俺の背後に立つ春歌の目が、さっきまでとは違って見えたから。眠たげとも取れるその瞳は、ぼんやりしているようで、ピアノだけを見ている。
 前にも、こんなことがあった。十年前のあの日、無関心そうに眺めているだけに見えた瞳は、そうやなかったんや。
 俺が名前を呼ぶ前に、春歌は俺を手で押し退け、奪うように椅子に座った。

「今から弾く、忘れないうちに」

 俺のことなんて一切眼中にない。その視線は鍵盤に注がれている。春歌が手のひらをのせると、急いでスマホの録画ボタンを押した。
 唐突に始まる音。心の準備をせずに弾き出したんや。バカやと思った。俺の勝ちやとも。
 弾けるはずがない。たった三回観て聴いただけで、五分近くもある難曲を。無理に決まってる。よりによって、こんな情緒深い、曲、を――――。

「――ねえ、ねえってば」

 急かすような声にハッと視界を開く。いつの間に目を閉じてたんやろう。まるで、夢から覚めたような気持ちで――。
 そうか。夢を見てたんか。いつから?
 覚えてない。春歌がピアノを弾き始めて間もなく、それは訪れた。
 風がそよぐ花散る緑の丘、切なくも優しい旋律が、尊い別れを連れてくる。
 一つ一つの音が、生きてるみたいやった。ただ弾いてるだけやない。完璧とはまた違う。春歌のピアノは物語を見せる。音が歌ってるんや。

「もう終わったけど、それ、止めた方がいいんじゃない?」

 あきれた様子の春歌が、俺の背後を指差した。
 意味はわかっているのに、なかなか体が動かんかった。こんなことがあるか。この期に及んで、手が震えるなんて。
 春歌は俺が動くんを待っていた。静けさに息苦しさを覚えながら、錆びた機械のような手足を動かす。
 ようやくスマホのボタンを押して、動画を撮るのを止めた。

「……ピアノ、練習したん?」  

 したって言ってくれ。そんな願いが込められた質問やった。

「するわけないじゃん」 

 あっさり振り払われる、淡い期待。飛んでいって、グチャグチャに、跡形もなく崩れてゆく。

「うちにそんな余裕ないってわかってるよね? 私の病気の治療費だって危ういのに、ピアノ買ったり習い事するお金なんてあるわけないでしょ」

 わかっていた。春歌の家の事情は、本人や春歌の母さんからも聞いている。それやのに、わかりきったことを口走ってしまうほど、動揺を極めていた。