女神の嫌がらせでまた俺は高校生活を送ることになった。何年も訪れている校舎に同じクラスメイトの面々に会話内容、そしてほとんど変わらない日々の出来事。それらに飽き飽きして、そのあまりの退屈さに死にそうになっていた。ただ、だからといっても平穏を望む者としては下手なことをすることも出来ない。女神も何か変なことをしてくるらしいから尚更だ。
 結局前回と同じような代わり映えのない高一の時間を浪費した。この苦行のような生活をするコツは、基本的に会話する人間を最低限にして、それ以外は一人でいること。まるで何度もクリアしたゲームのように繰り返される会話に向き合ってはいられない。
 過去には、クラス全員と仲良くするチャレンジして、まさしくゲーム的に何を言えば好感度が上がるか考えながら動いた事もあった。まぁ、内二人の女子とは上手くいかなかったが。
 もちろん今回はそんなことはせず、俺は陰キャ的な立ち振舞で二年生に進級した。そして、早いものでもう六月になっている。
 席替えで手に入れた窓際の一番後ろから外を見ると、梅雨入りを知らせるような雨が降ってグラウンドを水浸しにしていた。
「この雨だと今日の練習は無理だなー」
 クラスメイトで幼なじみでもある六角純が、ゴツい体格とは似つかない可愛らしいいちご柄の弁当を持ちながら、低く穏やかな声で話しかけてくる。相変わらず線みたいな細い目をしていて、開いてるんだか閉じているんだか分かりづらい。
「ならサッカー部の部長として連絡しないとだな」
「うん、そうだね。そうそう、サッカー部を気にしてくれたついでに聞くけど、まだサッカーにやる気はない?」
 純は面長の塩顔をこちらに向けて、ループ以前から言っていることを尋ねてくる。
「ないな」
「そっか。けど、気が変わったら言ってほしい。いつもで歓迎するからさ」
「はいはい」
 この会話も数え切れないほどしていた。冷たく断っているのに純は中二頃からしつこいようにサッカーの道に誘ってきている。まだ、小学生頃の神童『八鬼英人』の幻影を見ているのだ。もうそんなのは消えたというのに。
「一緒に食べないか?」
「悪いが行くところがあるんだ。他の奴を当たってくれ」
「わかったよ。それじゃ」
 嫌な顔せず受け止めると、少し離れた地点にいた男子達の方に行ってしまう。もう痛む心を失っている俺はリュックから弁当を取り出し教室を出た。
 廊下に出て歩くと、他の教室からは昼休みの楽しげな声が聞こえてくる。しかし、俺のクラスのある二階から三階に昇り、さらに四階から五階まで進むといよいよ人の気配が消え去り喧騒が遠くなっていく。基本的に使用されないこのフロアは明かりすら点いていないため、まさしく別世界に来たような感じがする。
 俺が八回も通っている八松(はちまつ)高校は大学の付属高校で敷地には大学もあり、俺達の下の代が大量入学してきたことで、二年生は高校校舎ではなく大学の校舎を使っていた。この五階は大学生も使ってない隠れ家だ。
「……ん?」
 階段から一番奥の教室、ひとりになるためにはいつもここに来ていた。その教室前に来るとドアの小窓から光が漏れ出ていた。ここを使い出したのは六周目くらいからだが、こんなことは初めてだ。女神の仕業だと警告している自分と新しいことが起きそうと興味を持っている自分が同時に現れて。
 それはどうしようもない退屈に差し込んだ光に思えてしまい、好奇心に従って教室の中へと入った。
「変身! うわぁぁぁやっぱりベルトカッコい……え?」
「あ」
 室内の真ん中で、女の子が明るい声をさらに跳ねさせて、メタルマスクグライダーのベルトで遊んでいた。想定外に想定外が重なり反応できず、久しぶりに起動させた脳は処理するので精一杯だ。
 向こうも、変身ポーズの両手を狐の形にして真っ直ぐ手を伸ばして、驚愕の表情のまま硬直。ただ見つめ合っている内に、みるみる顔が赤くなっていって。
「……」
「……」
 無言と無言の鍔迫り合いが行われる。その間は時間が引き伸ばされたように長く感じるも、ループする時間を彷徨っている俺にとっては大したことではなく、俺は暇なのでじっくり彼女を眺めた。
 背丈は平均的で少し華奢な体つきで肌は健康的に焼けている。童顔で愛嬌のある顔つきに、黒髪はふんわりとした質で形はボブのミディアムショート。瞳はアーモンド形で黒とブラウンが混じった色をしている。胸の膨らみも大きすぎず小さすぎずで、スカートからは少し肉付きのある足が伸びていた。
 そんな時間がしばらく続き、そして耐久レースで先に音を上げたのは彼女の方だ。
「ふ、ふっふーまさかこんな姿を見られてしまうなんて……こうなっては仕方ない、本当の事をあなたに教えるよ。そう実はボク、選ばれしヒーローなんだ!」
 斜め上の対応だった。そんなセリフを堂々と言ってのけるが、羞恥に今にも顔から火を吹きそうだった。
「そうきたか……」
 面白い。素直にそう思えたのは久しぶりで、もっと楽しみたいと思ってしまう。
「ほほう、じゃあ変身して見てくれ」
「ふぇ!? えとそのぉ、なんというか……」
 辛うじてカッコつけていた態度が完全に崩壊し慌てふためく。手振り身振りが激しくなり、目も泳ぎまくっておかしな挙動に。それを眺めていると思わず頬が緩んでしまう。
「つ、ツッコんでくださいよ! 恥ずかしくて死んでしまいます!」
 そしてついち音を上げる。
「ははっ悪い悪い、面白くてついな」
「ひ、酷いです。ボクで遊ばないでください」
「でも、変な事をしたのはそっちだろ? 面白そうと期待させた責任は取ってもらわないとな」
 平穏を乱さない新しいに飢えている俺に、堂々と美味しそうなものを見せてくるのが悪い。そう、これは向こう側にも落ち度がある。
「うぐ……そうかもですけど……」
「そんじゃ、お互い様ってことでこの話は終わりな」
「わ、わかりました。何か腑に落ちませんけど」
 そんなまだ納得いっていない感じだが、渋々受け入れた。それからベルトを外して近くの机の上に置く。
「というか八鬼さん。どうしてこんな所へ?」
 今回は彼女とはほとんどコミュニケーションを取っていないのだが、名前を覚えてくれているらしい。流石はクラスの委員長だ。
「ヒーローショーをやっていると聞いて」
「やってないですから! 八鬼さんってそういう感じの方だったんですね」
 プンプンと怒ってしまった。非常にいじりがいのあるリアクションをしてくれる。
「もうふざけないから、そんな怒らないでくれ」
「じゃあいいですけど」
 もしかしたら結構チョロいのかもしれない。しかしながら、彼女は上手く仲良くなれなかった二人の内の一人でもあって。
「ここに来たのは一人になりたかったからだ。最近、昼食のためにここに通っていてな」
「そうだったんですね。ボクは初めてここに来たんですけど……邪魔ならもう行きますね」
「待ってくれ。別ちいても構わない。おもし……楽しそうだから」
「その楽しそうのニュアンスは嫌な感じがします。……というか、ボクの名前覚えくれているんですね」
「ああ、後藤花さんだろ? 結構シンプルで親しみやすいからな」
「うぐ……シンプル、ですよね」
 何故かダメージを与えてしまった。
「嫌いなのか?」
「……ボクはもっと特別感のある名前が良かったです。光宇宙とか王女とか」
「それはキラキラし過ぎだろ」
「キラキラ、最高じゃないですか。ボクのなんて使い古されて期限切れしてますもん!」
 それは言い過ぎだろう。後藤さんは、全力で否定するように頭を左右に振っている。
「そうか? 普通の方がよくないか?」
「よくないです。だってボクは主人公みたいになりたいから!」
「お、おう」
 恥ずかしげもなく大真面目にそう主張してきた。彼女は思ったよりも変人なのかもしれない。深堀りした先に何があるか気になってくる。
「主人公って、それこそ悪者とかと戦いみたいな感じか?」
「いやいや、子供じゃないんですからそんな事は考えません。特別な凄い感じの人になりたいんです」
 さっき自分はヒーローとか子供じみたことを言っていたくせに。梯子を外された気分だ。
「特別ね……具体的にあるのか?」
「ありませんけど、なりたいという思いは誰にも負けていません!」
 駄目な面接の受け答えみたいなことを言っている。多分、大学受験をするなら推薦は止めた方がいいと思う。
「ふーん。でも、そんな良いものでもないと思うぞ。特別って」
「そ、そんな事はありません。八鬼さんにはわからないんです」
「そうでもないと思うぞ」
 聞き分けのない子供のような言い草に少し頭の奥が熱くなってきて、俺はスマホを取り出して、しばらく避けていたある記事を開いて見せつけた。
「な、何ですこれ? サッカーについてみたいですけど。ええと『期待の神童八鬼英人くんが大会MVPに輝く』……ってこれって」
「他にも色々記事があるし、テレビの取材とかもあって、地上波にも動画サイトにも載ってる」
「『八鬼英人くん海外ビッグクラブのキャンプでもMVPに輝き、現地に遠征しトレーニングを受ける』おおっ、何かわからないけど凄いですね!」
 途端に俺を見る目が変質して、キラキラさせた視線を送ってくる。
「これで多少なりとも特殊な人間だったと理解しただろ」
「はい! わかりました」
「その上で言うが……特別はいいものじゃない。周りの目とか期待がプレッシャーになって身動き取れなくなって、自由を失っていくんだ」
「それはわかりません」
 わからないってなんだ、わからないって。その返答にヒートアップしていた内心が一気に冷えていった。
「はぁ、そうかよ」
「はい、そうなんです。なので八鬼さん、ボクの主人公になるために協力して欲しいです。その、師匠として」
「へ?」
 こいつマジか。こっちは主人公というものを消極的なものと捉えていると伝えたはずなんだが。ってか師匠とか言われるほど主人公やってない。
「お願いします、師匠!」
「師匠って呼ぶな。別に俺は主人公と思ったことはない」
「それでもお願いします。師匠でも気づいていない何かが得られるかもしれないですし」
 距離を詰めてきて、上目遣いで両手を祈るように合わせて訴えかけてくる。間合いを取ろうと俺は少し後ろに下がると、逃さないといった様子でそれに合わせて前進して間隔を保ってきた。
 了承しなければこの状態から解放されなさそうで。
「はぁ……仕方ないな。でも期待はすんなよ、そこまでやる気はないからな」
「ありがとうございます師匠!」
「師匠だけは止めろ」
 後藤さんはそんな言葉を意に介さず、ぴょんぴょんとジャンプして喜んでいる。悪い気はしないが面倒ではあって。ただ、退屈な時間を送るよりはマシだろう。そう結論づけ一段落すると、途端に腹の虫が鳴き出してしまう。
「お昼ご飯まだでしたよね。ごめんなさい邪魔しちゃって。こちらにどうぞ」
 目の前の席の椅子を引いて、ここに座るよう促してくる。俺がそのままそこに腰を下ろすと、彼女はベルトを着用したまま隣に。
 机に弁当の包を広げてその上に本体を置いた。二段弁当になっており、一段目にはおかず二段目には白米が詰め込まれている。蓋の中にある箸を持ち、まずは米の方から手をつけた。
「いただきます」
 固くなっている米を掴んで口に運んでいく。冷たくもちもちしたいつもの味で、それを何回か機械的に食べる。次におかず側で、ミニトマトやほうれん草といった野菜系に卵焼きにウインナー、そして小さなクリームコロッケがあった。それぞれの味も問題はなく、パクパクと口を動かして胃の中に入れていく。同時に、明日は何にしようかとかもう少し時短できないだろうかと思考していると。
「後藤さんって、メタルマスクグライダー好きなんだな」
 ふとベルトが目についてそう疑問の言葉を投げかけた。
「はい、大好きです。小さな頃は名前を知ってるくらいだったんですけど、中学生の時にハマっちゃったんです。あっ、ボクの事は名前の呼び捨てでいいですよ」
「じゃあ、主人公になりたいってのもそこから? 後、俺も名前呼びでいいからな。というかそうしてくれ」
「いえ、なりたいと思ったのは別の理由ですけど、主人公像は参考にしています。それと、師匠は師匠なので変えません」
 敬うような呼び方してるくせに、俺の願いは拒否してくる。まぁ、自分勝手で自由なのは嫌いじゃないがイラッとはする。
「そうかよ。確かに、グライダーたちの生き様は魅力的ではあるよな。俺は悪役の方が好きだけど」
「え! 師匠もグライダー見ているんですか!」
 まるで宝物を見つけたように瞳を輝かせ、椅子を接近させてくる。
「ま、まぁな」
「嬉しいです! ボクの周りの子は全く興味がなくて好きだってことも言えてなくて。だから、グライダー好きがこんな近くにいたなんてびっくりですし、それが師匠だなんて、これって何かの運命で主人公みたいじゃないですか!」
 花は満開の幸せそうな感情を咲かせる。声のピッチも高まっていて、相当嬉しいらしい。この年齢だとグライダー好きはどこにでもいるわけでもないし、何より女子になるとさらに少なくなるだろう。
「よっぽど主人公が好きなんだな」
「大好きです! 特別な能力を持って迫りくる敵や運命に立ち向かう。最高にカッコいいです!」
「ふーん? 俺は自由にやりたい放題して、あるがままに生きて散っていく悪役の方が良いと思うがな」
 昔から何となく悪側が好きで、その理由を言語化するとそうなった。なんにも囚われず欲望や意志に沿って動く悪者の方が生を謳歌しているように思えてならない。
「ならボクが主人公の魅力をたっくさん教えてあげますね。少しでも協力して貰えるように」
「はいはい、楽しみにしてまーす」
 適当に返事してまた食事の方に意識を向ける。もう全体の半分くらいは食べ終えただろうか。会話しながらだから、箸の進みはいつもより遅い。
「それじゃあ、師匠の好きなグライダーシリーズの作品は何ですか? ボクはやっぱり王道な――」
 それからも俺は花とグライダーシリーズについて会話をし続けた。俺としてもこのことについて話す機会がほとんどなかったから、結構楽しくて夢中になって喋れて。
 そんな中で食べる弁当の味も久しぶりに美味しく感じられた。



「こんな沢山グライダーの事をお話できて幸せです」
「……そうか」
 好みは違うものの共通の趣味について話したことで、割と仲良くはなれた。今までは彼女と距離を縮めることが出来なかったので、これも女神の影響だろう。だが、それとサッカーにどう繋がるのかはっきりとは見えてこなかった。
「そういや聞きそびれてたんだが、何でベルト持ってきてるんだ?」
「いやー悪いことをしてるとは思っているんですけど、今朝に頼んでたこれが届いてしまって、我慢できなかったんです」
 話しながらでようやく俺は食べ終わり、満腹感と満足感と一緒に弁当を包んだ。
「そんなにか」
「はい! まだ始まったばかりですけど、最強無敵な主人公が最高すぎて、めっちゃ楽しみだったんです!」
「まぁ確かにいいよな。悪役好きだけど、あいつは主人公っぽくなくて嫌いじゃない」
 俺が高校二年生になる頃に始まったのが『メタルマスクグライダーキュウビ』だ。個人的に歴代でもトップクラスに面白かった作品で、主人公も魅力的だがラスボスが狂気的な奴で一番のお気に入りで、そいつが使うベルトが大学入学前の時期に届くことになる。
 俺も花のように遊びたいが、女神のせいでその前にループさせられている。そのために、サッカーを始めてもいいかなと思ってしまいそうになるが、何とか抑えていた。
「ですよね! えへへ、師匠と一緒で嬉しいです!」
「……まぁ他は合わないだろうけどな」
「もう、そんな事言わないで下さい。ボクが共通点いっぱい見つけちゃいますから」
 真っ直ぐな言葉に無邪気な笑顔を向けられ、思わず目をそらした。
「ってもうこんな時間か。そろそろ戻らないとな」
「そうですね。あ、でもベルトとか色々隠さないといけないので、先に戻っててください」
「あいよ」
 そう言われ俺は弁当を掴んで、充足感と共に部屋の出口へ。
「あのっ師匠、これからもここでお話したいです」
「ま、気が向いたらな」
「待ってますから」
 廊下に出ると、途端に冷えたように静かな日常に戻る。だが俺の中には花と一緒にいた非日常の熱を帯びた残滓が残っていて。少し脳内がぼーっとしてしていた。
「……」
 階段を降りていき、人の気配が徐々に増えていくにつれて日常感を取り戻して、思考もはっきりしてくる。
「喉乾いたな」
 一階にある自動販売機に行く時間はある。俺は駆け足で階段を降りた。エントランスの入口付には机が並んでいるスペースがあり、自販機はそこに設置してあった。反対側には職員室や保健室があって、先生の出入りが多くある。
「あれは……」
 サッカーを止めてしばらく経つが、癖でよく周囲を確認してしまうのだが、それで背の高い長い髪を揺らす女子を見つける。それは幼なじみの霜月三葉(みつは)だった。美人系な見た目でいつも無表情なため威圧感を与えている彼女だが、今は体調が悪いのか常に色白の顔をさらに青白くさせて、フラフラとしたおぼつかない足取りで保健室に入っていく。
「三葉……」
 心配になるが、サッカーを止めた時期からまともに口を聞いていない相手であり、気まずく行動には移せなかった。それに、三葉こそが仲良くなれなかったもう一人の人間だ。俺は当初の目的を果たすべく意識を飲み物に向けた。
 一階の自動販売機は三つが隣合っていて、両端が赤色をしていてその間に青色が挟まれている。居心地悪そうな真ん中を頻繁に使用していて、そこに一直線に向かう。
「悪いんだけどさ……今日は中での練習だから、いいものは見れないと思う。だからまた今度に」
「いや、それでいいから見学させてください」
「……まぁ天堂さんがいいなら」
 壁の方を向いて座って話している男女がいて、遠くで見えたがやはり片方の男は純だった。そしてもう一人のショーットカットのボーイッシュな褐色肌の女子は、この周回で初めて現れた一年生だ。
 彼女は文武両道で才色兼備、当然男子に注目されているがボーイッシュな部分で女子にも人気もある。ただ、あまりの能力の高さにほとんどの生徒は遠巻きに眺めている事しかできていない。
 そんな超人が今まで存在していなかったと思うと、女神の差し金である確率が高くあまり関わり合いになりたくない。さっさと麦茶を買って立ち去ろう。
「あ、英人」
「え!」
「バレたか」
 純が振り向いてしまい気づかれる。俺の名前を聞くやいなや、天堂さんはばっとこちらを向いた。作り物のように整った顔にあるブラウンのタレ目を大きく見開いていた。
「ま、足音で何となくわかったけどね」
「怖すぎだろ。ストーカーか何か?」
「長く一緒にいればわかるさ。それに僕は観察とかするの好きだしね」
 昔から思っているが、こいつはナチュラルにヤバい部分がある。人畜無害そうな顔をしている分より恐怖を増大させる。
「あの、八鬼先輩……ですよね」
 天堂さんは勢いよく立ち上がると、頬を紅潮させ純粋な瞳を向けてくる。視界には彼女が持つ大きな胸の膨らみがあって、それに吸い込まれそうになってしまい、何とか抑えて目を見続けた。
「そうだけど」
「あたし、一年の天堂紗奈(さな)っていいます。その昔からずっと八鬼先輩に憧れてて、それでサッカーを始めたりして。だから会えてめっちゃ嬉しいです!」
「そ、そりゃどうも」
 憧れの言葉と気持ちをぶつけられて何だか居心地の悪さを感じ、床の方に目を落とした。
「八鬼先輩、今はサッカーやってないって聞きました。……どうしてですか」
神妙な面持ちで、聞かれるであろう質問が飛んでくる。少しちくりとした痛みが胸の中に走った。
「色々あったんだ。俺はもうサッカーはやらない。悪いが、あの頃の神童はもう消えた」
 一度息を吐いてから、声が揺れないよう平静を心がけて言葉を紡いだ。
「……六角先輩に聞いていた通り……か。けど、あたしは諦めませんから。この高校に来たのだって、八鬼先輩……いや天才八鬼英人に会うため。それを果たします」
 理由を聞いた彼女は、火が点いたように強い意志を目の中に宿らせた。そして、純と同じような事を呟く。
「……面倒な」
「ははは、さてこんな熱烈な彼女のアプローチから逃れ続けられるのか見ものだね」
「傍観して楽しんでんじゃねぇよ!」
 最悪だ。女神と純だけでもしつこくてだるいのに、さらに増員されてしまった。やはり、女神の差し金なのだ。
「なら、彼女の陣営として全力で協力しようかな」
「やっぱ、傍観しててくれ。マジで」
 純はそんな俺の言葉を聞くつもりはないようで煽るように肩をすくめる。ムカつく。
「天堂さんも、諦めてくれ。もうサッカーをやる熱は冷え切ったんだ」
「嫌です。だったらあたしと六角先輩の熱を伝えてやる気にさせますから。覚悟しておいてください」
「嘘だろ……」
 出会ったばかりでまさかの宣戦布告を受ける。俺に憧れているというのに。
「そうだ、これを」
「何だこれ」
 おもむろにスカートのポケットから細長い紙を渡してくる。それを見ると何かの店のクーポン券のようで。作りが安っぽいので個人店だろうか。
「あたしの家、定食屋やってるんで食べに来て下さい。母親も八鬼さんのファンなんです」
「いや、その情報を聞いて行く気になると思うか?」
「待って英人。彼女の家のお店は美味で結構いいんだよ」
 そう口を挟んでくる。しかし、嘘を言っている様子ではなさそうで、少し興味が出てくる。ただ、その店も初めて聞くものであり、警戒する必要もあった。
「ま、気が向いたら行くわ」
「ありがとうございます。……そろそろ昼休みも終わりますしあたしはここで。八鬼先輩、また来ますから」
「諦めてから来てくれ」
 そんな俺の頼みは届くことはなく、彼女は背を向けて教室へと戻っていった。
「面白いことになってきたね」
「はぁ、こっちとしたら頭が痛くなるわ」
 正直、変化があり退屈さは紛れそうとも思うが、悪い変化だろうから素直に喜べない。先の事を考えれば考えるほど、嫌な予感がうじゃうじゃと頭の端っこに溜まっていた。それは、俺に会うために高校に来たという熱量のせいで。
「そういや……何でこの高校にいるって知ったんだ?」



 昼休みを終えてから、色々とあったが普段通り授業をこなした。ただ、結構な頻度で花の視線を感じて、そちらを見ると何度も目があった。それに、休憩時間にも話しかけてきて、その珍しさにクラスメイトから好奇の視線を浴びせられたりもした。
「帰るか」
 そんな時間を過ごして放課後となった。特に用もないため、俺は帰りの挨拶をした瞬間に花に話しかけられる前に最速で教室を出る。廊下にはほとんど人がおらず、他の教室から声が聞こえてきた。
「……あれは」
 一階に降りると、まばらにいる人の中から霜月三葉を見つける。彼女はスクールバッグを両手で持って、今にも倒れそうな足取りで出口へと向かっていて。
「三葉」
「……っ」
 振り返った三葉は驚愕に目を見開いた後に、すぐに瞳に警戒の色を滲ませる。しかし顔色がすこぶる悪く、威圧感よりも心配が勝ってしまう。
「な、何よ」
「いや、すげぇ体調悪そうだから。大丈夫か?」
「別に、何ともないけど? じゃあね」
 そう言ってすぐに背を向けて歩き出そうとする。
「待てよ。強がんなって。まだ向こうに住んで電車通学だろ。付き添うよ」
「は、はぁ? 何であんたに……っていうか強がってないし」
「俺だからだろーが。ほら、行くぞ」
 話しても埒が明かない。こいつの強情な部分はやはり変わっていないようで、昔と同じように強引に手を取る。
「ちょ、勝手に……それに一人で歩けるわ」
「馬鹿、お前の足取りは生まれたての小鹿なんだよ。そんな奴を黙って見ていられるかよ。それに雨も降ってる」
「……馬鹿じゃないし」
 手を振り払う事はなく、抵抗はか細い反論だけだった。流石に無理があるとは思っているようだ。
「そうだ、傘は持ってるのか?」
「……忘れた」
「お前マジか。よくそれで一人で帰ろうと思ったな」
 朝はギリギリ雨が降っていなかったが、予報では高確率で降るとなっていた。
「入れよ」
「いや……でも」
「答えは聞いてない。行くぞ」
「ちょ、ちょっと」
 俺は彼女を傘の中に入れて高校の敷地を出た。傘からは小粒が降り落ちる雨音がする。相合い傘の中は狭く、必然的に三葉と至近距離になって、たまに体がぶつかり彼女の体温を感じた。
「……ねぇ肩濡れてない? もっと中に入りなさいよ」
「そしたらお前が水を浴びるだろ。このくらい平気」
「……ごめん」
 駅は俺のアパートへ帰る道とは反対にある。若干面倒ではあるし、このイベントは今まであったことがなく、日常が大きく変化しかねないが、ほっとくことはできなくて。
 俺はいつもの道を背にして、三葉と共に駅に向かった。
「そういや、親とか姉とか呼べなかったのか?」
「あの人達に頼るつもりなんてない。特にあいつには絶対」
「そーかよ」
 あいつというのは姉の事だろう。いつからだったか、急激に姉を毛嫌いするようになっていた。どうやらまだその状態のままらしい。確か、姉の方は妹を結構溺愛していた気がする。
 元々の気質に体調の悪さによって、三葉の口数は少なく会話はそこで止まり、無言のまま駅に。手は繋いだまま改札を通り電車を待つ。周囲にはまばらに人はいるものの、早めに来たからか生徒の姿はほとんど無かった。
「もう離してよ。……恥ずかしいんだけど」
「俺もそうしたいんだがな。すぐにどっかに行きそうだから駄目だ」
「こ、子供じゃないんだけど……」
 そんな不貞腐れたような子供みたいな返事が返ってくる。昔とあまり変わらなくて、懐かしさをつい噛み締めてしまう。
 少しすると電車が来て俺達は車内に入る。あまり人は乗っておらず、座る部分の端っこ以外はぽつぽつと空きがあって。俺はドアに近い席の真ん中に隣合って座った。
「三駅くらいだったよな」
「そうだけど」
「だよな」
 もう話す気はないと示すようにぶっきらぼうに答えられ、その後はきゅっと口を結んで目を瞑ってしまう。
「……」
 無言の時間が続き、電車の走行音と各駅で流れるアナウンスだけが響く。正面の席には人がおらず、窓を眺めていると徐々に昔の景色に近づく。今この時期に、実家の方面に戻るなんて初めての展開だ。今日は、そんな事が立て続けに起きていて、久しぶりに新鮮な疲労を感じていた。そしてこの先どうなるのか、不安と期待が入り混じった感情も出てきて。
「着いたぞ……立てるか?」
「当たり前……うわわっ」
 三葉は立ち上がる瞬間に体をよろめかせて、弱々しく俺の胸に飛び込んでくる。
「ご、ごめん」
「やっぱり俺いた方が良かっただろ」
「うっ、別に何とかなったわ」
 まだ強がる彼女に若干呆れつつも、俺はしっかりと手を握って電車を降りた。割と田舎の駅だから、降りる人も少なくて、改札を通る時には窓口の駅員さんのありがとうございましたが明瞭に聞こえた。
「近くにバス、あったよな」
「うん」
 駅を出るとマンションやスーパー、少しの外食店が見えてくる。この光景は昔から変わっていない。駅前には広場があり、そこにバス停やタクシーが停まっているので、そこまで少し向かった。
「お、ちょうどいいな」
 待つ間もなく都合よくバスが来てくれた。各駅停車しか止まらない駅では、バスもだいたい一時間に一から二本くらいなので、逃すと家まで歩いた方が速いということになってしまう。
 三葉に気を配りながらバスに乗り込む。乗客は男子学生とおばあさんの二人だけで、俺達は降車口近くの横に長い席に座った。
 目的の場所は五つ停まった先にある。二つ停まった辺で、おばあさんたちが降りて乗る人はおらず結果的に二人だけの空間になった。
 と言っても特に話すこともなく、会話にも体力がいるだろうと俺は電車の時と変わらず流れる光景をぼーっと見ていた。
「そろそろだけど……ボタン押すか?」
「押したがってたのは昔の話でしょ。いくらなんでも、子供扱いし過ぎだから」
 そう言いながら三葉はボタンを押した。
 バスが停車しスマホで支払いを済ませ、よろけそうになる三葉を支えながら降車する。ここは公園の裏のバス停で、少数の子どものはしゃぐ声が耳に届いてきた。ふと、目の前の景色が、小さな頃の思い出に重なって。
「一緒にここに来るのは久しぶりだな」
「そうね」
 思い出の再生は止めて、公園を過ぎると途中に右手に道があり、そっちへと行くと住宅街に出る。大きな道幅が真っすぐ伸びて、一定間隔で横へと伸びる道があり、その先に家々が立ち並んでいる。俺と三葉の家は、公園の方からは歩いて三つ目の道に曲がったところの奥の方にあった。
 歩き慣れたそのルートを通る。たまに近所の人にすれ違うも、特に何か言葉を交わすことなく、すぐに赤い屋根のクリーム色をした一軒家にたどり着く。隣には当然、灰色の屋根で白い外壁の実家もある。
「中まで付き添うか?」
「それしたらぶっ飛ばすから」
「冗談だよ。そんじゃ俺は帰る」
 繋いでいた手を離す。割と長くそうしていたから少し手に汗が滲んでいた。
「家に寄らないの?」
「別に用もないしな」
「そっか」
 この段階で帰ると、ホームシックになったのかと親にからかわれるのが目に見えている。それに、ループで何度も会っているし。
「じゃあな三葉」
 それだけ言って俺は彼女から背を向けて歩き出す。
「ねぇ、英人」
「ん?」
「その……ありがと」
 三葉は恥ずかしそうに体にぎゅっと力を入れて、目をそらしながらそうお礼を告げた。頬が赤いのは熱があるからだろう。
「おう。しっかり治せよ」
「うん。……じゃあね」
「またな」
 そう別れの言葉を交わして、俺は元来た道を辿って遠回りに今の俺の家に帰る。
「バス……無いんだよなー。はぁ。走るか」
 俺は駅まで全力疾走した。余計なことを考える余裕が無いほどに。雨を降らせる灰色の雲の隙間からは、かすかな光が差し込んでいた。