名前も知らない貴方に拾われて俺の人生は、大きく変わった。
家って、帰る場所じゃないのかってずっと思ってた。
俺にとっては、ただの戦場だった。
父親はいつも怒鳴ってばかりだった。
機嫌が悪けりゃ手が出るし、機嫌がよくても急にスイッチが入る。
理由なんてなかった。ただ、目をつけられたら最後だった。
母親はそんな父を止めることもなく、逆に一緒になって俺を責めた。
「お前がいるから、うちが壊れるんだよ」
そう言われたこと、今でも忘れられない。
夕飯なんて出てこない日も多かった。
カップ麺すら隠されたこともある。
空腹で眠れなくて、夜中に水だけ飲んで布団に戻る日々。
学校に行っても、どこか他人事みたいだった。
自分だけ、透明なビニールの膜の中に閉じ込められてるみたいで。
中学を卒業して、高校に上がる直前だった。
「もう、無理だな」
そう思った朝、俺は荷物を詰めて、家を出た。
春の風はあたたかいはずなのに、この日だけは、やけに冷たく感じた。
駅のホームに座り込んで、俺はただぼんやりと人の流れを見ていた。
鞄の中には、着替えと財布と、小さなメモ帳だけ。
スマホは家に置いてきた。
あんなもの、持ってたら絶対戻される。そう思ったから。
「……どこ行こ」
自分でも、どこに向かってるのかなんて、わからなかった。
ただ、家にはいたくなかった。それだけだった。
切符を買って、電車に乗った。
流れる景色は知らない町ばかりで、それが逆に、心を落ち着かせた。
誰も俺を知らない。誰にも知られない。
そう思ったら、少しだけ息ができる気がした。
でも、都会ってのは優しくなかった。
駅前で声をかけてきた3人組の男に、いきなり胸ぐら掴まれて。
「金出せよ」
って言われた。
逃げられなかった。動けなかった。
どこかで。
(……ああ、やっぱこうなるんだ)
って思ってた。
でも、その時だった。
「おい」
低くて太い声が、響いた。
見上げると、ジャンパーを羽織った男が立ってた。
サングラス越しの目が、そいつらを見据えてる。
「子どもに何してんだ」
3人組の男たちは舌打ちして、そそくさと逃げていった。
俺は、立ち尽くしてた。何も言えなかった。
その男が、ポケットからタバコを出して、火をつけた。
煙の中で、小さく笑って言った。
「腹、減ってんだろ。飯、行くぞ」
それが、俺とあの人の出会いだった。
あの人は、俺の返事も聞かずに歩き出した。
それでも、俺は何も言えずに、その背中についていった。
人通りの少ない裏通りに入って、しばらく歩くと、古びた定食屋の前で立ち止まった。
赤い暖簾が風に揺れていて、看板の電気もチカチカしてる。
正直、ちょっと怖かったけど、あの人は構わず暖簾をくぐった。
「おばちゃん、唐揚げ定食、2つな」
カウンターに座ると同時に、そう言って煙草を灰皿に押しつけた。
俺は少し離れた席に座ろうとしたけど、手で隣を指された。
「いいから、座れ」
その声に逆らえなくて、結局隣に腰を下ろした。
厨房の奥から、店のおばちゃんが「はいよ〜」と返事をしている間、店内は妙に静かだった。
テレビの音がぼんやり流れていて、どこか遠い世界みたいだった。
「……あの、さっきはありがとうございました」
ようやく声を出すと、男は少しだけこちらを見て、小さくうなずいた。
「なんで、助けてくれたんですか」
思わず聞いてしまったその言葉に、男は目を細めて笑った。
「……困ってるやつ見たら、放っとけねぇだけ」
「そんだけだよ」
それだけの言葉だったのに、胸の奥がズキッと痛んだ。
なんだろう、たぶん、優しさが痛かった。
「飯もろくに食ってねぇだろ。」
そう言って、テーブルの上に自分の財布をポンと置いた。
「金は気にすんな。俺の気まぐれだ」
「……それに、お前、行くとこねぇんだろ?」
図星だった。何も言えなかった。
その時、厨房から湯気をまとった唐揚げ定食が運ばれてきた。
大ぶりの唐揚げが5つ。味噌汁の湯気が鼻をくすぐる。
久しぶりに、ちゃんとした飯の匂いをかいだ気がした。
「食えよ。冷めるぞ」
男のその一言に、俺は箸を手に取った。
一口目の唐揚げが、涙が出るくらいにうまかった。
衣のカリッて音と、中からじゅわっと出てくる肉汁。
味の濃さが、胃に染み込んでいく。
無言で、でも夢中で食べ続けた。
気づいたら、皿の上は何も残ってなかった。
「……うまかったです」
ぽつりと呟いたその言葉に、男はふっと笑った。
「そりゃよかった」
それだけ言って、男も箸を置いた。
「名前は?」
「……ゆうと、です」
「裕翔、な。俺は一ノ瀬。覚えとけ」
その声は、無駄に優しくもないし、無理に距離を詰めてくる感じでもない。
でも、不思議とあたたかかった。
その日、俺は一ノ瀬さんの家に泊めてもらうことになった。
理由も聞かれず、過去も掘られず、ただ布団と風呂と、少しの静けさをもらった。
その夜、布団の中で目を開けたまま天井を見ていた。
誰かと一緒に飯を食ったのは、いつぶりだっただろう。
「……変な人だな」
そう呟いた声が、少しだけ震えていた。
店を出たあと、俺たちは無言のまま歩いた。
夜の街はネオンが眩しくて、人の笑い声や車の音が遠くに聞こえていたけど、俺の中には何も響いてこなかった。
一ノ瀬さんは、振り返ることなく黙々と歩いていた。だけど、足取りは不思議と落ち着いていて、なんとなく俺はその背中についていった。
角をいくつか曲がって、少し開けた住宅街に入った。街灯の光がポツポツと地面を照らしていて、その静けさに少しだけ安心する。
古びた木造の家の前で一ノ瀬さんが立ち止まる。
「ここだ」
そう言って、ポケットから鍵を取り出すと、無造作に玄関を開けた。
中から、淡い明かりと、ほんのりとした石鹸の匂いがした。
「上がれ」
そう言われて靴を脱ぐと、木の床が少し軋んだ。玄関脇には靴が三足並んでいて、そのうちの1つは、俺と同じくらいのサイズの白いスニーカーだった。
「風呂、沸いてる。先に入ってこい」
俺が戸惑ってると、一ノ瀬さんはタバコを咥えながらソファにどかっと腰を下ろした。
「服、あとで貸す。タオルは洗面所の棚にな」
言われた通りに、俺は洗面所に向かった。鏡に映る自分の顔が少しやつれて見えた。
風呂場からは湯気が立ち上っていて、そのあたたかさに思わず肩の力が抜けた。
風呂に入ったのは、いつ以来だっただろう。
湯に体を沈めた瞬間、息が漏れた。
あったかい。
それだけで、泣きそうになった。
風呂を出ると、すでに俺のために着替えが準備されていた。Tシャツとジャージ。少し大きかったけど、清潔な匂いがして心が落ち着いた。
リビングに戻ると、一ノ瀬さんはもうソファでうたた寝をしていた。
「……あの、布団って……」
声をかけると、目を開けて、壁際の襖を指さした。
「そこの和室、使え」
俺は言われた通りに畳の部屋へ入った。布団がすでに敷かれていて、その優しさにまた、胸がきゅっとなる。
電気を消して、布団にくるまると、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
今日一日で、世界が一気に変わった気がした。
朝、鳥の声で目が覚めた。
久しぶりに、ちゃんと眠れた気がした。枕がふかふかだとか、布団があったかいだとか、そんな当たり前のことが信じられないくらい、昨日までの俺の生活は荒んでいた。
布団を畳んで部屋を出ると、リビングからは何かを焼く音と、香ばしい匂いが漂ってきた。
「……起きたか。座れ」
キッチンに立っていた一ノ瀬さんが、フライパンをゆっくり振りながら言った。
テーブルの上には、すでに湯気の立つ味噌汁と、焼き魚と卵焼きが並べられていた。思わず目を見張ってしまう。
「……これ、全部……」
「おう。朝はちゃんと食え」
一ノ瀬さんは手際よく皿を並べながら、煙草に火をつけた。煙の向こうで、少しだけ笑ったように見えた。
「昨夜の礼、ってわけじゃねぇが、食ってくれりゃそれでいい」
俺は言われるままにテーブルにつき、箸を手に取った。味噌汁を一口すすると、じんわりと胃の奥があたたかくなった。
こんな朝ごはん、いつぶりだろう。
もしかしたら、小学生の頃が最後だったかもしれない。
「……うまいです」
ぽつりとこぼれた言葉に、一ノ瀬さんは黙って頷いた。
食べ終わると、一ノ瀬さんは黙って皿を片付けながら、煙草に火をつけた。
煙が静かに天井に向かって消えていく。
「……で、だ」
その低く落ち着いた声に、自然と背筋が伸びる。
「しばらく、ここに住ませてやってもいい」
思わず手が止まった。箸を持ったまま、顔を上げる。
「……ほんとに?」
「ただし、条件がある」
一ノ瀬さんは灰皿に煙草を押しつけ、まっすぐ俺の目を見た。
「タダ飯にタダ寝はさせねぇ。働け。うちのカフェで」
「カフェ……?」
「商店街の外れにある。喫茶レイジって名前だ。ダサいとか言うなよ、俺の名前だ」
思わず小さく笑ってしまいそうになったけど、必死にこらえた。
「ま、古くさい店だが、常連はいるし、昼間は意外と忙しい。コーヒー出すだけでも、誰かいてくれたら助かる」
「……俺で、役に立ちますか?」
「最低限、挨拶と皿洗いができりゃいい。注文取りは慣れてからでいい」
そう言って一ノ瀬さんは、立ち上がりながらコーヒーの入ったマグカップを手に取った。
「メシも出す。風呂もある。寝床もある。けど、逃げたいだけのガキを養う趣味はねぇ」
その言葉は厳しく聞こえたけど、どこか芯があたたかかった。
「……俺、やります」
自分でも驚くくらい、すぐにそう言えていた。
「じゃあ今日は朝から見学な。働き方と客の雰囲気、覚えろ。人が来る前に紹介したいやつもいるしな」
紹介したいやつ?
そう聞き返す間もなく、一ノ瀬さんはさっさと玄関へ向かった。
慌てて身支度をして、後を追う。ジャケットとジーンズを借りて、靴を履いたときにはすでに車のエンジンがかかっていた。
カフェは、商店街の一角、古いビルの一階にあった。
外観はレンガ造りで、レトロな木の看板に「喫茶ヒトシ」の文字。確かに、少しだけ時代を感じる。けど、店先に置かれた鉢植えや、ドアの横にぶら下がる風鈴が、静かな優しさを漂わせていた。
一ノ瀬さんが鍵を回してドアを開けると、微かなコーヒーの香りと木の匂いが混じった、落ち着いた空気が中から流れ出てきた。
「いらっしゃーい……って、あ、父さんか」
店の奥から、少し眠たそうな声が聞こえた。
声の主は同い年くらいの女の子だった。
髪は肩につくくらいで、エプロン姿。手にはトレーを持っていて、どうやら朝の準備中らしい。
「こいつ裕翔。今日からうちに居候することになった」
そう紹介されて、俺は慌てて頭を下げた。
「えっ、あ……こんにちは。あ、いや、はじめまして……」
「……ふーん」
女の子はトレーをテーブルに置きながら、じっと俺を見た。
「父さん、また拾ってきたの?」
「まあな」
「私はみお。よろしく」
それだけ言って、ミオは少しだけ口元を緩めた。
だけどその表情は、どこか読み取りにくい。
「こいつも店手伝ってる。高校生だ。お前と同い年くらいだな」
一ノ瀬さんがそう言うと、ミオはエプロンの紐を締め直しながら俺をチラッと見た。
「サボったら許さないから」
「……はい」
実際にサボったわけでもないのに、背筋が伸びた。
「まずは見てて。動き、真似して覚えて」
美桜はそう言って、厨房のカウンターの中へと入った。
言葉はぶっきらぼうだけど、手の動きには一切の無駄がなかった。
朝の開店前、コーヒー豆を量って、丁寧にミルで挽く。
ポットで湯を沸かしてる間に、ショーケースにパンを並べ、食器の数を確認する。
「ここ、トーストは半分に切ってから出すの。ジャムはお客さんに聞いてから」
「コーヒーは、注文聞いたらすぐお湯沸かして」
「食器は洗ったら布巾で全部拭いて、棚に戻す」
口調は冷たい。けど、説明は的確だった。
ミオの後ろ姿を見ながら、俺はひたすらうなずいた。
何度も何度も繰り返しているような手の動きは、どこか綺麗だった。
そして、静かだった。
店の中には、まだ他の音がない。外の喧騒も届かない。
まるで、店ごと、時間が止まっているようだった。
「……緊張してる?」
美桜がふと、俺の方を見た。
「……ちょっとだけ」
「ふーん。ま、最初はそんなもん」
それだけ言って、またすぐに作業へ戻る。
その背中を見ながら、なんだか少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
開店時間になると、常連らしきおじいさんやおばさんたちがゆっくりと入ってきた。
みんな、「おはよう、ミオちゃん」と笑顔で挨拶してくる。
ミオは「いらっしゃいませ」と言いながら、いつものように注文を聞いて、コーヒーを淹れ、パンを焼いていた。
俺はといえば、コーヒーのカップを棚から出しては震える手で持っていき、トーストを間違えて2枚焼いて美桜に睨まれ、コップをひとつ割って、ものすごく謝った。
「……明日から、覚えなきゃだめだよ」
「……すみません」
仕事が終わるころには、足が棒みたいになっていた。
でも、心の中は少しだけあったかかった。
ちゃんと、何かの役に立てた気がして。
次の日も、朝から喫茶ヒトシに立った。
その次の日も。
そのまた次の日も。
雨の日も、風の日も。
開店前の店に、俺はいつも美桜よりちょっとだけ早く来ていた。
少しずつ、できることが増えた。
豆の挽き方、ミルクの温め方、トーストを焦がさずに焼くコツ。
「ジャムはイチゴとマーマレード、どっちにしますか?」
そう笑って聞けるようになったのは、たぶん一週間くらい経ってからだった。
美桜は相変わらず、必要なことしか話さない。
だけど、俺が皿を落とさずに運べた日には、目を合わせて小さく頷いた。
それが、嬉しかった。
朝の開店準備。
コーヒー豆を量り、手で挽くところから始まる。
ショーケースには焼きたてのスコーンやトースト。
テーブルを拭いて、椅子の角度を整えて。
ひとつひとつの動きに、ちゃんと理由がある。
「ここ、コースターはお客さんが座ってから置くの。最初から並べない」
「ミルクは温めすぎると泡立つから、気をつけて」
「カップの向きは持ち手が右。必ず」
声の調子は変わらないのに、教え方は丁寧だった。
裕翔は、メモも取らずに、ただひたすら美桜の手元を見つめた。
覚えることばかりで、頭がいっぱいになる。
だけど、不思議とそれが嫌じゃなかった。
やることがある。
ここに、居ていい理由がある。
開店してすぐ、年配の常連客が数人、ゆっくりと入ってきた。
「おはよう、美桜ちゃん」
「今日も暑いねぇ」
美桜は「いらっしゃいませ」と小さく笑って、スムーズに注文を取る。
裕翔は皿を運ぶ。
足が震える。手の汗でトレーが滑りそうになる。
コーヒーをひとつ、こぼしそうになって、思わず声が出た。
「……す、すみません!」
「……落ち着いて」
美桜が、短く言った。
怒っているわけじゃなかった。けれど、その一言で少しだけ冷静になれた。
昼過ぎ、客足が落ち着いたころ。
「皿、拭いてくれる? 乾燥機使わないから」
美桜が差し出した布巾を受け取って、裕翔は黙々と皿を拭く。
「父さん、気まぐれで人拾うからさ」
ふと、美桜が言った。
「……え?」
「昔から。子猫とか、捨て犬とか。で、結局面倒見るの、私」
ちょっとだけ口調が軽くなった気がして、裕翔は笑いかけようとしたけど、すぐに目をそらされた。
「……でも、ちゃんと働くなら、それでいい」
「……はい」
次の日も、朝から店に来た。
またその次の日も。
裕翔は、ほとんど休まず働いた。
食材の補充、掃除、皿洗い、トーストの焼き加減。
少しずつ、覚えていく。
ミスをすれば美桜に冷たく叱られる。
でも、できたときには何も言わず、ちゃんと次の仕事を任される。
言葉なんて、あんまりいらなかった。
働いて、汗をかいて、まかないのご飯を食べて、夜は布団で眠る。
そんな日々が、ただ繰り返されていった。
家なんて、思い出す暇もなかった。
戻りたいとも、思わなかった。
その次の日も、いつものように朝から仕込みをして、開店準備を整えた。
裕翔も、美桜も、それぞれの仕事を静かにこなしていた。
天気は晴れ。
外から差し込む陽射しはあたたかい。
だけど、美桜の動きは、朝からどこかぎこちなかった。
手元はしっかりしてるはずなのに、ポットの位置を少し間違えたり、スコーンを焦がしかけたり。
客が来ても、いつものような落ち着いた笑顔が出ない。
「……大丈夫?」
裕翔がそっと聞くと、美桜は一瞬こちらを見たけど、すぐに目をそらして。
「平気」
と、それだけ答えた。
その声が小さくて、嘘みたいだった。
昼を過ぎた頃、ドアが静かに開いた。
「……」
入ってきたのは、背広を着た中年の男だった。
ネクタイは緩み、無精ひげが伸びている。
足取りは重く、目つきは鋭い。
けれどそれ以上に、店の空気が一気に変わったことのほうが、よくわかった。
男はカウンター席に腰を下ろすと、一番に、視線を美桜に向けた。
「よぉ、今日も元気にやってんのか、ミオちゃんよ」
美桜はピクリとも動かなかった。
コップを持った手が、微かに震えていた。
「いらっしゃいませ……」
その声は、明らかにいつもとは違っていた。
どこか無理に絞り出すような声。
裕翔はすぐに気づいた。
この客が、特別だということ。
そして、美桜がこの男を恐れているということ。
男はコーヒーを頼んだ。
そして、注文と関係ない話を次々と投げつけた。
「最近、店の雰囲気変わったなぁ。あんたか?あの新入りのガキ」
裕翔を見て、あからさまに口元を歪める。
「で、美桜ちゃんはさ、夜は何してんの? 寂しいんじゃないの、ひとりじゃ?」
「……注文と関係ない話は、控えてください」
美桜が、静かに言った。
だけど、男はニヤつきながら、カップを回し続けている。
「いやいや、客と店員の雑談くらい、どこでもあるだろ?なあ?」
その笑い声に、裕翔の手が自然と握りしめられた。
もう我慢できなかった。
「……やめてもらえませんか」
裕翔は男の前に立って、声を震わせながら言った。
「……んだと?」
「彼女が嫌がってます。帰ってください」
男の表情が一気に変わった。
「おい坊主、誰に向かって口きいてんだ」
立ち上がると、その背は裕翔より頭ひとつ分大きい。
胸ぐらを掴まれ、後ろへ押しやられる。
「表、出ろや」
「あ……!」
美桜の声が響いたが、すでに裕翔は腕を引かれて、店の外へ連れ出されていた。
路地に引きずり出された瞬間、拳が飛んできた。
避けられなかった。
頬に強い衝撃。
地面に倒れこむと、アスファルトの冷たさが体に染み込んできた。
「ガキが調子に乗ってんじゃねえぞ!」
男はさらに足を振り上げようとしたが。
「やめてっ!」
美桜の叫び声が割って入った。
「もうやめてよ!」
その声に、男の動きが止まる。
裕翔の方を睨みながら、舌打ちしてから男は去っていった。
振り返ることもなく。
路地に残されたのは、うずくまった裕翔と、立ち尽くす美桜だけだった。
「……ごめんなさい……」
しゃがみこんだ美桜が、裕翔の肩に手を伸ばす。
「私のせいで……あんな奴、また来たのも……私が何も言えなかったから……」
声が震えていた。
「ずっと、いやだったのに……強く言うのが怖くて……」
美桜の目から、涙がこぼれ落ちた。
声を殺して泣く姿は、いつもの冷静な彼女とはまるで違っていた。
裕翔は痛む顔をしかめながらも、無理に体を起こして、美桜の手を握った。
「……俺、情けないな。全然守れなかった」
「ちがう……!」
美桜が顔を上げる。
「誰にも言えなかったこと、今日……あんたが言ってくれたから、やっと少しだけ……怖いって言えた。……それだけで、救われたんだよ……!」
その声は弱くて、でも確かだった。
裕翔の心に、その言葉がゆっくりと染みていった。
その日、閉店後の店内は静かだった。
片付けを終えたあと、美桜は黙ってキッチンの椅子に座っていた。
裕翔も隣に腰を下ろす。
どちらからともなく、ふたりとも手を伸ばした。
次の日、美桜はいつもより少し早く店に来た。
静かな店内、まだ陽は昇りきっていない。
「……おはよう」
「……ああ、おはよう」
裕翔もすでに店にいて、掃除機を片手に立っていた。
昨日殴られた頬は、少し腫れている。
美桜は、それを見て、何も言わず。けれど一度、深く頭を下げた。
「昨日……ほんとにありがとう」
「ううん、俺こそ……何もできなかった」
「違う。……あの人に、帰ってくださいって言ってくれたの、あんたが初めてだった。父さんでさえ……いつも何も言わなかった」
そう言って美桜は、窓を開けて、朝の風を入れた。
それだけで、空気が少し軽くなる。
それからの数日、何かが変わった。
いつものように仕事をしているのに、時折、ふと目が合う。
無言のまま、どちらかが目をそらす。
でもそれは、気まずさじゃない。
むしろ、照れくささに近かった。
美桜が裕翔に仕事を教えるとき、前よりも少し声がやさしい。
裕翔も、笑顔で。
「ありがとう!」
と返すことができるようになった。
そして気づけば、まかないを食べるとき、自然と隣に座るようになっていた。
「なんで……そんなに優しいの?」
ある夜、片付けを終えたあと、美桜がぽつりと聞いた。
「え?」
「昨日のことだって、無理しなくてよかったのに。私、誰にも助け求めなかったのに。……なんで、そんなふうにできるの」
裕翔は、少しだけ黙って考えたあと、言葉を選ぶように話した。
「俺、家では……誰にも見てもらえなかったんだ」
「え?」
「父親はギャンブルで借金作って、母親はそれに疲れてて、俺に構う余裕なんてなかった。飯もろくに出なかったし、喧嘩の声がするたびに、耳ふさいでた」
美桜が、そっと裕翔の顔を見る。
「だからかな。誰かが辛そうなの、見てるだけって、……もう、したくなかった」
「……」
「俺、弱いし、殴られたらすぐ倒れるし……でも、逃げたくなかった。君が怖がってるの、見てたくなかったんだ」
その君という言葉に、美桜のまつ毛が揺れた。
「……名前、呼ばないの?」
「え?」
「美桜、って」
「……あ」
裕翔は目を逸らして、ほんの少し頬を赤くした。
「じゃあ……今度から、そう呼んでいい?」
美桜は、口元だけで少し笑った。
「うん」
その夜、店を出たとき、空には満天の星が広がっていた。
真っ暗な空に、ぽつりぽつりと光る無数の点。
街灯の下で、ふたりの影が並ぶ。
まだ触れない距離。
翌日は、美桜が午前中だけ店を空けていた。
「ちょっと役所に用事があるから」
そう言って、エプロンを外して出ていった。
裕翔は、ひとりでカウンターに立っていた。
開店直後で、まだ客足はまばら。
特に問題はない。そう思っていたそのときだった。
カラン、とドアベルが鳴った。
男が、ひとり。
そして、すぐにふたり、続けて入ってきた。
スウェットの上下。柄の悪い目つき。
腕に入ったタトゥー。
そのどれもが、明らかに普通の客ではなかった。
裕翔はすぐに気づいた。
やばいのが来たと。
「……いらっしゃいませ」
声を出すのが精一杯だった。
男たちは何も言わず、カウンター前に座った。
一番前の男が、にやりと笑って言う。
「なんだ、あの女いねぇのか?」
裕翔の背筋がぞっとした。
わかってる。目的は、美桜だ。
「店員ですか? 本日は……席をお選びください」
言葉を濁すと、男たちは笑った。
「へぇ。おまえが代わりに仕切ってんのか」
あの男と、繋がっている。裕翔は、そう直感した。
裕翔の手が、震えた。
でも、逃げられない。
美桜はいない。自分しかいない。
「ご注文……いただけますか」
なんとか声を絞り出すと、男は机をドンと叩いた。
「コーヒーだよ。熱いやつ。早く持ってこい、なぁ?」
「……はい」
背中に視線を感じながら、裕翔は厨房に入った。
手が震えて、コーヒーカップが1つカチンと音を立てた。
「落とすなよぉ、新人くん」
「きれいな顔が、熱湯でぐちゃぐちゃになったら、かわいそうだもんな?」
このままじゃ、だめだ。
逃げる?警察を呼ぶ?
でも、店を放って逃げたら、美桜に迷惑がかかる。
俺が、守らなきゃ。
コーヒーを手に、カウンターへ戻る。
「お待たせしました」
裕翔が一杯目を置こうとしたそのとき。
男のひとりが、わざと肘をぶつけてカップを倒した。
ガシャン!という音と共に、熱いコーヒーが床に広がる。
「おいおい、なにしてんだよ。客にかけるつもりだったのか?」
「マジであぶねぇなぁ。やる気あんのか、コラァ」
後ろから、もうひとりが裕翔の肩を掴んだ。
「外、出ようぜ。話しようや」
路地に引きずり出された。
前に2人、後ろに1人。
完全に囲まれていた。
「なあ、聞いたんだよ。お前、こないだうちのツレに歯向かったらしいじゃん」
「女にいいとこ見せようとしたのか?なぁ?」
「クソダサい。クッソ笑えるよな」
拳が振り上がる。
次の瞬間、痛みが襲った。
腹を、殴られた。
息が詰まって、膝が崩れそうになる。
「おい、立てよ。これだけか? 守りたかった気持ちはよぉ」
「おまえみたいなガキが、背伸びしてんじゃねえんだよ」
もう一発。
今度は頬。視界が揺れる。
けど逃げたくなかった。
ここで逃げたら、全部無駄になる。
あのとき、美桜の手の温度に救われた自分が、嘘になる。
「……お前らこそ……なんなんだよ」
歯を食いしばって、立ち上がる。
「女に手ぇ出して……今度は俺か? 恥ずかしくねえのかよ……!」
「は?」
「自分で立ってる人間、壊そうとして、なにが楽しいんだよ……!」
言葉は震えていたけど、目は逸らさなかった。
「やめてッ!」
その瞬間、美桜の声が響いた。
店から走ってきたのだろう。
息を切らして、裕翔の前に立った。
「やめてよ……!もうやめてよ……!」
「おまえ……いつ戻ったんだよ」
「関係ないでしょ! 関係ない人にまで手を出して、何がしたいの!」
男たちは舌打ちして、面倒くさそうに身を引いた。
「チッ……つまんねえな。じゃあ、またな」
そのまま3人は、路地を去っていった。
裕翔は、崩れるようにしゃがみ込んだ。
美桜がすぐそばに駆け寄ってくる。
「……ごめん、ほんとに、ごめん……!」
「いや……大丈夫。大丈夫だから……」
「私が、店にいなかったから……!」
美桜の目に、涙が滲んでいた。
「私、もう誰にも迷惑かけたくないって思ってたのに……!なのに……!」
裕翔は首を横に振った。
「違う。俺が勝手に立ち向かっただけ。……でも、俺、もう逃げたくない」
「私も……」
「え?」
「私も、もう誰かの後ろに隠れるの、やめたい……。あんたと一緒なら、そう思える」
ふたりの手が、そっと重なる。
震えていたのは、どちらの手か、もうわからなかった。
その事件から3日後の夜は、不思議なくらい静かだった。
夏の夜風が、窓の隙間からふわりと店内に流れ込んでくる。
外の商店街はもうほとんど人もいなくて、かすかに風鈴の音だけが聞こえていた。
「今日、涼しいね」
美桜が、窓辺でカーテンを軽くなびかせながら言った。
「うん。……エアコンより、気持ちいい」
裕翔はカウンターの上のグラスを1つずつ拭きながら答えた。
ふたりだけの、閉店後の時間。
別に何か特別なことを話すわけじゃないけれど、それが心地よかった。
「……この時間、好きかも」
美桜がぽつりと呟いた。
「閉店してから、こうして静かに後片付けしてると、頭の中がすーってなる」
「わかる。……俺も、この店で働くようになってから、夜が怖くなくなった気がする」
「……怖かったの?」
「うん、前は。家にいると、いつ怒鳴り声が飛んでくるかとか、何か投げられるかとか……ずっと耳を塞いでた」
そう言って、裕翔は少しだけ手を止めた。
グラスを布巾で包んだまま、視線を落とす。
「でも、こっち来てから、夜って……こうやって終わっていくんだなって知った。ちゃんと働いて、ちゃんとご飯食べて、誰かと話して……そんな風に、1日が静かに終わっていくことがずっと、知らなかった」
美桜は何も言わず、静かにその言葉を受け止めていた。
店内の時計の針の音が、カチ、カチ、と響く。
「俺さ」
裕翔が、ふと呟くように言った。
「たぶん、ここに来てから初めて、誰かのこと……ちゃんと守りたいって思った」
美桜が、動きを止める。
「……それ、いつの話?」
「たぶん……あの時、かな。例のヤバいやつが来た日。美桜が、黙ってコーヒー淹れてたあの日。あの時、初めて守りたいって思った。それまで、誰かを守りたいとか、思ったこと一度もなかったけど」
言ってしまったあと、裕翔は自分でちょっと驚いた顔をした。
でも、取り繕わずにそのまま続けた。
「なんか、美桜って、見た目きつそうだし、すぐ突き放すし……冷たい人かと思ってた」
「は?」
「でも、すごい細かいとこまでちゃんと見てるし、優しいとこ……いっぱいある」
「……なんで急に、そんな……」
「いや……うん、ごめん。なんか、あんまり言うつもりなかったんだけどさ。言っとかないと、また怖くなりそうだった。誰かを守ろうとした気持ちが、ただの気の迷いみたいになるの、嫌だったからさ」
美桜は、何も言わなかった。
でも、ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
「そっか……ありがと」
それだけ言って、美桜は洗い場に向き直った。
でも、その背中が、さっきより少しだけ軽くなったように見えた。
夜は、少しずつ深くなっていく。
ふたりの会話も、だんだん少なくなって、
静かな音が店に残った。
けれどその静けさは、どこかあたたかくて。ふたりだけの夜だった。
「裕翔、ちょっと来い」
朝のカフェ。開店準備をしていたとき、一ノ瀬さんに呼ばれた。
「はい」
厨房の奥、事務所代わりの小さなスペースに通される。
薄暗い部屋に、古びたデスクとパイプ椅子。
窓際に山積みの書類と、タバコの匂い。
裕翔は少し緊張して、姿勢を正した。
「お前、今年の春で16だったな」
「はい」
「……学校、行く気はあるか?」
「……え?」
言葉の意味がすぐに理解できなかった。
一ノ瀬さんは、ライターでタバコに火を点けながら続ける。
「中学は出てるって聞いた。高校は……行ってなかったんだよな」
「はい、あの、家の事情で……。それに、逃げてきた身だし……」
「……関係ねぇ」
バチッ、と灰皿にタバコの灰を落としながら言ったその声は、意外と優しかった。
「ウチのツテで、ひとつ受け入れてくれる学校がある。今の時期でも編入できる。通信もあるが、通学コースも選べる」
「……ほんとに……?」
「バイトとして働いてるって体で、学費の一部は店が出す。……残りは、稼いで返せ」
裕翔の喉が詰まった。
「そ、そんな……でも……」
「俺も、昔は学校なんてクソくらえだと思ってた。けどな、やっぱ学歴ってのは、逃げた過去を埋める武器になることがある。少なくともお前がこの先、どんな道選んでも、助けになる」
「……」
一ノ瀬さんは立ち上がり、分厚い茶封筒を取り出した。
「とりあえず、今日はこの書類持って、学校まで手続きに行ってこい。うちからの推薦も通ってる。制服の採寸と、簡単な面談だけだ」
「……俺が……高校に……?」
裕翔は、ぽかんとした顔で封筒を受け取った。
その日の午後。
裕翔は、少し大きめのリュックを背負って、駅前の校舎に向かった。
初めて歩く道。
少しよれたスニーカーの音が、アスファルトにカタカタと響く。
学校の門の前に立ったとき、自然と背筋が伸びた。
(俺、こんなとこに……通うのか)
中学以来の教室の空気。
白いワイシャツにネクタイ、校内に響くチャイム。
全部が眩しく見えて、でも不思議と、居場所がないとは思わなかった。
事務室で簡単な説明を受け、制服の採寸を終えたあと、面談に案内された小さな教室。
裕翔は、深く一礼した。
「……よろしくお願いします」
教師は、にこやかにうなずいた。
「君の話は、一ノ瀬さんからしっかり聞いているよ。頑張ろうな」
帰り道。
教科書と資料を入れた袋が、少し重かった。
でも、心の中は、今までにないほど軽かった。
帰ってきた店で、美桜が目を丸くして言った。
「えっ……ほんとに?入学?」
「うん……なんか、急に決まってさ」
「制服とかどうするの?」
「採寸してきた。明日から、通えるって」
「……あんた、ちゃんと……高校生になるんだ」
ふっと、美桜の顔が緩んだ。
「じゃあさ、朝の通学、一緒にできるじゃん」
「え、あ……うん、たぶん、そうなる」
「……制服、似合うといいね」
「……うるさいよ」
「今日は特別メニューだからねー」
キッチンから、美桜の声が聞こえた。
夜のカフェはもう閉店していて、照明も少しだけ落とされている。
厨房から漏れる明かりと、カウンター越しに漂ってくる香りが、裕翔の胸を、じわりとあたためていた。
「特別って、何?」
「学校入学祝いでしょ。ちょっと贅沢して、お父さんが肉買ってきた」
「肉……?」
「そう、ステーキ」
裕翔は一瞬、耳を疑った。
ステーキなんて、テレビの中の話だと思ってた。
小さい頃にファミレスで一度食べたきり、家ではほとんど出なかった。
しばらくして、美桜が皿を運んでくる。
じゅうじゅうと湯気を立てる分厚い肉。
彩りの良い付け合わせ。スープに、白ごはん。
まるでレストランみたいな夕食が、テーブルの上に並んだ。
「うわ……ほんとに、ステーキ……」
「そりゃ本気だよ。今日だけは、ちゃんと祝うんだから」
「……ありがとう」
裕翔は、真剣に言った。
美桜はちょっと照れくさそうに笑って、自分の席につく。
「いただきます」
その言葉を言ったあと、ナイフとフォークを持つ手が、少し震えていた。
噛みしめるたび、脂の甘さがじんわりと口に広がる。
「……うまい……」
「でしょ?」
美桜は得意げに言った。
裕翔は黙々と食べながら、ふと視線をテーブルの端に落とす。
(俺……今、ちゃんと生きてるな)
炊きたてのご飯。あったかいスープ。
誰かと一緒に食べる夜ごはん。
それは、ただの食事じゃなかった。
ちゃんとした明日が来るって、心に教えてくれるような味だった。
食べ終わったあと、食器を下げながら美桜がぽつりと言う。
「……なんか、ちゃんとお兄ちゃんになった感じするね」
「お兄ちゃん?」
「うん。高校通って、制服着て、真面目に働いて……最初来たときのボロボロだった裕翔とは、別人みたい」
「……恥ずかしいじゃん」
裕翔はちょっとだけ顔を背けた。
食器を片づけたあとは、順番にお風呂。
湯気の立ち込める風呂場に入り、服を脱ぐと鏡に映った自分の体が思っていたよりも痩せていて、少しだけ胸が苦しくなった。
(これからは……ちゃんと、自分のことも大事にしていこう)
湯船に肩まで浸かると、体中の力が抜けていく。
ふぅ、と大きく息を吐いて、天井を見上げた。
風呂にゆっくり浸かることすら、今までは贅沢だった。
怒鳴り声も、ドアを蹴られる音もしない。
ただ静かに、お湯の音と、自分の呼吸だけが聞こえる。
それだけで、涙が出そうだった。
風呂から出て、自分の部屋に戻る。
部屋、と言っても、カフェの二階の一室を借りているだけ。
ベッドと机、衣装ケースだけのシンプルな空間。
でも、ちゃんと布団があって、毎晩電気毛布じゃなくて、ちゃんとしたシーツがあって。
何より鍵がかかる部屋ってだけで、信じられないくらい安心できた。
タオルを乾かし、髪を拭きながらベッドに腰を下ろす。
天井を見上げる。
(明日から……高校生、か)
まだ少しだけ信じられない。でも、制服のカタログが目の前にあるし、教科書だって、部屋の片隅に積んである。
逃げてばかりだった毎日が、少しずつ、前に進み始めてる。
その実感が、じんわりと胸の奥に広がっていく。
ベッドに横になり、布団を引き寄せたとき、ふと、美桜の声が頭の中によみがえった。
「初めて、ぜんぶ埋めてあげるよ」
裕翔は、思わず笑ってしまった。
(ほんと、言葉キツいくせに、優しいんだよな)
まぶたを閉じると、静かに眠気がやってきた。
風の音も、遠くの車の音も、今夜はどれも優しく響いていた。
朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
チュンチュンと鳴く小鳥の声。
通りを走るトラックの音。
カフェの階下からは、一ノ瀬さんの足音が聞こえる。
裕翔は、ベッドの上でゆっくりと目を開けた。
天井を見上げる。
そして、自分が高校生になったことを、ふと思い出す。
(……今日から、俺は、ちゃんと生きるんだ)
胸の奥がじわっと熱くなる。
でも、起きなきゃ。そんな感傷に浸ってる暇なんかない。
制服は、昨日の夜、ハンガーにかけておいた。
真新しいブレザー。ネクタイ。シャツ。
まだ一度も袖を通していないその布は、自分には似合わない気がして、少しだけ身構えてしまう。
鏡の前に立ち、そっと袖を通す。
ネクタイを何度かやり直しながら、不器用に結んで。
(……なんか、コスプレみたいだな)
裕翔は苦笑する。
でも、少しだけ背筋が伸びた気がした。
階下に降りると、カウンターにはすでに朝食が用意されていた。
「よっ、高校生」
新聞を片手に、一ノ瀬さんがニヤッと笑う。
「……まだ慣れてないです」
「顔に出てる。シャツのボタンひとつずれてるぞ」
「あ、マジで……」
「落ち着け。初日はそれで十分だ」
食卓には、焼き鮭、味噌汁、卵焼き、ごはん。
どこに出しても恥ずかしくない、ちゃんとした朝ごはん。
「美桜は?」
「もう着替えてる。……あいつ、ああ見えて張り切ってんのかもな」
そのとき、トントンと階段を下りてくる音。
制服姿の美桜が、髪をまとめて現れた。
カバンを肩にかけて、軽く裕翔を見たあと。
「……似合ってんじゃん」
「う、うそ。絶対バカにしてる」
「いや、普通に似合ってる。……ちゃんと、高校生の顔してるよ」
そう言って、美桜は先に靴を履きに行った。
裕翔は、どこかくすぐったいような気持ちで、その背中を追いかけた。
通学路は、穏やかな朝の空気に包まれていた。
制服を着た中高生が、駅へ向かって歩いている。
裕翔は、その流れの中に自分が自然と混ざっていることが、信じられないような。
でも不思議と心地よいような。
そんな気分だった。
「緊張してんの?」
美桜がふいに聞いてきた。
「そりゃ、するだろ。初日だし……」
「ま、教室までは送ってあげる。うち、3階で、あんたのクラス1階だし」
「……そっか。ありがと」
校門の前には、生徒指導の先生が立っていて、
登校してくる生徒たちに「おはよう」「シャツ出てるぞ」なんて声をかけていた。
裕翔は、一歩足を踏み入れた瞬間、背中に汗がにじんだ。
全部が眩しく見えた。
笑い声、走る音、教科書を小脇に抱えた生徒たち。
知らない世界。でも、もう逃げない。
「このへんで、私とはバイバイだな」
昇降口の前で、美桜が足を止めた。
「うん……ありがと、ここまで」
美桜は昇降口の階段を上っていった。
教室に入ると、先生と何人かの生徒がもう座っていた。
裕翔は少し戸惑いながら、挨拶のタイミングを探していたが、先生が気づいて声をかけてくれた。
「お、君が今日から来る編入の子だね。どうぞどうぞ」
簡単な紹介を受けて、席に案内される。
視線が、ちらほらと集まる。
(ああ……やっぱ、見られてる)
でも、不思議といやな感じじゃなかった。
ただの興味。
裕翔は、小さく会釈して、与えられた席に腰を下ろした。
午前の授業。
数学、国語、英語。
ノートをとるのも久しぶり。
先生の話を聞きながら、文字を追っていく。
懐かしいような、でも全く新しいような。
「お昼、ひとり?」
隣の席の男子が、ふいに声をかけてくれた。
「え?……あ、うん」
「よかったら一緒に食べる? まだ友達いないっしょ」
「……うん、ありがとう」
小さな優しさが、胸にしみた。
午後の授業が終わって、帰りのHR。
最後に先生が言った。
「明日から、体育もあるから、体操服持ってくるようにねー。……あ、裕翔くんはまだ準備できてないか。貸し出しあるから大丈夫だよ」
名前を呼ばれるたびに、自分がここに登録されたんだと実感する。
放課後。
下駄箱で靴を履き替えていると、美桜が階段を降りてきた。
「おっ、無事生きてるじゃん」
「……まあね」
「どんな感じだった?」
「うーん……思ったより、普通だった。怖くなかった」
「それが普通ってやつだよ。……それ、今日から手に入れたやつね」
「……うん」
帰り道は、朝より少しだけ会話が弾んだ。
今日の授業の話。隣の席の子の話。
美桜のクラスの男子がうるさいとか、そんなたわいない話。
だけど、その全部が、裕翔にとっては宝物のようだった。
「制服、しっかり着てると、ちゃんと高校生に見えるよ」
「……ありがと」
「明日も頑張ってね」
「うん。……明日は、今日よりもちょっとだけ」
明日が怖くないって、なんて幸せなんだろう。
「なあ、美桜。来週の土曜って……祭りの日、合ってるよな?」
夜のリビング。
一階のカフェは営業を終え、洗い物も片づいて、今はまったりとした休憩時間。
ソファに並んで座った裕翔と美桜は、コンビニアイスを食べながら、スマホを覗き込んでいた。
「うん、8月17日。地元の商店街の夏祭り。毎年やってるやつだよ」
「天気、どうかな」
「今のところ晴れ予報。めちゃくちゃ暑くなりそうだけどね」
「そっか……浴衣か?」
「もちろん。女子の夏はそれ着ないと始まらないでしょ」
「男子は……どうなんだ?」
「着なよ。似合うと思うけど?」
「持ってねーし」
「うちのじいちゃんのなら貸せる。少し大きいけど、逆にそれがいいのよ、ゆるっとして」
「……マジで?」
「マジマジ。見て、これ」
美桜がスマホのアルバムを開いて、去年の祭りの写真を見せてくれた。
屋台、提灯、人混みの中で笑う浴衣姿の彼女。
でもその笑顔は、どこかつかれたようで、少しだけぎこちなかった。
「去年も行ったんだな」
「うん、友達とね。でも、あんまり楽しくなかった」
「……なんで?」
「それは、また今度話す。帰り道にでも」
「ふーん」
「でも、今年は違う。今年こそ、ちゃんと楽しい祭りにしたいの。笑って帰りたい」
そう言って、美桜はアイスの棒をゴミ箱に投げ入れた。
「でさ、今のうちから計画立てとこうよ。どの屋台から回るか、タイムスケジュールまで」
「おいおい、ガチかよ」
「当たり前。時間は限られてるんだから、ちゃんと使わないと損。裕翔、今までに何回くらい夏祭り行った?」
「……ガキの頃に、町内のやつ。たぶん2回」
「じゃあ、今年でそれ取り返すんだよ」
美桜は小さなノートを取り出して、真ん中あたりのページを開いた。
「えーっと、まずは集合。17時半に駅前。浴衣着てくること。んで、18時に会場入り。19時までに屋台めぐり、19時から神社の境内で盆踊り、20時から花火……」
「ちょ、待て、マジでタイムスケジュールあるの?」
「うん。抜かりなく計画立てるのが、祭りを楽しむコツ」
「人生で初めて聞いたぞ、そんなの……」
「楽しい時間ってさ、ぼーっとしてるとすぐ終わっちゃうんだよ。だから私は、ちゃんと楽しむ準備しておきたいの」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
何気ない一言なのに、美桜の言葉には、どこか強い意思があった。
もしかしたら、過去に。いや、今も、何かと闘ってるのかもしれない。
そう思った。
「じゃあさ」
裕翔はそっと声を落とした。
「その……一番最初に行きたい屋台、ある?」
「え?」
「どうしても行きたいとこ。最初に」
「うーん……金魚すくい、かな」
「金魚?」
「いつも全然取れなかったんだけど、今年こそって思ってるの。もう、何年越しのリベンジよ」
「じゃあ決まりだな。最初は金魚すくい。絶対」
「ふふ、頼んだよ、スケジュール係」
時計の針が、22時を回っていた。
美桜はノートをパタンと閉じて、大きくあくびをした。
「じゃあ、そろそろ寝よっか。祭りまであと1週間。楽しみ、ちゃんととっておかないと」
「うん、ありがとな。浴衣、マジで助かる」
「うちのじいちゃんも、喜ぶと思うよ。あんたが着てくれるなんて言ったら、鼻の下伸ばして仕立て直すかも」
「やめてくれ……」
「ふふ、おやすみ」
「おやすみ」
そう言って、美桜が部屋を出ていく。
カチ、とドアが閉まり、静かな空気が戻った。
ベッドに寝転びながら、裕翔は天井を見上げた。
(祭りか……)
たったそれだけのことが、こんなに待ち遠しいなんて。
数ヶ月前の自分には、想像もできなかった。
誰かと予定を立てて、笑って、楽しみにして。
そんな普通の幸せが、今の自分にはものすごく大きい。
「……早く来いよ、1週間」
呟いた声は、少し震えていた。
けれど確かに、胸の奥には静かな光が灯っていた。
火曜日の放課後。
校門を出た瞬間、少し強い風が吹いて、裕翔の制服の裾がふわっとなびいた。
「今日も……なんとか乗り切った」
昨日より少しだけ、教室の空気にも慣れてきた。
誰かと会話を交わす場面も少しだけ増えた。
とはいえ、まだよそ者感は拭いきれていない。
鞄を肩にかけ直しながら、歩いていたその時だった。
「おい」
不意に後ろからかかった低い声に、ピクリと肩が跳ねた。
振り向くと、立っていたのは、一ノ瀬さん。
「……なにしてんすか」
「迎えに来てやったんだよ。さっさと来い」
「え? どこに」
「文句言うなら、置いてくぞ」
そう言って、スタスタと歩き出す。
裕翔は「はぁ?」と言いながらも、慌ててその背中を追った。
連れて来られたのは、町中の電器屋だった。
入口の自動ドアが開き、冷房の風が身体に当たる。
「……スマホ売り場?」
「そうだ」
「なんでここ……」
「お前、連絡手段ないだろ。美桜に借りてばっかじゃ仕方ない。仕事場でも、学校でも、こっちも不便なんだよ」
「……」
思わず言葉が詰まる。
スマホが欲しくなかったわけじゃない。
ただ、誰かに買ってもらうのはどうしても、引っかかっていた。
「俺、まだ金……」
「働いて返せ。分割払いだと思え。利子は取らねぇ」
「……ほんとにいいんですか」
「いいから連れて来たんだろ。ほら、選べ。高すぎんのはナシだ。予算5万まで」
「え、けっこうあるじゃん……!」
「うるせぇ。どうせ1年で壊すんだろうが」
あれこれ迷った末に。
結局、裕翔が選んだのは、無難な黒いスマホ。
性能よりも、シンプルな見た目と、手のひらに馴染む重さで決めた。
契約手続きを待つ間、一ノ瀬さんは腕を組んで無言だった。
店員が手続き用紙を持ってくると、保証人の欄にすっと名前を書いた。
その手の動きが、妙にかっこよく見えた。
店を出た頃には、外はすっかり夕暮れだった。
裕翔は新品のスマホを両手で握りしめながら、ポツリと呟く。
「……ありがとうございます」
「礼なんかいらねぇよ」
「でも……」
「貸しが1つ増えたな。返せよ」
「……ぷっ」
思わず吹き出してしまう。
「言うと思いましたよ、それ」
「当たり前だろ。俺は商売人だ。タダでモノをやるほど、甘くねぇ」
「はいはい、わかってますよ、社長さん」
「うるせぇ。歩きながらセッティングしとけ」
「わかってるって……でも、マジでありがとうございます」
一ノ瀬さんはそれ以上なにも言わず、ただ前を向いて歩いた。
シャワーを浴び終えた裕翔は、髪をタオルでゴシゴシ拭きながらベッドに倒れ込んだ。
傍らには、今日手に入れたばかりのスマホが置いてある。
まっさらなホーム画面。誰の名前も、通知も、まだ何もない。
画面を軽くスワイプして、再びロックを外す。
指先が、少しだけ緊張していた。
(……こういうの、なんか照れるな)
そのときだった。
ポンッという軽い音がして、画面の上に通知が浮かんだ。
メッセージが来た。
名前は「美桜」
『これで、ようやく連絡つくようになったね』
『てか、さっきまでスマホの持ち方ぎこちなくて笑った』
『どんだけ昭和だよ』
裕翔は思わず、クッと笑った。
文章だけなのに、声が聞こえたような気がする。
(お前な……)
スマホのキーボードに慣れない指で、ゆっくりと返信を打つ。
『買ったばっかなんだから仕方ねえだろ』
『でも、これで貸しは返したってことで』
少し間をおいて、またポンッと音がした。
美桜からすぐに返信が届いた。
『は?なに勝手にチャラにしてんの笑』
『むしろここからが本番だから』
『これから何回も頼る予定なんで。よろしく〜』
(……マジかよ)
口では文句を言いつつ、心のどこかが少しだけ、あたたかくなる。
誰かと繋がってるという事実が、まだちょっと不思議だった。
『しゃーねぇな。面倒見てやるよ』
再びポンッと返事が来る。
『ふふん、言ったなそれ』
『じゃあまずは、明日の朝。迎えに来て?』
裕翔は思わずスマホを見つめたまま、軽く笑ってしまった。
『は?お前、家近いじゃん』
『てか俺より近いだろ』
すぐに返ってくる。
『女子は朝、支度に時間かかるの!』
『待つのが男の礼儀、な?』
(なんで俺が……)
だけど、悪くなかった。
こんなふうに、くだらないやりとりができる夜。
それだけで、何かが確かに変わり始めてる気がした。
『……わかったよ』
既読がついて、メッセージは止まった。
だけど、画面越しの静けさの中に、ちゃんと気配が残ってる気がした。
ちゃんと誰かがいるっていう、心地よい実感。
裕翔はスマホを胸の上に置き、天井を見つめた。
(……貸しがまた1つ、増えたな)
そう思ったけどなぜか嫌じゃなかった。
繋がっていくということは、貸し借りの積み重ねみたいなもんかもしれない。
でも、そこに信頼があるなら借りたままでも、ちゃんと歩いていける気がした。
虫の声が、かすかに夜風に混じっていた。
朝の空気は、少しだけ湿気を含んでいた。
蝉の声が遠くでうるさく鳴いている。
裕翔はコンビニの袋を片手に、ゆるい坂道を上っていた。
(なんで俺が、朝から女子んちまで……)
コンビニで買ったアイスコーヒーの冷たさが、手にじわりと染みる。
だるそうに呟いてはみたものの、足取りはどこか軽かった。
スマホを取り出して、画面を確認する。
まだ何の通知もない。
そりゃそうか、起こすために来てるんだから。
数分後。
目的の家の前にたどり着く。
玄関は、ちょっと古びた木造の引き戸。
庭には風鈴が揺れていて、チリンとやさしい音が鳴った。
裕翔は小さく深呼吸して、呼び鈴を押した。
……シーン。
何の反応もない。
「……マジかよ」
もう一度、ピンポン。
……反応なし。
仕方なく、スマホを取り出して打ち込む。
『おい、着いたぞ。』
『つか、まさかまだ寝てんのか?』
数秒後、画面に既読がついた。
そしてポンッと通知。
『……おはよう』
『5分だけ……いや、3分待って』
『死ぬ気で支度するから……』
「絶対ムリなやつじゃん……」
裕翔は呆れながらも、門の前のコンクリに腰を下ろした。
アイスコーヒーの口を開けて、一口飲む。
冷たさが喉を落ちていく。
(ったく……)
そう呟いた瞬間だった。
ガラッ。
玄関が開いて、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ま、間に合った……っしょ……?」
肩で息をしながら、美桜が現れた。
制服のリボンはちょっとズレてるし、靴下も左右の長さが違う。
「ギリ、アウトだな」
「うっさい、女子の朝をなめるなよ……」
「鏡見てから出てこい。リボン逆だし、髪も爆発してんぞ」
「えっ……ちょ、マジで?!」
美桜はその場で慌ててリボンを直し始めた。
寝癖が跳ねた髪の毛をぐしゃぐしゃと押さえる姿が、ちょっとおかしくて。
「……なんか、お前って完璧じゃないとこ多いよな」
「うるさいな、朝は弱いの!」
「弱すぎんだろ」
「文句あるなら来んな!」
「お前が呼んだんだろーが」
そんな言い合いをしながら、2人は並んで歩き出す。
陽射しがじりじりと強くなっていく中裕翔はこっそり、美桜の横顔をちらっと見た。
(なんか、いいな……こういうの)
変に気取らず、飾らず、ただこうして一緒に歩ける朝。
知らない誰かと交わすより、よっぽど価値がある気がした。
美桜がふと立ち止まり、スマホを取り出す。
『今日の朝、ちゃんと迎えに来たことは一生忘れないから』
『つまり、ずっと貸しを覚えとけってことね?笑』
裕翔は肩をすくめて、スマホを打った。
『一生って……重っ』
『けど、ちゃんと返すよ。ちゃんと』
画面に、既読マークがつく。
そして少し遅れて、美桜が小さく笑った。
「じゃ、学校行こっか」
「おう」
蝉の声がさらに強くなって、夏の朝が、本格的に始まりを告げた。
教室の窓からは、蝉の鳴き声と焼けるような陽射しが入り込んでいた。
午前の授業が終わり、昼休みに入る。
クラスメイトたちは弁当を広げたり、スマホを見たり、思い思いの場所にいく。
裕翔は鞄からコンビニのおにぎりを取り出すと、窓際の席で黙々と食べ始めた。
(……なんか、だいぶ慣れてきたな)
転校してきたばかりとはいえ、特別な歓迎ムードはなかった。
でもそれが、逆に居心地よかった。
そこへ。
「よっ」
明るい声がして顔を上げると、美桜が机の前に立っていた。
「相変わらず、ぼっち飯だね」
「言い方な……」
「でも、ちょっと安心した」
「は?」
美桜は隣の空席に勝手に座りながら、サンドイッチの袋を開けた。
「昨日さ、誰かとすぐ仲良くなったらちょっとイヤかもって思ってた」
「いやなんでだよ」
「別に。なんとなく。……独占欲?」
「さらっと怖いこと言うなよ」
「冗談に決まってんじゃん。……たぶん」
裕翔は苦笑しながら、冷たいお茶をひと口。
美桜はその横で、サンドイッチを頬張りながらスマホをいじっている。
そんな他愛もない時間が、なんだか妙に落ち着く。
放課後。
駅から少し離れたカフェへと2人で戻る。
バイトは今日は休みだったけど、家に帰るだけなのは不思議と寂しい。
特に会話を交わすわけでもなく、並んで歩くだけでも。それで良かった。
夜。
一ノ瀬さんと3人で夕飯を食べたあと、風呂を済ませて自室に戻る。
裕翔はベッドに腰を下ろし、スマホをぽちぽちといじっていた。
新しく作ったSNSのアカウントはまだほとんど空っぽだ。
だけど、連絡先に誰かがいるというだけで、この部屋が少しだけ広く感じた。
(さて……)
裕翔はスマホを置いて、布団をめくろうとした。
その瞬間。
「……やっほ」
「……は?」
目を凝らすと、布団の中で誰かがモゾッと動いた。
「ちょ、おま……!?」
「うるさいって、声でかい」
「なんでお前、俺んとこにいんだよ!」
「……いや、ちょっとだけ、居たくなっただけ」
「はあ!?」
「布団の中、意外と涼しくて快適だったし?」
「そーいう問題じゃねぇだろ!てか、意味わかんねぇし!」
裕翔が慌てて電気をつけようとするのを、美桜が手で押さえた。
「電気、つけるな」
「いや、つけさせろや!」
「……なんか、今日は静かなとこに居たかったんだよ。誰にも話しかけられないで、誰にも見られないとこに」
「……は?」
「……でも、なんかね。裕翔の部屋なら、いいかなって思っちゃったんだよね」
「……」
「……迷惑だった?」
その声は、いつもより少し小さくて、どこか弱々しかった。
裕翔は、手を止めた。
(……なんなんだよ)
(そんな声出されたら、怒れねぇだろ……)
「……しゃーねぇな」
布団を半分持ち上げて、自分もそこに潜り込んだ。
「ちょ……なにしてんの」
「いや、お前が居るから寝れねぇっつってんだろ。一緒に寝るしかねぇだろ、もう」
「……バカ」
「うるせぇ」
美桜の髪の匂いが、ほんのり鼻先をくすぐった。
言葉は少なかったけど、
その夜のぬくもりは、やけに心に残った。
貸しと借りと、照れと優しさ。
どっちがどれだかわかんねぇまま裕翔は、目を閉じた。
朝から蒸し暑かった。
蝉の声もいつもよりうるさく感じる。
学校の帰り道、裕翔と美桜はアイスをかじりながら歩いていた。
「明日、晴れるかな」
「晴れるだろ。つか、雨降ったら泣く」
「花火もあるしね。」
「……そうだね」
美桜はアイスの棒をくるくる回しながら、裕翔の顔をチラッと見た。
「なんかさ、こういうのって初めてかも」
「祭り?」
「うん。誰かとちゃんと計画立てて、明日が楽しみって思うの。……ちょっと変な感じ」
裕翔は黙って歩きながら、空を見上げた。
雲ひとつない、夏の空。
「……わかる」
それだけ言って、アイスの最後をかじった。
夕方。
カフェに戻った2人は、店の片付けをしながら明日の話で盛り上がった。
一ノ瀬さんは
「お前ら明日は店はいいから、楽しんでこい」
って言ってくれた。
「……あの人、マジで恩人だよな」
「でしょ?だから、しっかり返してね?その恩」
「わかってるって」
テーブルを拭きながら、美桜がぽつりと呟く。
「明日、うまくいくといいね」
裕翔はその言葉に、少しだけ違和感を覚えた。
「……うまく?」
「うん。なんか……変なこと、起きなきゃいいなって」
「何ビビってんだよ、花火だぞ?屋台だぞ?焼きそばに、たこ焼きに」
「りんご飴と、金魚すくいと」
「射的な。負けねぇけど」
「ふふっ、勝負だね」
美桜は軽くウインクして、ふっと笑った。
その笑顔は、どこか無理してるようにも見えた。
夜。
裕翔は1人、カフェの裏でタバコを吸っている一ノ瀬さんの隣に立った。
「……明日、行ってきます」
「ああ。楽しんでこい」
「……けど、美桜がちょっと、変で」
一ノ瀬さんは煙を吐きながら、短く答える。
「お前が一緒にいれば、大丈夫だ」
その言葉が、やけに重かった。
駅前の通りは、人、人、人。
浴衣、うちわ、屋台の香ばしい匂いと、ざわめく声。
空にはまだ明るさが残っているけど、祭りの空気が漂っていた。
裕翔は、待ち合わせの場所で立っていた。
ジーンズにシンプルな黒のシャツ。
髪は少しだけ整えてきた……つもりだったらしい。
スマホを見るフリをして、なんとなくソワソワしてると。
「……待った?」
その声に顔を上げた瞬間、息が止まった。
美桜が、そこにいた。
紺色の浴衣。
髪はまとめられて、横に小さな髪飾りがある。
「……バカみたいに見てんな」
「いや……いやいや、ふつーに、似合いすぎて」
「ふつーに?」
「いや、違う、すげぇ……っていうか……」
「ふふっ。ありがと」
照れくさそうに笑ったその顔が、やばいくらい綺麗だった。
まずは、計画通りの食べ歩きからスタート。
「焼きそば、いる?」
「そっちのたこ焼きと交換な」
「じゃあ半分こしよ?」
「お前、最初からそれ狙ってたろ」
りんご飴にかぶりついて、
「前歯いくって!」
と叫びながら笑い合いかき氷は、裕翔が一口もらったら脳天を押さえてうずくまり。
「弱っ!」
と美桜がツボってしゃがみ込む。
金魚すくいでは、美桜がまさかの3匹ゲット。
裕翔は1匹もすくえず。
「こんな小さいヤツらにまでバカにされた気がする」
と落ち込み、美桜が腹抱えて笑う。
射的は、絶対に譲れない勝負。
「男のプライドにかけて……」
「外した」
「うるせぇ!」
結局、美桜が2本命中させてキーホルダーをゲット。
「これ、あげよっか?」
「……いいのかよ」
「その代わり、来年も勝負ね。負けたらまたあげる」
陽が沈むにつれて、人混みはさらに増えていく。
浴衣同士がぶつからないように、美桜がそっと裕翔の袖をつかんだ。
「……ん?」
「迷子防止。女子って方向音痴なんだよ、基本」
「お前それ、今思いついただろ」
「うん。でも、なんか……手、離したくなかったから」
裕翔は何も言わず、美桜の手をそっと握り返した。
ほんのり汗ばんだ手のひら。
でもそれが、夏の温度みたいで心地よかった。
そして。
夜空が、ドン、と低く音を立てて響いた。
真っ暗な空に大きな花が咲く。
「……すごい」
美桜の声は、花火に負けないくらい透き通っていた。
何度か見たことのあるはずの花火なのに、裕翔の心臓は、いつもよりずっと早く打っていた。
「……なんか」
「ん?」
「いま、全部忘れてるわ」
「え?」
「俺が家出してきたことも、カフェで働いてることも、……過去も、明日も、ぜんぶ」
「……」
「お前の隣で、今ここにいるだけで、それ以外、どうでもいいって思ってる」
「……バカ」
美桜は照れくさそうに笑った。
夜空に、次々と咲く光。
その光のなかで、2人の影が、少しだけ近づいた。
その距離に気づいたとき、裕翔はふと明日からはもっと楽しい1日にしていこうって。
無意識に思っていた。
花火が終わり、空がすっかり夜に染まった頃。
人々のざわめきはまだ続いていたけれど、
どこか名残惜しそうな、そんな空気が漂っていた。
「……帰りたくないなぁ」
美桜が呟いた。
裕翔はその横で、紙袋を片手に持ちながらすこし笑った。
「俺も。明日とか、来なきゃいいのにって思う」
「それは困るでしょ。学校あるし、バイトあるし」
「たしかにね。それでも。……今日だけ、ずっと続いてほしいって思った」
「……うん、まあそれはわかる」
美桜はふと、裕翔の手を取った。
さっきよりも、少しだけ強く握って。
「楽しかった?」
「バカみたいに」
「うん。バカみたいに、楽しかった」
通り過ぎる屋台の灯りが、2人の影を細長く映していく。
浴衣姿のカップル、家族連れ、友達同士。
その中に溶け込むようにして、2人も静かに歩いた。
「来年も、一緒に来よ?」
「……おう。来年だけじゃなくてもいいけどな」
「え?」
「なんでもねぇ」
「なにそれ」
笑いながら、美桜が裕翔の肩に軽く寄りかかる。
そのぬくもりに、裕翔はなにも言わず歩を進めた。
「また行こうね!来年も」
「……おう!」
花火の音がまだ耳の奥に残る帰り道。
祭りの会場から離れた静かな通りは、人の気配もなく、夜風が吹いていた。
街灯の下で、2人の影が並んでいる。
美桜は小さく欠伸をしながら、裕翔の腕にそっと寄りかかった。
「なんか……夢みたいだったね、今日」
「夢なら覚めなきゃいいのにな」
「ほんとに……」
柔らかく笑うその横顔を、裕翔はふと見つめた。
そのときだった。
遠くから、低く唸るようなエンジン音が聞こえた。
ブゥゥン。
(……こんな細い道で?)
すぐに、その音は異様なスピードで近づいてきた。
「……美桜、待て」
「え、なに」
次の瞬間、視界の端に光が迫っていた。
ヘッドライトが、真横から2人を照らし出す。
「っ!」
裕翔は、とっさに美桜の手を引いて突き飛ばした。
「裕翔!」
そしてそのまま彼の体に、重い衝撃が走った。
ドンッ!
音と共に、裕翔の体は空中へと舞い、地面に叩きつけられた。
赤黒い血が飛び散った。
車は、そのまま一瞬の躊躇もなく走り去っていった。
後ろ姿すら見せずに、猛スピードで逃げていった。
「……っ、う……そ……」
地面に尻もちをついた美桜の目に映ったのは、ピクリとも動かない裕翔の体と、折れた浴衣の下駄。
「裕翔……!?ねぇ、ちょっと、裕翔!」
彼女の叫びは、もう誰にも届かない。
誰もその場にはいない。
「やだやだやだ……っ!なんで……どうして……!?」
膝をついて、必死に裕翔に手を伸ばす。
でも返事はない。
「裕翔!裕翔ってば!」
声が震えて、涙が滲んで、呼吸ができなくなる。
この手で何度揺すっても、彼は目を開けない。
「……お願い、目、開けて……ねぇ……っ」
血の匂いと、アスファルトの冷たさだけが、そこにはあった。
何度呼んでも、目を開けない。
魂だけが、どこか遠くに行ってしまったみたいだった。
「誰か……お願い……誰か!」
その叫びに応えるように、遠くで車のブレーキ音が響いた。
ドアが開く音とうるさい足音。
「美桜!」
低く怒鳴るような声が響いた瞬間、一ノ瀬さんが血相を変えて駆け寄ってきた。
「なにが……どうなってんだ、これは……ッ!」
彼はまず美桜を見た。
泣きじゃくる彼女の姿に、目がギラついたように怒りを燃やす。
「誰だ……誰がやった……!」
次の瞬間、裕翔の体を見つけた彼の表情が、固まった。
「……嘘だろ」
一ノ瀬さんは、無言で裕翔に駆け寄り、服の胸元をそっと掴む。
「裕翔。……なぁ、嘘だって言えよ」
返事はない。
その沈黙に、何かが壊れる音がした。
「どこのどいつが……!」
拳をギュッと握りしめて、一ノ瀬さんは立ち上がる。
「誰がこんなマネを……ッ!」
怒鳴り声が、静かな通りに響いた。
そしてすぐに、美桜の震える声がかぶさる。
「わ、私……っ、私が……裕翔を、守れなくて……っ、」
「泣くな。お前は悪くない。泣くなって言ってんだ、美桜!」
一ノ瀬さんの声が震えていた。
怒りでも、恐怖でもない。
どうしようもない悲しみが滲んでいた。
彼はすぐにスマホを取り出し、震える手で救急に電話する。
「こっちで轢き逃げだ!若い男がひかれて、意識ねぇ!早く来い!」
電話を切ったあとも、ずっと裕翔の傍を離れなかった。
「……クソが……俺が、やったヤツを、逃がすわけがねぇ!」
その目はすでに真っ赤に燃えていた。
数分後、サイレンの音が近づいてくる。
赤いライトが通りを照らしながら、救急車が到着した。
「裕翔くんですね!? 状況確認します、下がってください」
担架が運ばれ、救命士たちが手際よく処置を始める。
「意識なし! 呼吸弱い!すぐ搬送する!」
美桜はその様子を、ただ立ち尽くして見ていた。
涙ももう出なかった。
現実感が、まるでなかった。
そして、その後すぐに警察車両が現れた。
制服の警官が2人、近づいてくる。
「こちらで轢き逃げとの通報がありました。関係者の方ですか?」
一ノ瀬さんが前に出た。
「そうだ。俺が通報した。被害者は店で預かってる子だ」
「被害状況の詳細を聞かせていただけますか?」
「ふざけんなよ……。あいつら、前にも来てた。カフェの常連面してた3人組。この前も裕翔に絡んできてたらしくて……。まさかこんな……っ」
「その3人について、外見や名前、特徴などは把握されていますか?」
「顔はわかる。監視カメラもある。全部、引きずり出してやる」
怒気をはらんだ一ノ瀬さんの声に、警官もわずかに緊張したような目を向ける。
「協力感謝します。救急の搬送先を確認後、お2人にも後ほど事情を聞かせていただきます」
裕翔を乗せた救急車のドアが閉まる瞬間。
美桜は思わず叫んだ。
「待って!私も、私も乗ります!」
「……美桜」
「行かせて。お願い、行かせて。1人にできない……!」
一ノ瀬さんは黙ってうなずいた。
サイレンが再び鳴り響いた。
その場に残された一ノ瀬さんは、
拳を固く握り締めたまま、ただ一点を睨みつけていた。
「絶対に、逃がさねぇ」
「血圧低下、外傷性ショックの可能性あり!」
「内出血の疑い、すぐCT回して!止血と酸素投与!」
車内の中、医療用語が飛び交う。
その隅、美桜は小さく震えていた。
裕翔の手を握ったまま、誰にも声をかけられなかった。
「裕翔……」
答えはない。
その手はまだ温かいのに、どこか遠くに行ってしまいそうで、怖かった。
「……死なないで」
誰にも聞こえないくらいの声で、美桜は呟いた。
病院に着くと、救命チームが待ち構えていた。
ストレッチャーに乗せられた裕翔は、白い光の中に消えていく。
「関係者の方はこちらでお待ちください!」
看護師の言葉に従って、美桜はふらふらと待合室のベンチに腰を下ろした。
一ノ瀬さんは無言でその隣に座った。
腕を組み、眉間に皺を寄せたまま、ひたすら前を睨みつけていた。
「……死んだり、しないよね」
「……あいつ、弱ぇけど、バカみたいにしぶとい。信じてろ」
それは、根拠のない強がりだったかもしれない。
でもその言葉が、美桜の心をほんの少しだけ支えてくれた。
数時間が過ぎた。
時計の針が深夜を過ぎたころ、
病院のロビーの空気が、少しだけ動いた。
そのとき。
「失礼します。裕翔くんの件で、警察です」
スーツ姿の刑事が2人、静かに近づいてきた。
「……進展、ありましたか?」
一ノ瀬さんの低い声に、刑事が頷く。
「店内と外の監視カメラ、通行人の目撃証言で、加害車両と人物が一致しました」
「やっと……か」
「すでに逮捕に至っています。未成年の3人組で、そのうち1人が裕翔さんに以前暴行を加えた件も確認されました。動機については現在取り調べ中です」
「クソガキが……」
一ノ瀬さんは低く唸ったが、感情を押し殺すように口を閉ざした。
拳はまだ硬く握られたままだったが、それ以上、怒鳴ることはなかった。
「加害者の親も呼び出していますが、対応は明日以降になります。店の被害、名誉毀損、人身、全部まとめて追及できます。ご協力感謝します」
「……協力は当然だ。あいつは、うちの息子も同然だからな」
そう言い切った一ノ瀬の声に、美桜が小さく息をのんだ。
警官が去った後、美桜はゆっくりと頭を垂れた。
「捕まったんだね……」
「逃がすわけねぇだろ」
「裕翔……、ちゃんと、守ってくれたんだよ」
「……あいつ、ほんとにバカなほどまっすぐだよな」
言葉の途中で、声が震えた。
美桜はそのまま、膝の上に顔を埋めて、静かに泣いた。
夜明けが近づいていた
静まり返った病室。
窓の外には、少しだけ明るくなり始めた朝焼けの光が差し込んでいた。
「……おはよう、裕翔」
そう声をかけながら、美桜はベッドの隣にある丸椅子に腰を下ろす。
彼の手は、包帯に覆われていて、所々が赤黒く染まっていた。
昨日の夜、緊急手術は成功。命は取り留めた。
でも、意識はまだ戻らない。
「……バカだよ、ほんと」
美桜は、小さく笑って、けれど目は潤んでいた。
手の甲を、そっと指先でなぞる。
「なんでさ……私のことなんか、守ろうとしたの……」
返事はない。
「あんたがいなくなったら、意味ないじゃんか……」
涙が、ぽとぽとと落ちて、シーツに染みをつくった。
ただ、裕翔の顔は、穏やかだった。
ちゃんと、生きてる。
それだけが、今の彼女のすべてだった。
何時間も、そうしていた。
看護師が来て、点滴の確認をしても、美桜はそこを動かなかった。
そして昼を少し過ぎたころ。
不意に、裕翔の指が、ほんの少しだけ動いた。
「……っ!?」
美桜は息をのんで、顔を覗き込む。
「……う……」
まぶたが、ゆっくりと開いた。
「ゆ……うと……!?」
美桜が思わず立ち上がると、裕翔の視線が、かすかに揺れながら彼女を捉えた。
「……ここ、どこ……?」
「病院だよ。わかる……? 私、美桜……!」
裕翔は少しだけ、首を動かして答えた。
声はかすれていたけど、確かに生きている声だった。
「……怪我してない? お前……」
「……え?」
「守れて……よかったわ……」
その言葉に、美桜の目からまた一気に涙が溢れた。
「バカ……!なにそれ……なにその第一声……!」
彼女は裕翔の胸に顔をうずめて、声を震わせた。
「私、あんたが死んだら……どうすればよかったの……!」
裕翔は微かに笑ったようだった。
「……お前が……泣くほどの価値が……俺にあったとは……」
「泣くに決まってんでしょ……!」
美桜は顔を上げて、両目を赤くしながら怒鳴った。
「死ぬな。……もう、勝手に私を置いていくな。絶対……!」
沈黙が続く。
「ねぇ……裕翔」
さっきまで泣いていた美桜が、少しだけ落ち着いた顔で、裕翔を見下ろした。
裕翔はベッドの上で、少し上体を起こしながら彼女の顔を見つめる。
「……なに」
「言いたいこと、あるんだけど」
裕翔は少し眉を上げる。
「ん?」
美桜は小さく息を吸い込んで、唇を震わせながら言った。
「……私、ずっと前から……あんたのこと、好きだったよ」
裕翔の目が、驚きと戸惑いでわずかに揺れる。
だけど、それを言った美桜の目は、微笑んでいた。
「言えなかった。ずっとタイミングなくて。……でも、死んじゃうかと思ったから……言わなきゃって思った」
「美桜……」
「ふふ、変だよね。今さら。でも、ちゃんと伝えたかったの」
裕翔は言葉が出ないまま、黙って彼女を見ていた。
美桜はそんな彼に向かって、笑いながら言った。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
「……あ、ああ」
立ち上がった美桜がドアを開けて出ていった、その数秒後。
病室のドアが再び開いた。
「おう、起きてんじゃねぇか」
入ってきたのは一ノ瀬さんだった。
相変わらず無愛想な顔。でも、どこかホッとしたような目をしている。
「……来たんすか」
「来るに決まってんだろ。どんだけ心配したと思ってんだ」
ベッド脇の椅子に座って、肩をぐるっと回す。
「ま、顔見れて安心したわ。……ほんと、よく生きて戻ってきたな」
裕翔は小さく苦笑いした。
「……美桜が、ずっとそばにいてくれたから」
「だろうな。あいつ、半分壊れた顔で電話してきたぞ」
「……マジで?」
「お前が無事で、今ごろホッとして泣いてんだろ」
裕翔は天井を見上げたまま、小さくつぶやいた。
「……俺、美桜に、守られてばっかです」
「それ、逆じゃねぇか?」
「え?」
一ノ瀬さんはふっと笑った。
「お前が守ったんだろ。命かけて」
裕翔は、返す言葉を失って黙った。
「だからな……」
一ノ瀬さんは少しだけ、声を低くした。
「今度こそ、お前の命、大事にしろ。死ぬな。何があっても」
「……はい」
「美桜の前で死ぬようなマネ、二度とすんなよ。あいつ、笑ってるけどな……本当はかなり脆いんだ」
裕翔はその言葉に、胸の奥が締めつけられるような思いがした。
「……わかってます。だから、守りたいんです」
「だったら立ち上がれ、裕翔。ちゃんと、未来を見ろ。お前なら、できる」
その言葉は、まるで父親のようだった。
そのとき、カチャリとドアが開いて、美桜が戻ってきた。
「……あ、パパ来てたの?」
「もう帰る。邪魔すんなって言われそうだからな」
一ノ瀬さんは立ち上がり、裕翔に軽く手をあげた。
「じゃあな。ちゃんと飯食って、寝とけよ」
「……ありがとうございました」
その背中を、裕翔は目で追った。
病室の空気が、少しだけ、やわらかくなった気がした。
裕翔は、さっきの会話を反芻しながら、
ずっと胸の奥にしまっていた言葉を、やっと口にする決意をした。
「……美桜」
「なに?」
椅子に座りながら、彼の顔を覗き込む。
裕翔は、視線をそらさずに言った。
「さっきの話。……聞けて、嬉しかった」
「……うん」
「俺も……ずっと前から、美桜のことが好きだったよ」
その瞬間、彼女の目が大きく開かれた。
「えっ……」
「最初は、助けてもらったってだけだった。でも一緒に働いて、学校行って、毎日見てて……気づいたら、俺、ずっと目で追ってた」
「……ほんとに?」
「うん、好きだった」
美桜は一瞬、言葉を失ったまま、顔を手で隠した。
「……もう……遅いじゃん……」
「遅くねぇよ」
裕翔は少しだけ笑って、右手をそっと差し出した。
「ここからだろ。やっと、始まるんだよ。俺たち」
美桜は涙を拭いながら、その手を強く握った。
2日後、退院の日
「おい、カバン持てっての。男だろ」
「いやいや、まだちょっと肩が痛ぇんだって!」
「そっちは打撲じゃん。歩けるくせに~」
退院手続きを終えた裕翔は、美桜と並んで病院を後にした。
傷はまだ完全に癒えていない。
「……あのさ」
「ん?」
「ありがとな。お前が居たから……帰ってこれた」
「……あんたが帰ってきてくれたから、私も、救われた」
そのやりとりは、いつもより少しだけ照れくさくて、でも確かに、前に進んでいる感覚があった。
カランカラン、とドアベルの音。
「よぉ、帰ってきたか。2日もサボって何してた?」
一ノ瀬さんが、奥のカウンターから顔を出す。
「すんません、命拾いしてました」
「命かけた分、働けよ」
「了解っす」
美桜はエプロンをつけ、さっそく厨房へ。
裕翔も、慣れた動きでカウンターに立った。
この場所に戻ってきたことが、なにより嬉しかった。
ランチタイムの準備をしながら、ふと、美桜が言った。
「ねぇ、裕翔」
「?」
「今度の花火大会……」
「行くに決まってんだろ?」
美桜がふわっと笑う。
「嬉し。」
傷はまだ完全には治っていない。
それでも裕翔は、元気にエプロンを結んでいた。
「……そっち、俺が運ぶよ」
「無理しないで。まだ重いのはダメって言われてたでしょ」
「片腕でいけるっつーの」
「じゃあ私が皿洗うから、やってみなさいよ?」
「お、優し~。天使~」
「調子乗んな」
そんな会話を交わしながら、カフェにはいつもの空気が流れていた。
常連客の顔も見慣れたものに戻り、
「あのときはどうなるかと思ったぞ」
なんて言われながらも、裕翔は頭を下げては照れ笑いを浮かべていた。
それが、少しだけくすぐったくて。
だけど今は、それがなにより幸せだった。
学校。笑い声と、普通の午後
学校でも裕翔のことを心配していた生徒が多く、復帰初日はちょっとした英雄扱いだった。
「マジで轢かれたって?うっそ!でも、生きてんのすげぇな」
「いや、普通にやばかったよ。お前の彼女、マジ泣いてたし」
「彼女じゃねぇし!」
「……え? 付き合ってねぇの?」
「いや、そういう……え、どこ情報だよそれ……」
「見りゃわかるって。お前、わかりやすいもん」
裕翔は、耳のあたりを赤くしながら弁当をつついた。
だけど、それも嫌じゃなかった。
普通で、どこにでもある学生の午後。騒がしくて、やかましくて、あたたかい。
その夜。2つ目の花火大会の準備
閉店後のカフェ。
片付けを終えて、カウンターに並んで座っていた裕翔と美桜。
「そういやさ、次の花火大会、そろそろじゃない?」
美桜がポケットからスマホを取り出し、日付を確認した。
「来週の土曜」
「もうすぐだな……」
あの夜、病院の天井を見上げながら、もしも死んでたらって何度も考えた。
だけど今は、生きてここにいる。
「……今度こそ、絶対に行こう」
裕翔は、まっすぐ彼女を見て言った。
「浴衣、着る?」
「え……あんたが?」
「なんでだよ!俺が!?お前だろ!」
「ふふ、ごめんごめん……うん、着る」
「じゃあ、屋台も全部回ろう。やり残したこと全部」
「うん。全部やる」
2人の声が重なった。
その瞬間、去年の悔しさも、悲しみも、全部塗り替えるような、
未来への誓いのような気がした。
「てか、お前さ……来年も行こうな、花火」
「……来年?」
「いや、再来年も。その次も」
「……じゃあ、何年分の計画立てとけばいいの?」
「とりあえず10年……いや、20年分くらい?」
「……バカ?」
美桜が笑った。
けれどその笑顔は、どこか少しだけ赤くて。でもとても、とても幸せそうに見えた。
空はどこまでも澄んでいた。
夏の青さはまだ残っているのに、風だけがほんの少し涼しくて。
蝉の声が遠ざかっていくのを聞きながら、2人は浴衣姿で並んでいた。
「これ、帯ってもっと楽にならないの?」
「そっちが締めすぎ。動きすぎるから苦しいんでしょ」
「いや、初めてだし加減わからんし……」
「私もだけど?」
2人して笑いながら、鏡の前で少しだけ不格好な姿を見ていた。
裕翔は黒と藍の男物、美桜は水色に朝顔の柄の浴衣。
準備だけでちょっとくたびれたけど、それでも気分は上がっていた。
今日は、2回目の夏祭り。
少し遠くの街で開かれる、花火大会。
あの日。
1回目の祭りでは、屋台も回って、花火もちゃんと見れた。
でもその帰り道。
裕翔は、美桜を庇って車に轢かれた。
だから今日は、祭りのやり直しじゃない。
最後まで、2人で歩いて帰る
その続きを、やっと迎えに行ける日だった。
電車で30分。
車窓から見える田んぼが夕焼けに染まる。
駅に降りると、すでに浴衣の人々の流れがあり、屋台の明かりがずらりと並んでいた。
「うわ、すげーな。こっちは派手だな」
「人も多い。……でも楽しそう」
「……手、離すなよ?」
裕翔が、そっと手を差し出す。
美桜は照れくさそうに目をそらしながら、それでもしっかりと握った。
まずは焼きそば。2人でシェア。
その次はりんご飴、金魚すくい、射的。
「前はさ、途中で止まっちゃったじゃん。最後までいろいろ出来なかったからさ」
「……うん。覚えてる」
「今度こそ、全部やろう」
「うん。ちゃんと最後まで、ね」
途中、金魚すくいで美桜が本気を出して5匹すくい、裕翔はヨーヨーを取れずに子どもに笑われる。
でも、そんな全部が楽しくて、2人は何度も顔を見合わせて笑った。
「こっち、花火よく見えるんだって」
「じゃあ、先行こうぜ」
屋台の通りを抜け、高台の公園に続く階段に座る。
下では人の波。上では夜風。
小さな虫の声と、遠くの太鼓の音だけが響いていた。
「前の祭りの日さ」
裕翔がふと口を開く。
「途中まで、ほんとに楽しかったんだよな。あれが……ずっと続けばいいのにって、思ってた」
「うん。私も」
「でも……」
「でも、最後はあんな終わり方だった」
2人は少しだけ黙った。
でもその沈黙は、苦しいものじゃなかった。
「だからさ、今日、ここに来れて良かった」
「……うん。ありがとう」
「今度は最後まで、一緒に」
ドンッと空が揺れた。
大きな花火が、夜空にひらいた。
音と光が、空と心に染み込んでいく。
「ねえ」
「ん?」
「守ってくれて、ありがとう。あの時、怖かったけど……裕翔がいたから、私は無事だった」
「いや……本当はさ、もっと守れたかもしれないのに……」
「もう、十分だったよ」
美桜が、裕翔の袖を軽く掴んだ。
「ねぇ、来年も来よう」
「うん。来よう」
「その次も」
「……当たり前」
祭りから数日後。
風が変わった。朝の気温が、少しだけ肌寒い。
制服の袖も、腕に馴染んでくる。
でも、2人の距離は、変わらなかった。
「もうすぐ秋か」
「うん。今度は紅葉見に行こう」
「いいな、それ。計画立てるか」
「……また途中で事故らないでよ?」
「そっちは守ってくれよ?」
「……もう」
変わっていく季節。
でも、変わらず歩く2人の道。
普通の毎日が、今はなにより幸せだった。
九月の終わり。
制服の上にカーディガンを羽織る生徒が目立ち始めた頃、廊下の掲示板に文化祭の告知が貼り出された。
「へぇ、今週から本格的に準備か……」
裕翔はポスターを見上げながらクラスの空気を思い出して、ぼんやり考える。
「うちのクラス、たぶんまとまらねぇだろうな」
昼休み、屋上の端に座ると、美桜が先に来ていた。
「文化祭、そっちは何やるって?」
「たこ焼き。女子の案が通った」
「屋台系強ぇな。うちはまだ揉めてる。全然決まらん」
「まあ、男子多いしね、そっち」
「ってか……文化祭ってそんなガチでやるもんなん?」
「普通にやるよ。高校生活で数少ない行事なんだし」
「ふーん……俺、こういうのちゃんとやんの初めてかも」
「……似合わないかもね、前掛けとか」
「やらねぇわ」
そんな風に笑い合う時間も、ずいぶん自然になっていた。
それから数日。
裕翔のクラスは最終的にお化け屋敷に決まり、美桜のクラスはたこ焼きと小物販売の複合ブースに。
放課後の教室には段ボール、ガムテープ、ペンキ、BGM。
「おい裕翔ー、あの壁のとこ、穴あけといてくれ!」
「おっけ、ノコギリどこ?」
気づけばクラスの中にも、自然と呼ばれる存在になっていた。
「……やるじゃん」
「おう、やる時はやる男よ」
休憩時間、手を洗いながら、美桜が隣で笑う。
「明日、早めに登校して飾り付けやるって。来れる?」
「もちろん」
文化祭当日。
朝から校門前には長蛇の列。
生徒たちが慌ただしく準備に走り回る。
裕翔のクラスのお化け屋敷は意外にも人気で、列ができていた。
「ぎゃー!」
中から誰かの叫び声。
「よっしゃ、ビビらせたった!」
「俺、扮装キマりすぎててちょっと怖ぇもん」
裕翔も笑いながら、教室の外で受付をしていた。
一方、美桜のクラスは、たこ焼きの熱気で汗だく。
でも手際は完璧で、女子たちは笑顔でテキパキと動いていた。
昼過ぎ。
裕翔がふと、美桜の様子を見に行くと、教室の奥で小さくうずくまる姿があった。
「……おい、美桜?」
「……大丈夫、大丈夫だから……」
「いや、顔赤いし……体調悪い?」
「ううん……ごめん、ちょっとだけ落ち着かなくて」
人混みと緊張と、責任感と。
いろんな感情が重なって、いつもの美桜じゃなかった。
「抜けよ。ちょっとだけでいいから」
裕翔が手を差し出す。
美桜は、ほんの少し戸惑ってから、その手を取った。
校舎の裏の、誰もいない非常階段に腰を下ろす。
文化祭の喧騒が響く中で。
2人だけの、静かな時間。
「……ありがとう」
「何が?」
「こうやって、何も言わずに気づいてくれるとこ」
「いや、まあ、顔に出すぎなんだよ」
「うるさい」
2人で笑う。
空は、茜色に染まり始めていた。
「私さ、文化祭とかで気を張りすぎちゃうタイプで」
「うん。なんとなくわかる」
「全部ちゃんとやろうとしすぎて……でも、うまくできないと、自分責めちゃう」
「美桜のそういうとこ、好きだけどな」
裕翔が自然に言ったその一言に、美桜は一瞬固まった。
「……え?」
「あ、いや……そーいう、変な意味じゃなくて。いや、変な意味でもいいけど、なんつーか……」
「ありがと」
文化祭2日目の朝は、秋晴れだった。
昨日の盛り上がりがまだ校舎に残っていて、どのクラスも準備を整える手が少し軽やかに動いている。
「昨日、疲れすぎて爆睡したわ」
「顔、むくんでるよ?」
「は?マジ?」
「……でも、頑張った顔だと思う」
「……お前、そういうことさらっと言うよな」
2人で肩を並べて、校舎に入る。
この何気ない時間が、当たり前になりつつあることに、どこか安心していた。
午後の人混みの中。
「次の公演、ちょっと見に行こ」
美桜のクラスの手が一段落したところで、演劇部の発表を見に行くことになった。
講堂はほぼ満席。
裕翔と美桜は壁際の端の席に並び、静かに舞台を見つめていた。
物語の途中、ふと視線を横に流したときだった。
見覚えのある顔が、遠くの列にあった。
(……なんで)
裕翔は一瞬、呼吸が止まった。
観客席の中明らかに場違いな、男と女の並ぶ姿。
派手でもなく、地味でもない。
裕翔の父と母だった。
視線が合いそうになり、慌てて顔を伏せる。
美桜が。
「どうかした?」
と小さく囁いたが、裕翔は軽く首を振るだけだった。
(来るはずがないだろ、ここに……)
ずっと切り離していたはずの過去が、急に舞台の下から現れたような感覚だった。
講堂を出ると、裕翔は美桜に言った。
「ちょっと……裏に回ってくる。ごめん」
「わかった。……何かあったら呼んでね」
その日は、それ以上、何もなかった。
両親の姿も、それ以降は見かけなかった。
でも。
裕翔の胸の中に、得体の知れない緊張が残り続けていた。
文化祭終了後の、その夜。
片付けも終わり、皆が達成感に包まれていた頃。
カフェでは、一ノ瀬さんとスタッフたちでちょっとした打ち上げの準備がされていた。
美桜は制服から私服に着替えて、テーブルの皿を並べている。
裕翔は、厨房でグラスを並べながら、未だにさっきのことを引きずっていた。
「……美桜」
「ん?」
「さっき、講堂でさ。俺の……親がいた」
「……!」
「間違いない。顔見ただけで、全身が反応してた」
「どうする?」
「何も、しない。……できない」
裕翔は、言葉を絞り出すように呟いた。
「俺が出てったんだ。勝手に。……全部捨てて、ここに来た」
「でも、ここでやり直してる。ちゃんと、前に進んでる」
「……進んでたはずなんだけどな」
その時だった。
店の扉が控えめに、カラン…と鳴いた。
美桜が振り向くと、見慣れない中年の男女が立っていた。
裕翔の父親は、背が高く、無精ひげが伸びたまま。
母親は少し痩せて、目の下にクマがあった。
2人とも、なにかを言いたそうに店内を見渡していた。
「……裕翔」
父の低い声が、店内に落ちた。
裕翔は、手に持っていたグラスをテーブルに置いた。
「……何で来たの?帰って」
「話がしたいだけなんだ。ほんの少しでいい」
「話なら……俺が出る前にしてくれりゃよかったのに」
一ノ瀬さんが、カウンター越しに2人を見ていた。
美桜は、裕翔の後ろに立って、無言で背中を見つめている。
母親が口を開いた。
「ごめんなさい。ずっと……連絡も取れなかったけど、あなたが無事だって聞いて、今日、文化祭に」
「じゃあ、俺の生活全部調べてたってこと?」
「違う、そんなつもりじゃ」
「美桜のことも?俺がどこに住んでて、誰といるかも、全部?」
裕翔の声が、わずかに震えていた。
父が少しだけ歩み寄る。
「裕翔……俺たちも、間違ってた。家庭として……失ってから、気づいたことばかりだった」
「気づくの、遅すぎるよ」
「今さら、何をしに来たの?俺を、連れ戻しに?」
「……違う。違うけど……」
その瞬間、裕翔は一歩前に出た。
「ここが、俺の居場所だよ。誰にも譲る気、ないから」
しばらくの沈黙が流れた。
一ノ瀬さんが、カウンターの奥からそっと言った。
「今日は……店の中で揉められても困る。話すなら、どこか外でにしてくれ」
「……すみません」
父が頭を下げ、母も小さく会釈して、2人は扉を出ていった。
カラン……と、また音がして、静かに扉が閉まった。
その夜、裕翔は誰とも目を合わせずに、片付けだけを続けた。
美桜は何も言わず、ただ傍にいた。
その夜、ベッドに潜り込んでも、眠れなかった。
天井を見つめながら、思い出したのは、父の背中と、母の表情。
泣いていたわけじゃない。
怒っていたわけでもない。
ただ、そこにいたという現実が、裕翔の心を大きく揺らしていたのだった。
布団の中でスマホを開くと、美桜からの新着メッセージが届いていた。
『あの2人のこと、話したくなったらいつでも言ってね』
『私は、どんな裕翔でも、ちゃんと見てるから』
涙が出るほどではない。
でも。
目を閉じた裕翔の胸の中に、何かが溶けていくようだった。
目が覚めたとき、部屋のカーテン越しに差し込む光は、いつもよりまぶしかった。
日差しは柔らかい秋の色をしていた。
ゆっくりと体を起こし、布団を整える。
何気ない朝のはずなのに、動作の一つ一つが重く、遅い。
洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、思った。
(なんか、やつれてんな……)
顔色は悪くない。でも、目が少し沈んでいる。
階下のキッチンから、食器の触れる音が聞こえた。
美桜だろう。今日は朝当番だ。
カフェの営業は休み。文化祭の代休で学校もない。
けれど、裕翔の気持ちだけが、どこにも行けずに取り残されていた。
「……おはよう」
美桜が振り返って、笑顔を向ける。
「おはよ。ごはん、できてるよ」
「……うん、ありがとう」
テーブルに並ぶのは、和風の朝食。
味噌汁の香りが、胸をくすぐるけれど箸が進まない。
「……裕翔?」
「……なんでもない」
「うそ。なんでもなくない顔してる」
美桜は、箸を置いた。
「昨日の、こと?」
裕翔は少しだけ視線を逸らした。
「夢に、出てきたんだ。親父と、母さんが。……あの店で、また来る、って」
「……」
「怖かったわけじゃない。でも……なんか、気持ち悪くてさ。寒気がしたっていうか……」
「ここに来て、やっと呼吸ができるようになったのに、また何かが喉を締めつけてるような感じがした」
美桜は黙って、裕翔の横に移動した。
椅子を少し引いて、肩を並べるように座る。
「昨日のメッセージ、見た?」
「うん。……ありがとう」
「裕翔。誰だって、心が止まる日があると思う。でも、それって、前に進んできた証拠だよ」
「……そう、なのかな」
「うん。もし、止まったままだったら、怖いとも、嫌だとも、思わない。動いてるから、苦しいんだよ」
その言葉が、少しだけ胸にしみた。
美桜は、そっと彼の手に触れた。
何も言わず、ただ、そこにいるという形で。
代休の午後。カフェの営業はないけれど、掃除を少しだけ手伝うことになった。
モップを手にしても、動きは鈍く、何かに集中するという感覚も遠かった。
一ノ瀬さんは、なにも言わなかった。
ただ、すれ違うたびに背中を軽く叩いたり、グラスを置いていったりする。
「お前のペースで、いいんだぞ」
そう言うかわりに、音のない励ましだけがあった。
夜、ベッドの中でスマホを見つめる。
メッセージは特に来ていない。
でも、既読がついた会話を何度も読み返す。
(誰だって、心が止まる日がある)
(動いてるから、苦しいんだよ)
裕翔は、画面を見つめたまま、ふと、スマホのメモ帳を開いた。
新しいページを作って、こう打ち込む。
『守りたいって思った日、また思い出した』
目を閉じる。
その日は、夢を見なかった。
十月半ば。秋風が一段と冷たくなり、カフェのメニューにホットラテが目立ち始める季節。
学校でも、少しずつ進路の話題が聞こえてくるようになった。
放課後の進路指導室。
担任に呼ばれて、簡単な面談が行われた。
「裕翔、考えてる進路、あるか?」
「……うーん、正直まだ何も決まってないです」
「まぁな、急に言われてもピンとこないよな。でもな……進路ってのは、今までどう生きてきたかの答え合わせでもあるから」
「……答え、か」
「お前は、今までのこの1年間、ちゃんとやってきたと思うよ。逃げずに、自分の居場所を作って」
裕翔はうなずいた。
あの頃とは、まるで違う日々。
苦しいこともあったが、確かにここで生きていた。
でも。
その夜、全部がひっくり返される。
仕事を終えて、シャワーを浴びたあと。
ベッドに腰を下ろし、スマホの画面をなんとなく開くと。
新着通知がひとつ。
見慣れない名前と、見覚えのある苗字。
アカウント名は、父のものだった。
『裕翔。久しぶりだな。元気にしてるか。SNSで偶然見つけた。お前の名前と写真。今の姿を見て、安心した。』
画面のスクロールが、指先で止まる。
息を呑んだまま、次の行に目を落とす。
『もし、話をする気が少しでもあるなら、来年の春、戻ってきてほしい。ほんの少しでいい。会って、話したいんだ。大学とかもあるだろう』
心臓が、鈍く脈打つ。
春。もう半年もない。
ここを出て、向こうへ帰るという選択を、現実として突きつけられたような気がした。
窓際のカーテンを少し開けて、冷たい夜の空気に顔を出す。
見上げた空は、星が少しだけにじんでいた。
「……なんで今さら」
声に出すと、胸の奥がギュッと痛んだ。
父のメッセージは、丁寧で、穏やかで。
でも、どこか他人行儀だった。
(全部、置いてきたはずだったのに)
(自分で選んで、逃げて、捨ててきたのに)
(それでも、繋がってると思ってたのか……?)
頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
何も答えられなかった。
「……裕翔、顔色悪い」
美桜が、小さな声で言った。
「……ああ、ごめん。寝不足かな」
「……昨日、なにかあった?」
裕翔は、少しだけ箸を置いて、スマホを取り出す。
受信したメッセージを、美桜に見せる。
美桜の手が止まった。
画面をじっと見つめて、それから小さく息をのむ。
「……返信、したの?」
「してない。できなかった」
「そっか」
それ以上、美桜は何も言わなかった。
だけど、彼女の目はちゃんと裕翔の気持ちを受け止めていた。
否定もせず、肯定もせず、ただ寄り添うようなまなざしで。
夜になり返信を考える
布団に潜りながら、何度もスマホを開いては閉じた。
春に帰ってきてほしい。
その言葉の裏に、どれだけの感情があるのか。
父の意図がどれほど真っ直ぐだったとしても、裕翔の心には傷が残っていた。
帰ることが許すことになるのか。
それとも、自分を裏切ることになるのか。
画面のカーソルが点滅しては、消えていく。
どうしても、言葉にならなかった。
「……今日は、私、厨房入るね」
「じゃあ、俺ホールやるわ」
夕方のカフェは、空が赤く染まり始める頃が一番忙しい。
仕事の帰りに寄る常連たちがどんどんと入ってきて、穏やかな会話とカップの音が店内を満たしていく。
裕翔は慣れた手つきでコーヒーを注ぎ、笑顔で客にカップを差し出した。
自然と体は動く。でも、心の奥には、あのメッセージがまだ残っていた。
『来年の春、戻ってきてほしい』
あの一文が、何度も頭を過る。
この店で、自分は変われたのか。
それとも、ただ逃げてるだけなんじゃないか。
「……裕翔」
声に振り返ると、厨房のドアが少し開いて、美桜が顔をのぞかせていた。
「終わったら、ちょっとだけ屋上行かない?」
「……ああ。わかった」
カフェの仕事を終え、照明を落とし、2人は非常階段をのぼってビルの屋上に出た。
都会の小さな夜空。
星は見えづらいけれど、風が気持ちよかった。
「この時間、好きなんだよね」
「うん。……わかる」
しばらく、並んで無言で夜景を見ていた。
だけど、美桜はそっと口を開いた。
「裕翔、今、迷ってるでしょ?」
裕翔は、何も言えなかった。
それでも、美桜は続きを待たなかった。
「……戻るの、怖い?」
「怖いっていうか……わかんないんだ。許せないって思ってたのに、向こうは普通みたいな顔して、連絡してきて……」
「俺がこの半年、どう過ごしてきたかなんて、知らないくせに」
裕翔は、吐き出すように言った。
その声は、少しだけ震えていた。
「でもさ、ほんとはさ俺、向こうがどうなってるか知りたかったのかもしれないんだよ。今どうしてるのか、あの家が、あの人たちが……」
「……それって、弱いよな」
「弱くないよ」
美桜は即座に言った。
「強がって切り捨てるほうが、よっぽど弱いよ。本当に何も思ってなかったら、こんなに迷わないじゃん」
裕翔は少しだけ目を伏せた。
「……俺、ここに来て初めて、ちゃんと飯食えて、誰かと笑って、怒って、働いてさ。だからこそ、戻ったら、また全部壊される気がして……」
「ここが、俺の逃げ場所なんじゃなくて、居場所だって思いたいのにさ」
美桜が、黙って横に座った。
少し、風が吹いた。
彼女の髪が、裕翔の肩にふれた。
「ここが裕翔の居場所だってことは、私が知ってるよ」
「……」
「私がいる限り、ここは裕翔の居場所。だから、戻っても、戻らなくてもいい。でも、自分で選んだら、その選んだ場所がきっと正解になるんだと思うけど、私は」
「うん……そう、だな」
裕翔は空を見上げた。
まだ答えは出ていなかった。だけど、誰かがわかってくれるという温度だけで、心が少しだけほどけていくのが彼自身にもわかっていた。
「配るぞー、進路希望調査票。第一希望から第三希望まで、書いて出すように」
担任がそう言って、クラスの前を歩きながらプリントを配り始めた。
ガサガサと紙の音。
クラス中がざわつき、ペンの音が少しずつ響き始める。
(第一希望、第二希望、第三希望……)
裕翔は、配られた用紙をじっと見つめていた。
将来の夢という欄だけが、まるで空っぽのまま心に重く乗ってくる。
(夢……なんて、考えたことなかった)
カフェで働いて、学校に通って、美桜と一緒に笑って、たまに泣いて。
この半年は、ただ今を生きることで精一杯だった。
未来なんて、考える余裕もなかった。
周りのクラスメイトたちが。
「美容師って書こうかなー」とか「専門学校とか?」なんて言い合っている声が、遠くに感じる。
裕翔は視線を落とし、結局その日、何も書けないまま、進路調査票を鞄の奥にしまった。
歩きながら、スマホを取り出した。
ずっと未読のまま放置していた父親からのメッセージ。
(返信……するべきなのか)
迷いながら、ゆっくりと画面を開く。
カーソルがまた、静かに点滅していた。
その点滅を見つめながら、ようやく指先が動き出した。
『お父さんへメッセージ、見ました。今は、まだ何も答えられません。でも、無視することだけはしたくなかったから、一応、返信します。』
『春、帰るかどうかはまだ決められません。もう少し、自分で考えたいです。』
『あの頃のことを、忘れたわけじゃないから。』
入力を終えて、しばらく画面を見つめていた
そして、ゆっくりと送信ボタンを押す。
逆に重たくのしかかってくるような、いろいろな感情が入り混じった余韻が残った
店を閉めたあと、誰もいないカウンターに座って美桜が裕翔の横にそっと飲み物を置いた。
「カフェラテ。ミルク多め」
「ありがと……」
「進路、書けた?」
「……ううん。まだ、空白のまま」
「そっか。でも、焦らなくていいよ。みんな書いただけで、決まったわけじゃないから」
「……美桜は?」
「私は、ここの仕事をちゃんと続けるって決めてる。でも、もし裕翔がどこかに行くことになっても、応援するよ」
「なんでそんなに、簡単に……」
裕翔が少し、声を荒らげそうになるのを自分で抑えた。
「……いや、ごめん。多分俺、まだ過去のことでいっぱいいっぱいなんだと思う」
「うん、知ってるよ」
「でも、少しずつでいいじゃん。裕翔は裕翔のままでさ」
彼女のその言葉が、
今日書けなかった進路希望よりも、よっぽど現実で……。
放課後、チャイムが鳴り終わった頃。
廊下にはまだクラスの笑い声が響いていたけど、裕翔は静かに立ち上がって、美桜の席へと向かった。
「なあ、美桜」
「ん?」
「……ちょっと、屋上来ない?」
「……うん」
言葉の重さに気づいたのか、美桜は少しだけ驚いた顔をしたけど、それ以上は何も聞かず、静かにうなずいた。
ガチャンと鉄の扉を開けて、ふたりは並んで屋上に立った。
秋の夕焼けは、夏よりも静かで、赤く滲んだ空が、ふたりの影を長く伸ばしていた。
風が少し冷たくなってきていた。
それでも、裕翔の手のひらは、汗で少し湿っていた。
「なあ、美桜」
「うん?」
すぐそばにいるのに、まっすぐ目を見れなかった。
裕翔は視線を空に向けたまま、言葉をつないだ。
「……俺さ、ここに来てから、ずっとお前に助けられてきたんだよ」
「……」
「最初はもう、ただの拾われた奴で。
誰にも期待されてなくて、誰にも必要とされてなかった」
「でも、美桜はさ。最初から、当たり前みたいに俺のことを……一緒にいてくれた」
「それがさ。ほんとに、嬉しかった」
美桜は何も言わずに、ただ風を受けて立っていた。
「……だから俺、ちゃんと言いたかった。逃げてた過去も、帰れない家のことも、この場所がどれだけ大事かも……そして、」
裕翔は、ようやく彼女のほうを見た。
言葉が震えて、でも止まらなかった。
「美桜のことが、好きだ。ずっと、好きだった」
ほんの一瞬、風の音が止まったような気がした。
夕焼けに照らされた美桜の目が、大きく見開かれたあと、ふわっと笑った。
「……なに、それ」
「え?」
「遅すぎるっての。こっちはとっくに付き合ってるつもりだったんだけど?」
「っ……は?」
「え?今さら告白?いや、もちろん嬉しいよ。ちゃんと言ってくれて」
「でもさ、私のことこんだけ見てきて、気づいてなかったの?」
「ずっと、ずっと裕翔のこと、見てたんだよ。痛がってるときも、泣きそうな顔してるときも、笑ってくれたときも!」
「全部、好きだった。だから一緒にいたし、支えたし、守ってもらったし……」
「だから……うん、当たり前」
「私も、裕翔のことが、ずっと大好きだったよ」
その言葉に、裕翔は口を開きかけて、結局何も言えなかった。
目が熱くなる。言葉より、先に何かがこみ上げそうだった。
「これで、やっとちゃんと両想いってことにしようね?」
「……ああ」
「よかった、ちゃんと聞けて」
美桜は少しだけ裕翔の肩に寄りかかった。
校舎の屋上。夕焼けの真ん中に、ふたりだけの時間があった。
「……でもな、美桜。俺、たぶん……また迷うと思う」
「うん。知ってるよ。家族のこと、進路とか簡単に決められることじゃない」
「だけど」
「迷っても、私のことだけは、見失わないでね。そこだけは、ずっと一緒にいてくれたら、それでいい」
「……ああ。絶対、見失わない」
屋上での告白を終えて、2人は静かに階段を降りた。
あたりはもう、茜色が消えて、薄青の空が校舎を包んでいた。
「なあ、マジで……俺、もっと早く言えばよかったな」
「ほんとだよ。まあ、言ってくれたから許すけど」
「はは……ありがとう」
そんな会話をしながら並んで歩く帰り道。
いつもより少し距離が近い。
でも、不思議と自然だった。
カフェの前に着いた時、シャッターはすでに半分閉じかけていた。
その前に、いつものようにタバコをくわえて立っていたのは、一ノ瀬さんだった。
「おー、遅かったな。デートでもしてたのか?」
その一言で、裕翔はビクッと肩を跳ねさせた。
美桜は、咄嗟に目を逸らす。
「……い、いや、ちょっと屋上で、話してて」
「ふぅん?」
一ノ瀬さんは薄く笑った。
「まあ、いいけどな。で、裕翔。お前、やっと言ったんだな?」
「……えっ、な、何を?」
「白々しいぞ、バーカ」
パチンと火のついたタバコを指で弾きながら、一ノ瀬さんはニヤリと笑った。
「美桜がどんな顔でお前の名前呼ぶか、どんな目で見てるか、親じゃなくたって、見てりゃわかる」
「逆に今まで、よう我慢してたなって思ってたくらいだ」
裕翔は言葉に詰まり、美桜は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……ごめんなさい、お父さん」
「なんで謝るんだよ。俺が許してないとでも思ったか?」
一ノ瀬さんはタバコを地面に落とし、足で踏んだ。
「お前らが本気なら、俺は何も言わん。ただ、ちゃんと向き合えよ。お互いに、そして自分にもな」
「わかってるつもりです」
裕翔が、小さく答えた。
「なら、よし」
一ノ瀬さんはポケットからカフェの鍵を取り出して、シャッターを最後まで閉め始めた。
「ついでに言っとくがな。今日のあの屋上での話、帰ってきてすぐ美桜の顔見れば一発でわかったわ」
「……え?」
「そんだけわかりやすい顔してたんだよ、お前ら」
美桜は顔を両手で覆って。
「うう……」
と小さくうなりながら、店のドアの奥に逃げていった。
裕翔はポカンとしながら、一ノ瀬さんを見た。
「……なんで、何も言わずに見ててくれたんですか?」
「バカ、言うかよ。言わなくても、お前がやっと自分で選んだことだからだ」
その背中が、少しだけ頼もしく見えた。
「……ありがとうございます」
「礼なんていらねぇ。俺に返すもんがあるとすりゃ、あいつを泣かせるな。それだけだ」
「……絶対、泣かせません」
一ノ瀬さんはその言葉に、何も言わずただ、背中で笑った。
数日後。
カフェの閉店後、いつもは元気な一ノ瀬さんが、どこか元気がなかった。
裕翔はそんな彼の様子に気づきながらも、どう声をかけていいかわからず、手伝いを続けていた。
「なあ、裕翔」
一ノ瀬さんが、ようやく重い口を開いた。
「実はな……」
「何かあったんですか?」
一ノ瀬さんはテーブルに置かれたカルテを見せた。
そこには肺線維症。という文字がはっきりと書かれていた。
「医者から言われたんだ。俺の肺が、だんだん硬くなってしまって、呼吸が苦しくなる病気だって」
裕翔の心臓は、ドクンと大きく鳴った。
「まだ初期段階だが、完治は難しい。いつ悪化するかわからん。…だから、店も……いつまで続けられるかわからん」
「……そんな……」
一ノ瀬さんは、笑いながらも目が少し潤んでいた。
「お前らには迷惑かけたくない。でも、俺も長くはないかもしれない」
「……俺が、守らなきゃいけない人まで、壊れそうになるなんてよ……」
裕翔は何も言えず、その場で固まっていた。
「だから、これからはお前らのことも、もっと支えたいと思ってる。お前たちが俺の代わりに、強くなってくれ」
裕翔は静かにうなずいた。
「約束する。一ノ瀬さんの分まで、俺たちが守る」
一ノ瀬さんは涙をこらえ、ゆっくりと笑った。
「帰ってきてほしい」それは願いか、呪いか。そんな重い空気の中、裕翔のスマホが震えた。
画面には知らない番号からのメッセージ。
『裕翔、元気か?俺だ、父さんだ。』
胸が締めつけられるような気持ちになりながらも、裕翔はメッセージを開いた。
『お前が家出てもうすぐ1年か。いろいろと話したいことがある。』
『来年の春、帰ってきてほしい。最後にもう一度、話がしたい。』
裕翔はしばらく黙ったまま、画面を見つめた。
帰る。そんな簡単なことじゃない。
ここでの生活、カフェ、美桜、そして一ノ瀬さん。
家族のことを思うと、胸が痛くて苦しい。
悩み続けた末、裕翔はゆっくりと指を動かし、返信を打ちはじめた。
『わかった。考えておく。』
送信ボタンを押した後も、心は晴れなかった。
「……これが、本当に答えなのか?」
涙がひとすじ頬を伝った。
でも、美桜と一ノ瀬さんがくれた居場所を思い出すと、少しだけ勇気がわいてきた。
外はすっかり暗くなり、街灯がぼんやり光っている。
裕翔は机に向かい、スマホの画面を何度も見つめては、考え込んでいた。
「春に帰る……」
何度も口に出してみるが、心の中はまだ嵐のようだった。
一ノ瀬さんの病気もあり、カフェも、美桜との関係も、全部大切だ。
でも、父親の言葉を無視することはできない。
「俺が逃げてきたんだ。ずっと」
やっと、自分の弱さに向き合う決心がついた。
翌日から、裕翔は一ノ瀬さんのサポートに積極的になった。
掃除も手伝い、仕込みも覚え、何より彼の体調を気にかけるようになった。
「俺が支えなきゃ、一ノ瀬さんまで壊れちゃう」
カフェでの仕事はきつかったが、どこか清々しさもあった。
一方、美桜は不安で夜になると涙をこぼすことが増えた。
ある晩、仕事を終えて帰ろうとした時、美桜がひとり、カフェの裏口で肩を震わせていた。
「美桜?」
そっと声をかけると、彼女は振り返らず、ただ泣いていた。
「なんで泣いてるんだ?」
美桜は小さな声で答えた。
「裕翔が、またどこか遠くに行っちゃうんじゃないかって思うと……怖い」
裕翔はゆっくり近づき、彼女の肩を抱いた。
「俺はここにいるよ。必ず戻ってくる」
「……でも、不安で……」
「不安なのは俺も同じだ。だけど、逃げないって決めた」
「だから、一緒に乗り越えよう。な?」
美桜は少し顔をあげて、涙を拭った。
「ありがとう、裕翔」
「これからもずっと、俺たちは一緒だ」
その夜、2人は初めて真剣に未来のことを語り合った。
冬が終わりに近づき、春の気配が少しずつ感じられる頃。
一ノ瀬さんの咳は次第に激しくなり、カフェでの動きも以前のようにはいかなくなった。
「大丈夫ですか?」
裕翔は心配そうに声をかけた。
「少し、息が苦しくてな……悪くなってきてるみたいだ」
それでも一ノ瀬さんは笑顔を絶やさず、店を支えようとした。
だが、裕翔はそれを見ているのが辛かった。
「俺が、もっとちゃんと支えなきゃ」
カフェの仕事だけでなく、彼の体調管理も裕翔の大きな役目となった。
そんなある日、裕翔のスマホに再び父親からメッセージが届く。
『裕翔、春が来る。帰ってくる準備はできてるか?』
裕翔は画面を見つめながら、深く息をついた。
「もう、逃げられないんだな……」
家族との問題、カフェ、一ノ瀬さん、美桜……。
どれもが絡み合い、裕翔の胸を重く締めつける。
ある晩、裕翔はカフェの閉店後、一ノ瀬さんと2人で話をした。
「お前の家のことは話してくれたな」
「はい……家を出た理由も、今までのことも」
一ノ瀬さんは静かにうなずいた。
「逃げてばかりじゃ、何も変わらない。俺も病気と闘ってるけど、現実と向き合わなきゃ前に進めない」
「裕翔、お前も自分の過去と向き合え」
その言葉に、裕翔は目を閉じた。
「俺、怖いんだ……親とまた向き合うのが」
「でも、そろそろ逃げるのはやめる。春、帰るって決めた」
「そうか。なら、後悔のないように準備しろ」
裕翔は決意を新たにし、次の日から少しずつ過去の問題に向き合い始めた。
親との電話やメッセージでのやり取りを増やし、少しずつ心の距離を縮めていく。
その間も、一ノ瀬さんの体調は波があったが、裕翔はできる限り支え続けた。
「俺が守る。みんなの分まで」
涙が頬を伝う夜もあったが、それでも前に進むしかなかった。
教室の窓から春の陽射しが差し込む昼休み。
クラスメイトたちの笑い声があふれる中、裕翔は少し緊張した面持ちで席に座っていた。
担任の先生が教室に入ると、みんなの視線が集まった。
「みんな、ちょっと話がある」
先生は静かに口を開いた。
「裕翔くんが、春に実家に帰ることになりました」
クラス中がざわめき、裕翔の隣にいた美桜が静かに彼の手を握った。
「急な話で驚かせてごめんね。でも、みんなに伝えたかったんだ」
先生の言葉に、クラスメイトたちも真剣な表情になる。
「お別れの会を開きたいと思います。みんなで裕翔くんの新しい旅立ちを応援しましょう」
数日後、放課後の教室で開かれたサヨナラの会。
仲間たちが作った寄せ書きや写真、手作りのアルバムがテーブルに並んだ。
裕翔は一人一人と握手を交わし、感謝の言葉を伝えた。
「みんな、ありがとう。ここで過ごした日々は、俺の宝物だ」
美桜は泣きそうな顔で微笑んでいた。
裕翔は力強くうなずいた。
春に帰る決意を胸に、彼は新たな一歩を踏み出す準備をしていた。
カフェの窓から見える街並みが、いつもより少し違って見えた。
季節は春に変わりかけているけれど、裕翔の胸は晴れない。
「帰るんだな……」
朝の光の中で独り。
残り1週間を切ったその日から、裕翔の生活はまるで時が止まったかのように重く、静かに過ぎていった。
学校では、美桜や友達と過ごす時間もいつもより長く感じる。
教室の中の笑い声、廊下の足音、部活の声、全部が心の中に深く刻まれていく。
「あと少しでここを離れる」
その現実が、彼の心を締め付けた。
ある日、カフェの当番をしていると、一ノ瀬さんが声をかけてきた。
「裕翔、無理するなよ。お前のせいじゃない」
「わかってる。でも、放っておけないんだ」
一ノ瀬さんの顔は、どこか疲れて見えた。
「でも、ここにいても俺はいつかいなくなる。お前の人生は、お前のものだ」
その言葉は重かった。
帰るまでの数日は、まるで時間が引き伸ばされたように感じられた。
美桜と過ごす時間も、かけがえのない宝物に変わった。
彼女と語り合い、笑い合い、手をつなぎ、別れが近いことを意識しながらも、目の前の今を大事に生きた。
夜、布団の中でスマホを見つめながら、美桜とのメッセージを何度も読み返す。
『帰りたくない』
『でも、帰らなきゃ』
心の中の葛藤が、言葉にできないほど複雑に絡み合った。
残り3日前。
夜遅く、カフェの閉店後。
裕翔は一ノ瀬さんの部屋を訪ねた。
「お前がここにいてくれて、本当に助かった」
一ノ瀬さんの声は、いつもよりずっと弱々しかった。
「ありがとうございます。俺も一ノ瀬さんがいるから頑張れました」
2人は静かに、しかし深く互いの思いを交わした。
「また戻ってきます。約束する」
その言葉が、どれほど2人の支えになったか、言葉にしなくても伝わったようだった。
静かな夜。
カフェの2階の自分の部屋の窓から、街の灯りが遠くにぼんやり見える。
裕翔は布団に座り込み、頭を抱えた。
「なんで、俺は家出なんかしちゃったんだ……」
誰にも言えない後悔が胸の奥で燃え上がる。
「もし、あのまま家にいたら……こんなにみんなに迷惑をかけることもなかったかもしれない」
だけど、ふと頭に浮かぶのは、ここで出会った人たちのことだった。
「でも、この人たちと出会わなかったら……」
強面だけど優しい一ノ瀬さん。
笑顔が眩しくて、俺の恋人、美桜。
共に過ごした毎日、笑ったこと、泣いたこと。
迷惑をかけてばかりの自分が、こんなにも温かく受け入れてもらえたこと。
「こんなに心があったかい場所、他にあったかな……」
複雑に絡み合った感情が、胸の中でぐちゃぐちゃになる。
「本当は……ここにいたい」
でも、帰らなきゃいけない現実。
「俺はどうしたらいいんだ」
たくさんの涙が頬を伝い、膝に落ちる。
「逃げてばかりの俺に、未来ってあるんだろうか?神様、教えてください」
答えは出ないまま、ただ静かに夜が過ぎていった。
前日。夕陽が西の空を真っ赤に染め上げる頃、裕翔は美桜をそっと近くの公園へ連れて行った。
そこは2人が初めて一緒に過ごした場所から少し離れた、静かな場所だった。
少しひんやりとした春の風が吹き、花びらが舞い落ちる中、2人は並んでベンチに腰を下ろした。
裕翔はじっと前を見つめながら、小さく息をついた。
「美桜……俺、明日、家に帰る」
言葉は静かだったけど、その一言に込められた重みは、2人の間に大きな波紋を広げた。
美桜は一瞬、息をのみ、目に涙をためた。
「戻るの……?」
その問いかけに、裕翔は静かに頷いた。
「うん。でも、ただ帰るだけじゃない。これからは、ちゃんと働いて、大学にも行く。それで、また戻ってくる」
美桜は言葉を詰まらせ、顔を伏せる。
「ねえ、裕翔……なんで急に?」
裕翔は深く息を吸い、心の中に溢れる想いを吐き出すように言った。
「俺はずっと、自分の人生に自信がなかった。家でも色々あって、何もかも上手くいかなかった。でも、ここでお前や一ノ瀬さんと出会って、初めて本当に大切なものがわかった」
「お前と過ごしたこの1年間は、俺にとって宝物だった。楽しかった。笑った。泣いた。全部が俺の人生を変えた」
美桜は涙をこらえきれずに声を震わせた。
「ありがとう、裕翔……私もずっと、あなたのこと好きだったから……」
裕翔はそっと彼女の肩に手を回し、優しく抱き寄せた。
「お前がいてくれて、本当に良かった。今はお金もないし、何も持ってないけど、これから2年間高校、それから
4年間、大学に通ってしっかり学んで、しっかり働いて」
「必ず強くなって、帰ってくる。そして、必ずお前にプロポーズする。それまでどうか、待っててほしい。」
裕翔の眼は今まで見たことないほど真剣だった。涙が溢れてはいたが、表情は1つも変えなかった。
2人はその言葉に抱きしめ合いながら、声を出さず、泣いた。
夕陽がゆっくりと沈み、暗闇が2人を包む。
シャッターを半分閉めたカフェの中には、いつもの賑やかさはもうなかった。客の声も音楽も消え、漂うのは、コーヒーの残り香だけだった。
一ノ瀬さんはいつも通り、無言で食器を洗い、棚を拭いていた。だけど、どこか元気がないのがすぐに分かった。背中がいつもより小さく見えて、どこか寂しげだった。
裕翔も、黙ってモップをかけながら、その背中をちらちらと見ていた。
やがて片付けが一段落すると、一ノ瀬さんが湯呑みを拭きながら、小さく呟いた。
「明日……か」
裕翔は手を止めて、背筋を伸ばす。
「はい。明日、朝一で出るつもりです」
一ノ瀬さんは少し頷いて、それ以上何も言わなかった。
けれど、裕翔はちゃんと伝えなきゃいけないと思った。心の底から。
「一ノ瀬さん。今まで本当にありがとうございました。何も持たなかった俺を拾ってくれて、住む場所も、飯も、学校も、全部……与えてくれた。俺の人生はあの春、本当に終わってた。でも、あの日……助けてくれて、声かけてくれて、拾ってくれて……生き返ったんだ」
一ノ瀬さんは無言のまま、湯呑みを置いた。
「俺、絶対6年後、戻ってきます。そのとき、ちゃんと成長してる姿、見せに来ます」
少し間が空いたあと、低い声が返ってきた。
「……なあ、裕翔」
一ノ瀬さんは背を向けたまま、ポケットから煙草を取り出した。けれど、火はつけずに、それを見つめるだけだった。
「俺はな、お前が戻ってくるとき、この世にいないかもしれない。身体、ちょっとガタきてるって、最近わかってな……医者にも言われた。でも、だからって言っておきたいことがある」
静かに、振り返る。目には光があった。
「俺は、本当に、お前を拾って良かったと思ってる」
裕翔の胸の奥がぎゅっと締めつけられる。言葉が、何も出なかった。
一ノ瀬さんはゆっくり、カウンター越しに立ち上がり、店内を見渡した。
「初めて来たとき、ガリガリで、目も合わさず、言葉もロクに出なかった。それが今じゃ、美桜と一緒に笑って、店を支えて、俺にまで心配させるくらいにまで成長してさ……なんていうかさ、あっという間だったよな」
照れくさそうに笑ったその顔が、いつもより歳をとって見えた。
「お前が居てくれて、本当に助かった。カフェも、家も……あれだけ静かだったのに、急ににぎやかになって、俺も、家族っていいもんだなって思えた」
そう言いながら、一ノ瀬さんはゆっくりと歩み寄ってきた。
そして、無言のまま裕翔の肩をがっしりと抱きしめた。
腕の中は、驚くほど温かかった。力強くて、でも、優しかった。
「お前に出会えて、良かった」
その一言に、裕翔の目から自然と涙がこぼれ落ちた。
何度も何度も、感謝の言葉を伝えたかったけど、声にならなかった。胸が、喉が、詰まっていた。
一ノ瀬さんも、静かに涙を流していた。
夜のカフェには、2人の嗚咽だけが響いていた。
それは、血の繋がりを越えた家族としての最後の夜だった。
朝の光が、カーテン越しに静かに部屋を照らしていた。
目を開けた裕翔は、天井を見上げながら、ゆっくりと深呼吸をした。
ついに、この日が来た。
鞄は昨夜のうちに詰め終えていた。制服も、カフェのエプロンも、思い出が詰まりすぎていて、最後までたたむのに時間がかかった。
けど今はもう、何ひとつ置いていくものはない。
窓を開けると、風の匂いが少しだけ春の終わりを連れてきていた。
一階に降りると、カフェのキッチンからはコーヒーの香りがしていた。
「起きたか」
一ノ瀬さんは、もう準備を終えていたらしく、いつもより一段と落ち着いた表情で立っていた。
「……はい」
「美桜は、外だ」
外。
その言葉に、裕翔の胸が少しだけ痛んだ。
玄関を開けると、そこには制服姿の美桜が立っていた。
白いカーディガンの袖をぎゅっと握りしめて、うつむいていた彼女は、裕翔の足音に気づいて顔を上げた。
目は、少し腫れていた。けど、笑っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
言葉が続かなかった。声に出せば、胸の奥から感情が溢れてきそうだったから。
美桜がそっと、バッグを持ってやろうと手を伸ばしてきたけれど、裕翔はそれを断った。
「いいよ。最後くらい、自分で持ってく」
「……そっか」
沈黙。
でも、その沈黙は優しくて、苦しくて、温かかった。
「行ってきます」
最後の言葉を振り絞るように言ったとき、裕翔は一ノ瀬さんの前に立った。
「ここに来て、本当に良かった。生きるってことが、やっとわかった気がします。……ありがとうございました」
一ノ瀬さんはただ静かに頷き、裕翔の頭をくしゃっと撫でた。
「元気でな。帰ってくる場所は、ここにある。6年後、お前が笑って帰ってくるのを楽しみにしてる」
「はい」
裕翔は一礼して、美桜の方に向き直った。
目と目が合った。たくさんの言葉がそこにあった。言わなくても、伝わる想いが、全部あった。
「行ってくる」
美桜は笑って、小さく頷いた。
「うん……行ってらっしゃい」
家の門を出て、裕翔はゆっくり歩き出した。
振り返ると、美桜と一ノ瀬さんが並んで手を振っていた。
その姿が、春の空に滲んでいく。
その瞬間、初めてぽろりと、裕翔の目から涙がこぼれ落ちた。
でも、もう立ち止まらない。
この歩みの先に、約束の未来があるから。
カバンの中には何も特別なものはない。けど、心の中には、何より大切なものが詰まっていた。
裕翔は歩いた。6年後の約束に向かって。
大切な人たちの待つ、あの場所へ、必ず戻ってくると誓いながら。
家って、帰る場所じゃないのかってずっと思ってた。
俺にとっては、ただの戦場だった。
父親はいつも怒鳴ってばかりだった。
機嫌が悪けりゃ手が出るし、機嫌がよくても急にスイッチが入る。
理由なんてなかった。ただ、目をつけられたら最後だった。
母親はそんな父を止めることもなく、逆に一緒になって俺を責めた。
「お前がいるから、うちが壊れるんだよ」
そう言われたこと、今でも忘れられない。
夕飯なんて出てこない日も多かった。
カップ麺すら隠されたこともある。
空腹で眠れなくて、夜中に水だけ飲んで布団に戻る日々。
学校に行っても、どこか他人事みたいだった。
自分だけ、透明なビニールの膜の中に閉じ込められてるみたいで。
中学を卒業して、高校に上がる直前だった。
「もう、無理だな」
そう思った朝、俺は荷物を詰めて、家を出た。
春の風はあたたかいはずなのに、この日だけは、やけに冷たく感じた。
駅のホームに座り込んで、俺はただぼんやりと人の流れを見ていた。
鞄の中には、着替えと財布と、小さなメモ帳だけ。
スマホは家に置いてきた。
あんなもの、持ってたら絶対戻される。そう思ったから。
「……どこ行こ」
自分でも、どこに向かってるのかなんて、わからなかった。
ただ、家にはいたくなかった。それだけだった。
切符を買って、電車に乗った。
流れる景色は知らない町ばかりで、それが逆に、心を落ち着かせた。
誰も俺を知らない。誰にも知られない。
そう思ったら、少しだけ息ができる気がした。
でも、都会ってのは優しくなかった。
駅前で声をかけてきた3人組の男に、いきなり胸ぐら掴まれて。
「金出せよ」
って言われた。
逃げられなかった。動けなかった。
どこかで。
(……ああ、やっぱこうなるんだ)
って思ってた。
でも、その時だった。
「おい」
低くて太い声が、響いた。
見上げると、ジャンパーを羽織った男が立ってた。
サングラス越しの目が、そいつらを見据えてる。
「子どもに何してんだ」
3人組の男たちは舌打ちして、そそくさと逃げていった。
俺は、立ち尽くしてた。何も言えなかった。
その男が、ポケットからタバコを出して、火をつけた。
煙の中で、小さく笑って言った。
「腹、減ってんだろ。飯、行くぞ」
それが、俺とあの人の出会いだった。
あの人は、俺の返事も聞かずに歩き出した。
それでも、俺は何も言えずに、その背中についていった。
人通りの少ない裏通りに入って、しばらく歩くと、古びた定食屋の前で立ち止まった。
赤い暖簾が風に揺れていて、看板の電気もチカチカしてる。
正直、ちょっと怖かったけど、あの人は構わず暖簾をくぐった。
「おばちゃん、唐揚げ定食、2つな」
カウンターに座ると同時に、そう言って煙草を灰皿に押しつけた。
俺は少し離れた席に座ろうとしたけど、手で隣を指された。
「いいから、座れ」
その声に逆らえなくて、結局隣に腰を下ろした。
厨房の奥から、店のおばちゃんが「はいよ〜」と返事をしている間、店内は妙に静かだった。
テレビの音がぼんやり流れていて、どこか遠い世界みたいだった。
「……あの、さっきはありがとうございました」
ようやく声を出すと、男は少しだけこちらを見て、小さくうなずいた。
「なんで、助けてくれたんですか」
思わず聞いてしまったその言葉に、男は目を細めて笑った。
「……困ってるやつ見たら、放っとけねぇだけ」
「そんだけだよ」
それだけの言葉だったのに、胸の奥がズキッと痛んだ。
なんだろう、たぶん、優しさが痛かった。
「飯もろくに食ってねぇだろ。」
そう言って、テーブルの上に自分の財布をポンと置いた。
「金は気にすんな。俺の気まぐれだ」
「……それに、お前、行くとこねぇんだろ?」
図星だった。何も言えなかった。
その時、厨房から湯気をまとった唐揚げ定食が運ばれてきた。
大ぶりの唐揚げが5つ。味噌汁の湯気が鼻をくすぐる。
久しぶりに、ちゃんとした飯の匂いをかいだ気がした。
「食えよ。冷めるぞ」
男のその一言に、俺は箸を手に取った。
一口目の唐揚げが、涙が出るくらいにうまかった。
衣のカリッて音と、中からじゅわっと出てくる肉汁。
味の濃さが、胃に染み込んでいく。
無言で、でも夢中で食べ続けた。
気づいたら、皿の上は何も残ってなかった。
「……うまかったです」
ぽつりと呟いたその言葉に、男はふっと笑った。
「そりゃよかった」
それだけ言って、男も箸を置いた。
「名前は?」
「……ゆうと、です」
「裕翔、な。俺は一ノ瀬。覚えとけ」
その声は、無駄に優しくもないし、無理に距離を詰めてくる感じでもない。
でも、不思議とあたたかかった。
その日、俺は一ノ瀬さんの家に泊めてもらうことになった。
理由も聞かれず、過去も掘られず、ただ布団と風呂と、少しの静けさをもらった。
その夜、布団の中で目を開けたまま天井を見ていた。
誰かと一緒に飯を食ったのは、いつぶりだっただろう。
「……変な人だな」
そう呟いた声が、少しだけ震えていた。
店を出たあと、俺たちは無言のまま歩いた。
夜の街はネオンが眩しくて、人の笑い声や車の音が遠くに聞こえていたけど、俺の中には何も響いてこなかった。
一ノ瀬さんは、振り返ることなく黙々と歩いていた。だけど、足取りは不思議と落ち着いていて、なんとなく俺はその背中についていった。
角をいくつか曲がって、少し開けた住宅街に入った。街灯の光がポツポツと地面を照らしていて、その静けさに少しだけ安心する。
古びた木造の家の前で一ノ瀬さんが立ち止まる。
「ここだ」
そう言って、ポケットから鍵を取り出すと、無造作に玄関を開けた。
中から、淡い明かりと、ほんのりとした石鹸の匂いがした。
「上がれ」
そう言われて靴を脱ぐと、木の床が少し軋んだ。玄関脇には靴が三足並んでいて、そのうちの1つは、俺と同じくらいのサイズの白いスニーカーだった。
「風呂、沸いてる。先に入ってこい」
俺が戸惑ってると、一ノ瀬さんはタバコを咥えながらソファにどかっと腰を下ろした。
「服、あとで貸す。タオルは洗面所の棚にな」
言われた通りに、俺は洗面所に向かった。鏡に映る自分の顔が少しやつれて見えた。
風呂場からは湯気が立ち上っていて、そのあたたかさに思わず肩の力が抜けた。
風呂に入ったのは、いつ以来だっただろう。
湯に体を沈めた瞬間、息が漏れた。
あったかい。
それだけで、泣きそうになった。
風呂を出ると、すでに俺のために着替えが準備されていた。Tシャツとジャージ。少し大きかったけど、清潔な匂いがして心が落ち着いた。
リビングに戻ると、一ノ瀬さんはもうソファでうたた寝をしていた。
「……あの、布団って……」
声をかけると、目を開けて、壁際の襖を指さした。
「そこの和室、使え」
俺は言われた通りに畳の部屋へ入った。布団がすでに敷かれていて、その優しさにまた、胸がきゅっとなる。
電気を消して、布団にくるまると、心臓の音がやけに大きく聞こえた。
今日一日で、世界が一気に変わった気がした。
朝、鳥の声で目が覚めた。
久しぶりに、ちゃんと眠れた気がした。枕がふかふかだとか、布団があったかいだとか、そんな当たり前のことが信じられないくらい、昨日までの俺の生活は荒んでいた。
布団を畳んで部屋を出ると、リビングからは何かを焼く音と、香ばしい匂いが漂ってきた。
「……起きたか。座れ」
キッチンに立っていた一ノ瀬さんが、フライパンをゆっくり振りながら言った。
テーブルの上には、すでに湯気の立つ味噌汁と、焼き魚と卵焼きが並べられていた。思わず目を見張ってしまう。
「……これ、全部……」
「おう。朝はちゃんと食え」
一ノ瀬さんは手際よく皿を並べながら、煙草に火をつけた。煙の向こうで、少しだけ笑ったように見えた。
「昨夜の礼、ってわけじゃねぇが、食ってくれりゃそれでいい」
俺は言われるままにテーブルにつき、箸を手に取った。味噌汁を一口すすると、じんわりと胃の奥があたたかくなった。
こんな朝ごはん、いつぶりだろう。
もしかしたら、小学生の頃が最後だったかもしれない。
「……うまいです」
ぽつりとこぼれた言葉に、一ノ瀬さんは黙って頷いた。
食べ終わると、一ノ瀬さんは黙って皿を片付けながら、煙草に火をつけた。
煙が静かに天井に向かって消えていく。
「……で、だ」
その低く落ち着いた声に、自然と背筋が伸びる。
「しばらく、ここに住ませてやってもいい」
思わず手が止まった。箸を持ったまま、顔を上げる。
「……ほんとに?」
「ただし、条件がある」
一ノ瀬さんは灰皿に煙草を押しつけ、まっすぐ俺の目を見た。
「タダ飯にタダ寝はさせねぇ。働け。うちのカフェで」
「カフェ……?」
「商店街の外れにある。喫茶レイジって名前だ。ダサいとか言うなよ、俺の名前だ」
思わず小さく笑ってしまいそうになったけど、必死にこらえた。
「ま、古くさい店だが、常連はいるし、昼間は意外と忙しい。コーヒー出すだけでも、誰かいてくれたら助かる」
「……俺で、役に立ちますか?」
「最低限、挨拶と皿洗いができりゃいい。注文取りは慣れてからでいい」
そう言って一ノ瀬さんは、立ち上がりながらコーヒーの入ったマグカップを手に取った。
「メシも出す。風呂もある。寝床もある。けど、逃げたいだけのガキを養う趣味はねぇ」
その言葉は厳しく聞こえたけど、どこか芯があたたかかった。
「……俺、やります」
自分でも驚くくらい、すぐにそう言えていた。
「じゃあ今日は朝から見学な。働き方と客の雰囲気、覚えろ。人が来る前に紹介したいやつもいるしな」
紹介したいやつ?
そう聞き返す間もなく、一ノ瀬さんはさっさと玄関へ向かった。
慌てて身支度をして、後を追う。ジャケットとジーンズを借りて、靴を履いたときにはすでに車のエンジンがかかっていた。
カフェは、商店街の一角、古いビルの一階にあった。
外観はレンガ造りで、レトロな木の看板に「喫茶ヒトシ」の文字。確かに、少しだけ時代を感じる。けど、店先に置かれた鉢植えや、ドアの横にぶら下がる風鈴が、静かな優しさを漂わせていた。
一ノ瀬さんが鍵を回してドアを開けると、微かなコーヒーの香りと木の匂いが混じった、落ち着いた空気が中から流れ出てきた。
「いらっしゃーい……って、あ、父さんか」
店の奥から、少し眠たそうな声が聞こえた。
声の主は同い年くらいの女の子だった。
髪は肩につくくらいで、エプロン姿。手にはトレーを持っていて、どうやら朝の準備中らしい。
「こいつ裕翔。今日からうちに居候することになった」
そう紹介されて、俺は慌てて頭を下げた。
「えっ、あ……こんにちは。あ、いや、はじめまして……」
「……ふーん」
女の子はトレーをテーブルに置きながら、じっと俺を見た。
「父さん、また拾ってきたの?」
「まあな」
「私はみお。よろしく」
それだけ言って、ミオは少しだけ口元を緩めた。
だけどその表情は、どこか読み取りにくい。
「こいつも店手伝ってる。高校生だ。お前と同い年くらいだな」
一ノ瀬さんがそう言うと、ミオはエプロンの紐を締め直しながら俺をチラッと見た。
「サボったら許さないから」
「……はい」
実際にサボったわけでもないのに、背筋が伸びた。
「まずは見てて。動き、真似して覚えて」
美桜はそう言って、厨房のカウンターの中へと入った。
言葉はぶっきらぼうだけど、手の動きには一切の無駄がなかった。
朝の開店前、コーヒー豆を量って、丁寧にミルで挽く。
ポットで湯を沸かしてる間に、ショーケースにパンを並べ、食器の数を確認する。
「ここ、トーストは半分に切ってから出すの。ジャムはお客さんに聞いてから」
「コーヒーは、注文聞いたらすぐお湯沸かして」
「食器は洗ったら布巾で全部拭いて、棚に戻す」
口調は冷たい。けど、説明は的確だった。
ミオの後ろ姿を見ながら、俺はひたすらうなずいた。
何度も何度も繰り返しているような手の動きは、どこか綺麗だった。
そして、静かだった。
店の中には、まだ他の音がない。外の喧騒も届かない。
まるで、店ごと、時間が止まっているようだった。
「……緊張してる?」
美桜がふと、俺の方を見た。
「……ちょっとだけ」
「ふーん。ま、最初はそんなもん」
それだけ言って、またすぐに作業へ戻る。
その背中を見ながら、なんだか少しだけ、肩の力が抜けた気がした。
開店時間になると、常連らしきおじいさんやおばさんたちがゆっくりと入ってきた。
みんな、「おはよう、ミオちゃん」と笑顔で挨拶してくる。
ミオは「いらっしゃいませ」と言いながら、いつものように注文を聞いて、コーヒーを淹れ、パンを焼いていた。
俺はといえば、コーヒーのカップを棚から出しては震える手で持っていき、トーストを間違えて2枚焼いて美桜に睨まれ、コップをひとつ割って、ものすごく謝った。
「……明日から、覚えなきゃだめだよ」
「……すみません」
仕事が終わるころには、足が棒みたいになっていた。
でも、心の中は少しだけあったかかった。
ちゃんと、何かの役に立てた気がして。
次の日も、朝から喫茶ヒトシに立った。
その次の日も。
そのまた次の日も。
雨の日も、風の日も。
開店前の店に、俺はいつも美桜よりちょっとだけ早く来ていた。
少しずつ、できることが増えた。
豆の挽き方、ミルクの温め方、トーストを焦がさずに焼くコツ。
「ジャムはイチゴとマーマレード、どっちにしますか?」
そう笑って聞けるようになったのは、たぶん一週間くらい経ってからだった。
美桜は相変わらず、必要なことしか話さない。
だけど、俺が皿を落とさずに運べた日には、目を合わせて小さく頷いた。
それが、嬉しかった。
朝の開店準備。
コーヒー豆を量り、手で挽くところから始まる。
ショーケースには焼きたてのスコーンやトースト。
テーブルを拭いて、椅子の角度を整えて。
ひとつひとつの動きに、ちゃんと理由がある。
「ここ、コースターはお客さんが座ってから置くの。最初から並べない」
「ミルクは温めすぎると泡立つから、気をつけて」
「カップの向きは持ち手が右。必ず」
声の調子は変わらないのに、教え方は丁寧だった。
裕翔は、メモも取らずに、ただひたすら美桜の手元を見つめた。
覚えることばかりで、頭がいっぱいになる。
だけど、不思議とそれが嫌じゃなかった。
やることがある。
ここに、居ていい理由がある。
開店してすぐ、年配の常連客が数人、ゆっくりと入ってきた。
「おはよう、美桜ちゃん」
「今日も暑いねぇ」
美桜は「いらっしゃいませ」と小さく笑って、スムーズに注文を取る。
裕翔は皿を運ぶ。
足が震える。手の汗でトレーが滑りそうになる。
コーヒーをひとつ、こぼしそうになって、思わず声が出た。
「……す、すみません!」
「……落ち着いて」
美桜が、短く言った。
怒っているわけじゃなかった。けれど、その一言で少しだけ冷静になれた。
昼過ぎ、客足が落ち着いたころ。
「皿、拭いてくれる? 乾燥機使わないから」
美桜が差し出した布巾を受け取って、裕翔は黙々と皿を拭く。
「父さん、気まぐれで人拾うからさ」
ふと、美桜が言った。
「……え?」
「昔から。子猫とか、捨て犬とか。で、結局面倒見るの、私」
ちょっとだけ口調が軽くなった気がして、裕翔は笑いかけようとしたけど、すぐに目をそらされた。
「……でも、ちゃんと働くなら、それでいい」
「……はい」
次の日も、朝から店に来た。
またその次の日も。
裕翔は、ほとんど休まず働いた。
食材の補充、掃除、皿洗い、トーストの焼き加減。
少しずつ、覚えていく。
ミスをすれば美桜に冷たく叱られる。
でも、できたときには何も言わず、ちゃんと次の仕事を任される。
言葉なんて、あんまりいらなかった。
働いて、汗をかいて、まかないのご飯を食べて、夜は布団で眠る。
そんな日々が、ただ繰り返されていった。
家なんて、思い出す暇もなかった。
戻りたいとも、思わなかった。
その次の日も、いつものように朝から仕込みをして、開店準備を整えた。
裕翔も、美桜も、それぞれの仕事を静かにこなしていた。
天気は晴れ。
外から差し込む陽射しはあたたかい。
だけど、美桜の動きは、朝からどこかぎこちなかった。
手元はしっかりしてるはずなのに、ポットの位置を少し間違えたり、スコーンを焦がしかけたり。
客が来ても、いつものような落ち着いた笑顔が出ない。
「……大丈夫?」
裕翔がそっと聞くと、美桜は一瞬こちらを見たけど、すぐに目をそらして。
「平気」
と、それだけ答えた。
その声が小さくて、嘘みたいだった。
昼を過ぎた頃、ドアが静かに開いた。
「……」
入ってきたのは、背広を着た中年の男だった。
ネクタイは緩み、無精ひげが伸びている。
足取りは重く、目つきは鋭い。
けれどそれ以上に、店の空気が一気に変わったことのほうが、よくわかった。
男はカウンター席に腰を下ろすと、一番に、視線を美桜に向けた。
「よぉ、今日も元気にやってんのか、ミオちゃんよ」
美桜はピクリとも動かなかった。
コップを持った手が、微かに震えていた。
「いらっしゃいませ……」
その声は、明らかにいつもとは違っていた。
どこか無理に絞り出すような声。
裕翔はすぐに気づいた。
この客が、特別だということ。
そして、美桜がこの男を恐れているということ。
男はコーヒーを頼んだ。
そして、注文と関係ない話を次々と投げつけた。
「最近、店の雰囲気変わったなぁ。あんたか?あの新入りのガキ」
裕翔を見て、あからさまに口元を歪める。
「で、美桜ちゃんはさ、夜は何してんの? 寂しいんじゃないの、ひとりじゃ?」
「……注文と関係ない話は、控えてください」
美桜が、静かに言った。
だけど、男はニヤつきながら、カップを回し続けている。
「いやいや、客と店員の雑談くらい、どこでもあるだろ?なあ?」
その笑い声に、裕翔の手が自然と握りしめられた。
もう我慢できなかった。
「……やめてもらえませんか」
裕翔は男の前に立って、声を震わせながら言った。
「……んだと?」
「彼女が嫌がってます。帰ってください」
男の表情が一気に変わった。
「おい坊主、誰に向かって口きいてんだ」
立ち上がると、その背は裕翔より頭ひとつ分大きい。
胸ぐらを掴まれ、後ろへ押しやられる。
「表、出ろや」
「あ……!」
美桜の声が響いたが、すでに裕翔は腕を引かれて、店の外へ連れ出されていた。
路地に引きずり出された瞬間、拳が飛んできた。
避けられなかった。
頬に強い衝撃。
地面に倒れこむと、アスファルトの冷たさが体に染み込んできた。
「ガキが調子に乗ってんじゃねえぞ!」
男はさらに足を振り上げようとしたが。
「やめてっ!」
美桜の叫び声が割って入った。
「もうやめてよ!」
その声に、男の動きが止まる。
裕翔の方を睨みながら、舌打ちしてから男は去っていった。
振り返ることもなく。
路地に残されたのは、うずくまった裕翔と、立ち尽くす美桜だけだった。
「……ごめんなさい……」
しゃがみこんだ美桜が、裕翔の肩に手を伸ばす。
「私のせいで……あんな奴、また来たのも……私が何も言えなかったから……」
声が震えていた。
「ずっと、いやだったのに……強く言うのが怖くて……」
美桜の目から、涙がこぼれ落ちた。
声を殺して泣く姿は、いつもの冷静な彼女とはまるで違っていた。
裕翔は痛む顔をしかめながらも、無理に体を起こして、美桜の手を握った。
「……俺、情けないな。全然守れなかった」
「ちがう……!」
美桜が顔を上げる。
「誰にも言えなかったこと、今日……あんたが言ってくれたから、やっと少しだけ……怖いって言えた。……それだけで、救われたんだよ……!」
その声は弱くて、でも確かだった。
裕翔の心に、その言葉がゆっくりと染みていった。
その日、閉店後の店内は静かだった。
片付けを終えたあと、美桜は黙ってキッチンの椅子に座っていた。
裕翔も隣に腰を下ろす。
どちらからともなく、ふたりとも手を伸ばした。
次の日、美桜はいつもより少し早く店に来た。
静かな店内、まだ陽は昇りきっていない。
「……おはよう」
「……ああ、おはよう」
裕翔もすでに店にいて、掃除機を片手に立っていた。
昨日殴られた頬は、少し腫れている。
美桜は、それを見て、何も言わず。けれど一度、深く頭を下げた。
「昨日……ほんとにありがとう」
「ううん、俺こそ……何もできなかった」
「違う。……あの人に、帰ってくださいって言ってくれたの、あんたが初めてだった。父さんでさえ……いつも何も言わなかった」
そう言って美桜は、窓を開けて、朝の風を入れた。
それだけで、空気が少し軽くなる。
それからの数日、何かが変わった。
いつものように仕事をしているのに、時折、ふと目が合う。
無言のまま、どちらかが目をそらす。
でもそれは、気まずさじゃない。
むしろ、照れくささに近かった。
美桜が裕翔に仕事を教えるとき、前よりも少し声がやさしい。
裕翔も、笑顔で。
「ありがとう!」
と返すことができるようになった。
そして気づけば、まかないを食べるとき、自然と隣に座るようになっていた。
「なんで……そんなに優しいの?」
ある夜、片付けを終えたあと、美桜がぽつりと聞いた。
「え?」
「昨日のことだって、無理しなくてよかったのに。私、誰にも助け求めなかったのに。……なんで、そんなふうにできるの」
裕翔は、少しだけ黙って考えたあと、言葉を選ぶように話した。
「俺、家では……誰にも見てもらえなかったんだ」
「え?」
「父親はギャンブルで借金作って、母親はそれに疲れてて、俺に構う余裕なんてなかった。飯もろくに出なかったし、喧嘩の声がするたびに、耳ふさいでた」
美桜が、そっと裕翔の顔を見る。
「だからかな。誰かが辛そうなの、見てるだけって、……もう、したくなかった」
「……」
「俺、弱いし、殴られたらすぐ倒れるし……でも、逃げたくなかった。君が怖がってるの、見てたくなかったんだ」
その君という言葉に、美桜のまつ毛が揺れた。
「……名前、呼ばないの?」
「え?」
「美桜、って」
「……あ」
裕翔は目を逸らして、ほんの少し頬を赤くした。
「じゃあ……今度から、そう呼んでいい?」
美桜は、口元だけで少し笑った。
「うん」
その夜、店を出たとき、空には満天の星が広がっていた。
真っ暗な空に、ぽつりぽつりと光る無数の点。
街灯の下で、ふたりの影が並ぶ。
まだ触れない距離。
翌日は、美桜が午前中だけ店を空けていた。
「ちょっと役所に用事があるから」
そう言って、エプロンを外して出ていった。
裕翔は、ひとりでカウンターに立っていた。
開店直後で、まだ客足はまばら。
特に問題はない。そう思っていたそのときだった。
カラン、とドアベルが鳴った。
男が、ひとり。
そして、すぐにふたり、続けて入ってきた。
スウェットの上下。柄の悪い目つき。
腕に入ったタトゥー。
そのどれもが、明らかに普通の客ではなかった。
裕翔はすぐに気づいた。
やばいのが来たと。
「……いらっしゃいませ」
声を出すのが精一杯だった。
男たちは何も言わず、カウンター前に座った。
一番前の男が、にやりと笑って言う。
「なんだ、あの女いねぇのか?」
裕翔の背筋がぞっとした。
わかってる。目的は、美桜だ。
「店員ですか? 本日は……席をお選びください」
言葉を濁すと、男たちは笑った。
「へぇ。おまえが代わりに仕切ってんのか」
あの男と、繋がっている。裕翔は、そう直感した。
裕翔の手が、震えた。
でも、逃げられない。
美桜はいない。自分しかいない。
「ご注文……いただけますか」
なんとか声を絞り出すと、男は机をドンと叩いた。
「コーヒーだよ。熱いやつ。早く持ってこい、なぁ?」
「……はい」
背中に視線を感じながら、裕翔は厨房に入った。
手が震えて、コーヒーカップが1つカチンと音を立てた。
「落とすなよぉ、新人くん」
「きれいな顔が、熱湯でぐちゃぐちゃになったら、かわいそうだもんな?」
このままじゃ、だめだ。
逃げる?警察を呼ぶ?
でも、店を放って逃げたら、美桜に迷惑がかかる。
俺が、守らなきゃ。
コーヒーを手に、カウンターへ戻る。
「お待たせしました」
裕翔が一杯目を置こうとしたそのとき。
男のひとりが、わざと肘をぶつけてカップを倒した。
ガシャン!という音と共に、熱いコーヒーが床に広がる。
「おいおい、なにしてんだよ。客にかけるつもりだったのか?」
「マジであぶねぇなぁ。やる気あんのか、コラァ」
後ろから、もうひとりが裕翔の肩を掴んだ。
「外、出ようぜ。話しようや」
路地に引きずり出された。
前に2人、後ろに1人。
完全に囲まれていた。
「なあ、聞いたんだよ。お前、こないだうちのツレに歯向かったらしいじゃん」
「女にいいとこ見せようとしたのか?なぁ?」
「クソダサい。クッソ笑えるよな」
拳が振り上がる。
次の瞬間、痛みが襲った。
腹を、殴られた。
息が詰まって、膝が崩れそうになる。
「おい、立てよ。これだけか? 守りたかった気持ちはよぉ」
「おまえみたいなガキが、背伸びしてんじゃねえんだよ」
もう一発。
今度は頬。視界が揺れる。
けど逃げたくなかった。
ここで逃げたら、全部無駄になる。
あのとき、美桜の手の温度に救われた自分が、嘘になる。
「……お前らこそ……なんなんだよ」
歯を食いしばって、立ち上がる。
「女に手ぇ出して……今度は俺か? 恥ずかしくねえのかよ……!」
「は?」
「自分で立ってる人間、壊そうとして、なにが楽しいんだよ……!」
言葉は震えていたけど、目は逸らさなかった。
「やめてッ!」
その瞬間、美桜の声が響いた。
店から走ってきたのだろう。
息を切らして、裕翔の前に立った。
「やめてよ……!もうやめてよ……!」
「おまえ……いつ戻ったんだよ」
「関係ないでしょ! 関係ない人にまで手を出して、何がしたいの!」
男たちは舌打ちして、面倒くさそうに身を引いた。
「チッ……つまんねえな。じゃあ、またな」
そのまま3人は、路地を去っていった。
裕翔は、崩れるようにしゃがみ込んだ。
美桜がすぐそばに駆け寄ってくる。
「……ごめん、ほんとに、ごめん……!」
「いや……大丈夫。大丈夫だから……」
「私が、店にいなかったから……!」
美桜の目に、涙が滲んでいた。
「私、もう誰にも迷惑かけたくないって思ってたのに……!なのに……!」
裕翔は首を横に振った。
「違う。俺が勝手に立ち向かっただけ。……でも、俺、もう逃げたくない」
「私も……」
「え?」
「私も、もう誰かの後ろに隠れるの、やめたい……。あんたと一緒なら、そう思える」
ふたりの手が、そっと重なる。
震えていたのは、どちらの手か、もうわからなかった。
その事件から3日後の夜は、不思議なくらい静かだった。
夏の夜風が、窓の隙間からふわりと店内に流れ込んでくる。
外の商店街はもうほとんど人もいなくて、かすかに風鈴の音だけが聞こえていた。
「今日、涼しいね」
美桜が、窓辺でカーテンを軽くなびかせながら言った。
「うん。……エアコンより、気持ちいい」
裕翔はカウンターの上のグラスを1つずつ拭きながら答えた。
ふたりだけの、閉店後の時間。
別に何か特別なことを話すわけじゃないけれど、それが心地よかった。
「……この時間、好きかも」
美桜がぽつりと呟いた。
「閉店してから、こうして静かに後片付けしてると、頭の中がすーってなる」
「わかる。……俺も、この店で働くようになってから、夜が怖くなくなった気がする」
「……怖かったの?」
「うん、前は。家にいると、いつ怒鳴り声が飛んでくるかとか、何か投げられるかとか……ずっと耳を塞いでた」
そう言って、裕翔は少しだけ手を止めた。
グラスを布巾で包んだまま、視線を落とす。
「でも、こっち来てから、夜って……こうやって終わっていくんだなって知った。ちゃんと働いて、ちゃんとご飯食べて、誰かと話して……そんな風に、1日が静かに終わっていくことがずっと、知らなかった」
美桜は何も言わず、静かにその言葉を受け止めていた。
店内の時計の針の音が、カチ、カチ、と響く。
「俺さ」
裕翔が、ふと呟くように言った。
「たぶん、ここに来てから初めて、誰かのこと……ちゃんと守りたいって思った」
美桜が、動きを止める。
「……それ、いつの話?」
「たぶん……あの時、かな。例のヤバいやつが来た日。美桜が、黙ってコーヒー淹れてたあの日。あの時、初めて守りたいって思った。それまで、誰かを守りたいとか、思ったこと一度もなかったけど」
言ってしまったあと、裕翔は自分でちょっと驚いた顔をした。
でも、取り繕わずにそのまま続けた。
「なんか、美桜って、見た目きつそうだし、すぐ突き放すし……冷たい人かと思ってた」
「は?」
「でも、すごい細かいとこまでちゃんと見てるし、優しいとこ……いっぱいある」
「……なんで急に、そんな……」
「いや……うん、ごめん。なんか、あんまり言うつもりなかったんだけどさ。言っとかないと、また怖くなりそうだった。誰かを守ろうとした気持ちが、ただの気の迷いみたいになるの、嫌だったからさ」
美桜は、何も言わなかった。
でも、ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
「そっか……ありがと」
それだけ言って、美桜は洗い場に向き直った。
でも、その背中が、さっきより少しだけ軽くなったように見えた。
夜は、少しずつ深くなっていく。
ふたりの会話も、だんだん少なくなって、
静かな音が店に残った。
けれどその静けさは、どこかあたたかくて。ふたりだけの夜だった。
「裕翔、ちょっと来い」
朝のカフェ。開店準備をしていたとき、一ノ瀬さんに呼ばれた。
「はい」
厨房の奥、事務所代わりの小さなスペースに通される。
薄暗い部屋に、古びたデスクとパイプ椅子。
窓際に山積みの書類と、タバコの匂い。
裕翔は少し緊張して、姿勢を正した。
「お前、今年の春で16だったな」
「はい」
「……学校、行く気はあるか?」
「……え?」
言葉の意味がすぐに理解できなかった。
一ノ瀬さんは、ライターでタバコに火を点けながら続ける。
「中学は出てるって聞いた。高校は……行ってなかったんだよな」
「はい、あの、家の事情で……。それに、逃げてきた身だし……」
「……関係ねぇ」
バチッ、と灰皿にタバコの灰を落としながら言ったその声は、意外と優しかった。
「ウチのツテで、ひとつ受け入れてくれる学校がある。今の時期でも編入できる。通信もあるが、通学コースも選べる」
「……ほんとに……?」
「バイトとして働いてるって体で、学費の一部は店が出す。……残りは、稼いで返せ」
裕翔の喉が詰まった。
「そ、そんな……でも……」
「俺も、昔は学校なんてクソくらえだと思ってた。けどな、やっぱ学歴ってのは、逃げた過去を埋める武器になることがある。少なくともお前がこの先、どんな道選んでも、助けになる」
「……」
一ノ瀬さんは立ち上がり、分厚い茶封筒を取り出した。
「とりあえず、今日はこの書類持って、学校まで手続きに行ってこい。うちからの推薦も通ってる。制服の採寸と、簡単な面談だけだ」
「……俺が……高校に……?」
裕翔は、ぽかんとした顔で封筒を受け取った。
その日の午後。
裕翔は、少し大きめのリュックを背負って、駅前の校舎に向かった。
初めて歩く道。
少しよれたスニーカーの音が、アスファルトにカタカタと響く。
学校の門の前に立ったとき、自然と背筋が伸びた。
(俺、こんなとこに……通うのか)
中学以来の教室の空気。
白いワイシャツにネクタイ、校内に響くチャイム。
全部が眩しく見えて、でも不思議と、居場所がないとは思わなかった。
事務室で簡単な説明を受け、制服の採寸を終えたあと、面談に案内された小さな教室。
裕翔は、深く一礼した。
「……よろしくお願いします」
教師は、にこやかにうなずいた。
「君の話は、一ノ瀬さんからしっかり聞いているよ。頑張ろうな」
帰り道。
教科書と資料を入れた袋が、少し重かった。
でも、心の中は、今までにないほど軽かった。
帰ってきた店で、美桜が目を丸くして言った。
「えっ……ほんとに?入学?」
「うん……なんか、急に決まってさ」
「制服とかどうするの?」
「採寸してきた。明日から、通えるって」
「……あんた、ちゃんと……高校生になるんだ」
ふっと、美桜の顔が緩んだ。
「じゃあさ、朝の通学、一緒にできるじゃん」
「え、あ……うん、たぶん、そうなる」
「……制服、似合うといいね」
「……うるさいよ」
「今日は特別メニューだからねー」
キッチンから、美桜の声が聞こえた。
夜のカフェはもう閉店していて、照明も少しだけ落とされている。
厨房から漏れる明かりと、カウンター越しに漂ってくる香りが、裕翔の胸を、じわりとあたためていた。
「特別って、何?」
「学校入学祝いでしょ。ちょっと贅沢して、お父さんが肉買ってきた」
「肉……?」
「そう、ステーキ」
裕翔は一瞬、耳を疑った。
ステーキなんて、テレビの中の話だと思ってた。
小さい頃にファミレスで一度食べたきり、家ではほとんど出なかった。
しばらくして、美桜が皿を運んでくる。
じゅうじゅうと湯気を立てる分厚い肉。
彩りの良い付け合わせ。スープに、白ごはん。
まるでレストランみたいな夕食が、テーブルの上に並んだ。
「うわ……ほんとに、ステーキ……」
「そりゃ本気だよ。今日だけは、ちゃんと祝うんだから」
「……ありがとう」
裕翔は、真剣に言った。
美桜はちょっと照れくさそうに笑って、自分の席につく。
「いただきます」
その言葉を言ったあと、ナイフとフォークを持つ手が、少し震えていた。
噛みしめるたび、脂の甘さがじんわりと口に広がる。
「……うまい……」
「でしょ?」
美桜は得意げに言った。
裕翔は黙々と食べながら、ふと視線をテーブルの端に落とす。
(俺……今、ちゃんと生きてるな)
炊きたてのご飯。あったかいスープ。
誰かと一緒に食べる夜ごはん。
それは、ただの食事じゃなかった。
ちゃんとした明日が来るって、心に教えてくれるような味だった。
食べ終わったあと、食器を下げながら美桜がぽつりと言う。
「……なんか、ちゃんとお兄ちゃんになった感じするね」
「お兄ちゃん?」
「うん。高校通って、制服着て、真面目に働いて……最初来たときのボロボロだった裕翔とは、別人みたい」
「……恥ずかしいじゃん」
裕翔はちょっとだけ顔を背けた。
食器を片づけたあとは、順番にお風呂。
湯気の立ち込める風呂場に入り、服を脱ぐと鏡に映った自分の体が思っていたよりも痩せていて、少しだけ胸が苦しくなった。
(これからは……ちゃんと、自分のことも大事にしていこう)
湯船に肩まで浸かると、体中の力が抜けていく。
ふぅ、と大きく息を吐いて、天井を見上げた。
風呂にゆっくり浸かることすら、今までは贅沢だった。
怒鳴り声も、ドアを蹴られる音もしない。
ただ静かに、お湯の音と、自分の呼吸だけが聞こえる。
それだけで、涙が出そうだった。
風呂から出て、自分の部屋に戻る。
部屋、と言っても、カフェの二階の一室を借りているだけ。
ベッドと机、衣装ケースだけのシンプルな空間。
でも、ちゃんと布団があって、毎晩電気毛布じゃなくて、ちゃんとしたシーツがあって。
何より鍵がかかる部屋ってだけで、信じられないくらい安心できた。
タオルを乾かし、髪を拭きながらベッドに腰を下ろす。
天井を見上げる。
(明日から……高校生、か)
まだ少しだけ信じられない。でも、制服のカタログが目の前にあるし、教科書だって、部屋の片隅に積んである。
逃げてばかりだった毎日が、少しずつ、前に進み始めてる。
その実感が、じんわりと胸の奥に広がっていく。
ベッドに横になり、布団を引き寄せたとき、ふと、美桜の声が頭の中によみがえった。
「初めて、ぜんぶ埋めてあげるよ」
裕翔は、思わず笑ってしまった。
(ほんと、言葉キツいくせに、優しいんだよな)
まぶたを閉じると、静かに眠気がやってきた。
風の音も、遠くの車の音も、今夜はどれも優しく響いていた。
朝の光が、カーテンの隙間から静かに差し込んでいた。
チュンチュンと鳴く小鳥の声。
通りを走るトラックの音。
カフェの階下からは、一ノ瀬さんの足音が聞こえる。
裕翔は、ベッドの上でゆっくりと目を開けた。
天井を見上げる。
そして、自分が高校生になったことを、ふと思い出す。
(……今日から、俺は、ちゃんと生きるんだ)
胸の奥がじわっと熱くなる。
でも、起きなきゃ。そんな感傷に浸ってる暇なんかない。
制服は、昨日の夜、ハンガーにかけておいた。
真新しいブレザー。ネクタイ。シャツ。
まだ一度も袖を通していないその布は、自分には似合わない気がして、少しだけ身構えてしまう。
鏡の前に立ち、そっと袖を通す。
ネクタイを何度かやり直しながら、不器用に結んで。
(……なんか、コスプレみたいだな)
裕翔は苦笑する。
でも、少しだけ背筋が伸びた気がした。
階下に降りると、カウンターにはすでに朝食が用意されていた。
「よっ、高校生」
新聞を片手に、一ノ瀬さんがニヤッと笑う。
「……まだ慣れてないです」
「顔に出てる。シャツのボタンひとつずれてるぞ」
「あ、マジで……」
「落ち着け。初日はそれで十分だ」
食卓には、焼き鮭、味噌汁、卵焼き、ごはん。
どこに出しても恥ずかしくない、ちゃんとした朝ごはん。
「美桜は?」
「もう着替えてる。……あいつ、ああ見えて張り切ってんのかもな」
そのとき、トントンと階段を下りてくる音。
制服姿の美桜が、髪をまとめて現れた。
カバンを肩にかけて、軽く裕翔を見たあと。
「……似合ってんじゃん」
「う、うそ。絶対バカにしてる」
「いや、普通に似合ってる。……ちゃんと、高校生の顔してるよ」
そう言って、美桜は先に靴を履きに行った。
裕翔は、どこかくすぐったいような気持ちで、その背中を追いかけた。
通学路は、穏やかな朝の空気に包まれていた。
制服を着た中高生が、駅へ向かって歩いている。
裕翔は、その流れの中に自分が自然と混ざっていることが、信じられないような。
でも不思議と心地よいような。
そんな気分だった。
「緊張してんの?」
美桜がふいに聞いてきた。
「そりゃ、するだろ。初日だし……」
「ま、教室までは送ってあげる。うち、3階で、あんたのクラス1階だし」
「……そっか。ありがと」
校門の前には、生徒指導の先生が立っていて、
登校してくる生徒たちに「おはよう」「シャツ出てるぞ」なんて声をかけていた。
裕翔は、一歩足を踏み入れた瞬間、背中に汗がにじんだ。
全部が眩しく見えた。
笑い声、走る音、教科書を小脇に抱えた生徒たち。
知らない世界。でも、もう逃げない。
「このへんで、私とはバイバイだな」
昇降口の前で、美桜が足を止めた。
「うん……ありがと、ここまで」
美桜は昇降口の階段を上っていった。
教室に入ると、先生と何人かの生徒がもう座っていた。
裕翔は少し戸惑いながら、挨拶のタイミングを探していたが、先生が気づいて声をかけてくれた。
「お、君が今日から来る編入の子だね。どうぞどうぞ」
簡単な紹介を受けて、席に案内される。
視線が、ちらほらと集まる。
(ああ……やっぱ、見られてる)
でも、不思議といやな感じじゃなかった。
ただの興味。
裕翔は、小さく会釈して、与えられた席に腰を下ろした。
午前の授業。
数学、国語、英語。
ノートをとるのも久しぶり。
先生の話を聞きながら、文字を追っていく。
懐かしいような、でも全く新しいような。
「お昼、ひとり?」
隣の席の男子が、ふいに声をかけてくれた。
「え?……あ、うん」
「よかったら一緒に食べる? まだ友達いないっしょ」
「……うん、ありがとう」
小さな優しさが、胸にしみた。
午後の授業が終わって、帰りのHR。
最後に先生が言った。
「明日から、体育もあるから、体操服持ってくるようにねー。……あ、裕翔くんはまだ準備できてないか。貸し出しあるから大丈夫だよ」
名前を呼ばれるたびに、自分がここに登録されたんだと実感する。
放課後。
下駄箱で靴を履き替えていると、美桜が階段を降りてきた。
「おっ、無事生きてるじゃん」
「……まあね」
「どんな感じだった?」
「うーん……思ったより、普通だった。怖くなかった」
「それが普通ってやつだよ。……それ、今日から手に入れたやつね」
「……うん」
帰り道は、朝より少しだけ会話が弾んだ。
今日の授業の話。隣の席の子の話。
美桜のクラスの男子がうるさいとか、そんなたわいない話。
だけど、その全部が、裕翔にとっては宝物のようだった。
「制服、しっかり着てると、ちゃんと高校生に見えるよ」
「……ありがと」
「明日も頑張ってね」
「うん。……明日は、今日よりもちょっとだけ」
明日が怖くないって、なんて幸せなんだろう。
「なあ、美桜。来週の土曜って……祭りの日、合ってるよな?」
夜のリビング。
一階のカフェは営業を終え、洗い物も片づいて、今はまったりとした休憩時間。
ソファに並んで座った裕翔と美桜は、コンビニアイスを食べながら、スマホを覗き込んでいた。
「うん、8月17日。地元の商店街の夏祭り。毎年やってるやつだよ」
「天気、どうかな」
「今のところ晴れ予報。めちゃくちゃ暑くなりそうだけどね」
「そっか……浴衣か?」
「もちろん。女子の夏はそれ着ないと始まらないでしょ」
「男子は……どうなんだ?」
「着なよ。似合うと思うけど?」
「持ってねーし」
「うちのじいちゃんのなら貸せる。少し大きいけど、逆にそれがいいのよ、ゆるっとして」
「……マジで?」
「マジマジ。見て、これ」
美桜がスマホのアルバムを開いて、去年の祭りの写真を見せてくれた。
屋台、提灯、人混みの中で笑う浴衣姿の彼女。
でもその笑顔は、どこかつかれたようで、少しだけぎこちなかった。
「去年も行ったんだな」
「うん、友達とね。でも、あんまり楽しくなかった」
「……なんで?」
「それは、また今度話す。帰り道にでも」
「ふーん」
「でも、今年は違う。今年こそ、ちゃんと楽しい祭りにしたいの。笑って帰りたい」
そう言って、美桜はアイスの棒をゴミ箱に投げ入れた。
「でさ、今のうちから計画立てとこうよ。どの屋台から回るか、タイムスケジュールまで」
「おいおい、ガチかよ」
「当たり前。時間は限られてるんだから、ちゃんと使わないと損。裕翔、今までに何回くらい夏祭り行った?」
「……ガキの頃に、町内のやつ。たぶん2回」
「じゃあ、今年でそれ取り返すんだよ」
美桜は小さなノートを取り出して、真ん中あたりのページを開いた。
「えーっと、まずは集合。17時半に駅前。浴衣着てくること。んで、18時に会場入り。19時までに屋台めぐり、19時から神社の境内で盆踊り、20時から花火……」
「ちょ、待て、マジでタイムスケジュールあるの?」
「うん。抜かりなく計画立てるのが、祭りを楽しむコツ」
「人生で初めて聞いたぞ、そんなの……」
「楽しい時間ってさ、ぼーっとしてるとすぐ終わっちゃうんだよ。だから私は、ちゃんと楽しむ準備しておきたいの」
その言葉が、妙に胸に刺さった。
何気ない一言なのに、美桜の言葉には、どこか強い意思があった。
もしかしたら、過去に。いや、今も、何かと闘ってるのかもしれない。
そう思った。
「じゃあさ」
裕翔はそっと声を落とした。
「その……一番最初に行きたい屋台、ある?」
「え?」
「どうしても行きたいとこ。最初に」
「うーん……金魚すくい、かな」
「金魚?」
「いつも全然取れなかったんだけど、今年こそって思ってるの。もう、何年越しのリベンジよ」
「じゃあ決まりだな。最初は金魚すくい。絶対」
「ふふ、頼んだよ、スケジュール係」
時計の針が、22時を回っていた。
美桜はノートをパタンと閉じて、大きくあくびをした。
「じゃあ、そろそろ寝よっか。祭りまであと1週間。楽しみ、ちゃんととっておかないと」
「うん、ありがとな。浴衣、マジで助かる」
「うちのじいちゃんも、喜ぶと思うよ。あんたが着てくれるなんて言ったら、鼻の下伸ばして仕立て直すかも」
「やめてくれ……」
「ふふ、おやすみ」
「おやすみ」
そう言って、美桜が部屋を出ていく。
カチ、とドアが閉まり、静かな空気が戻った。
ベッドに寝転びながら、裕翔は天井を見上げた。
(祭りか……)
たったそれだけのことが、こんなに待ち遠しいなんて。
数ヶ月前の自分には、想像もできなかった。
誰かと予定を立てて、笑って、楽しみにして。
そんな普通の幸せが、今の自分にはものすごく大きい。
「……早く来いよ、1週間」
呟いた声は、少し震えていた。
けれど確かに、胸の奥には静かな光が灯っていた。
火曜日の放課後。
校門を出た瞬間、少し強い風が吹いて、裕翔の制服の裾がふわっとなびいた。
「今日も……なんとか乗り切った」
昨日より少しだけ、教室の空気にも慣れてきた。
誰かと会話を交わす場面も少しだけ増えた。
とはいえ、まだよそ者感は拭いきれていない。
鞄を肩にかけ直しながら、歩いていたその時だった。
「おい」
不意に後ろからかかった低い声に、ピクリと肩が跳ねた。
振り向くと、立っていたのは、一ノ瀬さん。
「……なにしてんすか」
「迎えに来てやったんだよ。さっさと来い」
「え? どこに」
「文句言うなら、置いてくぞ」
そう言って、スタスタと歩き出す。
裕翔は「はぁ?」と言いながらも、慌ててその背中を追った。
連れて来られたのは、町中の電器屋だった。
入口の自動ドアが開き、冷房の風が身体に当たる。
「……スマホ売り場?」
「そうだ」
「なんでここ……」
「お前、連絡手段ないだろ。美桜に借りてばっかじゃ仕方ない。仕事場でも、学校でも、こっちも不便なんだよ」
「……」
思わず言葉が詰まる。
スマホが欲しくなかったわけじゃない。
ただ、誰かに買ってもらうのはどうしても、引っかかっていた。
「俺、まだ金……」
「働いて返せ。分割払いだと思え。利子は取らねぇ」
「……ほんとにいいんですか」
「いいから連れて来たんだろ。ほら、選べ。高すぎんのはナシだ。予算5万まで」
「え、けっこうあるじゃん……!」
「うるせぇ。どうせ1年で壊すんだろうが」
あれこれ迷った末に。
結局、裕翔が選んだのは、無難な黒いスマホ。
性能よりも、シンプルな見た目と、手のひらに馴染む重さで決めた。
契約手続きを待つ間、一ノ瀬さんは腕を組んで無言だった。
店員が手続き用紙を持ってくると、保証人の欄にすっと名前を書いた。
その手の動きが、妙にかっこよく見えた。
店を出た頃には、外はすっかり夕暮れだった。
裕翔は新品のスマホを両手で握りしめながら、ポツリと呟く。
「……ありがとうございます」
「礼なんかいらねぇよ」
「でも……」
「貸しが1つ増えたな。返せよ」
「……ぷっ」
思わず吹き出してしまう。
「言うと思いましたよ、それ」
「当たり前だろ。俺は商売人だ。タダでモノをやるほど、甘くねぇ」
「はいはい、わかってますよ、社長さん」
「うるせぇ。歩きながらセッティングしとけ」
「わかってるって……でも、マジでありがとうございます」
一ノ瀬さんはそれ以上なにも言わず、ただ前を向いて歩いた。
シャワーを浴び終えた裕翔は、髪をタオルでゴシゴシ拭きながらベッドに倒れ込んだ。
傍らには、今日手に入れたばかりのスマホが置いてある。
まっさらなホーム画面。誰の名前も、通知も、まだ何もない。
画面を軽くスワイプして、再びロックを外す。
指先が、少しだけ緊張していた。
(……こういうの、なんか照れるな)
そのときだった。
ポンッという軽い音がして、画面の上に通知が浮かんだ。
メッセージが来た。
名前は「美桜」
『これで、ようやく連絡つくようになったね』
『てか、さっきまでスマホの持ち方ぎこちなくて笑った』
『どんだけ昭和だよ』
裕翔は思わず、クッと笑った。
文章だけなのに、声が聞こえたような気がする。
(お前な……)
スマホのキーボードに慣れない指で、ゆっくりと返信を打つ。
『買ったばっかなんだから仕方ねえだろ』
『でも、これで貸しは返したってことで』
少し間をおいて、またポンッと音がした。
美桜からすぐに返信が届いた。
『は?なに勝手にチャラにしてんの笑』
『むしろここからが本番だから』
『これから何回も頼る予定なんで。よろしく〜』
(……マジかよ)
口では文句を言いつつ、心のどこかが少しだけ、あたたかくなる。
誰かと繋がってるという事実が、まだちょっと不思議だった。
『しゃーねぇな。面倒見てやるよ』
再びポンッと返事が来る。
『ふふん、言ったなそれ』
『じゃあまずは、明日の朝。迎えに来て?』
裕翔は思わずスマホを見つめたまま、軽く笑ってしまった。
『は?お前、家近いじゃん』
『てか俺より近いだろ』
すぐに返ってくる。
『女子は朝、支度に時間かかるの!』
『待つのが男の礼儀、な?』
(なんで俺が……)
だけど、悪くなかった。
こんなふうに、くだらないやりとりができる夜。
それだけで、何かが確かに変わり始めてる気がした。
『……わかったよ』
既読がついて、メッセージは止まった。
だけど、画面越しの静けさの中に、ちゃんと気配が残ってる気がした。
ちゃんと誰かがいるっていう、心地よい実感。
裕翔はスマホを胸の上に置き、天井を見つめた。
(……貸しがまた1つ、増えたな)
そう思ったけどなぜか嫌じゃなかった。
繋がっていくということは、貸し借りの積み重ねみたいなもんかもしれない。
でも、そこに信頼があるなら借りたままでも、ちゃんと歩いていける気がした。
虫の声が、かすかに夜風に混じっていた。
朝の空気は、少しだけ湿気を含んでいた。
蝉の声が遠くでうるさく鳴いている。
裕翔はコンビニの袋を片手に、ゆるい坂道を上っていた。
(なんで俺が、朝から女子んちまで……)
コンビニで買ったアイスコーヒーの冷たさが、手にじわりと染みる。
だるそうに呟いてはみたものの、足取りはどこか軽かった。
スマホを取り出して、画面を確認する。
まだ何の通知もない。
そりゃそうか、起こすために来てるんだから。
数分後。
目的の家の前にたどり着く。
玄関は、ちょっと古びた木造の引き戸。
庭には風鈴が揺れていて、チリンとやさしい音が鳴った。
裕翔は小さく深呼吸して、呼び鈴を押した。
……シーン。
何の反応もない。
「……マジかよ」
もう一度、ピンポン。
……反応なし。
仕方なく、スマホを取り出して打ち込む。
『おい、着いたぞ。』
『つか、まさかまだ寝てんのか?』
数秒後、画面に既読がついた。
そしてポンッと通知。
『……おはよう』
『5分だけ……いや、3分待って』
『死ぬ気で支度するから……』
「絶対ムリなやつじゃん……」
裕翔は呆れながらも、門の前のコンクリに腰を下ろした。
アイスコーヒーの口を開けて、一口飲む。
冷たさが喉を落ちていく。
(ったく……)
そう呟いた瞬間だった。
ガラッ。
玄関が開いて、慌ただしい足音が聞こえてきた。
「ま、間に合った……っしょ……?」
肩で息をしながら、美桜が現れた。
制服のリボンはちょっとズレてるし、靴下も左右の長さが違う。
「ギリ、アウトだな」
「うっさい、女子の朝をなめるなよ……」
「鏡見てから出てこい。リボン逆だし、髪も爆発してんぞ」
「えっ……ちょ、マジで?!」
美桜はその場で慌ててリボンを直し始めた。
寝癖が跳ねた髪の毛をぐしゃぐしゃと押さえる姿が、ちょっとおかしくて。
「……なんか、お前って完璧じゃないとこ多いよな」
「うるさいな、朝は弱いの!」
「弱すぎんだろ」
「文句あるなら来んな!」
「お前が呼んだんだろーが」
そんな言い合いをしながら、2人は並んで歩き出す。
陽射しがじりじりと強くなっていく中裕翔はこっそり、美桜の横顔をちらっと見た。
(なんか、いいな……こういうの)
変に気取らず、飾らず、ただこうして一緒に歩ける朝。
知らない誰かと交わすより、よっぽど価値がある気がした。
美桜がふと立ち止まり、スマホを取り出す。
『今日の朝、ちゃんと迎えに来たことは一生忘れないから』
『つまり、ずっと貸しを覚えとけってことね?笑』
裕翔は肩をすくめて、スマホを打った。
『一生って……重っ』
『けど、ちゃんと返すよ。ちゃんと』
画面に、既読マークがつく。
そして少し遅れて、美桜が小さく笑った。
「じゃ、学校行こっか」
「おう」
蝉の声がさらに強くなって、夏の朝が、本格的に始まりを告げた。
教室の窓からは、蝉の鳴き声と焼けるような陽射しが入り込んでいた。
午前の授業が終わり、昼休みに入る。
クラスメイトたちは弁当を広げたり、スマホを見たり、思い思いの場所にいく。
裕翔は鞄からコンビニのおにぎりを取り出すと、窓際の席で黙々と食べ始めた。
(……なんか、だいぶ慣れてきたな)
転校してきたばかりとはいえ、特別な歓迎ムードはなかった。
でもそれが、逆に居心地よかった。
そこへ。
「よっ」
明るい声がして顔を上げると、美桜が机の前に立っていた。
「相変わらず、ぼっち飯だね」
「言い方な……」
「でも、ちょっと安心した」
「は?」
美桜は隣の空席に勝手に座りながら、サンドイッチの袋を開けた。
「昨日さ、誰かとすぐ仲良くなったらちょっとイヤかもって思ってた」
「いやなんでだよ」
「別に。なんとなく。……独占欲?」
「さらっと怖いこと言うなよ」
「冗談に決まってんじゃん。……たぶん」
裕翔は苦笑しながら、冷たいお茶をひと口。
美桜はその横で、サンドイッチを頬張りながらスマホをいじっている。
そんな他愛もない時間が、なんだか妙に落ち着く。
放課後。
駅から少し離れたカフェへと2人で戻る。
バイトは今日は休みだったけど、家に帰るだけなのは不思議と寂しい。
特に会話を交わすわけでもなく、並んで歩くだけでも。それで良かった。
夜。
一ノ瀬さんと3人で夕飯を食べたあと、風呂を済ませて自室に戻る。
裕翔はベッドに腰を下ろし、スマホをぽちぽちといじっていた。
新しく作ったSNSのアカウントはまだほとんど空っぽだ。
だけど、連絡先に誰かがいるというだけで、この部屋が少しだけ広く感じた。
(さて……)
裕翔はスマホを置いて、布団をめくろうとした。
その瞬間。
「……やっほ」
「……は?」
目を凝らすと、布団の中で誰かがモゾッと動いた。
「ちょ、おま……!?」
「うるさいって、声でかい」
「なんでお前、俺んとこにいんだよ!」
「……いや、ちょっとだけ、居たくなっただけ」
「はあ!?」
「布団の中、意外と涼しくて快適だったし?」
「そーいう問題じゃねぇだろ!てか、意味わかんねぇし!」
裕翔が慌てて電気をつけようとするのを、美桜が手で押さえた。
「電気、つけるな」
「いや、つけさせろや!」
「……なんか、今日は静かなとこに居たかったんだよ。誰にも話しかけられないで、誰にも見られないとこに」
「……は?」
「……でも、なんかね。裕翔の部屋なら、いいかなって思っちゃったんだよね」
「……」
「……迷惑だった?」
その声は、いつもより少し小さくて、どこか弱々しかった。
裕翔は、手を止めた。
(……なんなんだよ)
(そんな声出されたら、怒れねぇだろ……)
「……しゃーねぇな」
布団を半分持ち上げて、自分もそこに潜り込んだ。
「ちょ……なにしてんの」
「いや、お前が居るから寝れねぇっつってんだろ。一緒に寝るしかねぇだろ、もう」
「……バカ」
「うるせぇ」
美桜の髪の匂いが、ほんのり鼻先をくすぐった。
言葉は少なかったけど、
その夜のぬくもりは、やけに心に残った。
貸しと借りと、照れと優しさ。
どっちがどれだかわかんねぇまま裕翔は、目を閉じた。
朝から蒸し暑かった。
蝉の声もいつもよりうるさく感じる。
学校の帰り道、裕翔と美桜はアイスをかじりながら歩いていた。
「明日、晴れるかな」
「晴れるだろ。つか、雨降ったら泣く」
「花火もあるしね。」
「……そうだね」
美桜はアイスの棒をくるくる回しながら、裕翔の顔をチラッと見た。
「なんかさ、こういうのって初めてかも」
「祭り?」
「うん。誰かとちゃんと計画立てて、明日が楽しみって思うの。……ちょっと変な感じ」
裕翔は黙って歩きながら、空を見上げた。
雲ひとつない、夏の空。
「……わかる」
それだけ言って、アイスの最後をかじった。
夕方。
カフェに戻った2人は、店の片付けをしながら明日の話で盛り上がった。
一ノ瀬さんは
「お前ら明日は店はいいから、楽しんでこい」
って言ってくれた。
「……あの人、マジで恩人だよな」
「でしょ?だから、しっかり返してね?その恩」
「わかってるって」
テーブルを拭きながら、美桜がぽつりと呟く。
「明日、うまくいくといいね」
裕翔はその言葉に、少しだけ違和感を覚えた。
「……うまく?」
「うん。なんか……変なこと、起きなきゃいいなって」
「何ビビってんだよ、花火だぞ?屋台だぞ?焼きそばに、たこ焼きに」
「りんご飴と、金魚すくいと」
「射的な。負けねぇけど」
「ふふっ、勝負だね」
美桜は軽くウインクして、ふっと笑った。
その笑顔は、どこか無理してるようにも見えた。
夜。
裕翔は1人、カフェの裏でタバコを吸っている一ノ瀬さんの隣に立った。
「……明日、行ってきます」
「ああ。楽しんでこい」
「……けど、美桜がちょっと、変で」
一ノ瀬さんは煙を吐きながら、短く答える。
「お前が一緒にいれば、大丈夫だ」
その言葉が、やけに重かった。
駅前の通りは、人、人、人。
浴衣、うちわ、屋台の香ばしい匂いと、ざわめく声。
空にはまだ明るさが残っているけど、祭りの空気が漂っていた。
裕翔は、待ち合わせの場所で立っていた。
ジーンズにシンプルな黒のシャツ。
髪は少しだけ整えてきた……つもりだったらしい。
スマホを見るフリをして、なんとなくソワソワしてると。
「……待った?」
その声に顔を上げた瞬間、息が止まった。
美桜が、そこにいた。
紺色の浴衣。
髪はまとめられて、横に小さな髪飾りがある。
「……バカみたいに見てんな」
「いや……いやいや、ふつーに、似合いすぎて」
「ふつーに?」
「いや、違う、すげぇ……っていうか……」
「ふふっ。ありがと」
照れくさそうに笑ったその顔が、やばいくらい綺麗だった。
まずは、計画通りの食べ歩きからスタート。
「焼きそば、いる?」
「そっちのたこ焼きと交換な」
「じゃあ半分こしよ?」
「お前、最初からそれ狙ってたろ」
りんご飴にかぶりついて、
「前歯いくって!」
と叫びながら笑い合いかき氷は、裕翔が一口もらったら脳天を押さえてうずくまり。
「弱っ!」
と美桜がツボってしゃがみ込む。
金魚すくいでは、美桜がまさかの3匹ゲット。
裕翔は1匹もすくえず。
「こんな小さいヤツらにまでバカにされた気がする」
と落ち込み、美桜が腹抱えて笑う。
射的は、絶対に譲れない勝負。
「男のプライドにかけて……」
「外した」
「うるせぇ!」
結局、美桜が2本命中させてキーホルダーをゲット。
「これ、あげよっか?」
「……いいのかよ」
「その代わり、来年も勝負ね。負けたらまたあげる」
陽が沈むにつれて、人混みはさらに増えていく。
浴衣同士がぶつからないように、美桜がそっと裕翔の袖をつかんだ。
「……ん?」
「迷子防止。女子って方向音痴なんだよ、基本」
「お前それ、今思いついただろ」
「うん。でも、なんか……手、離したくなかったから」
裕翔は何も言わず、美桜の手をそっと握り返した。
ほんのり汗ばんだ手のひら。
でもそれが、夏の温度みたいで心地よかった。
そして。
夜空が、ドン、と低く音を立てて響いた。
真っ暗な空に大きな花が咲く。
「……すごい」
美桜の声は、花火に負けないくらい透き通っていた。
何度か見たことのあるはずの花火なのに、裕翔の心臓は、いつもよりずっと早く打っていた。
「……なんか」
「ん?」
「いま、全部忘れてるわ」
「え?」
「俺が家出してきたことも、カフェで働いてることも、……過去も、明日も、ぜんぶ」
「……」
「お前の隣で、今ここにいるだけで、それ以外、どうでもいいって思ってる」
「……バカ」
美桜は照れくさそうに笑った。
夜空に、次々と咲く光。
その光のなかで、2人の影が、少しだけ近づいた。
その距離に気づいたとき、裕翔はふと明日からはもっと楽しい1日にしていこうって。
無意識に思っていた。
花火が終わり、空がすっかり夜に染まった頃。
人々のざわめきはまだ続いていたけれど、
どこか名残惜しそうな、そんな空気が漂っていた。
「……帰りたくないなぁ」
美桜が呟いた。
裕翔はその横で、紙袋を片手に持ちながらすこし笑った。
「俺も。明日とか、来なきゃいいのにって思う」
「それは困るでしょ。学校あるし、バイトあるし」
「たしかにね。それでも。……今日だけ、ずっと続いてほしいって思った」
「……うん、まあそれはわかる」
美桜はふと、裕翔の手を取った。
さっきよりも、少しだけ強く握って。
「楽しかった?」
「バカみたいに」
「うん。バカみたいに、楽しかった」
通り過ぎる屋台の灯りが、2人の影を細長く映していく。
浴衣姿のカップル、家族連れ、友達同士。
その中に溶け込むようにして、2人も静かに歩いた。
「来年も、一緒に来よ?」
「……おう。来年だけじゃなくてもいいけどな」
「え?」
「なんでもねぇ」
「なにそれ」
笑いながら、美桜が裕翔の肩に軽く寄りかかる。
そのぬくもりに、裕翔はなにも言わず歩を進めた。
「また行こうね!来年も」
「……おう!」
花火の音がまだ耳の奥に残る帰り道。
祭りの会場から離れた静かな通りは、人の気配もなく、夜風が吹いていた。
街灯の下で、2人の影が並んでいる。
美桜は小さく欠伸をしながら、裕翔の腕にそっと寄りかかった。
「なんか……夢みたいだったね、今日」
「夢なら覚めなきゃいいのにな」
「ほんとに……」
柔らかく笑うその横顔を、裕翔はふと見つめた。
そのときだった。
遠くから、低く唸るようなエンジン音が聞こえた。
ブゥゥン。
(……こんな細い道で?)
すぐに、その音は異様なスピードで近づいてきた。
「……美桜、待て」
「え、なに」
次の瞬間、視界の端に光が迫っていた。
ヘッドライトが、真横から2人を照らし出す。
「っ!」
裕翔は、とっさに美桜の手を引いて突き飛ばした。
「裕翔!」
そしてそのまま彼の体に、重い衝撃が走った。
ドンッ!
音と共に、裕翔の体は空中へと舞い、地面に叩きつけられた。
赤黒い血が飛び散った。
車は、そのまま一瞬の躊躇もなく走り去っていった。
後ろ姿すら見せずに、猛スピードで逃げていった。
「……っ、う……そ……」
地面に尻もちをついた美桜の目に映ったのは、ピクリとも動かない裕翔の体と、折れた浴衣の下駄。
「裕翔……!?ねぇ、ちょっと、裕翔!」
彼女の叫びは、もう誰にも届かない。
誰もその場にはいない。
「やだやだやだ……っ!なんで……どうして……!?」
膝をついて、必死に裕翔に手を伸ばす。
でも返事はない。
「裕翔!裕翔ってば!」
声が震えて、涙が滲んで、呼吸ができなくなる。
この手で何度揺すっても、彼は目を開けない。
「……お願い、目、開けて……ねぇ……っ」
血の匂いと、アスファルトの冷たさだけが、そこにはあった。
何度呼んでも、目を開けない。
魂だけが、どこか遠くに行ってしまったみたいだった。
「誰か……お願い……誰か!」
その叫びに応えるように、遠くで車のブレーキ音が響いた。
ドアが開く音とうるさい足音。
「美桜!」
低く怒鳴るような声が響いた瞬間、一ノ瀬さんが血相を変えて駆け寄ってきた。
「なにが……どうなってんだ、これは……ッ!」
彼はまず美桜を見た。
泣きじゃくる彼女の姿に、目がギラついたように怒りを燃やす。
「誰だ……誰がやった……!」
次の瞬間、裕翔の体を見つけた彼の表情が、固まった。
「……嘘だろ」
一ノ瀬さんは、無言で裕翔に駆け寄り、服の胸元をそっと掴む。
「裕翔。……なぁ、嘘だって言えよ」
返事はない。
その沈黙に、何かが壊れる音がした。
「どこのどいつが……!」
拳をギュッと握りしめて、一ノ瀬さんは立ち上がる。
「誰がこんなマネを……ッ!」
怒鳴り声が、静かな通りに響いた。
そしてすぐに、美桜の震える声がかぶさる。
「わ、私……っ、私が……裕翔を、守れなくて……っ、」
「泣くな。お前は悪くない。泣くなって言ってんだ、美桜!」
一ノ瀬さんの声が震えていた。
怒りでも、恐怖でもない。
どうしようもない悲しみが滲んでいた。
彼はすぐにスマホを取り出し、震える手で救急に電話する。
「こっちで轢き逃げだ!若い男がひかれて、意識ねぇ!早く来い!」
電話を切ったあとも、ずっと裕翔の傍を離れなかった。
「……クソが……俺が、やったヤツを、逃がすわけがねぇ!」
その目はすでに真っ赤に燃えていた。
数分後、サイレンの音が近づいてくる。
赤いライトが通りを照らしながら、救急車が到着した。
「裕翔くんですね!? 状況確認します、下がってください」
担架が運ばれ、救命士たちが手際よく処置を始める。
「意識なし! 呼吸弱い!すぐ搬送する!」
美桜はその様子を、ただ立ち尽くして見ていた。
涙ももう出なかった。
現実感が、まるでなかった。
そして、その後すぐに警察車両が現れた。
制服の警官が2人、近づいてくる。
「こちらで轢き逃げとの通報がありました。関係者の方ですか?」
一ノ瀬さんが前に出た。
「そうだ。俺が通報した。被害者は店で預かってる子だ」
「被害状況の詳細を聞かせていただけますか?」
「ふざけんなよ……。あいつら、前にも来てた。カフェの常連面してた3人組。この前も裕翔に絡んできてたらしくて……。まさかこんな……っ」
「その3人について、外見や名前、特徴などは把握されていますか?」
「顔はわかる。監視カメラもある。全部、引きずり出してやる」
怒気をはらんだ一ノ瀬さんの声に、警官もわずかに緊張したような目を向ける。
「協力感謝します。救急の搬送先を確認後、お2人にも後ほど事情を聞かせていただきます」
裕翔を乗せた救急車のドアが閉まる瞬間。
美桜は思わず叫んだ。
「待って!私も、私も乗ります!」
「……美桜」
「行かせて。お願い、行かせて。1人にできない……!」
一ノ瀬さんは黙ってうなずいた。
サイレンが再び鳴り響いた。
その場に残された一ノ瀬さんは、
拳を固く握り締めたまま、ただ一点を睨みつけていた。
「絶対に、逃がさねぇ」
「血圧低下、外傷性ショックの可能性あり!」
「内出血の疑い、すぐCT回して!止血と酸素投与!」
車内の中、医療用語が飛び交う。
その隅、美桜は小さく震えていた。
裕翔の手を握ったまま、誰にも声をかけられなかった。
「裕翔……」
答えはない。
その手はまだ温かいのに、どこか遠くに行ってしまいそうで、怖かった。
「……死なないで」
誰にも聞こえないくらいの声で、美桜は呟いた。
病院に着くと、救命チームが待ち構えていた。
ストレッチャーに乗せられた裕翔は、白い光の中に消えていく。
「関係者の方はこちらでお待ちください!」
看護師の言葉に従って、美桜はふらふらと待合室のベンチに腰を下ろした。
一ノ瀬さんは無言でその隣に座った。
腕を組み、眉間に皺を寄せたまま、ひたすら前を睨みつけていた。
「……死んだり、しないよね」
「……あいつ、弱ぇけど、バカみたいにしぶとい。信じてろ」
それは、根拠のない強がりだったかもしれない。
でもその言葉が、美桜の心をほんの少しだけ支えてくれた。
数時間が過ぎた。
時計の針が深夜を過ぎたころ、
病院のロビーの空気が、少しだけ動いた。
そのとき。
「失礼します。裕翔くんの件で、警察です」
スーツ姿の刑事が2人、静かに近づいてきた。
「……進展、ありましたか?」
一ノ瀬さんの低い声に、刑事が頷く。
「店内と外の監視カメラ、通行人の目撃証言で、加害車両と人物が一致しました」
「やっと……か」
「すでに逮捕に至っています。未成年の3人組で、そのうち1人が裕翔さんに以前暴行を加えた件も確認されました。動機については現在取り調べ中です」
「クソガキが……」
一ノ瀬さんは低く唸ったが、感情を押し殺すように口を閉ざした。
拳はまだ硬く握られたままだったが、それ以上、怒鳴ることはなかった。
「加害者の親も呼び出していますが、対応は明日以降になります。店の被害、名誉毀損、人身、全部まとめて追及できます。ご協力感謝します」
「……協力は当然だ。あいつは、うちの息子も同然だからな」
そう言い切った一ノ瀬の声に、美桜が小さく息をのんだ。
警官が去った後、美桜はゆっくりと頭を垂れた。
「捕まったんだね……」
「逃がすわけねぇだろ」
「裕翔……、ちゃんと、守ってくれたんだよ」
「……あいつ、ほんとにバカなほどまっすぐだよな」
言葉の途中で、声が震えた。
美桜はそのまま、膝の上に顔を埋めて、静かに泣いた。
夜明けが近づいていた
静まり返った病室。
窓の外には、少しだけ明るくなり始めた朝焼けの光が差し込んでいた。
「……おはよう、裕翔」
そう声をかけながら、美桜はベッドの隣にある丸椅子に腰を下ろす。
彼の手は、包帯に覆われていて、所々が赤黒く染まっていた。
昨日の夜、緊急手術は成功。命は取り留めた。
でも、意識はまだ戻らない。
「……バカだよ、ほんと」
美桜は、小さく笑って、けれど目は潤んでいた。
手の甲を、そっと指先でなぞる。
「なんでさ……私のことなんか、守ろうとしたの……」
返事はない。
「あんたがいなくなったら、意味ないじゃんか……」
涙が、ぽとぽとと落ちて、シーツに染みをつくった。
ただ、裕翔の顔は、穏やかだった。
ちゃんと、生きてる。
それだけが、今の彼女のすべてだった。
何時間も、そうしていた。
看護師が来て、点滴の確認をしても、美桜はそこを動かなかった。
そして昼を少し過ぎたころ。
不意に、裕翔の指が、ほんの少しだけ動いた。
「……っ!?」
美桜は息をのんで、顔を覗き込む。
「……う……」
まぶたが、ゆっくりと開いた。
「ゆ……うと……!?」
美桜が思わず立ち上がると、裕翔の視線が、かすかに揺れながら彼女を捉えた。
「……ここ、どこ……?」
「病院だよ。わかる……? 私、美桜……!」
裕翔は少しだけ、首を動かして答えた。
声はかすれていたけど、確かに生きている声だった。
「……怪我してない? お前……」
「……え?」
「守れて……よかったわ……」
その言葉に、美桜の目からまた一気に涙が溢れた。
「バカ……!なにそれ……なにその第一声……!」
彼女は裕翔の胸に顔をうずめて、声を震わせた。
「私、あんたが死んだら……どうすればよかったの……!」
裕翔は微かに笑ったようだった。
「……お前が……泣くほどの価値が……俺にあったとは……」
「泣くに決まってんでしょ……!」
美桜は顔を上げて、両目を赤くしながら怒鳴った。
「死ぬな。……もう、勝手に私を置いていくな。絶対……!」
沈黙が続く。
「ねぇ……裕翔」
さっきまで泣いていた美桜が、少しだけ落ち着いた顔で、裕翔を見下ろした。
裕翔はベッドの上で、少し上体を起こしながら彼女の顔を見つめる。
「……なに」
「言いたいこと、あるんだけど」
裕翔は少し眉を上げる。
「ん?」
美桜は小さく息を吸い込んで、唇を震わせながら言った。
「……私、ずっと前から……あんたのこと、好きだったよ」
裕翔の目が、驚きと戸惑いでわずかに揺れる。
だけど、それを言った美桜の目は、微笑んでいた。
「言えなかった。ずっとタイミングなくて。……でも、死んじゃうかと思ったから……言わなきゃって思った」
「美桜……」
「ふふ、変だよね。今さら。でも、ちゃんと伝えたかったの」
裕翔は言葉が出ないまま、黙って彼女を見ていた。
美桜はそんな彼に向かって、笑いながら言った。
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくる」
「……あ、ああ」
立ち上がった美桜がドアを開けて出ていった、その数秒後。
病室のドアが再び開いた。
「おう、起きてんじゃねぇか」
入ってきたのは一ノ瀬さんだった。
相変わらず無愛想な顔。でも、どこかホッとしたような目をしている。
「……来たんすか」
「来るに決まってんだろ。どんだけ心配したと思ってんだ」
ベッド脇の椅子に座って、肩をぐるっと回す。
「ま、顔見れて安心したわ。……ほんと、よく生きて戻ってきたな」
裕翔は小さく苦笑いした。
「……美桜が、ずっとそばにいてくれたから」
「だろうな。あいつ、半分壊れた顔で電話してきたぞ」
「……マジで?」
「お前が無事で、今ごろホッとして泣いてんだろ」
裕翔は天井を見上げたまま、小さくつぶやいた。
「……俺、美桜に、守られてばっかです」
「それ、逆じゃねぇか?」
「え?」
一ノ瀬さんはふっと笑った。
「お前が守ったんだろ。命かけて」
裕翔は、返す言葉を失って黙った。
「だからな……」
一ノ瀬さんは少しだけ、声を低くした。
「今度こそ、お前の命、大事にしろ。死ぬな。何があっても」
「……はい」
「美桜の前で死ぬようなマネ、二度とすんなよ。あいつ、笑ってるけどな……本当はかなり脆いんだ」
裕翔はその言葉に、胸の奥が締めつけられるような思いがした。
「……わかってます。だから、守りたいんです」
「だったら立ち上がれ、裕翔。ちゃんと、未来を見ろ。お前なら、できる」
その言葉は、まるで父親のようだった。
そのとき、カチャリとドアが開いて、美桜が戻ってきた。
「……あ、パパ来てたの?」
「もう帰る。邪魔すんなって言われそうだからな」
一ノ瀬さんは立ち上がり、裕翔に軽く手をあげた。
「じゃあな。ちゃんと飯食って、寝とけよ」
「……ありがとうございました」
その背中を、裕翔は目で追った。
病室の空気が、少しだけ、やわらかくなった気がした。
裕翔は、さっきの会話を反芻しながら、
ずっと胸の奥にしまっていた言葉を、やっと口にする決意をした。
「……美桜」
「なに?」
椅子に座りながら、彼の顔を覗き込む。
裕翔は、視線をそらさずに言った。
「さっきの話。……聞けて、嬉しかった」
「……うん」
「俺も……ずっと前から、美桜のことが好きだったよ」
その瞬間、彼女の目が大きく開かれた。
「えっ……」
「最初は、助けてもらったってだけだった。でも一緒に働いて、学校行って、毎日見てて……気づいたら、俺、ずっと目で追ってた」
「……ほんとに?」
「うん、好きだった」
美桜は一瞬、言葉を失ったまま、顔を手で隠した。
「……もう……遅いじゃん……」
「遅くねぇよ」
裕翔は少しだけ笑って、右手をそっと差し出した。
「ここからだろ。やっと、始まるんだよ。俺たち」
美桜は涙を拭いながら、その手を強く握った。
2日後、退院の日
「おい、カバン持てっての。男だろ」
「いやいや、まだちょっと肩が痛ぇんだって!」
「そっちは打撲じゃん。歩けるくせに~」
退院手続きを終えた裕翔は、美桜と並んで病院を後にした。
傷はまだ完全に癒えていない。
「……あのさ」
「ん?」
「ありがとな。お前が居たから……帰ってこれた」
「……あんたが帰ってきてくれたから、私も、救われた」
そのやりとりは、いつもより少しだけ照れくさくて、でも確かに、前に進んでいる感覚があった。
カランカラン、とドアベルの音。
「よぉ、帰ってきたか。2日もサボって何してた?」
一ノ瀬さんが、奥のカウンターから顔を出す。
「すんません、命拾いしてました」
「命かけた分、働けよ」
「了解っす」
美桜はエプロンをつけ、さっそく厨房へ。
裕翔も、慣れた動きでカウンターに立った。
この場所に戻ってきたことが、なにより嬉しかった。
ランチタイムの準備をしながら、ふと、美桜が言った。
「ねぇ、裕翔」
「?」
「今度の花火大会……」
「行くに決まってんだろ?」
美桜がふわっと笑う。
「嬉し。」
傷はまだ完全には治っていない。
それでも裕翔は、元気にエプロンを結んでいた。
「……そっち、俺が運ぶよ」
「無理しないで。まだ重いのはダメって言われてたでしょ」
「片腕でいけるっつーの」
「じゃあ私が皿洗うから、やってみなさいよ?」
「お、優し~。天使~」
「調子乗んな」
そんな会話を交わしながら、カフェにはいつもの空気が流れていた。
常連客の顔も見慣れたものに戻り、
「あのときはどうなるかと思ったぞ」
なんて言われながらも、裕翔は頭を下げては照れ笑いを浮かべていた。
それが、少しだけくすぐったくて。
だけど今は、それがなにより幸せだった。
学校。笑い声と、普通の午後
学校でも裕翔のことを心配していた生徒が多く、復帰初日はちょっとした英雄扱いだった。
「マジで轢かれたって?うっそ!でも、生きてんのすげぇな」
「いや、普通にやばかったよ。お前の彼女、マジ泣いてたし」
「彼女じゃねぇし!」
「……え? 付き合ってねぇの?」
「いや、そういう……え、どこ情報だよそれ……」
「見りゃわかるって。お前、わかりやすいもん」
裕翔は、耳のあたりを赤くしながら弁当をつついた。
だけど、それも嫌じゃなかった。
普通で、どこにでもある学生の午後。騒がしくて、やかましくて、あたたかい。
その夜。2つ目の花火大会の準備
閉店後のカフェ。
片付けを終えて、カウンターに並んで座っていた裕翔と美桜。
「そういやさ、次の花火大会、そろそろじゃない?」
美桜がポケットからスマホを取り出し、日付を確認した。
「来週の土曜」
「もうすぐだな……」
あの夜、病院の天井を見上げながら、もしも死んでたらって何度も考えた。
だけど今は、生きてここにいる。
「……今度こそ、絶対に行こう」
裕翔は、まっすぐ彼女を見て言った。
「浴衣、着る?」
「え……あんたが?」
「なんでだよ!俺が!?お前だろ!」
「ふふ、ごめんごめん……うん、着る」
「じゃあ、屋台も全部回ろう。やり残したこと全部」
「うん。全部やる」
2人の声が重なった。
その瞬間、去年の悔しさも、悲しみも、全部塗り替えるような、
未来への誓いのような気がした。
「てか、お前さ……来年も行こうな、花火」
「……来年?」
「いや、再来年も。その次も」
「……じゃあ、何年分の計画立てとけばいいの?」
「とりあえず10年……いや、20年分くらい?」
「……バカ?」
美桜が笑った。
けれどその笑顔は、どこか少しだけ赤くて。でもとても、とても幸せそうに見えた。
空はどこまでも澄んでいた。
夏の青さはまだ残っているのに、風だけがほんの少し涼しくて。
蝉の声が遠ざかっていくのを聞きながら、2人は浴衣姿で並んでいた。
「これ、帯ってもっと楽にならないの?」
「そっちが締めすぎ。動きすぎるから苦しいんでしょ」
「いや、初めてだし加減わからんし……」
「私もだけど?」
2人して笑いながら、鏡の前で少しだけ不格好な姿を見ていた。
裕翔は黒と藍の男物、美桜は水色に朝顔の柄の浴衣。
準備だけでちょっとくたびれたけど、それでも気分は上がっていた。
今日は、2回目の夏祭り。
少し遠くの街で開かれる、花火大会。
あの日。
1回目の祭りでは、屋台も回って、花火もちゃんと見れた。
でもその帰り道。
裕翔は、美桜を庇って車に轢かれた。
だから今日は、祭りのやり直しじゃない。
最後まで、2人で歩いて帰る
その続きを、やっと迎えに行ける日だった。
電車で30分。
車窓から見える田んぼが夕焼けに染まる。
駅に降りると、すでに浴衣の人々の流れがあり、屋台の明かりがずらりと並んでいた。
「うわ、すげーな。こっちは派手だな」
「人も多い。……でも楽しそう」
「……手、離すなよ?」
裕翔が、そっと手を差し出す。
美桜は照れくさそうに目をそらしながら、それでもしっかりと握った。
まずは焼きそば。2人でシェア。
その次はりんご飴、金魚すくい、射的。
「前はさ、途中で止まっちゃったじゃん。最後までいろいろ出来なかったからさ」
「……うん。覚えてる」
「今度こそ、全部やろう」
「うん。ちゃんと最後まで、ね」
途中、金魚すくいで美桜が本気を出して5匹すくい、裕翔はヨーヨーを取れずに子どもに笑われる。
でも、そんな全部が楽しくて、2人は何度も顔を見合わせて笑った。
「こっち、花火よく見えるんだって」
「じゃあ、先行こうぜ」
屋台の通りを抜け、高台の公園に続く階段に座る。
下では人の波。上では夜風。
小さな虫の声と、遠くの太鼓の音だけが響いていた。
「前の祭りの日さ」
裕翔がふと口を開く。
「途中まで、ほんとに楽しかったんだよな。あれが……ずっと続けばいいのにって、思ってた」
「うん。私も」
「でも……」
「でも、最後はあんな終わり方だった」
2人は少しだけ黙った。
でもその沈黙は、苦しいものじゃなかった。
「だからさ、今日、ここに来れて良かった」
「……うん。ありがとう」
「今度は最後まで、一緒に」
ドンッと空が揺れた。
大きな花火が、夜空にひらいた。
音と光が、空と心に染み込んでいく。
「ねえ」
「ん?」
「守ってくれて、ありがとう。あの時、怖かったけど……裕翔がいたから、私は無事だった」
「いや……本当はさ、もっと守れたかもしれないのに……」
「もう、十分だったよ」
美桜が、裕翔の袖を軽く掴んだ。
「ねぇ、来年も来よう」
「うん。来よう」
「その次も」
「……当たり前」
祭りから数日後。
風が変わった。朝の気温が、少しだけ肌寒い。
制服の袖も、腕に馴染んでくる。
でも、2人の距離は、変わらなかった。
「もうすぐ秋か」
「うん。今度は紅葉見に行こう」
「いいな、それ。計画立てるか」
「……また途中で事故らないでよ?」
「そっちは守ってくれよ?」
「……もう」
変わっていく季節。
でも、変わらず歩く2人の道。
普通の毎日が、今はなにより幸せだった。
九月の終わり。
制服の上にカーディガンを羽織る生徒が目立ち始めた頃、廊下の掲示板に文化祭の告知が貼り出された。
「へぇ、今週から本格的に準備か……」
裕翔はポスターを見上げながらクラスの空気を思い出して、ぼんやり考える。
「うちのクラス、たぶんまとまらねぇだろうな」
昼休み、屋上の端に座ると、美桜が先に来ていた。
「文化祭、そっちは何やるって?」
「たこ焼き。女子の案が通った」
「屋台系強ぇな。うちはまだ揉めてる。全然決まらん」
「まあ、男子多いしね、そっち」
「ってか……文化祭ってそんなガチでやるもんなん?」
「普通にやるよ。高校生活で数少ない行事なんだし」
「ふーん……俺、こういうのちゃんとやんの初めてかも」
「……似合わないかもね、前掛けとか」
「やらねぇわ」
そんな風に笑い合う時間も、ずいぶん自然になっていた。
それから数日。
裕翔のクラスは最終的にお化け屋敷に決まり、美桜のクラスはたこ焼きと小物販売の複合ブースに。
放課後の教室には段ボール、ガムテープ、ペンキ、BGM。
「おい裕翔ー、あの壁のとこ、穴あけといてくれ!」
「おっけ、ノコギリどこ?」
気づけばクラスの中にも、自然と呼ばれる存在になっていた。
「……やるじゃん」
「おう、やる時はやる男よ」
休憩時間、手を洗いながら、美桜が隣で笑う。
「明日、早めに登校して飾り付けやるって。来れる?」
「もちろん」
文化祭当日。
朝から校門前には長蛇の列。
生徒たちが慌ただしく準備に走り回る。
裕翔のクラスのお化け屋敷は意外にも人気で、列ができていた。
「ぎゃー!」
中から誰かの叫び声。
「よっしゃ、ビビらせたった!」
「俺、扮装キマりすぎててちょっと怖ぇもん」
裕翔も笑いながら、教室の外で受付をしていた。
一方、美桜のクラスは、たこ焼きの熱気で汗だく。
でも手際は完璧で、女子たちは笑顔でテキパキと動いていた。
昼過ぎ。
裕翔がふと、美桜の様子を見に行くと、教室の奥で小さくうずくまる姿があった。
「……おい、美桜?」
「……大丈夫、大丈夫だから……」
「いや、顔赤いし……体調悪い?」
「ううん……ごめん、ちょっとだけ落ち着かなくて」
人混みと緊張と、責任感と。
いろんな感情が重なって、いつもの美桜じゃなかった。
「抜けよ。ちょっとだけでいいから」
裕翔が手を差し出す。
美桜は、ほんの少し戸惑ってから、その手を取った。
校舎の裏の、誰もいない非常階段に腰を下ろす。
文化祭の喧騒が響く中で。
2人だけの、静かな時間。
「……ありがとう」
「何が?」
「こうやって、何も言わずに気づいてくれるとこ」
「いや、まあ、顔に出すぎなんだよ」
「うるさい」
2人で笑う。
空は、茜色に染まり始めていた。
「私さ、文化祭とかで気を張りすぎちゃうタイプで」
「うん。なんとなくわかる」
「全部ちゃんとやろうとしすぎて……でも、うまくできないと、自分責めちゃう」
「美桜のそういうとこ、好きだけどな」
裕翔が自然に言ったその一言に、美桜は一瞬固まった。
「……え?」
「あ、いや……そーいう、変な意味じゃなくて。いや、変な意味でもいいけど、なんつーか……」
「ありがと」
文化祭2日目の朝は、秋晴れだった。
昨日の盛り上がりがまだ校舎に残っていて、どのクラスも準備を整える手が少し軽やかに動いている。
「昨日、疲れすぎて爆睡したわ」
「顔、むくんでるよ?」
「は?マジ?」
「……でも、頑張った顔だと思う」
「……お前、そういうことさらっと言うよな」
2人で肩を並べて、校舎に入る。
この何気ない時間が、当たり前になりつつあることに、どこか安心していた。
午後の人混みの中。
「次の公演、ちょっと見に行こ」
美桜のクラスの手が一段落したところで、演劇部の発表を見に行くことになった。
講堂はほぼ満席。
裕翔と美桜は壁際の端の席に並び、静かに舞台を見つめていた。
物語の途中、ふと視線を横に流したときだった。
見覚えのある顔が、遠くの列にあった。
(……なんで)
裕翔は一瞬、呼吸が止まった。
観客席の中明らかに場違いな、男と女の並ぶ姿。
派手でもなく、地味でもない。
裕翔の父と母だった。
視線が合いそうになり、慌てて顔を伏せる。
美桜が。
「どうかした?」
と小さく囁いたが、裕翔は軽く首を振るだけだった。
(来るはずがないだろ、ここに……)
ずっと切り離していたはずの過去が、急に舞台の下から現れたような感覚だった。
講堂を出ると、裕翔は美桜に言った。
「ちょっと……裏に回ってくる。ごめん」
「わかった。……何かあったら呼んでね」
その日は、それ以上、何もなかった。
両親の姿も、それ以降は見かけなかった。
でも。
裕翔の胸の中に、得体の知れない緊張が残り続けていた。
文化祭終了後の、その夜。
片付けも終わり、皆が達成感に包まれていた頃。
カフェでは、一ノ瀬さんとスタッフたちでちょっとした打ち上げの準備がされていた。
美桜は制服から私服に着替えて、テーブルの皿を並べている。
裕翔は、厨房でグラスを並べながら、未だにさっきのことを引きずっていた。
「……美桜」
「ん?」
「さっき、講堂でさ。俺の……親がいた」
「……!」
「間違いない。顔見ただけで、全身が反応してた」
「どうする?」
「何も、しない。……できない」
裕翔は、言葉を絞り出すように呟いた。
「俺が出てったんだ。勝手に。……全部捨てて、ここに来た」
「でも、ここでやり直してる。ちゃんと、前に進んでる」
「……進んでたはずなんだけどな」
その時だった。
店の扉が控えめに、カラン…と鳴いた。
美桜が振り向くと、見慣れない中年の男女が立っていた。
裕翔の父親は、背が高く、無精ひげが伸びたまま。
母親は少し痩せて、目の下にクマがあった。
2人とも、なにかを言いたそうに店内を見渡していた。
「……裕翔」
父の低い声が、店内に落ちた。
裕翔は、手に持っていたグラスをテーブルに置いた。
「……何で来たの?帰って」
「話がしたいだけなんだ。ほんの少しでいい」
「話なら……俺が出る前にしてくれりゃよかったのに」
一ノ瀬さんが、カウンター越しに2人を見ていた。
美桜は、裕翔の後ろに立って、無言で背中を見つめている。
母親が口を開いた。
「ごめんなさい。ずっと……連絡も取れなかったけど、あなたが無事だって聞いて、今日、文化祭に」
「じゃあ、俺の生活全部調べてたってこと?」
「違う、そんなつもりじゃ」
「美桜のことも?俺がどこに住んでて、誰といるかも、全部?」
裕翔の声が、わずかに震えていた。
父が少しだけ歩み寄る。
「裕翔……俺たちも、間違ってた。家庭として……失ってから、気づいたことばかりだった」
「気づくの、遅すぎるよ」
「今さら、何をしに来たの?俺を、連れ戻しに?」
「……違う。違うけど……」
その瞬間、裕翔は一歩前に出た。
「ここが、俺の居場所だよ。誰にも譲る気、ないから」
しばらくの沈黙が流れた。
一ノ瀬さんが、カウンターの奥からそっと言った。
「今日は……店の中で揉められても困る。話すなら、どこか外でにしてくれ」
「……すみません」
父が頭を下げ、母も小さく会釈して、2人は扉を出ていった。
カラン……と、また音がして、静かに扉が閉まった。
その夜、裕翔は誰とも目を合わせずに、片付けだけを続けた。
美桜は何も言わず、ただ傍にいた。
その夜、ベッドに潜り込んでも、眠れなかった。
天井を見つめながら、思い出したのは、父の背中と、母の表情。
泣いていたわけじゃない。
怒っていたわけでもない。
ただ、そこにいたという現実が、裕翔の心を大きく揺らしていたのだった。
布団の中でスマホを開くと、美桜からの新着メッセージが届いていた。
『あの2人のこと、話したくなったらいつでも言ってね』
『私は、どんな裕翔でも、ちゃんと見てるから』
涙が出るほどではない。
でも。
目を閉じた裕翔の胸の中に、何かが溶けていくようだった。
目が覚めたとき、部屋のカーテン越しに差し込む光は、いつもよりまぶしかった。
日差しは柔らかい秋の色をしていた。
ゆっくりと体を起こし、布団を整える。
何気ない朝のはずなのに、動作の一つ一つが重く、遅い。
洗面台の鏡に映った自分の顔を見て、思った。
(なんか、やつれてんな……)
顔色は悪くない。でも、目が少し沈んでいる。
階下のキッチンから、食器の触れる音が聞こえた。
美桜だろう。今日は朝当番だ。
カフェの営業は休み。文化祭の代休で学校もない。
けれど、裕翔の気持ちだけが、どこにも行けずに取り残されていた。
「……おはよう」
美桜が振り返って、笑顔を向ける。
「おはよ。ごはん、できてるよ」
「……うん、ありがとう」
テーブルに並ぶのは、和風の朝食。
味噌汁の香りが、胸をくすぐるけれど箸が進まない。
「……裕翔?」
「……なんでもない」
「うそ。なんでもなくない顔してる」
美桜は、箸を置いた。
「昨日の、こと?」
裕翔は少しだけ視線を逸らした。
「夢に、出てきたんだ。親父と、母さんが。……あの店で、また来る、って」
「……」
「怖かったわけじゃない。でも……なんか、気持ち悪くてさ。寒気がしたっていうか……」
「ここに来て、やっと呼吸ができるようになったのに、また何かが喉を締めつけてるような感じがした」
美桜は黙って、裕翔の横に移動した。
椅子を少し引いて、肩を並べるように座る。
「昨日のメッセージ、見た?」
「うん。……ありがとう」
「裕翔。誰だって、心が止まる日があると思う。でも、それって、前に進んできた証拠だよ」
「……そう、なのかな」
「うん。もし、止まったままだったら、怖いとも、嫌だとも、思わない。動いてるから、苦しいんだよ」
その言葉が、少しだけ胸にしみた。
美桜は、そっと彼の手に触れた。
何も言わず、ただ、そこにいるという形で。
代休の午後。カフェの営業はないけれど、掃除を少しだけ手伝うことになった。
モップを手にしても、動きは鈍く、何かに集中するという感覚も遠かった。
一ノ瀬さんは、なにも言わなかった。
ただ、すれ違うたびに背中を軽く叩いたり、グラスを置いていったりする。
「お前のペースで、いいんだぞ」
そう言うかわりに、音のない励ましだけがあった。
夜、ベッドの中でスマホを見つめる。
メッセージは特に来ていない。
でも、既読がついた会話を何度も読み返す。
(誰だって、心が止まる日がある)
(動いてるから、苦しいんだよ)
裕翔は、画面を見つめたまま、ふと、スマホのメモ帳を開いた。
新しいページを作って、こう打ち込む。
『守りたいって思った日、また思い出した』
目を閉じる。
その日は、夢を見なかった。
十月半ば。秋風が一段と冷たくなり、カフェのメニューにホットラテが目立ち始める季節。
学校でも、少しずつ進路の話題が聞こえてくるようになった。
放課後の進路指導室。
担任に呼ばれて、簡単な面談が行われた。
「裕翔、考えてる進路、あるか?」
「……うーん、正直まだ何も決まってないです」
「まぁな、急に言われてもピンとこないよな。でもな……進路ってのは、今までどう生きてきたかの答え合わせでもあるから」
「……答え、か」
「お前は、今までのこの1年間、ちゃんとやってきたと思うよ。逃げずに、自分の居場所を作って」
裕翔はうなずいた。
あの頃とは、まるで違う日々。
苦しいこともあったが、確かにここで生きていた。
でも。
その夜、全部がひっくり返される。
仕事を終えて、シャワーを浴びたあと。
ベッドに腰を下ろし、スマホの画面をなんとなく開くと。
新着通知がひとつ。
見慣れない名前と、見覚えのある苗字。
アカウント名は、父のものだった。
『裕翔。久しぶりだな。元気にしてるか。SNSで偶然見つけた。お前の名前と写真。今の姿を見て、安心した。』
画面のスクロールが、指先で止まる。
息を呑んだまま、次の行に目を落とす。
『もし、話をする気が少しでもあるなら、来年の春、戻ってきてほしい。ほんの少しでいい。会って、話したいんだ。大学とかもあるだろう』
心臓が、鈍く脈打つ。
春。もう半年もない。
ここを出て、向こうへ帰るという選択を、現実として突きつけられたような気がした。
窓際のカーテンを少し開けて、冷たい夜の空気に顔を出す。
見上げた空は、星が少しだけにじんでいた。
「……なんで今さら」
声に出すと、胸の奥がギュッと痛んだ。
父のメッセージは、丁寧で、穏やかで。
でも、どこか他人行儀だった。
(全部、置いてきたはずだったのに)
(自分で選んで、逃げて、捨ててきたのに)
(それでも、繋がってると思ってたのか……?)
頭の中が真っ白になって、何も考えられなかった。
何も答えられなかった。
「……裕翔、顔色悪い」
美桜が、小さな声で言った。
「……ああ、ごめん。寝不足かな」
「……昨日、なにかあった?」
裕翔は、少しだけ箸を置いて、スマホを取り出す。
受信したメッセージを、美桜に見せる。
美桜の手が止まった。
画面をじっと見つめて、それから小さく息をのむ。
「……返信、したの?」
「してない。できなかった」
「そっか」
それ以上、美桜は何も言わなかった。
だけど、彼女の目はちゃんと裕翔の気持ちを受け止めていた。
否定もせず、肯定もせず、ただ寄り添うようなまなざしで。
夜になり返信を考える
布団に潜りながら、何度もスマホを開いては閉じた。
春に帰ってきてほしい。
その言葉の裏に、どれだけの感情があるのか。
父の意図がどれほど真っ直ぐだったとしても、裕翔の心には傷が残っていた。
帰ることが許すことになるのか。
それとも、自分を裏切ることになるのか。
画面のカーソルが点滅しては、消えていく。
どうしても、言葉にならなかった。
「……今日は、私、厨房入るね」
「じゃあ、俺ホールやるわ」
夕方のカフェは、空が赤く染まり始める頃が一番忙しい。
仕事の帰りに寄る常連たちがどんどんと入ってきて、穏やかな会話とカップの音が店内を満たしていく。
裕翔は慣れた手つきでコーヒーを注ぎ、笑顔で客にカップを差し出した。
自然と体は動く。でも、心の奥には、あのメッセージがまだ残っていた。
『来年の春、戻ってきてほしい』
あの一文が、何度も頭を過る。
この店で、自分は変われたのか。
それとも、ただ逃げてるだけなんじゃないか。
「……裕翔」
声に振り返ると、厨房のドアが少し開いて、美桜が顔をのぞかせていた。
「終わったら、ちょっとだけ屋上行かない?」
「……ああ。わかった」
カフェの仕事を終え、照明を落とし、2人は非常階段をのぼってビルの屋上に出た。
都会の小さな夜空。
星は見えづらいけれど、風が気持ちよかった。
「この時間、好きなんだよね」
「うん。……わかる」
しばらく、並んで無言で夜景を見ていた。
だけど、美桜はそっと口を開いた。
「裕翔、今、迷ってるでしょ?」
裕翔は、何も言えなかった。
それでも、美桜は続きを待たなかった。
「……戻るの、怖い?」
「怖いっていうか……わかんないんだ。許せないって思ってたのに、向こうは普通みたいな顔して、連絡してきて……」
「俺がこの半年、どう過ごしてきたかなんて、知らないくせに」
裕翔は、吐き出すように言った。
その声は、少しだけ震えていた。
「でもさ、ほんとはさ俺、向こうがどうなってるか知りたかったのかもしれないんだよ。今どうしてるのか、あの家が、あの人たちが……」
「……それって、弱いよな」
「弱くないよ」
美桜は即座に言った。
「強がって切り捨てるほうが、よっぽど弱いよ。本当に何も思ってなかったら、こんなに迷わないじゃん」
裕翔は少しだけ目を伏せた。
「……俺、ここに来て初めて、ちゃんと飯食えて、誰かと笑って、怒って、働いてさ。だからこそ、戻ったら、また全部壊される気がして……」
「ここが、俺の逃げ場所なんじゃなくて、居場所だって思いたいのにさ」
美桜が、黙って横に座った。
少し、風が吹いた。
彼女の髪が、裕翔の肩にふれた。
「ここが裕翔の居場所だってことは、私が知ってるよ」
「……」
「私がいる限り、ここは裕翔の居場所。だから、戻っても、戻らなくてもいい。でも、自分で選んだら、その選んだ場所がきっと正解になるんだと思うけど、私は」
「うん……そう、だな」
裕翔は空を見上げた。
まだ答えは出ていなかった。だけど、誰かがわかってくれるという温度だけで、心が少しだけほどけていくのが彼自身にもわかっていた。
「配るぞー、進路希望調査票。第一希望から第三希望まで、書いて出すように」
担任がそう言って、クラスの前を歩きながらプリントを配り始めた。
ガサガサと紙の音。
クラス中がざわつき、ペンの音が少しずつ響き始める。
(第一希望、第二希望、第三希望……)
裕翔は、配られた用紙をじっと見つめていた。
将来の夢という欄だけが、まるで空っぽのまま心に重く乗ってくる。
(夢……なんて、考えたことなかった)
カフェで働いて、学校に通って、美桜と一緒に笑って、たまに泣いて。
この半年は、ただ今を生きることで精一杯だった。
未来なんて、考える余裕もなかった。
周りのクラスメイトたちが。
「美容師って書こうかなー」とか「専門学校とか?」なんて言い合っている声が、遠くに感じる。
裕翔は視線を落とし、結局その日、何も書けないまま、進路調査票を鞄の奥にしまった。
歩きながら、スマホを取り出した。
ずっと未読のまま放置していた父親からのメッセージ。
(返信……するべきなのか)
迷いながら、ゆっくりと画面を開く。
カーソルがまた、静かに点滅していた。
その点滅を見つめながら、ようやく指先が動き出した。
『お父さんへメッセージ、見ました。今は、まだ何も答えられません。でも、無視することだけはしたくなかったから、一応、返信します。』
『春、帰るかどうかはまだ決められません。もう少し、自分で考えたいです。』
『あの頃のことを、忘れたわけじゃないから。』
入力を終えて、しばらく画面を見つめていた
そして、ゆっくりと送信ボタンを押す。
逆に重たくのしかかってくるような、いろいろな感情が入り混じった余韻が残った
店を閉めたあと、誰もいないカウンターに座って美桜が裕翔の横にそっと飲み物を置いた。
「カフェラテ。ミルク多め」
「ありがと……」
「進路、書けた?」
「……ううん。まだ、空白のまま」
「そっか。でも、焦らなくていいよ。みんな書いただけで、決まったわけじゃないから」
「……美桜は?」
「私は、ここの仕事をちゃんと続けるって決めてる。でも、もし裕翔がどこかに行くことになっても、応援するよ」
「なんでそんなに、簡単に……」
裕翔が少し、声を荒らげそうになるのを自分で抑えた。
「……いや、ごめん。多分俺、まだ過去のことでいっぱいいっぱいなんだと思う」
「うん、知ってるよ」
「でも、少しずつでいいじゃん。裕翔は裕翔のままでさ」
彼女のその言葉が、
今日書けなかった進路希望よりも、よっぽど現実で……。
放課後、チャイムが鳴り終わった頃。
廊下にはまだクラスの笑い声が響いていたけど、裕翔は静かに立ち上がって、美桜の席へと向かった。
「なあ、美桜」
「ん?」
「……ちょっと、屋上来ない?」
「……うん」
言葉の重さに気づいたのか、美桜は少しだけ驚いた顔をしたけど、それ以上は何も聞かず、静かにうなずいた。
ガチャンと鉄の扉を開けて、ふたりは並んで屋上に立った。
秋の夕焼けは、夏よりも静かで、赤く滲んだ空が、ふたりの影を長く伸ばしていた。
風が少し冷たくなってきていた。
それでも、裕翔の手のひらは、汗で少し湿っていた。
「なあ、美桜」
「うん?」
すぐそばにいるのに、まっすぐ目を見れなかった。
裕翔は視線を空に向けたまま、言葉をつないだ。
「……俺さ、ここに来てから、ずっとお前に助けられてきたんだよ」
「……」
「最初はもう、ただの拾われた奴で。
誰にも期待されてなくて、誰にも必要とされてなかった」
「でも、美桜はさ。最初から、当たり前みたいに俺のことを……一緒にいてくれた」
「それがさ。ほんとに、嬉しかった」
美桜は何も言わずに、ただ風を受けて立っていた。
「……だから俺、ちゃんと言いたかった。逃げてた過去も、帰れない家のことも、この場所がどれだけ大事かも……そして、」
裕翔は、ようやく彼女のほうを見た。
言葉が震えて、でも止まらなかった。
「美桜のことが、好きだ。ずっと、好きだった」
ほんの一瞬、風の音が止まったような気がした。
夕焼けに照らされた美桜の目が、大きく見開かれたあと、ふわっと笑った。
「……なに、それ」
「え?」
「遅すぎるっての。こっちはとっくに付き合ってるつもりだったんだけど?」
「っ……は?」
「え?今さら告白?いや、もちろん嬉しいよ。ちゃんと言ってくれて」
「でもさ、私のことこんだけ見てきて、気づいてなかったの?」
「ずっと、ずっと裕翔のこと、見てたんだよ。痛がってるときも、泣きそうな顔してるときも、笑ってくれたときも!」
「全部、好きだった。だから一緒にいたし、支えたし、守ってもらったし……」
「だから……うん、当たり前」
「私も、裕翔のことが、ずっと大好きだったよ」
その言葉に、裕翔は口を開きかけて、結局何も言えなかった。
目が熱くなる。言葉より、先に何かがこみ上げそうだった。
「これで、やっとちゃんと両想いってことにしようね?」
「……ああ」
「よかった、ちゃんと聞けて」
美桜は少しだけ裕翔の肩に寄りかかった。
校舎の屋上。夕焼けの真ん中に、ふたりだけの時間があった。
「……でもな、美桜。俺、たぶん……また迷うと思う」
「うん。知ってるよ。家族のこと、進路とか簡単に決められることじゃない」
「だけど」
「迷っても、私のことだけは、見失わないでね。そこだけは、ずっと一緒にいてくれたら、それでいい」
「……ああ。絶対、見失わない」
屋上での告白を終えて、2人は静かに階段を降りた。
あたりはもう、茜色が消えて、薄青の空が校舎を包んでいた。
「なあ、マジで……俺、もっと早く言えばよかったな」
「ほんとだよ。まあ、言ってくれたから許すけど」
「はは……ありがとう」
そんな会話をしながら並んで歩く帰り道。
いつもより少し距離が近い。
でも、不思議と自然だった。
カフェの前に着いた時、シャッターはすでに半分閉じかけていた。
その前に、いつものようにタバコをくわえて立っていたのは、一ノ瀬さんだった。
「おー、遅かったな。デートでもしてたのか?」
その一言で、裕翔はビクッと肩を跳ねさせた。
美桜は、咄嗟に目を逸らす。
「……い、いや、ちょっと屋上で、話してて」
「ふぅん?」
一ノ瀬さんは薄く笑った。
「まあ、いいけどな。で、裕翔。お前、やっと言ったんだな?」
「……えっ、な、何を?」
「白々しいぞ、バーカ」
パチンと火のついたタバコを指で弾きながら、一ノ瀬さんはニヤリと笑った。
「美桜がどんな顔でお前の名前呼ぶか、どんな目で見てるか、親じゃなくたって、見てりゃわかる」
「逆に今まで、よう我慢してたなって思ってたくらいだ」
裕翔は言葉に詰まり、美桜は顔を真っ赤にしてうつむいた。
「……ごめんなさい、お父さん」
「なんで謝るんだよ。俺が許してないとでも思ったか?」
一ノ瀬さんはタバコを地面に落とし、足で踏んだ。
「お前らが本気なら、俺は何も言わん。ただ、ちゃんと向き合えよ。お互いに、そして自分にもな」
「わかってるつもりです」
裕翔が、小さく答えた。
「なら、よし」
一ノ瀬さんはポケットからカフェの鍵を取り出して、シャッターを最後まで閉め始めた。
「ついでに言っとくがな。今日のあの屋上での話、帰ってきてすぐ美桜の顔見れば一発でわかったわ」
「……え?」
「そんだけわかりやすい顔してたんだよ、お前ら」
美桜は顔を両手で覆って。
「うう……」
と小さくうなりながら、店のドアの奥に逃げていった。
裕翔はポカンとしながら、一ノ瀬さんを見た。
「……なんで、何も言わずに見ててくれたんですか?」
「バカ、言うかよ。言わなくても、お前がやっと自分で選んだことだからだ」
その背中が、少しだけ頼もしく見えた。
「……ありがとうございます」
「礼なんていらねぇ。俺に返すもんがあるとすりゃ、あいつを泣かせるな。それだけだ」
「……絶対、泣かせません」
一ノ瀬さんはその言葉に、何も言わずただ、背中で笑った。
数日後。
カフェの閉店後、いつもは元気な一ノ瀬さんが、どこか元気がなかった。
裕翔はそんな彼の様子に気づきながらも、どう声をかけていいかわからず、手伝いを続けていた。
「なあ、裕翔」
一ノ瀬さんが、ようやく重い口を開いた。
「実はな……」
「何かあったんですか?」
一ノ瀬さんはテーブルに置かれたカルテを見せた。
そこには肺線維症。という文字がはっきりと書かれていた。
「医者から言われたんだ。俺の肺が、だんだん硬くなってしまって、呼吸が苦しくなる病気だって」
裕翔の心臓は、ドクンと大きく鳴った。
「まだ初期段階だが、完治は難しい。いつ悪化するかわからん。…だから、店も……いつまで続けられるかわからん」
「……そんな……」
一ノ瀬さんは、笑いながらも目が少し潤んでいた。
「お前らには迷惑かけたくない。でも、俺も長くはないかもしれない」
「……俺が、守らなきゃいけない人まで、壊れそうになるなんてよ……」
裕翔は何も言えず、その場で固まっていた。
「だから、これからはお前らのことも、もっと支えたいと思ってる。お前たちが俺の代わりに、強くなってくれ」
裕翔は静かにうなずいた。
「約束する。一ノ瀬さんの分まで、俺たちが守る」
一ノ瀬さんは涙をこらえ、ゆっくりと笑った。
「帰ってきてほしい」それは願いか、呪いか。そんな重い空気の中、裕翔のスマホが震えた。
画面には知らない番号からのメッセージ。
『裕翔、元気か?俺だ、父さんだ。』
胸が締めつけられるような気持ちになりながらも、裕翔はメッセージを開いた。
『お前が家出てもうすぐ1年か。いろいろと話したいことがある。』
『来年の春、帰ってきてほしい。最後にもう一度、話がしたい。』
裕翔はしばらく黙ったまま、画面を見つめた。
帰る。そんな簡単なことじゃない。
ここでの生活、カフェ、美桜、そして一ノ瀬さん。
家族のことを思うと、胸が痛くて苦しい。
悩み続けた末、裕翔はゆっくりと指を動かし、返信を打ちはじめた。
『わかった。考えておく。』
送信ボタンを押した後も、心は晴れなかった。
「……これが、本当に答えなのか?」
涙がひとすじ頬を伝った。
でも、美桜と一ノ瀬さんがくれた居場所を思い出すと、少しだけ勇気がわいてきた。
外はすっかり暗くなり、街灯がぼんやり光っている。
裕翔は机に向かい、スマホの画面を何度も見つめては、考え込んでいた。
「春に帰る……」
何度も口に出してみるが、心の中はまだ嵐のようだった。
一ノ瀬さんの病気もあり、カフェも、美桜との関係も、全部大切だ。
でも、父親の言葉を無視することはできない。
「俺が逃げてきたんだ。ずっと」
やっと、自分の弱さに向き合う決心がついた。
翌日から、裕翔は一ノ瀬さんのサポートに積極的になった。
掃除も手伝い、仕込みも覚え、何より彼の体調を気にかけるようになった。
「俺が支えなきゃ、一ノ瀬さんまで壊れちゃう」
カフェでの仕事はきつかったが、どこか清々しさもあった。
一方、美桜は不安で夜になると涙をこぼすことが増えた。
ある晩、仕事を終えて帰ろうとした時、美桜がひとり、カフェの裏口で肩を震わせていた。
「美桜?」
そっと声をかけると、彼女は振り返らず、ただ泣いていた。
「なんで泣いてるんだ?」
美桜は小さな声で答えた。
「裕翔が、またどこか遠くに行っちゃうんじゃないかって思うと……怖い」
裕翔はゆっくり近づき、彼女の肩を抱いた。
「俺はここにいるよ。必ず戻ってくる」
「……でも、不安で……」
「不安なのは俺も同じだ。だけど、逃げないって決めた」
「だから、一緒に乗り越えよう。な?」
美桜は少し顔をあげて、涙を拭った。
「ありがとう、裕翔」
「これからもずっと、俺たちは一緒だ」
その夜、2人は初めて真剣に未来のことを語り合った。
冬が終わりに近づき、春の気配が少しずつ感じられる頃。
一ノ瀬さんの咳は次第に激しくなり、カフェでの動きも以前のようにはいかなくなった。
「大丈夫ですか?」
裕翔は心配そうに声をかけた。
「少し、息が苦しくてな……悪くなってきてるみたいだ」
それでも一ノ瀬さんは笑顔を絶やさず、店を支えようとした。
だが、裕翔はそれを見ているのが辛かった。
「俺が、もっとちゃんと支えなきゃ」
カフェの仕事だけでなく、彼の体調管理も裕翔の大きな役目となった。
そんなある日、裕翔のスマホに再び父親からメッセージが届く。
『裕翔、春が来る。帰ってくる準備はできてるか?』
裕翔は画面を見つめながら、深く息をついた。
「もう、逃げられないんだな……」
家族との問題、カフェ、一ノ瀬さん、美桜……。
どれもが絡み合い、裕翔の胸を重く締めつける。
ある晩、裕翔はカフェの閉店後、一ノ瀬さんと2人で話をした。
「お前の家のことは話してくれたな」
「はい……家を出た理由も、今までのことも」
一ノ瀬さんは静かにうなずいた。
「逃げてばかりじゃ、何も変わらない。俺も病気と闘ってるけど、現実と向き合わなきゃ前に進めない」
「裕翔、お前も自分の過去と向き合え」
その言葉に、裕翔は目を閉じた。
「俺、怖いんだ……親とまた向き合うのが」
「でも、そろそろ逃げるのはやめる。春、帰るって決めた」
「そうか。なら、後悔のないように準備しろ」
裕翔は決意を新たにし、次の日から少しずつ過去の問題に向き合い始めた。
親との電話やメッセージでのやり取りを増やし、少しずつ心の距離を縮めていく。
その間も、一ノ瀬さんの体調は波があったが、裕翔はできる限り支え続けた。
「俺が守る。みんなの分まで」
涙が頬を伝う夜もあったが、それでも前に進むしかなかった。
教室の窓から春の陽射しが差し込む昼休み。
クラスメイトたちの笑い声があふれる中、裕翔は少し緊張した面持ちで席に座っていた。
担任の先生が教室に入ると、みんなの視線が集まった。
「みんな、ちょっと話がある」
先生は静かに口を開いた。
「裕翔くんが、春に実家に帰ることになりました」
クラス中がざわめき、裕翔の隣にいた美桜が静かに彼の手を握った。
「急な話で驚かせてごめんね。でも、みんなに伝えたかったんだ」
先生の言葉に、クラスメイトたちも真剣な表情になる。
「お別れの会を開きたいと思います。みんなで裕翔くんの新しい旅立ちを応援しましょう」
数日後、放課後の教室で開かれたサヨナラの会。
仲間たちが作った寄せ書きや写真、手作りのアルバムがテーブルに並んだ。
裕翔は一人一人と握手を交わし、感謝の言葉を伝えた。
「みんな、ありがとう。ここで過ごした日々は、俺の宝物だ」
美桜は泣きそうな顔で微笑んでいた。
裕翔は力強くうなずいた。
春に帰る決意を胸に、彼は新たな一歩を踏み出す準備をしていた。
カフェの窓から見える街並みが、いつもより少し違って見えた。
季節は春に変わりかけているけれど、裕翔の胸は晴れない。
「帰るんだな……」
朝の光の中で独り。
残り1週間を切ったその日から、裕翔の生活はまるで時が止まったかのように重く、静かに過ぎていった。
学校では、美桜や友達と過ごす時間もいつもより長く感じる。
教室の中の笑い声、廊下の足音、部活の声、全部が心の中に深く刻まれていく。
「あと少しでここを離れる」
その現実が、彼の心を締め付けた。
ある日、カフェの当番をしていると、一ノ瀬さんが声をかけてきた。
「裕翔、無理するなよ。お前のせいじゃない」
「わかってる。でも、放っておけないんだ」
一ノ瀬さんの顔は、どこか疲れて見えた。
「でも、ここにいても俺はいつかいなくなる。お前の人生は、お前のものだ」
その言葉は重かった。
帰るまでの数日は、まるで時間が引き伸ばされたように感じられた。
美桜と過ごす時間も、かけがえのない宝物に変わった。
彼女と語り合い、笑い合い、手をつなぎ、別れが近いことを意識しながらも、目の前の今を大事に生きた。
夜、布団の中でスマホを見つめながら、美桜とのメッセージを何度も読み返す。
『帰りたくない』
『でも、帰らなきゃ』
心の中の葛藤が、言葉にできないほど複雑に絡み合った。
残り3日前。
夜遅く、カフェの閉店後。
裕翔は一ノ瀬さんの部屋を訪ねた。
「お前がここにいてくれて、本当に助かった」
一ノ瀬さんの声は、いつもよりずっと弱々しかった。
「ありがとうございます。俺も一ノ瀬さんがいるから頑張れました」
2人は静かに、しかし深く互いの思いを交わした。
「また戻ってきます。約束する」
その言葉が、どれほど2人の支えになったか、言葉にしなくても伝わったようだった。
静かな夜。
カフェの2階の自分の部屋の窓から、街の灯りが遠くにぼんやり見える。
裕翔は布団に座り込み、頭を抱えた。
「なんで、俺は家出なんかしちゃったんだ……」
誰にも言えない後悔が胸の奥で燃え上がる。
「もし、あのまま家にいたら……こんなにみんなに迷惑をかけることもなかったかもしれない」
だけど、ふと頭に浮かぶのは、ここで出会った人たちのことだった。
「でも、この人たちと出会わなかったら……」
強面だけど優しい一ノ瀬さん。
笑顔が眩しくて、俺の恋人、美桜。
共に過ごした毎日、笑ったこと、泣いたこと。
迷惑をかけてばかりの自分が、こんなにも温かく受け入れてもらえたこと。
「こんなに心があったかい場所、他にあったかな……」
複雑に絡み合った感情が、胸の中でぐちゃぐちゃになる。
「本当は……ここにいたい」
でも、帰らなきゃいけない現実。
「俺はどうしたらいいんだ」
たくさんの涙が頬を伝い、膝に落ちる。
「逃げてばかりの俺に、未来ってあるんだろうか?神様、教えてください」
答えは出ないまま、ただ静かに夜が過ぎていった。
前日。夕陽が西の空を真っ赤に染め上げる頃、裕翔は美桜をそっと近くの公園へ連れて行った。
そこは2人が初めて一緒に過ごした場所から少し離れた、静かな場所だった。
少しひんやりとした春の風が吹き、花びらが舞い落ちる中、2人は並んでベンチに腰を下ろした。
裕翔はじっと前を見つめながら、小さく息をついた。
「美桜……俺、明日、家に帰る」
言葉は静かだったけど、その一言に込められた重みは、2人の間に大きな波紋を広げた。
美桜は一瞬、息をのみ、目に涙をためた。
「戻るの……?」
その問いかけに、裕翔は静かに頷いた。
「うん。でも、ただ帰るだけじゃない。これからは、ちゃんと働いて、大学にも行く。それで、また戻ってくる」
美桜は言葉を詰まらせ、顔を伏せる。
「ねえ、裕翔……なんで急に?」
裕翔は深く息を吸い、心の中に溢れる想いを吐き出すように言った。
「俺はずっと、自分の人生に自信がなかった。家でも色々あって、何もかも上手くいかなかった。でも、ここでお前や一ノ瀬さんと出会って、初めて本当に大切なものがわかった」
「お前と過ごしたこの1年間は、俺にとって宝物だった。楽しかった。笑った。泣いた。全部が俺の人生を変えた」
美桜は涙をこらえきれずに声を震わせた。
「ありがとう、裕翔……私もずっと、あなたのこと好きだったから……」
裕翔はそっと彼女の肩に手を回し、優しく抱き寄せた。
「お前がいてくれて、本当に良かった。今はお金もないし、何も持ってないけど、これから2年間高校、それから
4年間、大学に通ってしっかり学んで、しっかり働いて」
「必ず強くなって、帰ってくる。そして、必ずお前にプロポーズする。それまでどうか、待っててほしい。」
裕翔の眼は今まで見たことないほど真剣だった。涙が溢れてはいたが、表情は1つも変えなかった。
2人はその言葉に抱きしめ合いながら、声を出さず、泣いた。
夕陽がゆっくりと沈み、暗闇が2人を包む。
シャッターを半分閉めたカフェの中には、いつもの賑やかさはもうなかった。客の声も音楽も消え、漂うのは、コーヒーの残り香だけだった。
一ノ瀬さんはいつも通り、無言で食器を洗い、棚を拭いていた。だけど、どこか元気がないのがすぐに分かった。背中がいつもより小さく見えて、どこか寂しげだった。
裕翔も、黙ってモップをかけながら、その背中をちらちらと見ていた。
やがて片付けが一段落すると、一ノ瀬さんが湯呑みを拭きながら、小さく呟いた。
「明日……か」
裕翔は手を止めて、背筋を伸ばす。
「はい。明日、朝一で出るつもりです」
一ノ瀬さんは少し頷いて、それ以上何も言わなかった。
けれど、裕翔はちゃんと伝えなきゃいけないと思った。心の底から。
「一ノ瀬さん。今まで本当にありがとうございました。何も持たなかった俺を拾ってくれて、住む場所も、飯も、学校も、全部……与えてくれた。俺の人生はあの春、本当に終わってた。でも、あの日……助けてくれて、声かけてくれて、拾ってくれて……生き返ったんだ」
一ノ瀬さんは無言のまま、湯呑みを置いた。
「俺、絶対6年後、戻ってきます。そのとき、ちゃんと成長してる姿、見せに来ます」
少し間が空いたあと、低い声が返ってきた。
「……なあ、裕翔」
一ノ瀬さんは背を向けたまま、ポケットから煙草を取り出した。けれど、火はつけずに、それを見つめるだけだった。
「俺はな、お前が戻ってくるとき、この世にいないかもしれない。身体、ちょっとガタきてるって、最近わかってな……医者にも言われた。でも、だからって言っておきたいことがある」
静かに、振り返る。目には光があった。
「俺は、本当に、お前を拾って良かったと思ってる」
裕翔の胸の奥がぎゅっと締めつけられる。言葉が、何も出なかった。
一ノ瀬さんはゆっくり、カウンター越しに立ち上がり、店内を見渡した。
「初めて来たとき、ガリガリで、目も合わさず、言葉もロクに出なかった。それが今じゃ、美桜と一緒に笑って、店を支えて、俺にまで心配させるくらいにまで成長してさ……なんていうかさ、あっという間だったよな」
照れくさそうに笑ったその顔が、いつもより歳をとって見えた。
「お前が居てくれて、本当に助かった。カフェも、家も……あれだけ静かだったのに、急ににぎやかになって、俺も、家族っていいもんだなって思えた」
そう言いながら、一ノ瀬さんはゆっくりと歩み寄ってきた。
そして、無言のまま裕翔の肩をがっしりと抱きしめた。
腕の中は、驚くほど温かかった。力強くて、でも、優しかった。
「お前に出会えて、良かった」
その一言に、裕翔の目から自然と涙がこぼれ落ちた。
何度も何度も、感謝の言葉を伝えたかったけど、声にならなかった。胸が、喉が、詰まっていた。
一ノ瀬さんも、静かに涙を流していた。
夜のカフェには、2人の嗚咽だけが響いていた。
それは、血の繋がりを越えた家族としての最後の夜だった。
朝の光が、カーテン越しに静かに部屋を照らしていた。
目を開けた裕翔は、天井を見上げながら、ゆっくりと深呼吸をした。
ついに、この日が来た。
鞄は昨夜のうちに詰め終えていた。制服も、カフェのエプロンも、思い出が詰まりすぎていて、最後までたたむのに時間がかかった。
けど今はもう、何ひとつ置いていくものはない。
窓を開けると、風の匂いが少しだけ春の終わりを連れてきていた。
一階に降りると、カフェのキッチンからはコーヒーの香りがしていた。
「起きたか」
一ノ瀬さんは、もう準備を終えていたらしく、いつもより一段と落ち着いた表情で立っていた。
「……はい」
「美桜は、外だ」
外。
その言葉に、裕翔の胸が少しだけ痛んだ。
玄関を開けると、そこには制服姿の美桜が立っていた。
白いカーディガンの袖をぎゅっと握りしめて、うつむいていた彼女は、裕翔の足音に気づいて顔を上げた。
目は、少し腫れていた。けど、笑っていた。
「おはよう」
「……おはよう」
言葉が続かなかった。声に出せば、胸の奥から感情が溢れてきそうだったから。
美桜がそっと、バッグを持ってやろうと手を伸ばしてきたけれど、裕翔はそれを断った。
「いいよ。最後くらい、自分で持ってく」
「……そっか」
沈黙。
でも、その沈黙は優しくて、苦しくて、温かかった。
「行ってきます」
最後の言葉を振り絞るように言ったとき、裕翔は一ノ瀬さんの前に立った。
「ここに来て、本当に良かった。生きるってことが、やっとわかった気がします。……ありがとうございました」
一ノ瀬さんはただ静かに頷き、裕翔の頭をくしゃっと撫でた。
「元気でな。帰ってくる場所は、ここにある。6年後、お前が笑って帰ってくるのを楽しみにしてる」
「はい」
裕翔は一礼して、美桜の方に向き直った。
目と目が合った。たくさんの言葉がそこにあった。言わなくても、伝わる想いが、全部あった。
「行ってくる」
美桜は笑って、小さく頷いた。
「うん……行ってらっしゃい」
家の門を出て、裕翔はゆっくり歩き出した。
振り返ると、美桜と一ノ瀬さんが並んで手を振っていた。
その姿が、春の空に滲んでいく。
その瞬間、初めてぽろりと、裕翔の目から涙がこぼれ落ちた。
でも、もう立ち止まらない。
この歩みの先に、約束の未来があるから。
カバンの中には何も特別なものはない。けど、心の中には、何より大切なものが詰まっていた。
裕翔は歩いた。6年後の約束に向かって。
大切な人たちの待つ、あの場所へ、必ず戻ってくると誓いながら。



