花と過去を開示し合った翌日の土曜日の午後二時。俺は一人、天堂さんに貰った割引券を握りしめて『天堂』に訪れていた。女神に会いたくはないのだが、料理の美味しさは本物だ。それに割引券を無駄にするわけにはいかないだろう。
「い、いらっしゃいま……せ」
「……え」
 俺を出迎えたのは女神でもなければ天堂さんでもなく、エプロンを付けている少し神経質そうな少年だった。
「あの、もしかして……八鬼選手?」
「そ、そうだけど。君は……?」
 彼が問いに答えようと口を開こうとした時、奥から天堂さんが駆け寄ってきた。
「先輩! 来てくれたんですね!」
 彼女は普通のラフでボーイッシュな私服姿でいる。
「天堂さん、この子は?」
「あたしの可愛い弟の天堂十綺(とうき)です」
 見覚えのない子だと思ったが、女神の二人目の子供だった。確かに顔立ちは綺麗で姉の面影が確かにある。二回くらいこの店に足を運んだが彼とは一度も会っていなかった。
「弟いたのなら教えてくれよ」
 女神の息子という危険な存在が近くにいたとは。女神は天堂さんについては普通の子だと言及していたが彼については何もいっていなかった。俺の中で彼は要注意人物になる。
「いやーあはは……タイミングがなくて。それに、とうくんってあたしと同じで先輩のファンなんで、先輩が弟を気に入っちゃったら取られちゃうかもって」
「……お前ブラコンだったのか」
「ち、違いますよ! そんな事より立ち話もなんですし座ってください」
 店内は空いているが迷惑になってしまう。俺は近くの二人席に着くと、天堂さんも当たり前のように対面に座る。
「おい店員」
「今日は特別にとうくんがやる日なのであたしもお客さんです」
「特別?」
「とうくんサッカーやってるんですけど、今日はお休みなんです。それでお手伝いしてもらってるんです」
 姉が来てから会話に入りきれていない十綺くんの方に目配せすると、こくこくと頷く。
「姉弟でサッカーやってるんだな。母親の影響か?」
「そうですね。でも、一番の理由はやっぱ。八鬼先輩なんです。ね、とうくん」
「僕も……お母さんに八鬼選手のプレーを見せて貰って、カッコよくて、あんな風になりたいなって始めました」
「そ、そうか」
 十綺くんは瞳を輝かせて思いを伝えてくれる。女神が原因でも、子供に憧れだと言われ素直に嬉しくなってしまう。それと同時に申し訳なさも溢れてくる。
「……悪いな。今のサッカーをやってない、こんな落ちぶれた姿を見せて」
「い、いえ……」
 罪悪感に耐えきれずそう謝罪の言葉が口から出てくる。そのせいで、十綺くんを反応に困らせてしまう。
「それよりも、先輩何か頼みましょうよ。ちなみに、あたしのオススメは新メニューの女神カレーです」
「何だそりゃ」
 天堂さんから助け舟が出てくるが、その代わりに聞き逃がせない名前が耳に入って。
「前、期間限定で出したサッカーボールカレーあったじゃないですか。結構人気だったので恒常メニューにしたんです」
「まぁ人気になるのは分かるんだが……それにしても女神カレーって」
 メニューの説明を見ると、その中に、これを食べれば勝利の女神が微笑むかもとか書いてある。作ってるのがガチの神だと考えると、笑い飛ばせないリアリティがあった。
「ちなみに、あんま効果はないみたいですけどね」
「ないんかい」
 そんな名前にしておいて、女神の力を使わないというのはどういう理由なのか。とにかく、変な呪いみたいなのはかかってなさそうで、俺はそれを頼むことにした。
「あたしもそれでお願い」
「はい、女神カレー二つ……ですね。少々、お待ち下さい」
 十綺くんは緊張しながらも、注文を受けて奥へと下がっていった。
「とうくん、頑張ってるなー。あのちょっと緊張してる感じが可愛いんだよなぁ……」
 一生懸命な弟を愛しそうに目を細め見つめて、感嘆のため息を漏らした。相当なブラコンのようだ。今までの片鱗に気づけなかったのは奇跡かもしれない。
「そういや、天堂さんの方はどうなんだ?」
「あたしの方って?」
「サッカーだよ。休んでるって言ってたけど、まだ行けてないのか?」
 二人きりという状況でもあり、一つ気になっていた事をぶつけてみる。天堂さんは、視線を天井に向けてから苦笑を浮かべた。
「まぁ……そうですね」
「もしかして、怪我とかか?」
 昨日、花に俺の怪我について話したせいで、天堂さんも同じような苦しみを感じているのではと想像してしまう。
「そういうのじゃなくて……あれです、モチベーションが湧かないんですよね」
「モチベの方か。サッカーは好きなんだよな」
「はい。けど、やる気が出てこないというか、何かきっかけばあればって感じで」
 今顔を下に向けて黒い影が落ちる。簡単な状況でもなさそうで悩んでいる事は声の端々から察せられた。
「つまりサボってるんですよ。あたし、悪い子なんです」
「それは」
「お、お待たせ、しました。女神カレー、です」
 タイミングが良いのか悪いのか、十綺くんがカレーを運んできてくれる。
「おっ、ありがとー!」
 弟が来た途端に元気に振る舞う。好きな弟の前では弱い姿を見せられないのだろうか。
「じゃあ、食べますか」
「だな。いただきます」
 俺は出されたサッカーボール形のライスをカレーにつけて口に運んだ。相変わらず絶品で思わず声を出してしまいそうになる。対面の天堂さんは美味しいと感想を口にするが顔は冴えない。
 失言だった。気になってたとはいえ、この場でする話ではなかった。花と多少深い話をして、その感覚が残っていたのだ。こんな雰囲気にしてしまった責任は取らなくてはならない。
「なぁ、お前の推しとサッカーしてみないか?」
「へ?」
 天堂さんの口に運ぼうとしていたスプーンの動きが止まる。そして驚きに目を見開いて口をパクパクさせて。
「え、えええええ!?」
 ため込んだ驚愕を爆発させて店内に大声を響かせた。



 食べ終わってから、俺と天堂さんは近くの公園に訪れていた。ここは比較的広く、遊ぶ子供の姿も多く見受けられる。俺たちは、あまり人がいない砂利の場所にいて、足元には彼女のサッカーボールがあった。
「そんじゃ、軽くやるか」
「ちょ、ちょっと待ってください!」
 公園に来るまでの道中でもそうだったが、天堂さんのテンションは微妙なままで。思ったよりも喜ばれず少し予測外だった。
「先輩、どうしてですか? あたしとサッカーしてくれるなんて」
「……もしかして嫌だったか? 天堂さんなら跳ねて喜ぶと思ったんだけど」
「も、もちろん嬉しいです! 推しと練習出来るなんて最高です! ……けど」
 一旦言葉を止めると瞳を不安そう揺らして。
「先輩、サッカーを避けてたじゃないですか。大丈夫なのかなって」
「俺にサッカーを再開して欲しかったんじゃないのか」
「そうですけど、先輩の意思を無視するのは違うと思いますし。それに、あたし、先輩に嫌われたくないですし……」
 最後の方は今にも消え入りそうな小声で、こんな弱々しい天堂さんを見るのは初めてだった。
「その、嫌われかねない事もしてきてはいたんですけど……」
「意外に気にするんだな。結構ぐいぐい来るからさ」
「推しの前だと、つい好きなあまり暴走しちゃって……ごめんなさい」
 そうペコリと頭を下げてくる。今日の天堂さんはずるいと思う。普段とは違うギャップを見せられてしまえば心が揺らいでしまう。
「まぁ困らせられてるが、色んな奴と関わってきたからな、そういう耐性はあるんだ。それに、その好きに一直線なのは良いところだと思うぞ」
「え」
 俺は足元にあったボールを天堂さんへと軽くパスする。それは彼女の足元で止まった。
「今の俺にはそういうのがなくて、羨ましくもあるよ」
 それは彼女を慰めるためだけじゃなく本音の一つでもあった。
 俺は軽くパス回しでもしようと、少し距離を取る。何も言わずとも何をするか察してくれて、天堂さんはボールに足をかけた。そして手を上げて呼び込むと今度は彼女の方からパスが送られてくる。ブランクのせいか、転がってくるボールはぼこぼことして少しずれて俺の方にきたが、それをトラップする。
「八鬼先輩って、やっぱり優しいですよね」
「別に。ただの罪滅ぼしだよ、余計な事を言ってしまった事の」
 話ながらパスの交換をしていく。俺も久しぶりではあるものの、体が基本を覚えており我ながら高品質のパスを出せていた。対して、神の娘で才能もあるであろう天堂さんボールは、緊張しているのか微妙なままだった。
「あの、先輩」
「何だ?」
 ふと天堂さんはトラップをしてボールを足を止める。
「それなら、どうしてサッカーを止めてしまったのか聞いていいですか?」
 彼女にとって相当勇気を振り絞ったらしく、体に力をいれながらそう尋ねてくる。
 昨日、もし花に話していなかったら、俺は過去を伝えただろうか。わからないが、今の俺は花と同じように過去を天堂に教えた。
「……そう、だったんですね。ごめんなさい、あたしそんな事も知らずに」
「さっきも言ったが気にしてない。話さなかったのは俺だし、天堂さんが気に病むこともない。それに、パス回しくらいならできるって言っただろ?」
「で、でも」
 あの女神の娘とは思えないくらい気を遣ってくれる。あいつにも見習って欲しいものだが、おかげでようやく女神と天堂さんをしっかりと切り分けられた気がした。
「らしくないぞ。いつものようにガンガンこいよ。へい、パス!」
 俺は手を上げて呼び込む。天堂さんはボールと俺の方を交互に見てから、意を決したように返してくる。
 それから何度もボールのやり取りをしていった。次第に天堂さん表情もボールの質も向上してくる。
「先輩!」
 もういつもと変わらない彼女になっていて、呼び掛けと共に威力のあるパスを送ってくる。
「これからもたまにでいいので一緒にこうして欲しいです!」
 俺はそのパスをピタッと止めた。花と同じく俺が失ったものを持っている天堂さんは鬱陶しいほどキラキラしていて、こちらも、乱された調子も元に戻る。
「あたしもモチベーションになるし。それにもしかしたら先輩の問題も良くなって、あたしの推しが復活するかもしれないですから!」
「ま、気が向いたらな」
 俺もまたいつものような返答と共に蹴り返した。
「約束ですからね!」
 完璧に近いパスが彼女の元へと向かう。しかし、喜びのあまりかトラップミスをして足に当たったそれは止まる事はなく弾かれて、明後日の方向に転がった。



 それから俺たちは休日の公園でしばらく一緒に過ごした。サッカーだけでなく、遊具で遊んでみたり公園内を散歩したりもして、どこか小学生時代を思い出す時間を送っていた。
 ふと、入り口に設置されている時計を見ると、三時を指しており、天堂さんがそれを見ると声を上げる。
「やばっ、お母さんとの約束忘れてた!」
「約束?」 
「三時半から一緒に買い物する約束してたんです。完全に記憶からなくなってました」
「家族、皆仲が良いんだな」
「そう言われると照れくさいですけど……ですね。お母さんの事は嫌いじゃないし、とうくんの事も、好きなんで」
 髪の毛をポリポリと掻き、恥ずかしそうにそう言う。弟に対する好きという言葉を口に出す時少し詰まったのは、その愛が強すぎたせいだろうか。
「じゃあ、そんな大好きなお母さんの約束は守らないとな」
「あ、もしかして嫉妬ですかぁ? ふふっ、安心してください。あたしにとっての一番は先輩なんで!」
 天堂さんは実に愉快そうにからかってくる。
「別に嫉妬とかしてねぇ。そんな事より早く行ったらどうだ」
「はーい! じゃあ先輩、また一緒にサッカーしましょうね! 約束しましたからねっ!」
「わかったわかった。また今度な」
 天堂さんは子供みたいにはしゃいで、約束を取り付け、手を振って公園を出ていった。その姿は体が大きくなっただけの小学生のようでもあって、少し笑ってしまった。
「ってボール忘れてるし」
 俺のそばには持ち主を失くして寂しそうにボールが転がっていた。
「どうするかな……」
 今すぐ戻れば間に合うだろうが、別れてからすぐ会うというのは少し気まずさもあって。
 天を仰いで悩んでいれば、背後から小走りに近づいてくる足音が聞こえてきて。
「あのぉ」
「は、はい……って十綺くん?」
 不安そうに話しかけてきた少年は十綺くんだった。
「どうしたんだ? お姉ちゃんなら家に帰ったぞ」
「その……僕、八鬼選手に会いたくて……」
 姉の方としばらく会っていてそこから弟の方と関わると、その性格の違いに、姉弟というのを忘れそうになる。
「えっと……僕……」
 何かを言おうとするが中々先が出てこない。性格もそうだが俺のファンと言っていたし緊張しているのだろう。
 女神が絡んでる存在とはいえ、邪険に扱う訳にもいかず、俺は少し屈んで彼と目線を合わせる。
「何かあるなら遠慮せず言ってくれ」
「そ、そのぉ……お願いが……あって」
「お願い……?」
 ヤバい、嫌な予感がしてきた。遠慮して欲しくなってきたが、もう撤回するタイミングは失われていて。
「あの……サッカーの練習を見てもらいたいんです」
 目をギュッとつぶりながら、懸命にそう言葉を絞り出した。どうやら予感は当たってしまったらしい。
「お姉ちゃんとサッカーしてるの見てて、僕もって……」
「見てたのか。というか家の手伝いは?」
「もう終わってて、お姉ちゃんたちのお話が聞こえてたから、来て」
 話しかけてくれればにと思ったが、それができる性格ではないなとすぐに納得した。
「うーん」
「急にこんな事を言って、ごめんなさい。でも……教えて欲しい、です」
「……」
 やはり天堂さんの弟だった。気弱さはあるが、自分の意思は通そうとするところは、同じだ。しめしめと笑う女神の影がちらついてくる。ムカつく。しかしながら、目の前にいるのは少年である。
「ま、ここにボールあるし、とりあえず、やってみるか?」
「は、はい!」
 安心したような笑顔がこぼれた。それには心を絆されてしまいそうな力があって。やはり女神の関係者は危険だ。
 俺は天堂さんの時と同じように、まずはパス回しをする事にした。
 俺は子供ということで加減したパスを出す。十綺くんはそれをビタっと止めて、そして洗礼された動きでボールを返してくる。
「……っ!」
 彼のボールは地面を滑るように真っ直ぐ俺の足元へ。そしてそれを受けると、その一回だけでもひびっと痺れる感覚があった。そしてそれを何回か繰り返せば、ボールから足へと彼の持つ才能がびしびしと伝わってくる。姉の方からもあったのだが、遥かに凌ぐ凄みがあった。
「凄いな」
 それから俺は、パスだけでなく他の基礎的なものからドリブルなどの発展した技術なども見せてもらったのだが、その言葉しか出なかった。この年では、あまりにも完成されていて、その上伸び代もある。その才能はあの時の俺に匹敵するものかもしれなかった。
「そんなに上手いなら俺に見てもらう必要なくないか?」
「でも、僕、チームの中でも普通くらいで、試合に出てもあんまり活躍できなくて……」
「嘘だろ? この地域は化物揃いなのか?」
 だとしたら、もう俺とかいらないだろ。彼が普通なら俺も普通くらいになってしまう。
「その、皆から言われるのは自信を持てって事で……僕、自信がなくて……それで八鬼選手に教われば自信つくかなって」
 サッカーはある種メンタルスポーツでもある。俺の例もそうだが、どれだけ才能があっても能力があっても、メンタルによって結構左右されてしまうのだ。十綺くんはまさにそれで、特に試合などで本来持ってる力を全く出せていないのだろう。
「その、駄目……ですか……?」
 十綺くんは上目遣いで尋ねてくる。姉に加えて弟もだと面倒ではある。だが正直、勿体ないなと思っている自分もいて。その気持ちが俺に対する女神と同じものだと思うと、最悪ではあるのだが。
「はぁ、仕方ないな」
「本当……ですか?」
 もやがかかっていた十綺くんの顔が一気に晴れやかになる。それを見て嬉しくなる自分は、まだ悪役になれそうになかった。
「まぁ、たまにでよければな」
「あ、あ、ありがとうございます!」
 十綺くんは姉と似た感じに跳ねて喜びをあらわにする。血の繋がりを確かに感じた。
「せっかくだし、お姉ちゃんと二人でやるか?」
「えと、お姉ちゃんには秘密にしてくれるとありがたいです……」
 意外な返答だった。
「どうしてだ?」
「びっくりさせたいんです。こんなに上手くなったよって。そうすれば、きっとお姉ちゃん、試合を見にきてくれるから」
「え、見に来ないのか?」
 これまた予想外だ。弟大好きと公言しているから、必ず来るのかと。
「はい、凄く活躍した日があったんですけど、そこから来なくなっちゃって。きっと、その程度って失望されたんです」
 そういう人ではないと思うのだが、一体どういう理由があるのだろうか。
「とりあえず、了解した。秘密にしておく。また見てもらえるようになるといいな」
「はい!」
 歯にものが挟まったような違和感や疑問はあるものの、俺は天堂姉弟とサッカーをする事になった。女神の思惑に乗せられいるような気がしなくもないが、サッカー選手に戻る事はないと改めて心で呟いた。