仕上げと焼き上がりを見ながら、店頭の接客にも立つ。常連の老人や、近所の主婦が次々に来て、商品を手にとっていく。
「若いのにえらいねえ」
そう言われるたびに、少し恥ずかしくなりながらも、笑顔を返すことができるようになった。都会での苦労を思い出す。あの頃に比べれば、今は心が穏やかだった。けれど、充実しているとは言えない。何かが欠けている。そう、美桜の存在が、心に穴を開けたままだった。
閉店後、片づけを終え、まかないとして出された焼きたてのクロワッサンを食べながら、空を見上げた。星がちらほらと瞬いている。
「帰るか……」
部屋に戻ってから、シャワーを浴び、ベッドに潜り込んだ。電気は落としたまま、スマホの画面だけが明るく光っている。
『新着メッセージ:美桜』
指先が自然と画面をタップした。
『今日もお疲れ様。バイトどうだった?あたしはテスト近くてしんどいよ〜笑』
『でも、裕翔の声聞けたら元気出るかも』
胸が締め付けられる。すぐに返信した。
『今日も頑張ったよ。』
『……お前に会いたいって思ったよ。すごく。』
既読がついた後、すぐに着信。
「裕翔?」
その声が、何よりの癒しだった。
「ん、どうした? もう寝る時間じゃないの?」
「寝ようと思ったけど、裕翔の声、ちょっとだけ聞きたくなって……」
夜の静けさの中で、二人の言葉は慎重に、でも確かに心を繋いでいった。距離は離れているけれど、画面越しの声が、どれだけ安心をくれるのか。彼女が笑うだけで、自分も笑えていた。
「……あたしさ、裕翔が頑張ってるって思うと、すごく勇気もらえるの。自分もちゃんとやんなきゃって思えるんだ」
「俺もだよ。お前がいるから、頑張れてる。……この距離、耐えてみせる。絶対、迎えに行くから」
「待ってるよ」
その声が、少しだけ震えていた。きっと、美桜も泣きそうになっていたんだと思う。
「……おやすみ」
「おやすみ、裕翔」
電話が切れた後、しばらく画面を見つめていた。目頭が熱くなる。だけど、泣く暇なんてない。俺は前を向いて歩かなきゃいけない。
日々は変わらず、少しずつ積み重なっていく。けれど、その一つひとつが、未来へ繋がる道標だと、今は信じられる。
蝉の声が、頭の上で狂ったように響いていた。
地元の夏祭り。
この町で生まれ育った人間にとっては、年に一度の風物詩。
浴衣姿の小さな子どもたちが、金魚すくいの前で歓声を上げる。
カップルたちが、焼きそばやかき氷を手に笑い合って通り過ぎていく。
その全てが、胸にちくりと刺さる。
去年は、美桜と一緒だった。
手を繋いで歩いたあの夜。
打ち上げ花火を見上げて、光の下で。
花火の光で照らされた、美桜の涙。
あれからもう、1年が過ぎた。
裕翔は、焼きトウモロコシを1本買って、少し端のベンチに腰を下ろす。
笑い声、提灯の灯り、屋台から立ち昇る湯気と甘辛い匂い。
それらすべてが、去年の祭りと重なって、思い出を呼び起こしてくる。
手元のスマホを見た。
《20:00 ビデオ通話、約束》
あと15分。
裕翔は深く息を吐いて、そっと背中を伸ばす。
人混みの中で1人、誰も自分のことを気にしていないその感じが、少しだけ心を落ち着かせた。
「……美桜、何してるかな」
呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。
去年と同じように、あの街の祭りにも行ってるんだろうか。
それとも、今日は忙しいかな。友達といるかな。
ふと、スマホが震えた。
『新着メッセージ:美桜』
『もうすぐ通話できるよ!今日は特別な服着てるから、楽しみにしててね〜笑』
裕翔は小さく笑った。
『そっちも祭り?』
『うん。今は終わって、帰ってきたとこ。浴衣、脱ぐのもったいないから、しばらくこのままいる笑』
想像しただけで、胸が苦しくなった。
会いたい。触れたい。声だけじゃ足りない。画面越しじゃなく、隣で笑ってほしい。
やがて20時。
スマホの画面に、美桜の顔が映った。
画面の中で、紺色の浴衣を着た彼女が、少し照れたように笑っていた。
「裕翔……元気だった?」
「……ずるいな」
「え?」
「そんな格好で現れたら、会いたくなるに決まってんだろ」
美桜は笑って、指で頬を隠すようにした。
「裕翔も、ちょっと大人っぽくなった。……なんか、声が低くなった気がする
「そうか?」
「うん。……かっこいいよ」
言葉の間、どちらも照れて沈黙した。でも、それが心地いい。
「今年の祭りさ、1人で行ってみたんだ。屋台とか歩いて、ベンチでこれ、食べてた」
裕翔は、手元の焼きトウモロコシを画面に映した。
「一緒に行きたかったな。」
「うん。いつか、絶対一緒に行こ」
「……そのために、俺頑張ってる」
画面の向こうで、美桜の目が少し潤んでいた。
浴衣姿の彼女が、夜の静かな部屋の中で、画面越しに微笑む。
「裕翔、」
「ん?」
「……あたし、今でも、あんたに守られてるって思ってる」
その言葉は、どんな激励よりも、裕翔の心に響いた。
夜の祭りの灯りが少しずつ消えていく中、画面越しの2人は、ずっと話し続けた。
他愛ない話、来年の夢、将来の小さな話。
遠距離だとしても、彼女との絆は壊れなかった。
通話を終えたあと、裕翔はカフェでのバイトを終えた日と同じように、静かに空を見上げた。
夜空の彼方に、わずかに残った打ち上げ花火の残光があった。
「待ってろよ……美桜」
拳をそっと握った。
あれから1年後、それは、何でもない日の帰り道だった。
カフェのバイトを終えて、夜の道を歩いていた。
自販機でジュースを買い、ひと息ついたその瞬間までは、確かにポケットにあった。
だが、家に帰って、シャワーを浴びて、制服のズボンを洗濯しようとした時だった。
……ポケットが、軽い。
「あれ……?」
焦るように、バッグの中、制服の中、シーツの下、床の隙間、ありとあらゆる場所を探した。
ない。
どこにもない。
スマホが、ない。
冷や汗が一気に流れ出す。
美桜との連絡手段が、途絶えた。
一ノ瀬さんから「貸し1つな」って冗談めかして渡された、あのスマホ。
あれは、絶対になくしちゃいけないものだった。
ただのスマホじゃない。
過去と未来、全てが詰まっていた。
翌日、通った道を何往復もした。
自販機の裏、交番、ゴミ箱、バイト先。全部聞いた。全部見た。
でも、なかった。
「スリじゃないかって言われたよ……」
小さな声でつぶやきながら、駅前のベンチに座り込んだ。
美桜にも連絡できない。
もう、今夜話す予定だったビデオ通話もできない。
『どうしたの?』
『急に既読もつかないって、なにかあった?』
きっと、そんなメッセージがたくさん来てる。
けど、もう返せない。
家に戻ってからも、部屋の中でうずくまるようにしていた。
怖かった。一ノ瀬さんに連絡するのも。
失くしましたなんて、言いたくなかった。
だけど、次の日の夜。
意を決して、電話を借りて、一ノ瀬さんに電話した。
「……スマホ、なくしました」
『……そうか』
「すみません……ほんとに、すみません。もう何日も探して……警察にも届け出して……でも……」
電話の向こう、一ノ瀬はしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
『いいんだよ』
「……え?」
『モノはな、失くすことも壊すこともある。だけど、失くしたからって意味まで消えるわけじゃねえ』
裕翔は、思わず唇を噛んだ。
『お前が今、すぐにスマホ持ってるかどうかなんて関係ねぇ。お前が俺に、そして美桜に、ちゃんと向き合ってるかどうかだ』
「……うん」
『裕翔。焦るな。大丈夫だ。もうお前は、前よりずっと強い』
その言葉に、こみ上げてくるものを堪えられなかった。
その夜、ノートの切れ端に、美桜への手紙を書いた。
まだ送れはしない。けど、気持ちを整理したかった。
『美桜へスマホ、なくしました。連絡できなくてごめん。でも、気持ちは届いてるって、信じてます。今も、あなたを守りたいと思ってるし、未来を叶えるために頑張ってる。近いうちに、必ず連絡します。』
スマホを失くしてから、1ヶ月が過ぎた。
学校もバイトも、変わらず毎日は流れていくけど、その何かが足りない感覚だけが、ずっと胸にまとわりついていた。
音楽を聴くときも、ノートを開くときも、ふとした瞬間に思い出す。
今まで、どれだけ美桜と話していたんだろう。
毎日、どれだけの言葉を交わしていたんだろう。
そう思うたび、ポケットに手を突っ込んで、そこにもうスマホがないことを、また思い出す。
ある日、バイトが終わった頃だった。
店で休憩をしていたとき、カフェの固定電話が鳴った。
近くにいた店長が受け取り、すぐに顔を上げて裕翔を呼んだ。
「裕翔。……電話。美桜ちゃんからだ」
体がびくりと動いた。
思わず受話器を掴む。
「……裕翔!?」
「美桜……」
その声を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。
「……連絡、ずっと取れないから、事故にあったかと思った。毎日何回もLINEして……電話も、ずっとしてた……!」
「ごめん……スマホ、なくしたんだ。連絡……できなかった」
「もう……!」
彼女の声は、泣きそうな怒りと安堵が混ざっていた。
「何があっても、ちゃんと連絡してよ……! こっちは、何かあったんじゃないかって、ずっと……!」
裕翔は言葉に詰まりながらも、静かに答えた。
「本当に、ごめん。もう、失くさない。絶対に、次は……」
スマホをなくしてから、一週間が経った夜。
裕翔はカフェの固定電話で美桜と少しだけ会話したあと、もう一度、受話器を手に取った。
番号は、あの人のもの。
一ノ瀬 零司。
コール音が、やけに長く感じた。
「……おう、裕翔か?」
低く、けれどどこか優しいあの声が受話器の向こうから聞こえた瞬間、裕翔は少しだけ胸をなでおろした。
一ノ瀬さんの、その声が、どこかおかしく感じた。
「一ノ瀬さん、大丈夫ですか?」
その一言に、ふっと沈黙が落ちた。
「実はな、こっちもあんまり元気とは言えねぇんだ」
「……え?」
「前に言ったろ?持病があるって。今、その症状がな、また悪化してきてる。病院で検査して、ちょっと入院することになった。来週からな」
裕翔は受話器を持つ手に力が入った。
「そんな……いつから、体調が……」
「まあ……ずっとだ。けど、最近は特にしんどくてな。でも、心配すんな。生きる気だけは、まだある」
電話越しの声は、いつものように落ち着いていた。
けれど、ほんの少し、ほんの少しだけ、弱さが混じっていた。
「店は、しばらく美桜と従業員に任せる。……お前も、無理すんなよ。お前が強くなるまで、俺も死ねねえしな」
裕翔は息を詰めるようにして、静かに答えた。
「……俺、頑張ります。だから、一ノ瀬さんも……ちゃんと、帰ってきてください」
「……ああ」
短く、けれど確かなその返事に、裕翔は深く頭を下げた。
それから裕翔は、動き出した。
バイトの時間を増やし、朝は早起きして新聞配達も始めた。
授業が終われば、カフェへ。夜中にはシフトが終わり、机に突っ伏して眠る毎日。
最初は体がついてこなかった。
寝坊して先生に怒られた。
指を火傷したり、皿を落として割ったりもした。
でも、それでも。
「また、美桜と繋がるために」
「もう一度、一ノ瀬さんに胸を張るために」
……何度でも立ち上がった。
そして、2ヶ月後。
銀行口座の残高を見て、裕翔は静かに笑った。
ようやく、買える。
その日、放課後。裕翔は一人で駅前のショップに向かった。
店員に説明を受けながら、スマホの機種を決め、手続きをして、新しい端末が手に入った。
起動音が鳴る。
初期設定をしながら、ふと手が止まる。
『名前は?』
入力欄に、ゆうと。それだけ打ち込んだ。
帰り道、電車の中で美桜にメッセージを送った。
『スマホ、買い直しました。また連絡できるようになったよ』
1分もしないうちに、返信が来た。
『……よかった。ほんとによかった。早く電話しよ』
スマホの画面を見つめながら、裕翔はそっと息を吐いた。
この画面の向こうには、いつも変わらず、待っていてくれる誰かがいる。
夜。時計の針はすでに日付を越えていた。
部屋。蛍光灯を落として、布団にくるまりながら、裕翔はスマホの画面を見つめていた。
通話ボタンを押してから、ほんの数秒。
すぐに、呼び出し音が切れた。
「……裕翔?」
「美桜……」
たった一言。
それだけで、裕翔の胸の奥がじんわりと熱くなった。
「ほんとに、もう……遅すぎるよ。何日待ったと思ってるの」
「ごめん。ずっと……声、聞きたかった」
「……私も」
短くて、でもどこか泣きそうな声が返ってくる。
「今、ひとり?」
「うん。部屋で……布団に入ってる」
「なんか想像できる。裕翔、絶対寝相悪いでしょ?」
「ひど」
そんな他愛もないやり取りが、なぜか胸に染みた。
画面越しでも、声があるだけで、こんなにも安心するなんて。
「……お父さんのこと、聞いた?」
少し、間を置いて美桜が尋ねてきた。
「うん。……さっき、電話で話した」
「最近、前よりずっと疲れた顔してて……夜も、たまに痛そうにしてた」
声が、少しだけ震えていた。
「私ね、子どもの頃からお父さんがいつかいなくなるんじゃないかって、ずっと怖かった。でも今は……お父さん、ちゃんと治療するって。……だから、私も頑張るって決めた」
「……うん」
「裕翔が、そばにいてくれたから。……あのとき助けてくれたこと、何回も思い出すよ」
「……俺も」
部屋の中は、外の虫の音とスマホの微かなノイズだけが響いていた。
「ねえ、裕翔。今、何がしたい?」
不意に、美桜が聞いた。
裕翔はしばらく考えてから、ぽつりと答えた。
「……会いたい。美桜に、直接会いたい」
その瞬間、沈黙が訪れた。
そして、数秒後。
「……泣いちゃうじゃん」
鼻をすする音が、通話の向こうから聞こえた。
「あと……ありがとうね」
「なにが?」
「また、連絡くれて……もう、切れちゃうかと思ってたから」
「そんなことない。絶対に、切れない」
気づけば、通話は2時間を超えていた。
布団の中、眠りにつく直前。
「……美桜、寝た?」
「……寝てない」
「なんで?」
「切るの、もったいないじゃん」
2人で笑った。
「……おやすみ、美桜」
「おやすみ、裕翔」
その日、夢の中でも2人は繋がっていた。
病院の屋上には、少しだけ風が吹いていた。
空はどこまでも青く、見上げるだけで心が洗われるようだった。
一ノ瀬 零司は、ポケットに両手を突っ込んだまま、目を細めて空を見つめていた。
カフェのエプロンではなく、今日の彼は私服。
そして、胸ポケットには、診察券と入院案内の紙。
「……また、ここに来ちまったか」
誰に向けるでもなく、ぽつりと呟く。
苦笑のような吐息が、喉から漏れた。
零司の病気は、ずっと前からつき合ってきた持病だった。
若い頃は。
「まあ、放っておいても死にはしねえ」
と笑っていたが年を重ね、カフェを持ち、美桜を育てるようになってからは、無理が効かなくなっていた。
ここ数年、痛みと倦怠感は徐々に強くなっていたが、裕翔を拾った頃は、まだ誤魔化せていた。
けれど最近は、あいつらに顔を見られるだけでも、辛さをごまかすのが難しい。
「入院期間は、まずは2週間程度。治療次第では延長の可能性もある」
そう言った医者の言葉が、まだ耳に残っている。
「完治は難しいでしょう。ですが、今後の生活の質を維持するためには……」
完治はない。
それでも。
「……俺は、まだ終われねぇんだよ」
そう、心の中で呟く。
今この瞬間にも、遠くの街で、裕翔は何かに向かって歩いている。
スマホをなくしたと聞いたときは、また何かやらかしたかと思ったが、電話での声を聞いて、安心した。
こいつはもう、俺の想像を超えて、ちゃんと男になっていた。
受付で手続きを済ませ、指定された病室へ向かう。
入院は何度目だろうか。
慣れた足取りで病室に入り、荷物をロッカーに押し込む。
ベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
壁の時計の針が、じわりと午後の時間を刻んでいる。
「……美桜には、あんま心配かけたくねぇんだけどな」
娘は強い。裕翔と出会って、もっと強くなった。
でも、あいつは優しすぎる。
俺が倒れたら、きっと無理する。
だから元気な顔をしていたい。
病院からでも、店のことを気にしてるフリをして。
あいつらの邪魔だけは、したくねぇ。
ふと、スマホの画面を見る。
美桜からのメッセージ。
『無理しないでね、お父さん。私、ちゃんとやるから』
裕翔からの着信履歴も残っている。
不器用なくせに、心の奥では一番繊細なやつだ。
「……ほんと、拾ってよかったわ」
病室の窓の外には、青い空と白い雲。
「店も、あいつらも、頼んだぞ……」
財布の中に入っている、厚い封筒の中身確認しては、裕翔は息を吐いた。
高校3年生になって、あっという間に半年が過ぎていた。
大学進学のための勉強と、バイト、そして生活費。
そのすべてをこなしながら、少しずつ、地道に貯めてきた。
目的はただ1つ。
あのとき。
一ノ瀬さんに買ってもらったスマホ代と、生活の中で世話になった分のほんの一部。
「全然足りねぇってわかってるけど……」
それでも、自分なりに、感謝の形を届けたかった。
たとえそれが、小さな返済であっても。
久しぶりに訪れた街は、変わっていないようで、どこか空気が違って感じた。
駅前の景色も、歩道の花壇も、懐かしさと少しの緊張を胸に歩く。
そして、カフェへと続くあの道。
「……ただいま」
心の中で、そっと呟く。
けれど、もうカフェは営業していなかった。
閉店したのではなく、一ノ瀬さんが入院してから、休業中のままだ。
看板のない扉の前に立つ。
軽くインターホンを押すと、すぐに聞き慣れた声がした。
『……裕翔!?』
その声に、思わず口元が緩んだ。
扉が開くと、そこには美桜がいた。
髪が少し伸びていて、前よりも落ち着いた雰囲気を纏っていた。
「……おかえり」
「……ただいま」
たった一言。
でもその言葉だけで、心が熱くなった。
「入院してる病院は、あの坂の上のところ。今もまだ点滴多いけど、少しだけ元気になってきたよ」
カフェの二階に上がり、座布団を敷いた畳の部屋で話をしていた。
部屋の空気は変わっていなかった。
その日の午後、2人は病院を訪れた。
個室の病室。窓際のベッドに、少し痩せた一ノ瀬 零司がいた。
「……裕翔か」
声は、前より少しだけかすれていたが、目は変わらなかった。
見ただけで、あの頃のままの安心感が、胸に広がる。
「久しぶりです。一ノ瀬さん」
「……その顔。ちゃんと働いて、勉強してきたって顔してるな。まったく……バカみたいに真面目かよ」
「そう言う一ノ瀬さんは……もっと、元気な顔しててくださいよ」
お互いに笑った。
「……これ。スマホ代と、少しだけど貯めたお金です。全部は返せないけど……ずっと、渡したかったんです」
封筒を差し出すと、一ノ瀬はそれを見て、苦笑した。
「ははっ……まだ律儀だな。いいって言ったろ」
「ダメなんです。……俺、拾ってもらったあの日から、人生変わったから。あのままだったら、今もぐちゃぐちゃで、自分のことなんか信じられなかった」
裕翔はしっかりと目を合わせる。
「でも今は、自分の足で立って、歩いていこうって思える。あのとき拾ってもらって、ほんとに、ありがとうございました」
一ノ瀬は黙って、それを聞いていた。
少しして、封筒をそっと机の引き出しにしまうと、言った。
「……やっぱ、拾って正解だったわ」
それだけで、裕翔の目に、なにかが込み上げてきた。
帰り際、一ノ瀬は裕翔の手を軽く握った。
「お前が戻るとき、俺はもういないかもしれない。でも……美桜は、俺のすべてだ。どうか、支えてやってくれ」
裕翔は、迷わずうなずいた。
「絶対、戻ってきます。約束しましたから。4年後、必ず」
あちらでの別れからしばらくして、裕翔の毎日はさらに忙しさを増していった。
大学受験のための勉強はもちろん、バイトもしっかりこなし、生活費を稼ぎながら未来を見据えていた。
「大学に入ったら、また一ノ瀬さんと美桜に恩返ししたい」
そう胸に強く決めて、彼は毎日机に向かった。
朝早く目を覚まし、通学の合間に参考書を開く。
学校が終わると、バイト先へ直行する。
帰宅してからは静かな部屋で、夜遅くまで問題を解き続けた。
「ここで踏ん張らなきゃ、俺の未来はない」
何度も自分に言い聞かせながら、集中力が切れると深呼吸をし、またペンを取った。
そんな日々の中でも、美桜からのLINEや電話が何よりの癒しだった。
彼女も遠く離れた場所で勉強を頑張りながら、時折裕翔を励ます言葉を送ってくれる。
『大丈夫、裕翔ならできるよ。ずっと応援してるから!』
画面の文字を何度も見返しては、力をもらい、また勉強に向かう。
彼女の存在は、闇の中に差す一筋の光だった。
そして迎えた試験当日。
緊張と期待が入り混じる朝、家族や一ノ瀬さん、そして美桜の言葉を胸に、裕翔は試験会場の扉をくぐった。
「絶対、後悔はしない」
そう決めて臨んだ試験は、厳しくもどこか爽やかな緊張感に満ちていた。
長い時間が過ぎ、試験が終わると、裕翔は空を見上げた。
「これで結果が出る。あとは自分を信じるだけだ」
合格発表の日、彼の元に届いた通知は、期待以上の結果だった。
『合格』
部屋の中で、思わずガッツポーズを取る裕翔。
心の奥にあった不安が溶けていくのを感じた。
「やった……やったんだ」
すぐに美桜に報告の電話をかける。
『裕翔、すごい!おめでとう!』
彼女の声は涙混じりで、それがまた彼の胸に響いた。
大学のキャンパスは広くて、色とりどりの学生たちが行き交っていた。
裕翔は少し緊張しながらも、新しい環境に胸を高鳴らせていた。
「よし、ここからまた頑張る」
手にした学生証を見つめながら、深く息を吸った。
初日の授業は戸惑いもあったけれど、徐々につかんでいく。
自分の夢を叶えるための第一歩だと思うと、自然と集中できた。
そんな中、バイトも続けていた。
カフェの一ノ瀬さんが体調を崩した後、療養のために一時的に回復し、時折店に顔を出すようになった。
「裕翔、無理せずにな」
一ノ瀬さんは弱々しいながらも、笑顔を見せてくれた。
「お前のこと、ずっと応援してるからな」
その言葉に裕翔は胸が熱くなり、また頑張る力をもらった。
美桜とは遠距離だったが、スマホやSNSで毎日連絡を取り合い、励まし合った。
時には写真を送り合ったり、大学の話をしたり、少しずつ距離が縮まっていくのを感じた。
大学生活は楽しいことばかりではなかった。
忙しさにやられそうになることもあったし、家と遠く離れている孤独感にやられることもあった。
だが、そんな時こそ支えてくれたのは一ノ瀬さんの言葉と、美桜の存在だった。
「お前ならできる」
その言葉を胸に、裕翔は今日も前を向いて歩いた。
そして何より、いつか必ず帰る日を思い描いていた。
「絶対に戻る。その時は笑って会おう」
心の中で何度も誓いながら、新しい日々を刻んでいくのだった。
新しい友達もできて、授業にも慣れ始めていた裕翔は、どこか落ち着いた表情をしていた。
そんなある日、大学の文化祭の準備が活発になり、学生たちは活気にあふれていた。
裕翔も一緒にイベントの企画に参加していたが、そんな中、思わぬ出来事が起こる。
教室の休み時間、突然、クラスメイトの女子、香織が裕翔の前に立ちはだかった。
「裕翔くん、ずっと好きだったの……付き合ってほしい」
そう言って彼女は真剣な目で告白した。
裕翔は一瞬戸惑ったが、すぐに静かに首を横に振った。
「ごめん、俺は彼女がいるから……」
その一言に香織の表情は曇ったが、表向きは笑顔で受け流した。
しかし、それから数日後、裕翔の身に異変が起こった。
授業中に突然、数人の女子から冷たい視線を浴び、陰口を囁かれる。
イベントの準備中も、何かと邪魔をされたり、小さな嫌がらせを受けるようになった。
理由は分からなかった。
香織の態度が影響しているのかもしれないが、裕翔にははっきりしなかった。
ある日の昼休み、廊下でまた女子グループに囲まれた。
「裕翔くんって、ちょっと偉そうだよね」
「彼女ばっかり見て、私たちのことはどうでもいいんでしょ?」
彼女たちの言葉は冷たく、徐々に暴言に変わっていった。
裕翔は黙って耐えていたが、限界はすぐそこまで来ていた。
その日の夕方、キャンパスの片隅で、1人の女子が突然手をあげた。
「なんでそんな態度なの?」
怒りが爆発した瞬間だった。
裕翔は拳を握りしめ、大きく息を吸い込んだ。
「もうやめろよ!俺が誰と付き合ってようが勝手だろ!お前らの嫉妬とかどうでもいいんだよ!」
その一言に、周囲は静まり返った。
威圧的な声と、真剣な目つきに、彼女たちは一瞬でビビったようだった。
「俺はもう黙って耐えるのは終わりだ。誰かが俺に何かするなら、ちゃんと言ってみろ」
そう言い放つと、裕翔はその場を去った。
その日から、彼女たちの態度は一変した。
ビビって近づかなくなり、裕翔の周囲は以前のように落ち着きを取り戻した。
裕翔は心の中でこうつぶやいた。
「これが大人の対応かもしれない。でも……美桜のためにも、絶対に負けられないんだよ」
あの日、電車に揺られながら、俺は何度も自分に言い聞かせていた。
「戻ってくる。4年後、必ず、美桜の元へ」
あの約束が、俺の中にずっと灯っていた。
気がつけば、もう大学最終年の春。
季節は何度も移り変わり、街並みも、生活も、俺自身も、色んなところが変わっていった。
でも、変わらなかったものが1つだけある。
あのカフェで、あの家で、過ごした時間。
あの人たちと出会って、俺はようやく人生ってものを知れたんだ。だから、忘れたことなんて、一度もない。
大学1年の春。
すべてが新しくて、毎日が怖かった。
学費も自分で払ってたし、生活費もバイトでどうにかするしかなかった。
講義は難しくて、ノートも何もかも、慣れない。
最初のテスト期間なんて、寝る時間もなく、教室で寝落ちして、風邪ひいたっけな。
病院に行く余裕なんかなくて、コンビニの栄養ドリンクとカップラーメンで何とか乗り切った。
でもそんなときに支えてくれたのは、美桜の存在だった。
電話で泣いた日もあった。
「疲れた」、「もう無理かも」。
情けない声しか出なかった俺に、彼女はただ。
『大丈夫。ちゃんと頑張ってるって、わかってる』
そう言ってくれた。
その一言だけで、また明日が来てもいいと思えた。
2年目は、少しだけ余裕ができた。
勉強のコツも掴んできて、周りの友達とも関係ができた。
だけど、その分、色んなことが起きた。
クラスの女子から告白されたこともあった。
色々あった。けど、全く怖くはなかった。
なぜなら俺には、美桜との約束があった。
誰に何を言われたって、俺の目指す未来は、そこにしかなかったから。
3年目には、やっと生活にも慣れてきて、成績も上がった。
バイト先の人たちからは、
「そろそろ正社員でどうだ?」
なんて冗談も言われるようになった。
だけど、俺はそのたびに首を振っていた。
「まだ、やりたいことがあるから」
って。
一ノ瀬さんの病状は、その頃一時的に安定していたらしい。
美桜からの手紙には、少しだけ元気な様子が書かれていて、それが本当に嬉しかった。
俺も何度か、顔を出しに行った。
ちゃんと自分で稼いだ金で、スマホも買い直して、カフェに行って、彼の病室を訪ねた。
「俺は、あんたに拾われて、初めて生きるって意味がわかったんです」
そう言った俺に、一ノ瀬さんは弱々しく笑いながら、
「……拾ったんじゃねえよ。あんとき、お前がいたから、俺も救われたんだ」
そう、ぽつりと呟いた。
その一言が、胸にずっと残ってる。
4年目、いよいよ大学もラストスパート。
就職活動が始まって、俺はずっと考えていた。
「どんな道を選べば、戻ったとき、美桜とちゃんと向き合えるだろうか」
「どうすれば、胸を張って、もう一度一ノ瀬さんの前に立てるだろうか」
自分のためだけじゃなく、
あの場所に、何かを返したくて、俺は今、夢だった道を目指している。
大学で学んだ知識も、人との関わりも、全部、俺を強くしてくれた。
そして今。春がまた来て。
もうすぐ、あの日から6年目の春が来る。
美桜と交わした約束。
「6年後に戻って、プロポーズする」
あの言葉は、今でも胸の奥に、鮮やかに焼きついてる。
何もかも不器用で、ボロボロだった俺が、ようやく一歩ずつ進んできたこの道。
いつか笑って。
「俺、ちゃんと帰ってきたよ」
と言える日まで。
あと少しだけ、走ろうと思う。
春の風はなぜか冷たかった。
けれど、心の中はあたたかさだけで満ちていた。
大学生活、その4年間。
長いようであっという間だった。
けれど、そのひとつひとつの季節に、俺は全力で生きていた。
迷い、傷つき、泣き、悩み、それでも進んだ。
そして今日、ようやく、大学を卒業する日が来た。
式典が行われたホールは、笑顔と涙で溢れていた。
友人の声、保護者の拍手、教授の挨拶。
一言一言が、今の俺には悲しかった。
卒業証書を受け取ったとき、俺は思った。
ここまで、よく生きてこれたなって。
家出をした16の春。
あのとき、何も持っていなかった俺を拾ってくれたのは、血の繋がりでも、名前さえ知らなかった他人だった。
一ノ瀬さんと、美桜。
「戻ってこい」
と言われた実家に、一度は帰った。
でも、あの場所で過ごした1年間は、俺の中にずっとあった。
卒業式が終わったあと、少し遠くの公園に寄った。
そこは、美桜と別れたときの、あの公園によく似ていた。
ベンチに座って、スマホを取り出す。
画面の中、美桜からの未読メッセージが並んでいる。
『卒業おめでとう、裕翔』
『絶対似合うと思うから、袴姿、あとで写真送って?』
『あと、元気そうな一ノ瀬さんの写真も送るね』
『あともう少しで、会えるんだよね』
たったそれだけの言葉なのに俺は画面を見ながら泣いた。
俺の心はもう決まっていた。
この4年間、ずっと決めていた。
指輪を、買おう。
高校のときは、何も持っていなかった。
あの頃は
「絶対に戻る」
って言葉しかなかった。
でも今は、少しだけ胸を張れる気がした。
学んだ。稼いだ。考えた。
そしてずっと、想い続けてきた。
卒業式の翌日。
俺は、1人で駅前のジュエリーショップを訪れた。
何度も店の前を通り過ぎては、入る勇気が出なかった。
けれど今日だけは、足が自然と前に進んだ。
ガラス越しに並ぶ指輪たちを見つめながら、俺は思った。
どれも高すぎるとか、こんなの似合うのかなとか、迷いはあった。
けれど、彼女のことを思い出したとき、笑顔、怒り、照れ。全部が蘇ってきた。
そして、店員に案内され、ショーケースの前で静かに座った。
「彼女さんに贈る、婚約指輪をお探しでしょうか?」
俺は、うなずいた。
「はい……ずっと待っててくれた人に」
たくさんの指輪を見せてもらった。
でも、選んだのは、最初に目に入った、シンプルなものだった。
過剰に飾り立てたわけでもなく、でも赤くて美しい輝きを放っていた。
それは、美桜という人に、どこか似ていた。
手に取ったとき、震えが止まらなかった。
買えるかどうか不安だった指輪。
けれど、4年間のバイトと節約、少しの援助も含めて、ようやく届いた。
決済を終えたとき、俺の心の中にずっとあった夢が、現実に変わったような気がした。
帰り道、指輪の箱をカバンの中にしまって、電車に揺られる。
窓の外、夕焼けが街を染めていた。
まるであの日、約束を交わした公園にいたときのような景色。
「……あと少しだな」
誰に言うでもなく、呟いた。
この声が届く人が、すぐそばにいる未来。
その一歩手前まで、ついに来た!
電話が鳴ったのは、夕方4時を少し過ぎたころだった。
その音は、遠くで鳴っているかのように聞こえた。
いや、聞こえていたのに、理解するまでに数秒かかった。
スマホの画面には、美桜の名前。
「……裕翔……お願い、早く病院に来て……パパが……」
震える声。嗚咽まじりの呼びかけ。
それだけで、俺は全身の血の気が引いた。
理由など聞かなくても、わかってしまった。
「……すぐ行く」
適当に服を掴み、玄関を飛び出す。
病室に着いたのは、電話から1時間後。電車で行った。
夜の病室は静まり返っていた。
けれど、その一室だけは、泣き声と、押し殺したすすり泣きが微かに響いていた。
扉の前で、一瞬だけ足が止まった。
もし今、扉を開けたら、本当に終わりに近づいてしまう気がして。
でも、俺は逃げたくなかった。
あの人に、最期の顔を、背中を、言葉を……見せたかった。
ゆっくりとドアノブを握る。
そして、静かに開けた。
病室の中。
静かな病室に、ベッドで酸素マスクをつけた一ノ瀬さんがいた。
その手を握るのは、美桜。
彼女は、声を殺して泣いていた。
それでも、一ノ瀬さんの手を必死に包み込むように、ずっと握っていた。
その姿に、胸が締め付けられた。
「裕翔……」
美桜が俺に気づき、顔を上げた。
涙に濡れたその目に、俺は言葉が出なかった。
「……来たか」
かすれた声で、ベッドの中の一ノ瀬さんが笑った。
顔は青白く、体には点滴と無数の管。
それでも、その目だけは、優しさで溢れていた。
俺は、そばへ歩み寄ると、美桜の隣に腰を下ろした。
「……遅かったかと思った」
「間に合ったさ……お前は、いつも大事なときには、ちゃんと来る」
一ノ瀬さんが、弱々しく笑った。
でもその笑みは、昔と変わらなかった。
「医者がさ……今夜が峠だって言ってた。まるで俺が今日で死ぬみたいに言いやがる」
「やめてくださいよ……」
そう言ったものの、声は震えていた。
言葉だけでは、もう止められなかった。
涙が、どんどんとあふれてくる。
「ほら見ろ……裕翔が泣くなんて……何年ぶりだ」
「やめてよパパ……」
美桜の声が詰まる。
震える声を聞きながら、一ノ瀬さんは、少しだけ体を起こした。
「美桜。……泣くな。お前が泣くと、俺は……ほら、また涙が出てくる」
そう言って、彼は泣きながら笑った。
「裕翔、お前に……最後に言っておきたいことがある」
俺は、顔をあげた。
何も言えず、ただ見つめる。
「あの春の日、お前を拾ったとき、正直、困ったんだよ。何も喋らねぇし、痩せこけてるし」
「でもな、不思議と……見捨てられなかった。理由なんてない。ただ、放っておけなかったんだ」
「それが……全部、今になってわかった。お前に出会えて、本当に良かったって。裕翔、ありがとう。……そして、すまん。もっと、生きたかった」
その瞬間、胸の奥に釘が刺さったように痛んだ。
「俺の夢はな……もっと、バカな話をして、美桜の結婚式を見て、孫を抱いて、孫にもバカって言われるジジイになることだったんだよ。でももう、それは叶いそうにないな」
ベッドの上で、彼は笑いながら、涙をこぼした。
「裕翔、頼んだぞ……美桜を……幸せにしてやってくれ。お前じゃなきゃ、できないんだよ」
俺は喉の奥がつまって、何も言えなかった。ただただ、うなずき続けた。
「……俺はもう、ここまでだ。だけど、お前たちは……まだ、未来を生きていける。だから、泣くなよ。笑え。バカみたいに……笑って……」
そして、最後の力を振り絞って、彼はこう言った。
「俺の人生は最高だったよ。お前たちに出会えたから……本当に……ありがとうな……裕翔、美桜……大好きだ……」
その言葉とともに、彼の目がゆっくりと閉じた。
そして、もう開かれることはなかった。
沈黙。
美桜は、声を上げて泣いた。
俺も、こらえきれずに、彼の手を握りしめて泣いた。
でも、不思議と、一ノ瀬さんのその顔は、笑っていた。
涙を流しながら、笑っていた。
まるで、自分の人生に、悔いなど1つもないと言うように。
空までもが泣いていた。
小雨が静かに降る中、喪服に身を包んだ人々が、ぽつぽつと集まりはじめていた。
通夜も終え、今日は葬儀と告別式。
一ノ瀬さんが、とうとうこの世を旅立つ日だった。
俺は、入り口の横に立ち、目を伏せたまま、参列者を迎えていた。
店の常連だった人、昔からの知り合い、ご近所さん、そして、美桜の友人たち。
みんなが口々に、あの人は、本当にいい人だったと言った。
そうだ。
まるで、自分のことのように誰かの人生に立ち入って、泣いて、笑って、怒ってくれる人だった。
その誰かの中に、俺もいた。
式場の中には、一ノ瀬さんの遺影が飾られていた。
カフェの制服を着た写真。
少し無精髭を残して、照れたように笑っているその表情は今にも。
「バカやろう」
って言いそうで、思わず目を涙が出てしまうほど、懐かしく、優しかった。
美桜は、祭壇のすぐ近くに座っていた。
黒い喪服に身を包んだ彼女は、いつものような無邪気な笑みはなかった。
でも、泣いてもいなかった。
彼女は、強かった。
だけど、俺は知っていた。
あの夜から、毎晩、声を殺して泣いていたこと。
父親のいない世界を、現実として受け入れられずにいること。そりゃ、そうだろう……。
「裕翔……」
小さく、俺の名前が呼ばれた。
顔を上げると、美桜が、震える手で俺の袖を掴んでいた。
「となり……いて……」
俺は、無言でうなずいた。
そして彼女の隣に腰を下ろし、そっと手を握る。
「泣いていいよ美桜……」
そう言った途端、美桜の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
声は出なかった。でも、肩が小さく震えていた。
俺は、ただ手を握り続けた。
どんな慰めの言葉より、今はそれしかできなかった。
式の中盤、弔辞を読む役目が、俺に回ってきた。
あの日、拾われて、育てられて、支えられて、守られた恩。その全部を、たった数分で伝えるのは、到底不可能だった。
でも、俺なりの言葉で、精一杯、話した。
「一ノ瀬さん。あなたが拾ってくれなければ、俺の人生は……こんなふうに変われませんでした。俺は、今でも、何であの時、助けてくれたのか不思議です。でも、あなたがそうしてくれたから、今の俺があります」
「俺にとって、あなたは父親でした。人生を変えてくれた、大切な人です。今でも、信じられません。……でも、前を向いていきます。あなたの背中を忘れないように、生きていきます」
頭を下げたあと、抑えていた感情があふれて、少しだけ声が詰まった。
それでも、俺は泣かずに席に戻った。
それが、今の俺にできる強さだった。
棺の中、一ノ瀬さんは、まるで眠っているような顔をしていた。
美桜は、その顔に花を手向けながら、そっとつぶやいた。
「……ねぇパパ、私、もう子どもじゃないよ。ちゃんと、ちゃんと大人になる。ちゃんと幸せになる……でも、できることならもう一度だけでいい、またあの声で叱ってほしかったな……」
彼女は静かに微笑みながら、花をそっと置いた。
それは、悲しみと愛情が重なった別れの微笑みだった。
俺も、彼の顔を見つめ、最後の一輪を手向けた。
「……あなたに拾ってもらって、本当によかったです。……絶対に、忘れません」
そして、蓋がゆっくりと閉じられる。
光が遮られていく中、あの笑顔が、最後にもう一度だけ見えた気がした。
式の終わり、空は少しだけ晴れ間を見せた。
雲の切れ間から差し込む陽の光が、まるで一ノ瀬さんの大丈夫だって声のように、そっと俺たちを照らした。
その光の中で、美桜と俺は、黙って手をつないだ。
あの人が残してくれた心を、これからの未来へ、しっかりと背負っていくためにも。
葬儀が終わってからの数日間、カフェはずっと、シャッターを下ろしていた。
店の前を通る人々の中には、立ち止まり、祈るように手を合わせていく人もいた。
この場所が、どれだけたくさんの人に愛されていたかが、静かな街の中に、ちゃんと残っていた。
俺も美桜も、ほとんど口をきかなかった。
無理に話す気にもなれなかったし、あの空気のまま何か言葉を出してしまったら。
それだけで、胸がぐちゃぐちゃになって、崩れてしまいそうだったから。
でも、それでも。
あの人が残してくれたものを、ここで途絶えさせてしまうのは、
一ノ瀬さんの最後の願いを裏切ることになる気がして、どうしても嫌だった。
数日後の朝。
俺は、美桜を誘って、久しぶりにカフェの鍵を開けた。
「……開けるよ」
カラン、と懐かしい鈴の音が鳴る。
もうそれだけで、涙が込み上げそうになった。
中は少し埃をかぶっていたけれど、
まだ一ノ瀬さんの気配が残っているようで、どこか温かかった。
「ここ、……全部、パパが作ったのにね」
美桜が、レジカウンターの前で、ぽつりとつぶやいた。
その声は震えていたけど、目はしっかりと前を見据えていた。
「でも、まだ終わらせない。パパのカフェだから」
「俺も手伝うよ。絶対、続ける。一ノ瀬さんが、残してくれたもの」
小さくうなずいて、美桜がほほえんだ。
ほんの少し、でも、確かに前に進んだ証のような笑みだった。
そこから数日間、俺と美桜、そして店の元スタッフだった2人、大学生のサユリさんと、同い年のショウゴが手伝ってくれることになった。
「このままじゃ終われないでしょ、一ノ瀬さんのカフェ」
そう言って笑ってくれたサユリさんの目も、どこか赤かった。
ショウゴは不器用ながらも、黙々と掃除を続けてくれた。
「うちのバイト、こんなに大変だったか……」
「あんた、全部一ノ瀬さんに甘えてたもんねー」
「ぐっ……否定できねぇ……」
久しぶりに笑いがこぼれた。
何かが少しずつ、変わりはじめていた。
そして、1週間後。
カフェは、ついに仮オープンを迎えた。
メニューはまだ少なめ。人手も足りない。
それでも、美桜がレジに立ち、俺が厨房に入り、いらっしゃいませと声を出した瞬間胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちで溢れた。
「これで、よかったんだよね……」
「うん。……一ノ瀬さん、絶対、見てるよ」
俺は、そう信じていた。
そしてその瞬間、あの人の声が聞こえたような気がした。
「美桜を、頼んだぞ」
夜。営業を終えて、店を閉めるころ。
掃除を終えて、美桜と2人、カウンター席に座った。
「……ねぇ裕翔」
「ん?」
「パパが最後にさ、言ったでしょ。『美桜を頼んだ』って」
俺は、少しだけ目を伏せた。
その言葉は、あの夜からずっと胸の中で響いてる。
「……責任、感じてる?」
「いや、そうじゃない。……違うんだ。責任とか、頼まれたからとか、そういうのじゃないんだ。俺が、美桜を守りたいって思ってる。それだけなんだよ」
美桜がゆっくりと、俺の肩にもたれた。
「……ありがと。そう言ってもらえて、うれしい。でもね……私も、パパから裕翔を頼まれた気がしてるんだ」
「え?」
「だから、私も裕翔を支えるよ。お互い、支え合おうよ。ずっと、これからも」
なぜか言葉は出なかった。
でも、そのぬくもりが何よりも、強くて優しい約束だった。
カフェは、まだまだ不完全だった。
けれど、一ノ瀬さんの意志は、確かに俺たちの中に残っていた。
そして、これからも、続いていく。
誰かの心に温かさを残すために。
あの日、拾ってくれたあの人のように。
夏の終わりが近づいていた。
空気にはどこか切なさが混じり、蝉の声も、少しだけ弱くなってきた気がする。
でも、そんな季節の変わり目に、俺の中では1つの覚悟が決まっていた。
この日を迎えるために、俺は6年間、走り続けてきた。
泣いた日も、怒った日も、笑えなかった日もあった。
だけど、あの約束が、俺の心を支えてくれていた。
「6年後に戻る。そのとき、君にプロポーズする」
実際には、6年かかった。でも、それでも。
今日が、その日だ。
日が落ち始めた夕暮れ、
俺は、美桜を連れて、あの場所へと向かった。
2人で最後に話をして、別れを告げた公園。
あのときの夕陽と同じ、赤く染まった空が広がっている。
ベンチの位置も、あの頃のままだ。
1つだけ違うのは、今、俺の隣にいる彼女が、もう泣いていないことだった。
「覚えてる?」
「うん。すごく、はっきりと」
「ここで、俺……」
「うん。プロポーズするって言ってた。……あの時の顔、今も覚えてるよ。泣きながら、でも笑ってて、すごく裕翔だった」
「変な褒め方するな」
2人で、笑った。
こうして並んで笑うのが、どれだけ久しぶりだったか。
でも、それもきっとこの6年の意味だったんだと思う。
「俺さ……たぶん、あのとき家出してなかったら、今の自分はいないと思うんだ」
「うん」
「ボロボロで、迷惑ばっかりかけて、どうしようもないガキだったけど……でも、美桜や一ノ瀬さんに出会って、世界が変わった」
「変えたんだよ、裕翔が」
「……そう、なのかな」
「うん。私は、知ってる」
美桜の手が、そっと俺の手に重なる。
その手は、震えていた。俺もだ。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
そして、ゆっくりとポケットから、小さな箱を取り出す。
美桜が、少し驚いたように俺を見る。
俺は、深呼吸をひとつ。
過去も、後悔も、全部背負って、この言葉を伝える。
「……美桜」
「うん」
「俺は、ずっと……君と生きていたいと思ってた。あのときの約束を、ずっと胸に抱えてここまで来た。泣かせたことも、守れなかったことも、いっぱいある。でもこれからの人生、俺は……君を、幸せにしたい。できるだけたくさん笑わせたい。たまにはケンカして、でも一緒に歳を取って、朝起きて、君が横にいる日々を、生きていきたい」
ゆっくりと膝をつき、小さな箱を開けた。
中には、慎重に選んだ指輪。あのデザイン。
「僕と、結婚してください」
美桜は、目を大きく見開いて、何も言わなかった。
ただ、ぽろぽろと涙を流していた。
言葉がなくても、それだけで全部伝わってくる。
でも、少しだけ沈黙が続いて、不安になった俺が口を開こうとしたとき。
「……何年、待ったと思ってるの?」
「えっ……あ、いや、それは……」
「6年だよ?長すぎだよ、ほんと。……ずっと待ってた。ずっと信じてた。裕翔は、絶対に戻ってきてくれるって。約束、ちゃんと守ってくれるって。だから……嬉しすぎて、……言葉にできないんだよ、ほんと、バカ」
泣き笑いのその顔が、あまりにも可愛くて、俺の胸は、もう言葉にならない感情でいっぱいになった。
「もちろん、いいよ。……結婚しよう。裕翔と、ずっと一緒に生きていきたい」
俺は、美桜の指に、ゆっくりと指輪をはめた。
ぴったりだった。
そっと抱きしめると、彼女は胸に顔をうずめ、ぽつりとつぶやいた。
「……パパ、見てるかな」
「見てるよ。きっと、あの辺からすっごいニヤニヤしながら見てる」
「やだ……裕翔の変な顔がうつった……」
「それ、褒めてる?」
「うん。最高の褒め言葉」
あの日、別れた場所で。
あの日、泣きながら決意を伝えた場所で。
今、俺たちは人生を重ねる約束をした。
きっとこの先も、困難はある。
でも、もう大丈夫。今度こそ、ずっと一緒にいられる。
家族として。
拾ってくれた人が繋いでくれた、たった一つの縁。
その奇跡に、心から感謝を込めて 俺は、美桜の手を強く握りしめた。
美桜と2人、カフェの2階の部屋で、静かな時間を過ごしていた。
夜風がカーテンを優しく揺らしていて、部屋には仄かにコーヒーの匂いが残っていた。
2人の間には、昔みたいに、ラグの上に置かれた麦茶と、残り少ない夏の余韻。
だけど、今はもう高校生じゃない。
それぞれの時間を積み重ね、大人になった2人が、そこにはいた。
「ねえ、裕翔」
「ん?」
「これからさ、私たち……どうしていこうか。未来の話。ちゃんとしよ」
「うん、しよう」
俺は、美桜の正面に座り直し、ゆっくりと息を吐いた。
「まず、俺は……このカフェを続けたいと思ってる」
「うん」
「ここは一ノ瀬さんの、いや……俺たちの家だった。美桜も、俺も、ここで生き方を学んだ。だから、カフェの名前はそのままにして、リニューアルして、もっと多くの人に愛される場所にしたいんだ」
「私も、ずっとそう思ってた。一緒にやろう?」
「もちろん」
2人の視線が重なる。
互いの目に、揺るぎない信頼と、穏やかな決意が宿っていた。
「子どもとか……欲しい?」
「欲しいよ、すっごく。でも焦らない。ゆっくりでいい。お金も、家も、全部ゆっくり整えていこう。焦らず、2人で築いていこうな」
「……うん」
美桜は目を細め、俺の手を握った。
その指先が、少し震えていた。
「あと、もうひとつだけ」
「ん?」
「裕翔が、これからもし何かに迷ったり、苦しんだりしても……私は絶対、裕翔のそばにいるから。どんな時でも。だから、絶対、1人で抱え込まないでね」
「……ああ、ありがとう。俺も、同じこと思ってた」
その言葉が、静かに部屋の中に溶けていく。
まるで、小さな誓いのように。
そして、数日後。ついに、結婚式当日。
空は快晴だった。
まるでこの日を祝福するかのように、太陽は輝き、雲1つない青空が広がっていた。
会場は、美桜と裕翔が一緒に選んだ、丘の上にある小さな教会。
白を基調にしたチャペルには、裕翔の大学、高校時代の友人たち、かつてのバイト仲間、
そして何より裕翔の両親の姿もあった。
父親は照れ臭そうに、母親は涙を堪えながら。
会場の最前列には、一ノ瀬さんの遺影が丁寧に置かれている。
優しい笑顔のままで、まるで本当にそこにいるように見えた。
「新婦の入場です」
扉が開いた瞬間、全員が息をのんだ。
真っ白なウェディングドレスを纏った美桜が、ゆっくりとバージンロードを歩いてくる。
その姿は、まるで光に包まれているかのように美しかった。
俺は微笑んで手を差し出す。
美桜は、少し照れたように俺の手を握り返してくれた。
神父が言葉を紡ぎ、式は進行していく。
そして誓いのキスの直前。
俺は、美桜の手をぎゅっと握りながら、前を向いた。
その視線の先には、遺影の中の一ノ瀬さんがいる。
「……一ノ瀬さん」
声に出すと、自然と涙が込み上げてくる。
でも、この言葉だけは、どうしても伝えたかった。
「俺……必ず、美桜を幸せにします。だから、安心してください。俺を拾ってくれて、本当に、ありがとうございました」
目に涙を溜めたまま少し笑って言うと、会場からすすり泣きが広がった。
「それでは。誓いのキスを」
俺は、美桜に向き直った。
彼女も、目に涙を浮かべながら笑っていた。
その唇に、静かにキスを落とす。
拍手が鳴り響く中、俺たちは互いの額をそっと合わせ、微笑み合った。
「本当に、ありがとう」
「こっちこそ……ありがとう、裕翔」
2人で、振り返り、参列者たちに向かって頭を下げた。
その瞬間、俺の胸の中に思いが広がっていた。
ああ、本当に良かった。
君たちに出会えて。
高校で出会った仲間たち。大学で支えてくれた友人たち。俺を拾ってくれた、一ノ瀬さん。そして、ずっとそばにいてくれた、美桜。
人生は、簡単じゃなかった。
何度も間違えて、泣いて、転んで、でも。
それでも、出会えた奇跡が、俺をここまで運んでくれた。
今なら胸を張ってそう言える。
あの日、名前も知らない君に出会って、俺の世界は静かに色を変え始めた。
痛みも、孤独も、全部無駄じゃなかったって、今なら言える。
だからこそ、これからの人生は、守りたい人を守り、与えられた愛を、誰かに返していくために、生きていきたい。
まだ足りないものばかりの俺だけど、それでも、隣に笑ってくれる人がいる限り、何度だって歩き出せる。
この人生を、もう一度選べるとしても、俺はきっと、同じ道を選ぶ。
「名前も知らない君に拾われて、ほんとうに……よかった……」
完
小さな無人駅。乗り降りする人は少ない。
裕翔は立ち上がり、少し重くなった鞄を肩に掛けた。
駅から出ると、風の匂いが懐かしかった。田んぼ、古いバス停、さびた自販機。どれも変わらない。けど、自分だけが、ほんの少し変わった気がした。
道を歩きながら、ふと1年前の記憶がよみがえる。
あのとき、自分はこの道を、俯きながら、ほとんど走っていた。逃げるように、振り切るように。
それが今は自分の意思で戻ってきている。
不安は、ある。でもそれ以上に、ちゃんとけじめをつけるべきだって思えた。
実家の前に立つ。
少し古くなった玄関。郵便受けに新聞が溜まり、植木鉢が枯れかけていた。けど、それでも帰る場所には変わりなかった。
裕翔はインターホンを押そうとして、一度手を止めた。
深く息を吸って、そして押した。
しばらくして、扉が開いた。
出てきたのは母だった。
最初、目を疑ったように彼を見つめ、それから口元を押さえ、涙ぐんだ。
「……裕翔……?本当に……?」
裕翔は小さくうなずき、言葉を選びながら声を絞り出した。
「……帰ってきた。話がしたいんだ」
中に通され、リビングはどこか空気が薄かった。
そこには父親もいた。
険しい顔で腕を組み、ただじっと裕翔を見つめていた。
裕翔はソファに座り、まっすぐ父を見た。
「……俺、去年ここから出てった。あのときは、何も考えられなかった。飯もろくに食べられなかったし、家の中も毎日冷たくて……。でも、逃げたのは俺だ。自分の選んだ道だった」
母が静かに鼻をすする音がした。
「けど、ある人に拾われて。カフェで住み込みで働いて、学校にも通わせてもらって……俺、今ようやく、人に感謝するってことが分かるようになった気がする」
父は少しだけ視線を落とし、ため息を吐いた。
「……あのときは、お前も、家の中も、全部うまくいってなかった。俺もどうしていいか分からなかった。だから、何も言わずに出ていったお前を責める資格は、たぶん俺にはない」
裕翔は拳を握ったまま、少しだけ頭を下げた。
「ここに戻ってきたのは、全部をやり直すためじゃない。ちゃんと、これから先に進むために、一度向き合っておきたかった。……俺には、戻りたい場所がある。4年後に、叶えたい約束がある。だから、そのために、ちゃんと自分で未来を掴むために、もう一度この家族とも向き合いたかったんだ」
父はゆっくり立ち上がった。そして、近づいてきて、裕翔の肩に手を置いた。
「……帰ってこい。もう、逃げなくていい。お前がそうしてくれるなら、俺たちも変わる」
裕翔の視界が、にじんでいく。
母が泣きながら、テーブルにご飯を並べはじめた。
「ご飯、まだ食べてないでしょう? 裕翔の好きだったやつ、作ってあるから」
胸の奥が熱くなる。
裕翔は、こくりとうなずいて、静かに席についた。
やっとひとつ、過去にけじめをつけることができた。
それはきっと、未来に進むために必要な一歩だった。
あと3年。やることは山ほどある。
でも今なら、もう迷わない。
春の風は、懐かしさと少しの寂しさを連れて吹いていた。
駅前のバス停で揺れる制服の袖。裕翔は、鏡に映った自分の姿を何度も確かめていた。
ネクタイの結び方。カバンの中身。少し伸びた髪。全部、昨日の夜に何度もチェックしたはずなのに、不安は消えない。
「高校、変わるだけだろ」
そう自分に言い聞かせても、やっぱり、怖かった。
一ノ瀬さんに拾われて、あの家で暮らしていた1年間は、まるで夢だった。
家族じゃない人たちの中で、初めて本当の家族みたいな温かさを知った。
美桜との日々は、何もかもが新鮮で、まっすぐで、心が息を吹き返したみたいだった。
……だからこそ、別れは痛かった。
でも、あの約束があったから、前に進めた。
「大学を出たら戻ってくる」
その言葉は、胸の奥に刻みつけたまま、彼の背中を押し続けている。
バスに揺られながら、窓の外を見る。
実家に戻ってからの生活は、まだぎこちない。
両親との距離は、以前よりは縮まったけど、完全に埋まったわけじゃない。
でも、それでいいと思っている。少しずつ、時間をかけて。
失った時間は簡単には埋まらないけど、これからの時間で少しずつ、積み重ねていけばいい。
高校に着いた。
新しい校舎、知らない顔ばかりの生徒たち。
教室のドアを開けた瞬間、視線が一斉に集まる。
裕翔は軽く頭を下げた。
「今日から転校してきました、吉岡裕翔です。よろしくお願いします」
淡々と、最低限の自己紹介。
拍手もない、歓声もない。けど、それでいい。
目立ちすぎず、埋もれすぎず。それが彼の今のモットーだった。
最初の1週間は、正直つらかった。
何も知らない土地、何も知らない人たち。
ノートを借りたくても声をかけづらく、昼休みもひとりでパンを食べて過ごす。
空気のように存在を消して、何事もなく1日を終える。
だけど、心のどこかでいつも誰かを思い出していた。
「裕翔、ほら、ここ間違ってる」
「そっちじゃなくて、こっちの棚からだよ」
「まったく、あんたってほんっと不器用だなぁ」
思い出すのは、美桜の声、笑顔、怒った顔、全部。
彼女の存在が、彼をここまで連れてきた。
そして、2週間目のある日。
授業が終わり、教室を出ようとしたときだった。
「ねぇ、吉岡くん!」
振り返ると、明るめの茶髪の男子が手を振っていた。
「次、体育だろ?場所どこか知ってる?」
「……あ、体育館って聞いたけど、どこかわかんない」
「んじゃ一緒に行こうぜ!俺、山田翔太っていうんだ。よろしくな!」
こうして、初めてクラスメイトと自然に話せた瞬間だった。
そこから少しずつ、裕翔の高校生活は変わっていった。
話しかけてくれる人が少しずつ増え、昼休みに机を並べて弁当を食べるようになった。
放課後に勉強を教え合ったり、たまには部活の見学にも顔を出した。
そして、裕翔は目の前の毎日に、自分なりの居場所をつくっていった。
家では、親とぶつかる日もある。
「本当に大学行く気あるのか?」
「働いても生活はすぐ変わらないぞ」
厳しい言葉に、心が折れそうになることもある。
でも、裕翔は答える。
「行くよ。自分の足で立てるようになるために」
「ちゃんと、戻るために」
あの日交わした約束は、裕翔の心を支え続けている。
6年は、長い。
でも、約束のためなら、そのすべてを努力に変えられる。
夜、部屋の机の上。
大学案内のパンフレットを広げながら、美桜の連絡先を開いた。
画面には、1週間前に交わしたLINEのメッセージが残っている。
『勉強、無理しすぎないでね』
『ちゃんと寝なよ』
『応援してるから』
それを見て、ふっと笑う。
この言葉だけで、裕翔はまた頑張れた。
そして、ベッドに潜りながら小さく呟く。
「待ってて……絶対、戻るから」
高校の教室で、裕翔は深呼吸をした。
「先生、ちょっと話があるんです」
担任の先生は優しい目を向けてくれた。
「どうした?何か困ったことでも?」
裕翔は家の事情や、これから大学に行くためにもお金が必要なことを伝えた。
「実は、バイトを始めたいと思っています。勉強との両立も頑張るつもりです」
先生は少し驚いた顔をしたけど、すぐに真剣な表情に変わった。
「そうか、裕翔。大変だと思うけど、応援するよ。無理しない範囲で頑張ってね」
それから数日後、裕翔は近くのカフェでバイトを始めた。
初日は緊張で手が震えたけど、カウンターの中でコーヒーの淹れ方を教わりながら、少しずつ慣れていった。
「いらっしゃいませ!」
笑顔でお客さんを迎え、注文を取るたびに胸の奥が熱くなった。
「俺、ちゃんとやってる」
そんな自分を誇りに思えた。
放課後の時間は、教室とは違う戦いの場になった。
疲れた体を引きずりながら、家に帰る途中で寄り道せずにまっすぐカフェへ。
皿洗いや掃除、時には接客も任される。
「裕翔くん、慣れてきたね」
先輩の声が励みになった。
美桜との連絡も、バイトの合間にこまめに取った。
『今日も頑張ってね』
その一言が、何よりのエネルギーだった。
バイトで疲れても、大学への夢を忘れなかった。
「いつか、ちゃんと戻ってくる。あの場所に、あの人たちに」
バイトを終えて、家に戻った裕翔はスマホを手に取った。
画面に美桜の名前が光る。
『電話しますか?』
迷うことなく「はい」を押した。
「もしもし、美桜?」
「あ、裕翔!お疲れ様」
声が聞こえた瞬間、疲れが一気に飛んだ気がした。
「今日もバイトでヘトヘトだよ」
「うん、でも頑張ってるんだね」
電話の向こうで、美桜も学校の話や友達のこと、ささいな日常を楽しそうに話していた。
裕翔はその声を聞きながら、心の底から安らぎを感じていた。
「なんだか、ここにいるみたいだな」
「そうだよ。私たち、すぐそばにいるんだよ」
時間がどんどん過ぎていった。
お互いのことを話し続け、気づけば夜中を過ぎていた。
「もうこんな時間か」
「うん、でも話せてよかった」
電話を切る時、裕翔はそっと言った。
「ありがとう、美桜。お前がいるから、俺は頑張れる」
「私もだよ、裕翔」
そして、画面が暗くなった。
寂しさと希望が入り混じった夜だった。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む頃、裕翔は眠い目をこすりながら起き上がった。
バイトのある日々は忙しいけど、やりがいがあった。
カフェに着くと、いつものように店長さんが笑顔で迎えてくれる。
「おはよう、裕翔。今日もよろしくな」
「おはようございます!頑張ります」
注文を受けてコーヒーを淹れ、皿を洗い、テーブルを拭く。
汗が滲むけど、働くことで自分の足で立っている実感が湧いた。
忙しい時間帯を乗り切ると、少しの休憩時間。
スマホで美桜とやり取りをして、また笑顔が戻る。
そんな繰り返しの中、ある日、店長さんに誘われて街の宝石店へ向かった。
店の中に入ると、光るガラスケースの中に様々な指輪が並んでいた。
裕翔は少し緊張しながらも、指輪のひとつひとつを見て回った。
「結婚指輪って、未来の約束なんだな」
裕翔の胸に熱い思いが込み上げる。
ふと美桜の笑顔を思い浮かべた。
「いつか、これを贈るんだ」
そう心に決め、裕翔は指輪をそっと手に取った。
店員さんの優しい声が聞こえた。
「何かお探しですか?」
「はい…将来のために、結婚指輪を見に来ました」
店員さんは笑顔で説明をしてくれた。
指輪には様々な形やデザイン、意味があること。
裕翔は熱心に耳を傾け、未来の自分を想像した。
店を出る時、指輪の重みがポケットの中で心強く感じられた。
「必ず、あの子のために」
その日の夜、裕翔はベッドの中で静かに考えていた。
あの輝く指輪は、ただのアクセサリーじゃない。
約束であり、未来への覚悟だった。
でも、現実はまだまだ厳しい。
新しい高校での生活も、バイトも、全部が慣れないことばかり。
朝、目覚ましが鳴る前に目が覚める。
少しの不安と期待が胸の中でせめぎ合う。
制服を着て、鏡の前で深呼吸。
「よし、今日も1日頑張ろう」
学校では新しいクラスメイトがいて、まだ誰とでも仲良くなれてはいなかった。
話しかけたいけど、どう声をかけていいかわからない。
そんな時、同じバイト先の先輩が声をかけてきた。
「裕翔、バイト頑張ってるね。学校はどう?」
「まだ緊張してて、うまく馴染めなくて」
「大丈夫、みんな最初はそうだよ。焦らなくていい」
先輩の言葉に少し気持ちが軽くなる。
放課後はバイトへ。
慣れない仕事に必死に向き合う日々。
ある日、店長さんから提案があった。
「裕翔、来月からカフェのイベントスタッフやってみないか?」
イベントは大変だけど、人と接するスキルがつく。
裕翔は迷ったが、挑戦してみることにした。
イベント当日、初めての大勢の人の前での仕事。
緊張と戸惑いで手が震えそうになる。
でも、美桜の「頑張ってね」というメッセージが何度も頭に浮かんだ。
なんとか乗り越えた後、達成感と充実感が胸に満ちた。
帰宅後、美桜との電話で今日の話を伝えると、彼女も喜んでくれた。
「私も頑張るね、裕翔のために」
2人の未来はまだ遠いけど、確かに繋がっている。
次第に学校にも慣れ、友達ができ始めた。
そんな中、進路調査票が配られ、将来のことを真剣に考える日々がやってきた。
裕翔は、自分の夢と家族の期待、そして美桜との未来を天秤にかけながらも。
「絶対に幸せにする」
と心に決めた。
朝、目が覚めると、いつもより少しだけ早かった。窓の外からは、まだ薄暗い空に、鳥のさえずりが聞こえてくる。今日も学校に行く準備をするのは、少しだけ勇気がいる。けれど、俺は少しずつ前に進んでいる。新しい環境、新しい友達、新しい自分。
制服に袖を通し、鏡の前で自分の顔を見つめる。まだ慣れない表情だけど、確かな決意がそこにある。昨日先輩に言われた言葉が頭をよぎる。
「焦らなくていい、みんな最初はそうだ」
その言葉に支えられて、俺は玄関を出た。
学校へ向かう途中、教室での緊張感がよみがえる。教室のドアを開けると、クラスメイトの視線が一瞬こちらを向く。まだあいさつもぎこちなく、話しかけることもままならない。けれど、そのうちに、休み時間になって隣の席の奴が話しかけてくれた。
「裕翔、昨日のバイトどうだった?」
「まだ慣れてないけど、頑張ってるよ」
少しずつだけど、会話が生まれ始めて、緊張が少し和らぐ。学校の1日は長いようで短い。授業の合間にノートを取る手も少しずつ慣れ、友達との笑い声も増えていく。
放課後、バイトへ向かう。新しいバイト先は、駅近くの小さなカフェ。ここでの仕事もまだまだ覚えることが多い。コーヒーの種類、オーダーの取り方、接客マナー。何度も失敗しながらも、先輩たちが優しく教えてくれるのが救いだった。
ある日、バイトの先輩が声をかけてきた。
「裕翔、今度の週末、店のイベントがあるんだ。スタッフとして手伝ってくれないか?」
「イベント……ですか?」
「そう。たくさんのお客さんが来るけど、みんなで楽しくやれば大丈夫さ」
俺は迷ったけど、新しいことに挑戦したい気持ちもあって、引き受けることにした。
イベント当日、カフェは朝から忙しくなった。いつもと違う雰囲気に緊張が募る。慣れない仕事に手が震えそうになるけど、美桜の笑顔を思い浮かべて踏ん張る。
電話の画面に。
「美桜からの着信」
と表示されたとき、胸が熱くなった。
電話口での彼女の声はいつもより少しだけ心配そうだった。
「裕翔、無理しないでね。応援してるから」
その言葉でまた頑張れる。
イベントは無事に終わり、達成感が心を満たした。
帰り道、夜空に浮かぶ星を見上げる。遠くで聞こえる街のざわめきの中、俺の決意はますます強くなる。
「俺はもっと強くなる。必ず、美桜のそばで幸せにする」
次の日、学校では進路調査票が配られた。将来のことを真剣に考える時が来たのだ。
俺は自分の夢、家族のこと、美桜との未来、全部を天秤にかけながらも、揺るがない決心を胸に抱いた。
この日々は、辛くても大切な一歩。
歩みを止めるわけにはいかない。
放課後の学校の廊下は、いつもより少し静かだった。教室からはちらほらと笑い声や話し声が漏れてくるけれど、俺の心はそれを遠くで聞いているような気がした。バイト先での疲れがまだ体に残っていて、足取りも重い。制服の襟を直しながら、ふと視線が窓の外に向く。夕暮れの空が、オレンジ色に染まっている。
「もうすぐ秋だな……」
そんなことを思いながら、机の上に置いてある進路調査票を見つめる。どの進路を書けばいいのか、どんな未来を選べばいいのか、まだ答えは見つからない。ただ、はっきりしているのは、これからの道は自分で決めていかなきゃいけないってことだった。
カバンの中からスマホを取り出す。画面には美桜からの最新メッセージが何件か届いていた。俺は指先でゆっくりとメッセージを開く。
『今日もバイト頑張ってる?疲れてない?』
『無理しないでね。私、いつでも応援してるよ。』
その優しい言葉が胸にじんわりと染みてくる。疲れているはずなのに、なんだか少し元気が湧いてきた。俺は急いで返信を打ち始める。
「ありがとう、すごく助かってるよ。君のこと考えると頑張れる」
送信ボタンを押した後、深呼吸をひとつ。教室の窓から見える空はどんどん暗くなり、夜の帳が降りてきた。
家に帰る途中、駅の改札を抜けると、バイト先の先輩が笑顔で待っていた。
「裕翔、今日もお疲れ!この前のイベント、すごく良かったよ。店長も感謝してた」
俺は照れくさそうに笑い返した。
「ありがとう。正直、まだ慣れないことばかりで……でも、みんなが支えてくれるから頑張れてる」
先輩は親身に頷いた。
「そうだ、今度の日曜、店の新メニューの試食会やるんだ。よかったら来てよ。みんなで意見出し合うんだ」
俺は少し迷いながらも、自然と頷いた。
「行くよ。絶対行く」
そう言った自分の声に、自信はなかったけれど少しずつ居場所を感じ始めていた。
家に帰ると、狭い部屋の中に差し込む電球の暖かな光が迎えてくれる。夕飯は簡単なものだったけれど、腹の底からほっとする味だった。両親と離れてからは、毎日の食事すらもおぼつかなかったけれど、今は違う。自分の居場所があるって、こんなに心を満たしてくれるんだ。
食卓の片付けをしながら、俺はふと指輪のことを思い出した。あの日、見に行った婚約指輪。輝く宝石の美しさと、それに込められた未来の約束。俺にはまだまだ遠い未来だけど、いつか必ず彼女に渡したいと思う。
深夜、布団に潜り込みながらも、眠れなかった。頭の中は、今日あった出来事や、明日のバイトのこと、美桜との会話でいっぱいだった。窓の外には冷たい夜風が吹き込み、街の灯りが静かに揺れている。
「俺はこの場所で、少しずつ変わっていくんだ」
自分にそう言い聞かせて、やっと瞼を閉じた。
翌朝、目が覚めるとまだ薄暗かった。今日は週末、バイトの試食会の日だ。カフェに着くと、いつもより少し緊張した表情のスタッフたちが集まっていた。新メニューの試食会は、みんなが自分の意見を言い合い、一緒にカフェを良くしていくための大事な場だ。
先輩が笑顔で俺に話しかけてくる。
「裕翔、君の意見も聞かせてくれよ。まだ経験は浅いけど、君の素直な感想が必要なんだ」
俺は深呼吸をして、試食したスイーツやドリンクの味、盛り付け、サービスの仕方について一生懸命に話した。緊張していたけれど、先輩たちは真剣に耳を傾けてくれた。
「それいいね、裕翔。次のイベントで早速試してみよう」
そんな言葉をもらって、心の中に小さな灯がともる。
夜、スマホの画面にまた美桜からのメッセージが届く。
『今日のバイトはどうだった?』
『一緒に頑張ろうね。私も今日は部活でくたくただよ。でも、裕翔のこと考えると元気出る』
俺は目頭が熱くなって、すぐに返信を打った。
「今日は新メニューの試食会でいろいろ学んだ。お前の応援があったから乗り越えられたよ」
電話がかかってきて、2人は夜遅くまで話し込んだ。未来の夢や、不安、楽しかった思い出、そしてお互いの大切さを確認し合った。
そんな日々を繰り返しながら、俺は少しずつ自分を取り戻していった。悩みながらも、笑いながらも、毎日が宝物になっていく。
この街で、そして新しい仲間たちと共に生きていく。
「俺は負けない。絶対に幸せになる」
裕翔は、自分にそう誓ったのだった。
朝の通学路は、少し肌寒くなってきた風に吹かれている。地元の高校に転校してから、もうしばらく経つ。けれど、未だにクラスに完全に馴染めてはいない。
制服のポケットに手を入れながら、裕翔は俯きながら歩く。美桜のことが頭から離れなかった。毎日連絡は取り合っている。けれど触れられない距離の中で、不安になるときもある。
「頑張んなきゃな」
口に出してみても、その言葉が空気に消えていくだけだった。
教室の扉を開けると、クラスメイトたちのざわめきがいつも通り流れてきた。まだ裕翔と声をかけてくれる友人は少ない。それでも、隣の席の男子、川瀬が小さく手を振ってくれる。
「おはよ」
「おはよう……」
ぎこちなく返して自分の机に座ったとき、少しだけ救われる気持ちになる。
午前中の授業は早く進む。ノートを取りながら、ふと窓を見ると、空の青色が美桜の目の色を思い出させた。あの日、花火の帰り道で命を賭けて守った彼女。その笑顔。
会いたい、そう思った。だけど、今は距離があるからこそ、お互いが頑張る時間だとも思っていた。何の力もなかった自分が、これからどんな未来を切り拓けるのか。彼女に相応しい男になるために。
放課後、バイト先のパン屋に向かう。こじんまりした地元密着の店で、オーナー夫婦が切り盛りしていた。裕翔は、裏口から入って制服を脱ぎ、エプロンを身につける。
「おお裕翔くん。今日もよろしくね」
奥さんが笑顔で声をかけてくれる。
「よろしくお願いします」
今日のシフトは夕方から夜。食パンの仕上げと焼き上がりを見ながら、店頭の接客にも立つ。常連の老人や、近所の主婦が次々に来て、商品を手にとっていく。
「若いのにえらいねえ」
そう言われるたびに、少し恥ずかしくなりながらも、笑顔を返すことができるようになった。都会での苦労を思い出す。あの頃に比べれば、今は心が穏やかだった。けれど、充実しているとは言えない。何かが欠けている。そう、美桜の存在が、心に穴を開けたままだった。
閉店後、片づけを終え、まかないとして出された焼きたてのクロワッサンを食べながら、空を見上げた。星がちらほらと瞬いている。
「帰るか……」
部屋に戻ってから、シャワーを浴び、ベッドに潜り込んだ。電気は落としたまま、スマホの画面だけが明るく光っている。
『新着メッセージ:美桜』
指先が自然と画面をタップした。
『今日もお疲れ様。バイトどうだった?あたしはテスト近くてしんどいよ〜笑』
『でも、裕翔の声聞けたら元気出るかも』
胸が締め付けられる。すぐに返信した。
『今日も頑張ったよ。』
『……お前に会いたいって思ったよ。すごく。』
既読がついた後、すぐに着信。
「裕翔?」
その声が、何よりの癒しだった。
「ん、どうした? もう寝る時間じゃないの?」
「寝ようと思ったけど、裕翔の声、ちょっとだけ聞きたくなって……」
夜の静けさの中で、二人の言葉は慎重に、でも確かに心を繋いでいった。距離は離れているけれど、画面越しの声が、どれだけ安心をくれるのか。彼女が笑うだけで、自分も笑えていた。
「……あたしさ、裕翔が頑張ってるって思うと、すごく勇気もらえるの。自分もちゃんとやんなきゃって思えるんだ」
「俺もだよ。お前がいるから、頑張れてる。……この距離、耐えてみせる。絶対、迎えに行くから」
「待ってるよ」
その声が、少しだけ震えていた。きっと、美桜も泣きそうになっていたんだと思う。
「……おやすみ」
「おやすみ、裕翔」
電話が切れた後、しばらく画面を見つめていた。目頭が熱くなる。だけど、泣く暇なんてない。俺は前を向いて歩かなきゃいけない。
日々は変わらず、少しずつ積み重なっていく。けれど、その一つひとつが、未来へ繋がる道標だと、今は信じられる。
蝉の声が、頭の上で狂ったように響いていた。
地元の夏祭り。
この町で生まれ育った人間にとっては、年に一度の風物詩。
浴衣姿の小さな子どもたちが、金魚すくいの前で歓声を上げる。
カップルたちが、焼きそばやかき氷を手に笑い合って通り過ぎていく。
その全てが、胸にちくりと刺さる。
去年は、美桜と一緒だった。
手を繋いで歩いたあの夜。
打ち上げ花火を見上げて、光の下で。
花火の光で照らされた、美桜の涙。
あれからもう、1年が過ぎた。
裕翔は、焼きトウモロコシを1本買って、少し端のベンチに腰を下ろす。
笑い声、提灯の灯り、屋台から立ち昇る湯気と甘辛い匂い。
それらすべてが、去年の祭りと重なって、思い出を呼び起こしてくる。
手元のスマホを見た。
《20:00 ビデオ通話、約束》
あと15分。
裕翔は深く息を吐いて、そっと背中を伸ばす。
人混みの中で1人、誰も自分のことを気にしていないその感じが、少しだけ心を落ち着かせた。
「……美桜、何してるかな」
呟いた声は、自分の耳にだけ届いた。
去年と同じように、あの街の祭りにも行ってるんだろうか。
それとも、今日は忙しいかな。友達といるかな。
ふと、スマホが震えた。
『新着メッセージ:美桜』
『もうすぐ通話できるよ!今日は特別な服着てるから、楽しみにしててね〜笑』
裕翔は小さく笑った。
『そっちも祭り?』
『うん。今は終わって、帰ってきたとこ。浴衣、脱ぐのもったいないから、しばらくこのままいる笑』
想像しただけで、胸が苦しくなった。
会いたい。触れたい。声だけじゃ足りない。画面越しじゃなく、隣で笑ってほしい。
やがて20時。
スマホの画面に、美桜の顔が映った。
画面の中で、紺色の浴衣を着た彼女が、少し照れたように笑っていた。
「裕翔……元気だった?」
「……ずるいな」
「え?」
「そんな格好で現れたら、会いたくなるに決まってんだろ」
美桜は笑って、指で頬を隠すようにした。
「裕翔も、ちょっと大人っぽくなった。……なんか、声が低くなった気がする
「そうか?」
「うん。……かっこいいよ」
言葉の間、どちらも照れて沈黙した。でも、それが心地いい。
「今年の祭りさ、1人で行ってみたんだ。屋台とか歩いて、ベンチでこれ、食べてた」
裕翔は、手元の焼きトウモロコシを画面に映した。
「一緒に行きたかったな。」
「うん。いつか、絶対一緒に行こ」
「……そのために、俺頑張ってる」
画面の向こうで、美桜の目が少し潤んでいた。
浴衣姿の彼女が、夜の静かな部屋の中で、画面越しに微笑む。
「裕翔、」
「ん?」
「……あたし、今でも、あんたに守られてるって思ってる」
その言葉は、どんな激励よりも、裕翔の心に響いた。
夜の祭りの灯りが少しずつ消えていく中、画面越しの2人は、ずっと話し続けた。
他愛ない話、来年の夢、将来の小さな話。
遠距離だとしても、彼女との絆は壊れなかった。
通話を終えたあと、裕翔はカフェでのバイトを終えた日と同じように、静かに空を見上げた。
夜空の彼方に、わずかに残った打ち上げ花火の残光があった。
「待ってろよ……美桜」
拳をそっと握った。
あれから1年後、それは、何でもない日の帰り道だった。
カフェのバイトを終えて、夜の道を歩いていた。
自販機でジュースを買い、ひと息ついたその瞬間までは、確かにポケットにあった。
だが、家に帰って、シャワーを浴びて、制服のズボンを洗濯しようとした時だった。
……ポケットが、軽い。
「あれ……?」
焦るように、バッグの中、制服の中、シーツの下、床の隙間、ありとあらゆる場所を探した。
ない。
どこにもない。
スマホが、ない。
冷や汗が一気に流れ出す。
美桜との連絡手段が、途絶えた。
一ノ瀬さんから「貸し1つな」って冗談めかして渡された、あのスマホ。
あれは、絶対になくしちゃいけないものだった。
ただのスマホじゃない。
過去と未来、全てが詰まっていた。
翌日、通った道を何往復もした。
自販機の裏、交番、ゴミ箱、バイト先。全部聞いた。全部見た。
でも、なかった。
「スリじゃないかって言われたよ……」
小さな声でつぶやきながら、駅前のベンチに座り込んだ。
美桜にも連絡できない。
もう、今夜話す予定だったビデオ通話もできない。
『どうしたの?』
『急に既読もつかないって、なにかあった?』
きっと、そんなメッセージがたくさん来てる。
けど、もう返せない。
家に戻ってからも、部屋の中でうずくまるようにしていた。
怖かった。一ノ瀬さんに連絡するのも。
失くしましたなんて、言いたくなかった。
だけど、次の日の夜。
意を決して、電話を借りて、一ノ瀬さんに電話した。
「……スマホ、なくしました」
『……そうか』
「すみません……ほんとに、すみません。もう何日も探して……警察にも届け出して……でも……」
電話の向こう、一ノ瀬はしばらく黙っていた。
そして静かに言った。
『いいんだよ』
「……え?」
『モノはな、失くすことも壊すこともある。だけど、失くしたからって意味まで消えるわけじゃねえ』
裕翔は、思わず唇を噛んだ。
『お前が今、すぐにスマホ持ってるかどうかなんて関係ねぇ。お前が俺に、そして美桜に、ちゃんと向き合ってるかどうかだ』
「……うん」
『裕翔。焦るな。大丈夫だ。もうお前は、前よりずっと強い』
その言葉に、こみ上げてくるものを堪えられなかった。
その夜、ノートの切れ端に、美桜への手紙を書いた。
まだ送れはしない。けど、気持ちを整理したかった。
『美桜へスマホ、なくしました。連絡できなくてごめん。でも、気持ちは届いてるって、信じてます。今も、あなたを守りたいと思ってるし、未来を叶えるために頑張ってる。近いうちに、必ず連絡します。』
スマホを失くしてから、1ヶ月が過ぎた。
学校もバイトも、変わらず毎日は流れていくけど、その何かが足りない感覚だけが、ずっと胸にまとわりついていた。
音楽を聴くときも、ノートを開くときも、ふとした瞬間に思い出す。
今まで、どれだけ美桜と話していたんだろう。
毎日、どれだけの言葉を交わしていたんだろう。
そう思うたび、ポケットに手を突っ込んで、そこにもうスマホがないことを、また思い出す。
ある日、バイトが終わった頃だった。
店で休憩をしていたとき、カフェの固定電話が鳴った。
近くにいた店長が受け取り、すぐに顔を上げて裕翔を呼んだ。
「裕翔。……電話。美桜ちゃんからだ」
体がびくりと動いた。
思わず受話器を掴む。
「……裕翔!?」
「美桜……」
その声を聞いた瞬間、胸がぎゅっと締め付けられた。
「……連絡、ずっと取れないから、事故にあったかと思った。毎日何回もLINEして……電話も、ずっとしてた……!」
「ごめん……スマホ、なくしたんだ。連絡……できなかった」
「もう……!」
彼女の声は、泣きそうな怒りと安堵が混ざっていた。
「何があっても、ちゃんと連絡してよ……! こっちは、何かあったんじゃないかって、ずっと……!」
裕翔は言葉に詰まりながらも、静かに答えた。
「本当に、ごめん。もう、失くさない。絶対に、次は……」
スマホをなくしてから、一週間が経った夜。
裕翔はカフェの固定電話で美桜と少しだけ会話したあと、もう一度、受話器を手に取った。
番号は、あの人のもの。
一ノ瀬 零司。
コール音が、やけに長く感じた。
「……おう、裕翔か?」
低く、けれどどこか優しいあの声が受話器の向こうから聞こえた瞬間、裕翔は少しだけ胸をなでおろした。
一ノ瀬さんの、その声が、どこかおかしく感じた。
「一ノ瀬さん、大丈夫ですか?」
その一言に、ふっと沈黙が落ちた。
「実はな、こっちもあんまり元気とは言えねぇんだ」
「……え?」
「前に言ったろ?持病があるって。今、その症状がな、また悪化してきてる。病院で検査して、ちょっと入院することになった。来週からな」
裕翔は受話器を持つ手に力が入った。
「そんな……いつから、体調が……」
「まあ……ずっとだ。けど、最近は特にしんどくてな。でも、心配すんな。生きる気だけは、まだある」
電話越しの声は、いつものように落ち着いていた。
けれど、ほんの少し、ほんの少しだけ、弱さが混じっていた。
「店は、しばらく美桜と従業員に任せる。……お前も、無理すんなよ。お前が強くなるまで、俺も死ねねえしな」
裕翔は息を詰めるようにして、静かに答えた。
「……俺、頑張ります。だから、一ノ瀬さんも……ちゃんと、帰ってきてください」
「……ああ」
短く、けれど確かなその返事に、裕翔は深く頭を下げた。
それから裕翔は、動き出した。
バイトの時間を増やし、朝は早起きして新聞配達も始めた。
授業が終われば、カフェへ。夜中にはシフトが終わり、机に突っ伏して眠る毎日。
最初は体がついてこなかった。
寝坊して先生に怒られた。
指を火傷したり、皿を落として割ったりもした。
でも、それでも。
「また、美桜と繋がるために」
「もう一度、一ノ瀬さんに胸を張るために」
……何度でも立ち上がった。
そして、2ヶ月後。
銀行口座の残高を見て、裕翔は静かに笑った。
ようやく、買える。
その日、放課後。裕翔は一人で駅前のショップに向かった。
店員に説明を受けながら、スマホの機種を決め、手続きをして、新しい端末が手に入った。
起動音が鳴る。
初期設定をしながら、ふと手が止まる。
『名前は?』
入力欄に、ゆうと。それだけ打ち込んだ。
帰り道、電車の中で美桜にメッセージを送った。
『スマホ、買い直しました。また連絡できるようになったよ』
1分もしないうちに、返信が来た。
『……よかった。ほんとによかった。早く電話しよ』
スマホの画面を見つめながら、裕翔はそっと息を吐いた。
この画面の向こうには、いつも変わらず、待っていてくれる誰かがいる。
夜。時計の針はすでに日付を越えていた。
部屋。蛍光灯を落として、布団にくるまりながら、裕翔はスマホの画面を見つめていた。
通話ボタンを押してから、ほんの数秒。
すぐに、呼び出し音が切れた。
「……裕翔?」
「美桜……」
たった一言。
それだけで、裕翔の胸の奥がじんわりと熱くなった。
「ほんとに、もう……遅すぎるよ。何日待ったと思ってるの」
「ごめん。ずっと……声、聞きたかった」
「……私も」
短くて、でもどこか泣きそうな声が返ってくる。
「今、ひとり?」
「うん。部屋で……布団に入ってる」
「なんか想像できる。裕翔、絶対寝相悪いでしょ?」
「ひど」
そんな他愛もないやり取りが、なぜか胸に染みた。
画面越しでも、声があるだけで、こんなにも安心するなんて。
「……お父さんのこと、聞いた?」
少し、間を置いて美桜が尋ねてきた。
「うん。……さっき、電話で話した」
「最近、前よりずっと疲れた顔してて……夜も、たまに痛そうにしてた」
声が、少しだけ震えていた。
「私ね、子どもの頃からお父さんがいつかいなくなるんじゃないかって、ずっと怖かった。でも今は……お父さん、ちゃんと治療するって。……だから、私も頑張るって決めた」
「……うん」
「裕翔が、そばにいてくれたから。……あのとき助けてくれたこと、何回も思い出すよ」
「……俺も」
部屋の中は、外の虫の音とスマホの微かなノイズだけが響いていた。
「ねえ、裕翔。今、何がしたい?」
不意に、美桜が聞いた。
裕翔はしばらく考えてから、ぽつりと答えた。
「……会いたい。美桜に、直接会いたい」
その瞬間、沈黙が訪れた。
そして、数秒後。
「……泣いちゃうじゃん」
鼻をすする音が、通話の向こうから聞こえた。
「あと……ありがとうね」
「なにが?」
「また、連絡くれて……もう、切れちゃうかと思ってたから」
「そんなことない。絶対に、切れない」
気づけば、通話は2時間を超えていた。
布団の中、眠りにつく直前。
「……美桜、寝た?」
「……寝てない」
「なんで?」
「切るの、もったいないじゃん」
2人で笑った。
「……おやすみ、美桜」
「おやすみ、裕翔」
その日、夢の中でも2人は繋がっていた。
病院の屋上には、少しだけ風が吹いていた。
空はどこまでも青く、見上げるだけで心が洗われるようだった。
一ノ瀬 零司は、ポケットに両手を突っ込んだまま、目を細めて空を見つめていた。
カフェのエプロンではなく、今日の彼は私服。
そして、胸ポケットには、診察券と入院案内の紙。
「……また、ここに来ちまったか」
誰に向けるでもなく、ぽつりと呟く。
苦笑のような吐息が、喉から漏れた。
零司の病気は、ずっと前からつき合ってきた持病だった。
若い頃は。
「まあ、放っておいても死にはしねえ」
と笑っていたが年を重ね、カフェを持ち、美桜を育てるようになってからは、無理が効かなくなっていた。
ここ数年、痛みと倦怠感は徐々に強くなっていたが、裕翔を拾った頃は、まだ誤魔化せていた。
けれど最近は、あいつらに顔を見られるだけでも、辛さをごまかすのが難しい。
「入院期間は、まずは2週間程度。治療次第では延長の可能性もある」
そう言った医者の言葉が、まだ耳に残っている。
「完治は難しいでしょう。ですが、今後の生活の質を維持するためには……」
完治はない。
それでも。
「……俺は、まだ終われねぇんだよ」
そう、心の中で呟く。
今この瞬間にも、遠くの街で、裕翔は何かに向かって歩いている。
スマホをなくしたと聞いたときは、また何かやらかしたかと思ったが、電話での声を聞いて、安心した。
こいつはもう、俺の想像を超えて、ちゃんと男になっていた。
受付で手続きを済ませ、指定された病室へ向かう。
入院は何度目だろうか。
慣れた足取りで病室に入り、荷物をロッカーに押し込む。
ベッドに腰を下ろし、深く息を吐いた。
壁の時計の針が、じわりと午後の時間を刻んでいる。
「……美桜には、あんま心配かけたくねぇんだけどな」
娘は強い。裕翔と出会って、もっと強くなった。
でも、あいつは優しすぎる。
俺が倒れたら、きっと無理する。
だから元気な顔をしていたい。
病院からでも、店のことを気にしてるフリをして。
あいつらの邪魔だけは、したくねぇ。
ふと、スマホの画面を見る。
美桜からのメッセージ。
『無理しないでね、お父さん。私、ちゃんとやるから』
裕翔からの着信履歴も残っている。
不器用なくせに、心の奥では一番繊細なやつだ。
「……ほんと、拾ってよかったわ」
病室の窓の外には、青い空と白い雲。
「店も、あいつらも、頼んだぞ……」
財布の中に入っている、厚い封筒の中身確認しては、裕翔は息を吐いた。
高校3年生になって、あっという間に半年が過ぎていた。
大学進学のための勉強と、バイト、そして生活費。
そのすべてをこなしながら、少しずつ、地道に貯めてきた。
目的はただ1つ。
あのとき。
一ノ瀬さんに買ってもらったスマホ代と、生活の中で世話になった分のほんの一部。
「全然足りねぇってわかってるけど……」
それでも、自分なりに、感謝の形を届けたかった。
たとえそれが、小さな返済であっても。
久しぶりに訪れた街は、変わっていないようで、どこか空気が違って感じた。
駅前の景色も、歩道の花壇も、懐かしさと少しの緊張を胸に歩く。
そして、カフェへと続くあの道。
「……ただいま」
心の中で、そっと呟く。
けれど、もうカフェは営業していなかった。
閉店したのではなく、一ノ瀬さんが入院してから、休業中のままだ。
看板のない扉の前に立つ。
軽くインターホンを押すと、すぐに聞き慣れた声がした。
『……裕翔!?』
その声に、思わず口元が緩んだ。
扉が開くと、そこには美桜がいた。
髪が少し伸びていて、前よりも落ち着いた雰囲気を纏っていた。
「……おかえり」
「……ただいま」
たった一言。
でもその言葉だけで、心が熱くなった。
「入院してる病院は、あの坂の上のところ。今もまだ点滴多いけど、少しだけ元気になってきたよ」
カフェの二階に上がり、座布団を敷いた畳の部屋で話をしていた。
部屋の空気は変わっていなかった。
その日の午後、2人は病院を訪れた。
個室の病室。窓際のベッドに、少し痩せた一ノ瀬 零司がいた。
「……裕翔か」
声は、前より少しだけかすれていたが、目は変わらなかった。
見ただけで、あの頃のままの安心感が、胸に広がる。
「久しぶりです。一ノ瀬さん」
「……その顔。ちゃんと働いて、勉強してきたって顔してるな。まったく……バカみたいに真面目かよ」
「そう言う一ノ瀬さんは……もっと、元気な顔しててくださいよ」
お互いに笑った。
「……これ。スマホ代と、少しだけど貯めたお金です。全部は返せないけど……ずっと、渡したかったんです」
封筒を差し出すと、一ノ瀬はそれを見て、苦笑した。
「ははっ……まだ律儀だな。いいって言ったろ」
「ダメなんです。……俺、拾ってもらったあの日から、人生変わったから。あのままだったら、今もぐちゃぐちゃで、自分のことなんか信じられなかった」
裕翔はしっかりと目を合わせる。
「でも今は、自分の足で立って、歩いていこうって思える。あのとき拾ってもらって、ほんとに、ありがとうございました」
一ノ瀬は黙って、それを聞いていた。
少しして、封筒をそっと机の引き出しにしまうと、言った。
「……やっぱ、拾って正解だったわ」
それだけで、裕翔の目に、なにかが込み上げてきた。
帰り際、一ノ瀬は裕翔の手を軽く握った。
「お前が戻るとき、俺はもういないかもしれない。でも……美桜は、俺のすべてだ。どうか、支えてやってくれ」
裕翔は、迷わずうなずいた。
「絶対、戻ってきます。約束しましたから。4年後、必ず」
あちらでの別れからしばらくして、裕翔の毎日はさらに忙しさを増していった。
大学受験のための勉強はもちろん、バイトもしっかりこなし、生活費を稼ぎながら未来を見据えていた。
「大学に入ったら、また一ノ瀬さんと美桜に恩返ししたい」
そう胸に強く決めて、彼は毎日机に向かった。
朝早く目を覚まし、通学の合間に参考書を開く。
学校が終わると、バイト先へ直行する。
帰宅してからは静かな部屋で、夜遅くまで問題を解き続けた。
「ここで踏ん張らなきゃ、俺の未来はない」
何度も自分に言い聞かせながら、集中力が切れると深呼吸をし、またペンを取った。
そんな日々の中でも、美桜からのLINEや電話が何よりの癒しだった。
彼女も遠く離れた場所で勉強を頑張りながら、時折裕翔を励ます言葉を送ってくれる。
『大丈夫、裕翔ならできるよ。ずっと応援してるから!』
画面の文字を何度も見返しては、力をもらい、また勉強に向かう。
彼女の存在は、闇の中に差す一筋の光だった。
そして迎えた試験当日。
緊張と期待が入り混じる朝、家族や一ノ瀬さん、そして美桜の言葉を胸に、裕翔は試験会場の扉をくぐった。
「絶対、後悔はしない」
そう決めて臨んだ試験は、厳しくもどこか爽やかな緊張感に満ちていた。
長い時間が過ぎ、試験が終わると、裕翔は空を見上げた。
「これで結果が出る。あとは自分を信じるだけだ」
合格発表の日、彼の元に届いた通知は、期待以上の結果だった。
『合格』
部屋の中で、思わずガッツポーズを取る裕翔。
心の奥にあった不安が溶けていくのを感じた。
「やった……やったんだ」
すぐに美桜に報告の電話をかける。
『裕翔、すごい!おめでとう!』
彼女の声は涙混じりで、それがまた彼の胸に響いた。
大学のキャンパスは広くて、色とりどりの学生たちが行き交っていた。
裕翔は少し緊張しながらも、新しい環境に胸を高鳴らせていた。
「よし、ここからまた頑張る」
手にした学生証を見つめながら、深く息を吸った。
初日の授業は戸惑いもあったけれど、徐々につかんでいく。
自分の夢を叶えるための第一歩だと思うと、自然と集中できた。
そんな中、バイトも続けていた。
カフェの一ノ瀬さんが体調を崩した後、療養のために一時的に回復し、時折店に顔を出すようになった。
「裕翔、無理せずにな」
一ノ瀬さんは弱々しいながらも、笑顔を見せてくれた。
「お前のこと、ずっと応援してるからな」
その言葉に裕翔は胸が熱くなり、また頑張る力をもらった。
美桜とは遠距離だったが、スマホやSNSで毎日連絡を取り合い、励まし合った。
時には写真を送り合ったり、大学の話をしたり、少しずつ距離が縮まっていくのを感じた。
大学生活は楽しいことばかりではなかった。
忙しさにやられそうになることもあったし、家と遠く離れている孤独感にやられることもあった。
だが、そんな時こそ支えてくれたのは一ノ瀬さんの言葉と、美桜の存在だった。
「お前ならできる」
その言葉を胸に、裕翔は今日も前を向いて歩いた。
そして何より、いつか必ず帰る日を思い描いていた。
「絶対に戻る。その時は笑って会おう」
心の中で何度も誓いながら、新しい日々を刻んでいくのだった。
新しい友達もできて、授業にも慣れ始めていた裕翔は、どこか落ち着いた表情をしていた。
そんなある日、大学の文化祭の準備が活発になり、学生たちは活気にあふれていた。
裕翔も一緒にイベントの企画に参加していたが、そんな中、思わぬ出来事が起こる。
教室の休み時間、突然、クラスメイトの女子、香織が裕翔の前に立ちはだかった。
「裕翔くん、ずっと好きだったの……付き合ってほしい」
そう言って彼女は真剣な目で告白した。
裕翔は一瞬戸惑ったが、すぐに静かに首を横に振った。
「ごめん、俺は彼女がいるから……」
その一言に香織の表情は曇ったが、表向きは笑顔で受け流した。
しかし、それから数日後、裕翔の身に異変が起こった。
授業中に突然、数人の女子から冷たい視線を浴び、陰口を囁かれる。
イベントの準備中も、何かと邪魔をされたり、小さな嫌がらせを受けるようになった。
理由は分からなかった。
香織の態度が影響しているのかもしれないが、裕翔にははっきりしなかった。
ある日の昼休み、廊下でまた女子グループに囲まれた。
「裕翔くんって、ちょっと偉そうだよね」
「彼女ばっかり見て、私たちのことはどうでもいいんでしょ?」
彼女たちの言葉は冷たく、徐々に暴言に変わっていった。
裕翔は黙って耐えていたが、限界はすぐそこまで来ていた。
その日の夕方、キャンパスの片隅で、1人の女子が突然手をあげた。
「なんでそんな態度なの?」
怒りが爆発した瞬間だった。
裕翔は拳を握りしめ、大きく息を吸い込んだ。
「もうやめろよ!俺が誰と付き合ってようが勝手だろ!お前らの嫉妬とかどうでもいいんだよ!」
その一言に、周囲は静まり返った。
威圧的な声と、真剣な目つきに、彼女たちは一瞬でビビったようだった。
「俺はもう黙って耐えるのは終わりだ。誰かが俺に何かするなら、ちゃんと言ってみろ」
そう言い放つと、裕翔はその場を去った。
その日から、彼女たちの態度は一変した。
ビビって近づかなくなり、裕翔の周囲は以前のように落ち着きを取り戻した。
裕翔は心の中でこうつぶやいた。
「これが大人の対応かもしれない。でも……美桜のためにも、絶対に負けられないんだよ」
あの日、電車に揺られながら、俺は何度も自分に言い聞かせていた。
「戻ってくる。4年後、必ず、美桜の元へ」
あの約束が、俺の中にずっと灯っていた。
気がつけば、もう大学最終年の春。
季節は何度も移り変わり、街並みも、生活も、俺自身も、色んなところが変わっていった。
でも、変わらなかったものが1つだけある。
あのカフェで、あの家で、過ごした時間。
あの人たちと出会って、俺はようやく人生ってものを知れたんだ。だから、忘れたことなんて、一度もない。
大学1年の春。
すべてが新しくて、毎日が怖かった。
学費も自分で払ってたし、生活費もバイトでどうにかするしかなかった。
講義は難しくて、ノートも何もかも、慣れない。
最初のテスト期間なんて、寝る時間もなく、教室で寝落ちして、風邪ひいたっけな。
病院に行く余裕なんかなくて、コンビニの栄養ドリンクとカップラーメンで何とか乗り切った。
でもそんなときに支えてくれたのは、美桜の存在だった。
電話で泣いた日もあった。
「疲れた」、「もう無理かも」。
情けない声しか出なかった俺に、彼女はただ。
『大丈夫。ちゃんと頑張ってるって、わかってる』
そう言ってくれた。
その一言だけで、また明日が来てもいいと思えた。
2年目は、少しだけ余裕ができた。
勉強のコツも掴んできて、周りの友達とも関係ができた。
だけど、その分、色んなことが起きた。
クラスの女子から告白されたこともあった。
色々あった。けど、全く怖くはなかった。
なぜなら俺には、美桜との約束があった。
誰に何を言われたって、俺の目指す未来は、そこにしかなかったから。
3年目には、やっと生活にも慣れてきて、成績も上がった。
バイト先の人たちからは、
「そろそろ正社員でどうだ?」
なんて冗談も言われるようになった。
だけど、俺はそのたびに首を振っていた。
「まだ、やりたいことがあるから」
って。
一ノ瀬さんの病状は、その頃一時的に安定していたらしい。
美桜からの手紙には、少しだけ元気な様子が書かれていて、それが本当に嬉しかった。
俺も何度か、顔を出しに行った。
ちゃんと自分で稼いだ金で、スマホも買い直して、カフェに行って、彼の病室を訪ねた。
「俺は、あんたに拾われて、初めて生きるって意味がわかったんです」
そう言った俺に、一ノ瀬さんは弱々しく笑いながら、
「……拾ったんじゃねえよ。あんとき、お前がいたから、俺も救われたんだ」
そう、ぽつりと呟いた。
その一言が、胸にずっと残ってる。
4年目、いよいよ大学もラストスパート。
就職活動が始まって、俺はずっと考えていた。
「どんな道を選べば、戻ったとき、美桜とちゃんと向き合えるだろうか」
「どうすれば、胸を張って、もう一度一ノ瀬さんの前に立てるだろうか」
自分のためだけじゃなく、
あの場所に、何かを返したくて、俺は今、夢だった道を目指している。
大学で学んだ知識も、人との関わりも、全部、俺を強くしてくれた。
そして今。春がまた来て。
もうすぐ、あの日から6年目の春が来る。
美桜と交わした約束。
「6年後に戻って、プロポーズする」
あの言葉は、今でも胸の奥に、鮮やかに焼きついてる。
何もかも不器用で、ボロボロだった俺が、ようやく一歩ずつ進んできたこの道。
いつか笑って。
「俺、ちゃんと帰ってきたよ」
と言える日まで。
あと少しだけ、走ろうと思う。
春の風はなぜか冷たかった。
けれど、心の中はあたたかさだけで満ちていた。
大学生活、その4年間。
長いようであっという間だった。
けれど、そのひとつひとつの季節に、俺は全力で生きていた。
迷い、傷つき、泣き、悩み、それでも進んだ。
そして今日、ようやく、大学を卒業する日が来た。
式典が行われたホールは、笑顔と涙で溢れていた。
友人の声、保護者の拍手、教授の挨拶。
一言一言が、今の俺には悲しかった。
卒業証書を受け取ったとき、俺は思った。
ここまで、よく生きてこれたなって。
家出をした16の春。
あのとき、何も持っていなかった俺を拾ってくれたのは、血の繋がりでも、名前さえ知らなかった他人だった。
一ノ瀬さんと、美桜。
「戻ってこい」
と言われた実家に、一度は帰った。
でも、あの場所で過ごした1年間は、俺の中にずっとあった。
卒業式が終わったあと、少し遠くの公園に寄った。
そこは、美桜と別れたときの、あの公園によく似ていた。
ベンチに座って、スマホを取り出す。
画面の中、美桜からの未読メッセージが並んでいる。
『卒業おめでとう、裕翔』
『絶対似合うと思うから、袴姿、あとで写真送って?』
『あと、元気そうな一ノ瀬さんの写真も送るね』
『あともう少しで、会えるんだよね』
たったそれだけの言葉なのに俺は画面を見ながら泣いた。
俺の心はもう決まっていた。
この4年間、ずっと決めていた。
指輪を、買おう。
高校のときは、何も持っていなかった。
あの頃は
「絶対に戻る」
って言葉しかなかった。
でも今は、少しだけ胸を張れる気がした。
学んだ。稼いだ。考えた。
そしてずっと、想い続けてきた。
卒業式の翌日。
俺は、1人で駅前のジュエリーショップを訪れた。
何度も店の前を通り過ぎては、入る勇気が出なかった。
けれど今日だけは、足が自然と前に進んだ。
ガラス越しに並ぶ指輪たちを見つめながら、俺は思った。
どれも高すぎるとか、こんなの似合うのかなとか、迷いはあった。
けれど、彼女のことを思い出したとき、笑顔、怒り、照れ。全部が蘇ってきた。
そして、店員に案内され、ショーケースの前で静かに座った。
「彼女さんに贈る、婚約指輪をお探しでしょうか?」
俺は、うなずいた。
「はい……ずっと待っててくれた人に」
たくさんの指輪を見せてもらった。
でも、選んだのは、最初に目に入った、シンプルなものだった。
過剰に飾り立てたわけでもなく、でも赤くて美しい輝きを放っていた。
それは、美桜という人に、どこか似ていた。
手に取ったとき、震えが止まらなかった。
買えるかどうか不安だった指輪。
けれど、4年間のバイトと節約、少しの援助も含めて、ようやく届いた。
決済を終えたとき、俺の心の中にずっとあった夢が、現実に変わったような気がした。
帰り道、指輪の箱をカバンの中にしまって、電車に揺られる。
窓の外、夕焼けが街を染めていた。
まるであの日、約束を交わした公園にいたときのような景色。
「……あと少しだな」
誰に言うでもなく、呟いた。
この声が届く人が、すぐそばにいる未来。
その一歩手前まで、ついに来た!
電話が鳴ったのは、夕方4時を少し過ぎたころだった。
その音は、遠くで鳴っているかのように聞こえた。
いや、聞こえていたのに、理解するまでに数秒かかった。
スマホの画面には、美桜の名前。
「……裕翔……お願い、早く病院に来て……パパが……」
震える声。嗚咽まじりの呼びかけ。
それだけで、俺は全身の血の気が引いた。
理由など聞かなくても、わかってしまった。
「……すぐ行く」
適当に服を掴み、玄関を飛び出す。
病室に着いたのは、電話から1時間後。電車で行った。
夜の病室は静まり返っていた。
けれど、その一室だけは、泣き声と、押し殺したすすり泣きが微かに響いていた。
扉の前で、一瞬だけ足が止まった。
もし今、扉を開けたら、本当に終わりに近づいてしまう気がして。
でも、俺は逃げたくなかった。
あの人に、最期の顔を、背中を、言葉を……見せたかった。
ゆっくりとドアノブを握る。
そして、静かに開けた。
病室の中。
静かな病室に、ベッドで酸素マスクをつけた一ノ瀬さんがいた。
その手を握るのは、美桜。
彼女は、声を殺して泣いていた。
それでも、一ノ瀬さんの手を必死に包み込むように、ずっと握っていた。
その姿に、胸が締め付けられた。
「裕翔……」
美桜が俺に気づき、顔を上げた。
涙に濡れたその目に、俺は言葉が出なかった。
「……来たか」
かすれた声で、ベッドの中の一ノ瀬さんが笑った。
顔は青白く、体には点滴と無数の管。
それでも、その目だけは、優しさで溢れていた。
俺は、そばへ歩み寄ると、美桜の隣に腰を下ろした。
「……遅かったかと思った」
「間に合ったさ……お前は、いつも大事なときには、ちゃんと来る」
一ノ瀬さんが、弱々しく笑った。
でもその笑みは、昔と変わらなかった。
「医者がさ……今夜が峠だって言ってた。まるで俺が今日で死ぬみたいに言いやがる」
「やめてくださいよ……」
そう言ったものの、声は震えていた。
言葉だけでは、もう止められなかった。
涙が、どんどんとあふれてくる。
「ほら見ろ……裕翔が泣くなんて……何年ぶりだ」
「やめてよパパ……」
美桜の声が詰まる。
震える声を聞きながら、一ノ瀬さんは、少しだけ体を起こした。
「美桜。……泣くな。お前が泣くと、俺は……ほら、また涙が出てくる」
そう言って、彼は泣きながら笑った。
「裕翔、お前に……最後に言っておきたいことがある」
俺は、顔をあげた。
何も言えず、ただ見つめる。
「あの春の日、お前を拾ったとき、正直、困ったんだよ。何も喋らねぇし、痩せこけてるし」
「でもな、不思議と……見捨てられなかった。理由なんてない。ただ、放っておけなかったんだ」
「それが……全部、今になってわかった。お前に出会えて、本当に良かったって。裕翔、ありがとう。……そして、すまん。もっと、生きたかった」
その瞬間、胸の奥に釘が刺さったように痛んだ。
「俺の夢はな……もっと、バカな話をして、美桜の結婚式を見て、孫を抱いて、孫にもバカって言われるジジイになることだったんだよ。でももう、それは叶いそうにないな」
ベッドの上で、彼は笑いながら、涙をこぼした。
「裕翔、頼んだぞ……美桜を……幸せにしてやってくれ。お前じゃなきゃ、できないんだよ」
俺は喉の奥がつまって、何も言えなかった。ただただ、うなずき続けた。
「……俺はもう、ここまでだ。だけど、お前たちは……まだ、未来を生きていける。だから、泣くなよ。笑え。バカみたいに……笑って……」
そして、最後の力を振り絞って、彼はこう言った。
「俺の人生は最高だったよ。お前たちに出会えたから……本当に……ありがとうな……裕翔、美桜……大好きだ……」
その言葉とともに、彼の目がゆっくりと閉じた。
そして、もう開かれることはなかった。
沈黙。
美桜は、声を上げて泣いた。
俺も、こらえきれずに、彼の手を握りしめて泣いた。
でも、不思議と、一ノ瀬さんのその顔は、笑っていた。
涙を流しながら、笑っていた。
まるで、自分の人生に、悔いなど1つもないと言うように。
空までもが泣いていた。
小雨が静かに降る中、喪服に身を包んだ人々が、ぽつぽつと集まりはじめていた。
通夜も終え、今日は葬儀と告別式。
一ノ瀬さんが、とうとうこの世を旅立つ日だった。
俺は、入り口の横に立ち、目を伏せたまま、参列者を迎えていた。
店の常連だった人、昔からの知り合い、ご近所さん、そして、美桜の友人たち。
みんなが口々に、あの人は、本当にいい人だったと言った。
そうだ。
まるで、自分のことのように誰かの人生に立ち入って、泣いて、笑って、怒ってくれる人だった。
その誰かの中に、俺もいた。
式場の中には、一ノ瀬さんの遺影が飾られていた。
カフェの制服を着た写真。
少し無精髭を残して、照れたように笑っているその表情は今にも。
「バカやろう」
って言いそうで、思わず目を涙が出てしまうほど、懐かしく、優しかった。
美桜は、祭壇のすぐ近くに座っていた。
黒い喪服に身を包んだ彼女は、いつものような無邪気な笑みはなかった。
でも、泣いてもいなかった。
彼女は、強かった。
だけど、俺は知っていた。
あの夜から、毎晩、声を殺して泣いていたこと。
父親のいない世界を、現実として受け入れられずにいること。そりゃ、そうだろう……。
「裕翔……」
小さく、俺の名前が呼ばれた。
顔を上げると、美桜が、震える手で俺の袖を掴んでいた。
「となり……いて……」
俺は、無言でうなずいた。
そして彼女の隣に腰を下ろし、そっと手を握る。
「泣いていいよ美桜……」
そう言った途端、美桜の目から、ぽろぽろと涙がこぼれた。
声は出なかった。でも、肩が小さく震えていた。
俺は、ただ手を握り続けた。
どんな慰めの言葉より、今はそれしかできなかった。
式の中盤、弔辞を読む役目が、俺に回ってきた。
あの日、拾われて、育てられて、支えられて、守られた恩。その全部を、たった数分で伝えるのは、到底不可能だった。
でも、俺なりの言葉で、精一杯、話した。
「一ノ瀬さん。あなたが拾ってくれなければ、俺の人生は……こんなふうに変われませんでした。俺は、今でも、何であの時、助けてくれたのか不思議です。でも、あなたがそうしてくれたから、今の俺があります」
「俺にとって、あなたは父親でした。人生を変えてくれた、大切な人です。今でも、信じられません。……でも、前を向いていきます。あなたの背中を忘れないように、生きていきます」
頭を下げたあと、抑えていた感情があふれて、少しだけ声が詰まった。
それでも、俺は泣かずに席に戻った。
それが、今の俺にできる強さだった。
棺の中、一ノ瀬さんは、まるで眠っているような顔をしていた。
美桜は、その顔に花を手向けながら、そっとつぶやいた。
「……ねぇパパ、私、もう子どもじゃないよ。ちゃんと、ちゃんと大人になる。ちゃんと幸せになる……でも、できることならもう一度だけでいい、またあの声で叱ってほしかったな……」
彼女は静かに微笑みながら、花をそっと置いた。
それは、悲しみと愛情が重なった別れの微笑みだった。
俺も、彼の顔を見つめ、最後の一輪を手向けた。
「……あなたに拾ってもらって、本当によかったです。……絶対に、忘れません」
そして、蓋がゆっくりと閉じられる。
光が遮られていく中、あの笑顔が、最後にもう一度だけ見えた気がした。
式の終わり、空は少しだけ晴れ間を見せた。
雲の切れ間から差し込む陽の光が、まるで一ノ瀬さんの大丈夫だって声のように、そっと俺たちを照らした。
その光の中で、美桜と俺は、黙って手をつないだ。
あの人が残してくれた心を、これからの未来へ、しっかりと背負っていくためにも。
葬儀が終わってからの数日間、カフェはずっと、シャッターを下ろしていた。
店の前を通る人々の中には、立ち止まり、祈るように手を合わせていく人もいた。
この場所が、どれだけたくさんの人に愛されていたかが、静かな街の中に、ちゃんと残っていた。
俺も美桜も、ほとんど口をきかなかった。
無理に話す気にもなれなかったし、あの空気のまま何か言葉を出してしまったら。
それだけで、胸がぐちゃぐちゃになって、崩れてしまいそうだったから。
でも、それでも。
あの人が残してくれたものを、ここで途絶えさせてしまうのは、
一ノ瀬さんの最後の願いを裏切ることになる気がして、どうしても嫌だった。
数日後の朝。
俺は、美桜を誘って、久しぶりにカフェの鍵を開けた。
「……開けるよ」
カラン、と懐かしい鈴の音が鳴る。
もうそれだけで、涙が込み上げそうになった。
中は少し埃をかぶっていたけれど、
まだ一ノ瀬さんの気配が残っているようで、どこか温かかった。
「ここ、……全部、パパが作ったのにね」
美桜が、レジカウンターの前で、ぽつりとつぶやいた。
その声は震えていたけど、目はしっかりと前を見据えていた。
「でも、まだ終わらせない。パパのカフェだから」
「俺も手伝うよ。絶対、続ける。一ノ瀬さんが、残してくれたもの」
小さくうなずいて、美桜がほほえんだ。
ほんの少し、でも、確かに前に進んだ証のような笑みだった。
そこから数日間、俺と美桜、そして店の元スタッフだった2人、大学生のサユリさんと、同い年のショウゴが手伝ってくれることになった。
「このままじゃ終われないでしょ、一ノ瀬さんのカフェ」
そう言って笑ってくれたサユリさんの目も、どこか赤かった。
ショウゴは不器用ながらも、黙々と掃除を続けてくれた。
「うちのバイト、こんなに大変だったか……」
「あんた、全部一ノ瀬さんに甘えてたもんねー」
「ぐっ……否定できねぇ……」
久しぶりに笑いがこぼれた。
何かが少しずつ、変わりはじめていた。
そして、1週間後。
カフェは、ついに仮オープンを迎えた。
メニューはまだ少なめ。人手も足りない。
それでも、美桜がレジに立ち、俺が厨房に入り、いらっしゃいませと声を出した瞬間胸がぎゅっと締めつけられるような気持ちで溢れた。
「これで、よかったんだよね……」
「うん。……一ノ瀬さん、絶対、見てるよ」
俺は、そう信じていた。
そしてその瞬間、あの人の声が聞こえたような気がした。
「美桜を、頼んだぞ」
夜。営業を終えて、店を閉めるころ。
掃除を終えて、美桜と2人、カウンター席に座った。
「……ねぇ裕翔」
「ん?」
「パパが最後にさ、言ったでしょ。『美桜を頼んだ』って」
俺は、少しだけ目を伏せた。
その言葉は、あの夜からずっと胸の中で響いてる。
「……責任、感じてる?」
「いや、そうじゃない。……違うんだ。責任とか、頼まれたからとか、そういうのじゃないんだ。俺が、美桜を守りたいって思ってる。それだけなんだよ」
美桜がゆっくりと、俺の肩にもたれた。
「……ありがと。そう言ってもらえて、うれしい。でもね……私も、パパから裕翔を頼まれた気がしてるんだ」
「え?」
「だから、私も裕翔を支えるよ。お互い、支え合おうよ。ずっと、これからも」
なぜか言葉は出なかった。
でも、そのぬくもりが何よりも、強くて優しい約束だった。
カフェは、まだまだ不完全だった。
けれど、一ノ瀬さんの意志は、確かに俺たちの中に残っていた。
そして、これからも、続いていく。
誰かの心に温かさを残すために。
あの日、拾ってくれたあの人のように。
夏の終わりが近づいていた。
空気にはどこか切なさが混じり、蝉の声も、少しだけ弱くなってきた気がする。
でも、そんな季節の変わり目に、俺の中では1つの覚悟が決まっていた。
この日を迎えるために、俺は6年間、走り続けてきた。
泣いた日も、怒った日も、笑えなかった日もあった。
だけど、あの約束が、俺の心を支えてくれていた。
「6年後に戻る。そのとき、君にプロポーズする」
実際には、6年かかった。でも、それでも。
今日が、その日だ。
日が落ち始めた夕暮れ、
俺は、美桜を連れて、あの場所へと向かった。
2人で最後に話をして、別れを告げた公園。
あのときの夕陽と同じ、赤く染まった空が広がっている。
ベンチの位置も、あの頃のままだ。
1つだけ違うのは、今、俺の隣にいる彼女が、もう泣いていないことだった。
「覚えてる?」
「うん。すごく、はっきりと」
「ここで、俺……」
「うん。プロポーズするって言ってた。……あの時の顔、今も覚えてるよ。泣きながら、でも笑ってて、すごく裕翔だった」
「変な褒め方するな」
2人で、笑った。
こうして並んで笑うのが、どれだけ久しぶりだったか。
でも、それもきっとこの6年の意味だったんだと思う。
「俺さ……たぶん、あのとき家出してなかったら、今の自分はいないと思うんだ」
「うん」
「ボロボロで、迷惑ばっかりかけて、どうしようもないガキだったけど……でも、美桜や一ノ瀬さんに出会って、世界が変わった」
「変えたんだよ、裕翔が」
「……そう、なのかな」
「うん。私は、知ってる」
美桜の手が、そっと俺の手に重なる。
その手は、震えていた。俺もだ。心臓がうるさいくらいに鳴っていた。
そして、ゆっくりとポケットから、小さな箱を取り出す。
美桜が、少し驚いたように俺を見る。
俺は、深呼吸をひとつ。
過去も、後悔も、全部背負って、この言葉を伝える。
「……美桜」
「うん」
「俺は、ずっと……君と生きていたいと思ってた。あのときの約束を、ずっと胸に抱えてここまで来た。泣かせたことも、守れなかったことも、いっぱいある。でもこれからの人生、俺は……君を、幸せにしたい。できるだけたくさん笑わせたい。たまにはケンカして、でも一緒に歳を取って、朝起きて、君が横にいる日々を、生きていきたい」
ゆっくりと膝をつき、小さな箱を開けた。
中には、慎重に選んだ指輪。あのデザイン。
「僕と、結婚してください」
美桜は、目を大きく見開いて、何も言わなかった。
ただ、ぽろぽろと涙を流していた。
言葉がなくても、それだけで全部伝わってくる。
でも、少しだけ沈黙が続いて、不安になった俺が口を開こうとしたとき。
「……何年、待ったと思ってるの?」
「えっ……あ、いや、それは……」
「6年だよ?長すぎだよ、ほんと。……ずっと待ってた。ずっと信じてた。裕翔は、絶対に戻ってきてくれるって。約束、ちゃんと守ってくれるって。だから……嬉しすぎて、……言葉にできないんだよ、ほんと、バカ」
泣き笑いのその顔が、あまりにも可愛くて、俺の胸は、もう言葉にならない感情でいっぱいになった。
「もちろん、いいよ。……結婚しよう。裕翔と、ずっと一緒に生きていきたい」
俺は、美桜の指に、ゆっくりと指輪をはめた。
ぴったりだった。
そっと抱きしめると、彼女は胸に顔をうずめ、ぽつりとつぶやいた。
「……パパ、見てるかな」
「見てるよ。きっと、あの辺からすっごいニヤニヤしながら見てる」
「やだ……裕翔の変な顔がうつった……」
「それ、褒めてる?」
「うん。最高の褒め言葉」
あの日、別れた場所で。
あの日、泣きながら決意を伝えた場所で。
今、俺たちは人生を重ねる約束をした。
きっとこの先も、困難はある。
でも、もう大丈夫。今度こそ、ずっと一緒にいられる。
家族として。
拾ってくれた人が繋いでくれた、たった一つの縁。
その奇跡に、心から感謝を込めて 俺は、美桜の手を強く握りしめた。
美桜と2人、カフェの2階の部屋で、静かな時間を過ごしていた。
夜風がカーテンを優しく揺らしていて、部屋には仄かにコーヒーの匂いが残っていた。
2人の間には、昔みたいに、ラグの上に置かれた麦茶と、残り少ない夏の余韻。
だけど、今はもう高校生じゃない。
それぞれの時間を積み重ね、大人になった2人が、そこにはいた。
「ねえ、裕翔」
「ん?」
「これからさ、私たち……どうしていこうか。未来の話。ちゃんとしよ」
「うん、しよう」
俺は、美桜の正面に座り直し、ゆっくりと息を吐いた。
「まず、俺は……このカフェを続けたいと思ってる」
「うん」
「ここは一ノ瀬さんの、いや……俺たちの家だった。美桜も、俺も、ここで生き方を学んだ。だから、カフェの名前はそのままにして、リニューアルして、もっと多くの人に愛される場所にしたいんだ」
「私も、ずっとそう思ってた。一緒にやろう?」
「もちろん」
2人の視線が重なる。
互いの目に、揺るぎない信頼と、穏やかな決意が宿っていた。
「子どもとか……欲しい?」
「欲しいよ、すっごく。でも焦らない。ゆっくりでいい。お金も、家も、全部ゆっくり整えていこう。焦らず、2人で築いていこうな」
「……うん」
美桜は目を細め、俺の手を握った。
その指先が、少し震えていた。
「あと、もうひとつだけ」
「ん?」
「裕翔が、これからもし何かに迷ったり、苦しんだりしても……私は絶対、裕翔のそばにいるから。どんな時でも。だから、絶対、1人で抱え込まないでね」
「……ああ、ありがとう。俺も、同じこと思ってた」
その言葉が、静かに部屋の中に溶けていく。
まるで、小さな誓いのように。
そして、数日後。ついに、結婚式当日。
空は快晴だった。
まるでこの日を祝福するかのように、太陽は輝き、雲1つない青空が広がっていた。
会場は、美桜と裕翔が一緒に選んだ、丘の上にある小さな教会。
白を基調にしたチャペルには、裕翔の大学、高校時代の友人たち、かつてのバイト仲間、
そして何より裕翔の両親の姿もあった。
父親は照れ臭そうに、母親は涙を堪えながら。
会場の最前列には、一ノ瀬さんの遺影が丁寧に置かれている。
優しい笑顔のままで、まるで本当にそこにいるように見えた。
「新婦の入場です」
扉が開いた瞬間、全員が息をのんだ。
真っ白なウェディングドレスを纏った美桜が、ゆっくりとバージンロードを歩いてくる。
その姿は、まるで光に包まれているかのように美しかった。
俺は微笑んで手を差し出す。
美桜は、少し照れたように俺の手を握り返してくれた。
神父が言葉を紡ぎ、式は進行していく。
そして誓いのキスの直前。
俺は、美桜の手をぎゅっと握りながら、前を向いた。
その視線の先には、遺影の中の一ノ瀬さんがいる。
「……一ノ瀬さん」
声に出すと、自然と涙が込み上げてくる。
でも、この言葉だけは、どうしても伝えたかった。
「俺……必ず、美桜を幸せにします。だから、安心してください。俺を拾ってくれて、本当に、ありがとうございました」
目に涙を溜めたまま少し笑って言うと、会場からすすり泣きが広がった。
「それでは。誓いのキスを」
俺は、美桜に向き直った。
彼女も、目に涙を浮かべながら笑っていた。
その唇に、静かにキスを落とす。
拍手が鳴り響く中、俺たちは互いの額をそっと合わせ、微笑み合った。
「本当に、ありがとう」
「こっちこそ……ありがとう、裕翔」
2人で、振り返り、参列者たちに向かって頭を下げた。
その瞬間、俺の胸の中に思いが広がっていた。
ああ、本当に良かった。
君たちに出会えて。
高校で出会った仲間たち。大学で支えてくれた友人たち。俺を拾ってくれた、一ノ瀬さん。そして、ずっとそばにいてくれた、美桜。
人生は、簡単じゃなかった。
何度も間違えて、泣いて、転んで、でも。
それでも、出会えた奇跡が、俺をここまで運んでくれた。
今なら胸を張ってそう言える。
あの日、名前も知らない君に出会って、俺の世界は静かに色を変え始めた。
痛みも、孤独も、全部無駄じゃなかったって、今なら言える。
だからこそ、これからの人生は、守りたい人を守り、与えられた愛を、誰かに返していくために、生きていきたい。
まだ足りないものばかりの俺だけど、それでも、隣に笑ってくれる人がいる限り、何度だって歩き出せる。
この人生を、もう一度選べるとしても、俺はきっと、同じ道を選ぶ。
「名前も知らない君に拾われて、ほんとうに……よかった……」
完



