第1章 第1話泣くほど、金になる
朝がくるのが、怖い。
暗い部屋の隅、冷たい床の上で、私は膝を抱えてじっと目を閉じている。
ここには窓があるけれど、外の光は届かない。
鉄格子の向こうにあるのは空じゃない。ただの壁。
でも、壁の向こうから光が射すのを、私はいつも怖れている。
朝になると、私の“価値”が測られるからだ。
鉄の扉の鍵が回る音がした。
カチャリ、という乾いた金属音が私の全身を強張らせる。
息をひそめていても、扉の隙間から香水の匂いが入り込んでくる。
「おはよう、エリア」
その声は甘く優しい。
母のようで、でも母じゃない。
ジュディ・サイラス。
この家の女主人であり、私の涙を管理する人。
「今日も良い一日になりそうね。昨日は、黒がとても濃かった。覚えてる?」
私は小さく頷いた。返事をするのも、習慣になってしまっている。
「素晴らしいわ。あの涙は、王都の魔導商会でも高く評価されているの。あなたはサイラス家の誇りよ」
ジュディの笑顔は完璧だった。唇の角度、瞳の輝き、髪の巻き方すらすべてが“演技”のようで、私はいつからかその表情を見ると吐き気がするようになった。
彼女が持っていたのは、黒革の台帳。
私の涙の記録帳。
日付、量、色、粘度、光の反射具合、泣いた時間帯、使用した刺激剤の種類まで、すべてが記録されている。
まるで家畜の飼育記録のように。
「今日も、ちゃんと泣いてちょうだいね。黒い涙じゃなきゃ意味がないのよ?」
私はまた、頷いた。
それしかできない。
泣かなければ、“罰”が待っているから。
ジュディが出ていくと、部屋の隅の薬箱から使用人が一つの瓶を取り出した。
中には淡い青色の液体。
それは“補助剤”と呼ばれているけれど、実際にはただの毒だと思っている。
涙腺を刺激し、感情を不安定にし、記憶をぼやけさせる。
何度も吐いたことがある。でも、それでも与えられる。
細い針が左手首に刺さると、薬液が体内に流れ込み、ひやりと冷たい感覚が腕の奥を這いのぼっていく。
私は、それに抗うこともできずに目を閉じた。
「エリア」
誰かの足音が聞こえる。
私は目を開けると、そこに立っていたのはリアムだった。
ジュディの“息子”。
サイラス家の後継者で、私の“兄”と呼ばれている人。
「また泣くんだって? ご苦労なこったな」
彼の目は冷たくて、笑っていても何も感じていないのが分かる。
昔は優しかったことがあるかもしれない。でも今は、ただ“命令に従う”人。
彼の手には、いつもの“刺激道具”が握られていた。
先が細く削られた竹の棒。頬を叩かれたらすぐに腫れる。
「やるよ。早く泣けよ」
私は震える手で顔を覆った。
痛みが来る前に、心を凍らせておかないと、壊れてしまうから。
ビシッ。
頬を打たれた瞬間、思わず嗚咽がこぼれる。
涙腺がきしむように収縮し、黒いしずくが一粒、床に落ちた。
ジュディが現れて、それをピンセットで拾い上げる。
光にかざして、ため息のように言った。
「今日も、良い黒ね。とても純度が高い。これは……上質よ」
私は、泣ける限り“価値がある”。
泣けなくなったら、サラのように“処分”される。
だから今日も泣く。
痛みにすがり、恐怖を舐め、感情を絞り出して、黒い涙を流す。
この世界では、苦しみの涙が魔力の源。
私の絶望は、誰かの力になる。
私の悲鳴は、誰かの薬になる。
それが“この家”のルール。
それが、私の生きている理由だった。
朝がくるのが、怖い。
暗い部屋の隅、冷たい床の上で、私は膝を抱えてじっと目を閉じている。
ここには窓があるけれど、外の光は届かない。
鉄格子の向こうにあるのは空じゃない。ただの壁。
でも、壁の向こうから光が射すのを、私はいつも怖れている。
朝になると、私の“価値”が測られるからだ。
鉄の扉の鍵が回る音がした。
カチャリ、という乾いた金属音が私の全身を強張らせる。
息をひそめていても、扉の隙間から香水の匂いが入り込んでくる。
「おはよう、エリア」
その声は甘く優しい。
母のようで、でも母じゃない。
ジュディ・サイラス。
この家の女主人であり、私の涙を管理する人。
「今日も良い一日になりそうね。昨日は、黒がとても濃かった。覚えてる?」
私は小さく頷いた。返事をするのも、習慣になってしまっている。
「素晴らしいわ。あの涙は、王都の魔導商会でも高く評価されているの。あなたはサイラス家の誇りよ」
ジュディの笑顔は完璧だった。唇の角度、瞳の輝き、髪の巻き方すらすべてが“演技”のようで、私はいつからかその表情を見ると吐き気がするようになった。
彼女が持っていたのは、黒革の台帳。
私の涙の記録帳。
日付、量、色、粘度、光の反射具合、泣いた時間帯、使用した刺激剤の種類まで、すべてが記録されている。
まるで家畜の飼育記録のように。
「今日も、ちゃんと泣いてちょうだいね。黒い涙じゃなきゃ意味がないのよ?」
私はまた、頷いた。
それしかできない。
泣かなければ、“罰”が待っているから。
ジュディが出ていくと、部屋の隅の薬箱から使用人が一つの瓶を取り出した。
中には淡い青色の液体。
それは“補助剤”と呼ばれているけれど、実際にはただの毒だと思っている。
涙腺を刺激し、感情を不安定にし、記憶をぼやけさせる。
何度も吐いたことがある。でも、それでも与えられる。
細い針が左手首に刺さると、薬液が体内に流れ込み、ひやりと冷たい感覚が腕の奥を這いのぼっていく。
私は、それに抗うこともできずに目を閉じた。
「エリア」
誰かの足音が聞こえる。
私は目を開けると、そこに立っていたのはリアムだった。
ジュディの“息子”。
サイラス家の後継者で、私の“兄”と呼ばれている人。
「また泣くんだって? ご苦労なこったな」
彼の目は冷たくて、笑っていても何も感じていないのが分かる。
昔は優しかったことがあるかもしれない。でも今は、ただ“命令に従う”人。
彼の手には、いつもの“刺激道具”が握られていた。
先が細く削られた竹の棒。頬を叩かれたらすぐに腫れる。
「やるよ。早く泣けよ」
私は震える手で顔を覆った。
痛みが来る前に、心を凍らせておかないと、壊れてしまうから。
ビシッ。
頬を打たれた瞬間、思わず嗚咽がこぼれる。
涙腺がきしむように収縮し、黒いしずくが一粒、床に落ちた。
ジュディが現れて、それをピンセットで拾い上げる。
光にかざして、ため息のように言った。
「今日も、良い黒ね。とても純度が高い。これは……上質よ」
私は、泣ける限り“価値がある”。
泣けなくなったら、サラのように“処分”される。
だから今日も泣く。
痛みにすがり、恐怖を舐め、感情を絞り出して、黒い涙を流す。
この世界では、苦しみの涙が魔力の源。
私の絶望は、誰かの力になる。
私の悲鳴は、誰かの薬になる。
それが“この家”のルール。
それが、私の生きている理由だった。
