背中に鉄板が入ったみたいにピンとして、姿勢を正して歩いたら、ピアノの前で立ち止まって、観客の方を向いて一礼。
 そんな一連の流れ全部無視して、俺はさっさとピアノの椅子に着いた。
 このままなにもせずに、黙って時を過ごせば、痺れを切らした誰かに注意されて、会場を追い出されるやろう。
 それとも、思いっきり鍵盤を鳴らしてみるか。バンバンバンバン、小さな子が遊ぶみたいに。
 今まであんなに評価を気にしていたのに、あきらめるって案外楽かもしれん。
 いや、あきらめるのとはまた違うか。自分の中に閉じこもって、潔いほどに突き放す、この感じは、まるであいつのような――。
 そんな考えがよぎる中、そっと前のピアノに手を伸ばす。その瞬間。
 俺の手は、勝手に位置についたかと思うと、滑らかな動きで鍵盤を弾き始めた。
 ショパンの『別れの曲』『エオリアンハープ』そして……『子犬のワルツ』。
 その他にもさまざまな楽曲を織り交ぜながら奏でる、スペシャルメドレー。
 時に刺々しいほどに強く、時に切なくも美しく、語らう音が情景を魅せる。
 指が止まらん。まるでピアノの一部になったかのように、どこまでも流れてゆく。最後の鍵盤を押し、音が空気に吸い込まれて消えた時やった。

『拓人が一番欲しいもの、あげる』

 あいつの声が、聞こえた気がした。
 茫然とする俺の耳に、やがてパチパチと手を打つ音が響く。
 ゆっくり顔だけで振り向くと、審査員と、そのバックにいる観客席がよく見えた。
 ああ、こんなに観客いたんやなって、そんなこと考えるより先に、驚いたのはその拍手の数。とりあえずやっとこうかって、まばらで適当なやつじゃなく、心から感動した時に送る力強いやつ。
 こんなのは知らん。みんながこっちを見てる。まるで高尚なものを前にしたかのような目で。