六月に入ったばかりだというのに、もう一週間も雨が降り続いている。窓の外は、まるで世界の色彩がすべて洗い流されたかのように、鈍色の雲に覆われていた。
「はぁ……。もうやだ、梅雨。ありまのモチベーションが完全にゼロだよー」
ありまは、机に突っ伏したまま、まるで瀕死の動物のように弱々しいうめき声をあげた。入学式の日からずっと、太陽のように快活だった彼女が、こんなにも元気がないのは初めてだ。
「しかたないよ、今時期ちょうど梅雨だからね」
僕は当たり障りのない言葉を返した。教室の窓を叩く雨音は、皆の心にも不安定な影を落としているようだった。僕はありまを励ましながら、窓の外を眺めていた。集中して雨を観察する。窓ガラスを伝う雨粒の一つ一つが、僕の目に鮮明に映る。それは、ただの雨ではない。僕の心の中の何かを呼び起こす。それは、過去の記憶かもしれないし、今に対する憂いかもしれない。心にそっと触れてくる、その正体不明の感情は、まるで遠くで聞こえる切ないピアノのBGMのようだった。なぜだか分からないけれど、僕はその感傷的な響きに、安堵している自分がいた。桜子とありまと出会ってから二か月がたった。その間特段変わったことはなくいつも通りの『日常』を過ごしていた。
「ねえ、桜子。雨、好き?」
僕が尋ねると、隣の席の桜子は、僕とは違う表情で雨を見ていた。彼女の瞳は、まるで雨粒そのもののように透き通っていて、僕はその深い眼差しに吸い込まれそうになった。
「好きだよ。だって、雨って、空の涙でしょう? 雲の向こう側で、誰かが泣いている。その涙が、地上を洗って、全てをリセットしてくれる」
桜子は少し微笑んで、言葉を続けた。
「それは、とても儚くて、美しい瞬間。ねぇ、遙人。私にとっての雨は、未来の始まりなんだ」
同じ雨を前にして、僕と桜子の世界観は全く違っていた。僕にとっての雨が、まだ名前のつけられない感情だとしたら、彼女にとっての雨は、新しい物語の始まりだった。僕の頭の中で、二つの異なる哲学が混ざり合っていく。それは、少しずつ、僕の世界を形作り、僕の人生の解像度を上げていくようだった。その時、僕らの会話に退屈しきっていたありまが、勢いよく顔をあげた。
「なんか、あんたら見てると、雨の日も悪くない気がしてきた!ねえ、なんか面白いこと探しに行こうよ!こんな雨の日だからこそ、絶対なんかスゴイことが始まるって!プロローグの煌めきを感じるんだよねー」
ありまの言葉に、桜子はクスッと笑みをこぼした。
「それは面白そうだね」
僕と桜子は顔を見合わせた。僕は、ありまの言葉が、ただの思いつきではないことを、なんとなく感じていた。それは、この退屈な梅雨の日に、僕らの物語を動かす、最初の言葉になるような気がした。
放課を告げるチャイムが、いつもより重く、湿った空気を震わせた。生徒たちが慌ただしく帰り支度を始める中、ありまは待ちきれないといった様子で身を乗り出した。
「ねえ、ねえ!言ったでしょ!絶対面白いこと見つかるって!」
彼女の目は、雨空の下でもキラキラと輝いている。まるで、これから始まる冒険を予感しているかのようだ。
「面白いことって、具体的に何があるの?」
僕は、窓の外を降り続く雨を見ながら、少しだけ気が重くなった。雨の日の放課後といえば、早く家に帰って静かに過ごしたいのが本音だった。雨音は、僕の心にそっと忍び寄り、過去の些細な後悔や、未来への漠然とした不安を優しく撫でてくる。これもまた、僕にとっての雨の日の風景なのだ。
「んー、それは行ってからのお楽しみ!」
ありまは、いたずらっぽくウインクをした。
「だってそうでしょ?何が起こるかわからないからこそ、『プロローグの煌めき』ってもんがあるんだよ!完璧に予想できちゃう物語なんて、つまんないじゃん!」
桜子は、ありまの言葉に興味深そうに耳を傾けていた。雨の日の静けさは、彼女の儚さの世界観とどこか共鳴するのかもしれない。雨粒が窓を滑り落ちる様子を、彼女はまるで時間を切り取るように、じっと見つめている。
「確かに、雨の日の街は、いつもと違う表情を見せるかもしれないね」
桜子の言葉は、ありまの提案を後押しするように、穏やかに響いた。
「そうでしょ、そうでしょ!遥人も、たまにはいつもの感傷的な気分から抜け出して、あたしたちと冒険に行こうよ!きっと、忘れられない『プロローグ』になるって!」
ありまは、僕の腕をぐいぐいと引っ張る。その勢いに、僕は抗うことができなかった。雨はまだ降り続いている。けれど、ありまの眩しいほどの笑顔と、桜子のどこか期待に満ちた眼差しを見ていると、この雨の日の放課後が、いつもとは違う何か特別な時間になるような気がしてきた。
「……わかったよ。行こうか」
僕がそう答えると、ありまは歓声をあげ、桜子も小さく微笑んだ。雨音だけが響く教室に、僕たちの新しい物語の序章が、ひっそりと始まった。
「雨止まないうちにさっさと行くよ!」
「ありま、行き先はどこなんだ?」
ありまはニヤリと笑うと、僕らの腕を引いて校舎を飛び出した。雨に濡れる地面は、アスファルトの匂いと湿った土の匂いを混ぜ合わせていた。ありまはそんな匂いも気にしないように、水たまりを避けながら軽快に歩を進める。
僕らの行き先は、駅から少し離れた場所にある、古びた商店街だった。シャッターが下ろされたままの店が多く、人通りもまばらで、雨音だけが静かに響いていた。
「なーんだ、ただの商店街じゃん。全然面白くないよー」
僕がぼそりと呟くと、ありまは僕の言葉を遮るように答えた。
「ちょっと待って、遥人。ここからがプロローグだよ!」
ありまはそう言って、僕らをシャッターが下ろされたままの小さな喫茶店の前へと連れて行った。その喫茶店の、ひび割れた窓ガラスを指差す。窓ガラスには、雨粒が不規則な模様を描きながら流れ落ちていた。
「見てよ、遙人。この窓ガラス!」
僕は言われるがままに窓ガラスを覗き込んだ。ありまの言う通り、雨粒が描く模様は、まるで万華鏡のように複雑に変化し、その奥に映る商店街の景色を歪ませていた。
その歪みが、僕の心の中に、忘れかけていた感情の断片を呼び起こした。
それは、悲しみでも、後悔でもない。ただ、漠然とした切なさと、それがもたらす不可解な安堵だった。雨音が、僕の耳の奥で、静かに、そして優しいピアノの旋律を奏で始める。その旋律は、僕の人生のあらゆる風景を、どこか懐かしい感傷的な色で塗り替えてきた。
僕は、これまでこの感情に名前をつけられずにいた。ただ、美しいものに心を奪われるたびに、この旋律は決まって流れ、僕の心を静かに満たしていた。
だから、僕はいつも、自分の人生をぼやけたフィルター越しに見ていたのかもしれない。美しい景色を、ただの景色として見ると、その心に響く旋律が流れてこないから。
今、目の前にある窓ガラスの雨は、僕の心の中にある「感傷的風景」を、より鮮明に、そしてより深く僕に感じさせていた。
そして、僕の隣には、桜子が立っていた。
彼女がそっと僕の手に触れる。僕の心臓が激しく高鳴った。桜子は、僕が感じている「感傷」に気づいたかのように、僕の目をじっと見つめていた。
「遙人。あなたの目には、この雨はどんな風に見えているの?」
桜子の問いかけに、僕の思考は一瞬止まった。ありまの「プロローグ」と、僕の「感傷」、そして桜子の「儚さ」。雨という一つの現象を通して、僕たちの世界観が交錯していく。桜子は、答えを急かすことなく、ただ静かに僕を見つめている。彼女の瞳は、まるで僕の心の奥底を見通しているかのようだった。僕は、初めて誰かに自分の心の内側を話せるような気がした。
「えっと……」
僕は、窓ガラスを伝う雨粒に視線を戻した。
「僕にとって、雨は……悲しいピアノの音色が聞こえる日、かな。今日みたいに雨が降ると、心の中に、忘れかけていた切ない気持ちが蘇ってくるんだ」
「切ない気持ち?」
「うん。でも、それがなんだか、すごく安心できるんだ。例えるなら、自分だけの秘密基地にいるみたいな、そんな安らぎかな」
言葉にしながら、僕は驚いていた。今まで誰にも話したことのない、自分でも上手く説明できなかった感情が、こんなにもスムーズに言葉になっていく。桜子の前では、ありのままの自分でいられるような気がした。
桜子は、静かに頷いた。彼女の表情は、驚きでも、戸惑いでもなかった。ただ、深く理解している、そんな穏やかな微笑みを浮かべていた。
「面白いね、遙人」
「面白い?」
「うん。だって、あなたの雨は、過去と繋がっている。でも、私の雨は、未来と繋がっているから」
そう言って、桜子は僕の手をそっと握りしめた。
「でも、それでいいんだよ。私たちは違うから、面白いんだ」
「でしょ!この雨の日にしか見られない、特別な景色なんだよ!この雨粒の一つ一つが、次に起こる物語の伏線みたいじゃない?この歪んだ世界が、きっと何かすごいことの始まりなんだよ!」
ありまは、屈託のない笑顔で言った。彼女の目には、このさびれた商店街の雨が、壮大な物語の序章の煌めきに見えているのだろう。
桜子の手が、僕の手を強く握る。その温かさが、僕の心臓を激しく脈打たせた。僕の世界は、悲しいピアノの音色に彩られているけれど、桜子といることで、その旋律は、少しずつ変わっていくような気がした。
ありまはそんな僕らのやりとりに気づかないように、あるいは気づいていて気づかないふりをしているように、スマホの画面を凝視していた。
「あったー!ここだよ!」
ありまは、まるで宝物を見つけたかのように歓声をあげた。僕らはありまの指差す方を見た。そこには、ひっそりと佇む小さな路地裏の入り口があった。路地裏の入り口は、蔦が絡まる古い煉瓦の壁に囲まれていて、まるで別世界への入り口のようだった。
「ここ、絶対面白いでしょ!ワクワクするね!」
ありまはそう言って、僕らを路地裏へと導いた。路地裏は、雨音だけが響き、街の喧騒から隔絶された、静かな空間だった。雨水が地面に溜まり、水たまりが小さな湖のように光っていた。
「ねえ、遙人。ここ、君の好きな『感傷的風景』じゃない?」
桜子が僕に囁いた。僕は頷いた。僕の心に、またあのピアノの旋律が流れ始めた。それは、路地裏の薄暗い雰囲気と、水たまりに映る歪んだ空を、切なくも美しいものに変えていく。
「こんな場所、よく見つけたね」
僕はありまに言った。
「でしょー!雨の日って、普段見過ごしちゃうような場所に、すごい物語の始まりが隠されてるんだよね!この路地裏だって、もしかしたら、すごい事件の始まりの舞台かもしれないじゃん!」
ありまの言葉に、僕は思わず笑ってしまった。彼女の目に映る世界は、僕や桜子のそれとは全く違う。僕の『感傷』と桜子の『儚さ』を、ありまは『物語』という形で肯定してくれる。彼女は、僕らの世界観を、自分だけの視点で面白がってくれる、まるで僕らの世界観の『プロローグの煌めき』の体現者のようだった。
僕らは、路地裏をゆっくりと進んでいく。雨音が、僕らの足音をかき消すように響き渡る。その時、ありまが再び歓声をあげた。
「見て!ここだよ!」
ありまの指差す先には、古びた喫茶店があった。店の名前は「喫茶 夢見草」。古びた木製の扉は、雨に濡れて深い色合いを帯びていた。
「ここ、雨の日にしか開かない喫茶店らしいんだ!なんかすごくない?」
ありまは、興奮した様子で言った。桜子が、静かに僕に問いかけた。
「遙人。ここ、どう思う?」
僕の心は、またも揺れていた。この喫茶店は、僕の『感傷的風景』に完璧にフィットする。雨の日しか開かないという秘密めいた設定も、僕の感傷をさらに掻き立てる。僕は、この喫茶店の扉を開ける前から、店の中で流れるピアノの音色が聞こえるような気がした。
「行ってみようか」
僕がそう言うと、ありまは満面の笑みを浮かべ、桜子は静かに頷いた。僕は、意を決して喫茶店の扉を開けた。
扉を開けると、そこはまるで時間が止まったような、ノスタルジックな空間だった。古いレコードプレイヤーから、優しいジャズの旋律が流れ、店内には、コーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。客は僕ら以外に誰もいなかった。店主らしき老人が、カウンターの奥で静かに本を読んでいた。
僕らは窓際の席に座った。窓の外には、雨に濡れた路地裏が見える。雨粒が、窓ガラスに不規則な模様を描きながら流れ落ちていく。
「すごい……本当に、ここだけ時間が止まってるみたいだ」
ありまは、感動したように呟いた。僕は、その言葉に深く頷いた。僕の心に流れるピアノの旋律が、ジャズの音色と重なり、僕の心を満たしていく。
「ねえ、桜子。さっき、僕の雨は過去と繋がっているって言ったけど、桜子の雨は未来と繋がっているって、どういうこと?」
僕は、この機会に桜子の哲学を深く知りたいと思った。桜子は、僕の問いかけに、少しだけ考えるように首を傾げた。
「未来……そうだな。雨は、全てを洗い流してくれる。色褪せた景色も、君の心の中にある『感傷』も、全部。そして、洗い流された後に、新しい何かが始まる。それが、雨の持つ未来だと思うんだ」
桜子は、そう言って、窓ガラスを流れる雨粒に指を伸ばした。
「そしてね、遙人。私は、その『未来』に、君がいるような気がするんだ」
桜子の言葉に、僕の心臓は再び激しく脈打った。彼女が、僕を特別な存在として見ていることが、言葉ではなく、彼女の視線から、その声の震えから、はっきりと伝わってきた。
その時、僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
窓ガラスを流れる雨粒が、まるで意思を持ったかのように、桜子の指先に吸い込まれていく。そして、その吸い込まれた雨粒は、窓ガラスに桜の花びらの形を描き出した。それは、まるで、桜子が窓に桜を咲かせているかのようだった。
「……桜子……これは、何だ?」
僕は、驚きで声が出なかった。ありまは、目を丸くして、窓の外を指差していた。
「ねえ、見てよ!あれ、全部桜の花びらじゃない?この季節に桜なんておかしいよ!」
窓の外には、雨に濡れた路地裏に、無数の桜の花びらが舞い散っていた。雨の日に咲くはずのない桜が、僕らの周りにだけ、儚く、そして美しく咲き誇っていた。
これが、桜子の『儚さ』がもたらす、世界の異変なのか。そして、僕の心臓が激しく脈打つ度に、桜の儚さが加速しているとすれば、僕のこの恋心は、桜子を消してしまうのではないか。
僕は、桜子を見つめた。彼女の瞳は、まるで雨に濡れた桜の花びらのように、美しく、そして儚く揺れていた。
「遥人。これが、私なんだ」
桜子は、そう言って、静かに微笑んだ。その笑顔は、僕の心を温かく満たすと同時に、激しい不安を呼び起こした。僕らの物語は、雨が桜を咲かせる、奇妙で美しいプロローグを迎えていた。
「ねぇ桜子!何か知ってるの?それともCGかなにか!?」
ありまは興奮した様子で、あり得ない推測を口にしていた。僕の隣にいる桜子は、そんなありまの言葉に静かに耳を傾けている。彼女の瞳は、まるで雨に濡れた桜の花びらのように、美しく、そして儚く揺れていた。
「……桜子……どういうこと?」
僕は、か細い声で尋ねた。桜子は、僕の視線から逃げることなく、まっすぐに僕を見つめた。
「たぶん……私なんだよ」
桜子の言葉に、僕とありまは息をのんだ。
「どういうこと?桜子教えて」
ありまも、いつもの快活な調子ではなく、少しだけ真剣な表情で桜子に再び問いかけた。
桜子は、カップに注がれた紅茶を一口飲むと、ゆっくりと話し始めた。
「私ね、物心ついた時から、この世界が全部『儚いもの』に見えてたの」
「儚い……?」
ありまが首を傾げた。
「そう。形あるものはいつか壊れる。美しいものはいつか色褪せる。人の気持ちだって、永遠じゃない。そういう『無常』なものが、私の目には、まるで『桜の花びら』のように見えた。だから、私は、世界を『刹那・無常の美しさ』として捉えていたんだ」
桜子の言葉は、僕の心を強く揺さぶった。それは、僕の『感傷的風景』とは異なる、しかしどこか深く共鳴する、普遍的な哲学だった。
「でね……たぶん、その『儚さ』は、私自身の体にも、不思議な力を与えているみたいなんだ」
「不思議な力?」
「うん。私の心が高鳴ったり、誰かの強い感情に触れたりすると、その『儚さ』が、現実の現象として現れることがあるみたい。まるで、私の心が、この世界の理(ことわり)を少しだけ歪ませるみたいな感じかな」
桜子は、そう言って、もう一度窓の外に目を向けた。
「……例えば、この雨の日に、桜が舞い散る現象とか」
桜子の言葉は、僕の胸にすとんと落ちてきた。僕の心臓が激しく脈打つ度に、桜子が消えてしまうのではないかという、漠然とした不安。それは、僕の勝手な妄想ではなく、桜子の身に起きている真実だったのだ。
「え、じゃあ、あの入学式の日の桜も、桜子の力ってこと!?」
ありまは、驚きで目を丸くしていた。
「たぶんね。そして……もしかしたら、その力が、遥人という存在に強く反応しているのかもしれない」
桜子は、僕の目をじっと見つめ、そう言った。
僕の心臓が、ドクンと大きく鳴った。その瞬間、窓の外の桜の花びらが、一斉に、風もないのに激しく舞い上がった。
ありまは、目を輝かせながら立ち上がった。
「やっぱそうじゃん!これ、絶対すごい物語の始まりだよ!ヒロインが特別な力を持ってて、その力が主人公にしか反応しないなんて、最高すぎるでしょ!」
ありまは、怖がるどころか、物語の登場人物になったかのように興奮している。
「ねえ、桜子。この力って、何に使うの? 悪者を倒すとか!?」
「残念だけど、この力は、誰かを救うような力じゃないんだ」
桜子は、悲しげな微笑みを浮かべた。
「むしろ……私を、この世界から消してしまうような力かもしれない」
その言葉に、ありまの表情から、一瞬にして光が失われた。僕の胸には、言葉にできないほどの痛みが走った。僕の恋心が、彼女の『儚さ』を増幅させ、彼女を消してしまうかもしれないという、最も恐れていた可能性が、今、桜子自身の口から語られた。
僕らの物語は、雨が桜を咲かせる、奇妙で美しいプロローグを迎えていた。しかし、その物語の結末は、僕がこの恋を続ける限り、桜子の消滅という、あまりにも残酷な結末へと向かっているように思えた。
僕らは、雨の降りしきる路地裏を、ゆっくりと歩いていた。喫茶店を出てからも、しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。僕の心の中では、桜子が語った「儚さ」の秘密と、僕の恋心が彼女を消してしまうかもしれないという不安が、渦を巻いていた。僕と桜子の間に流れる空気は、さっきまでよりも、ずっと重く、そしてどこか張り詰めていた。そんな重い空気を破ったのは、いつも通り、ありまだった。
「ねえ、さっきさ」
ありまは、僕と桜子を交互に見ながら、ニヤニヤと笑った。
「あんたら、手、握ってたでしょ?それに今も」
その言葉に、僕はハッと我に返った。慌てて桜子の方を見る。桜子もまた、僕と同じように少し目を見開いて、自分の手をじっと見つめている。僕は、いつの間にか、彼女と手を繋いでいたことを、すっかり忘れていた。
「えっ、あ、えっと……」
僕は、言葉を詰まらせた。心臓が、また激しく脈打つ。それは、不安からではなく、桜子への想いが溢れ出すような、甘く、そして熱い鼓動だった。
「…あ、うん。そうだよ。さっき、ちょっと成り行きというか自然とつないでたみたい」
桜子は、顔を少し赤らめながら、小さな声で答えた。彼女のそんな姿を見るのは、これが初めてだった。いつもどこか達観していて、感情を見せることの少なかった桜子が、僕と同じように動揺している。その事実が、僕の心を温かいもので満たした。
ありまは、そんな僕らの反応を見て、さらに楽しそうに笑った。
「いやー、やっぱそうじゃん!なんかさ、あんたら見てると、ドラマの主人公みたいでさ、マジで面白いんだよねー!」
ありまの軽快な言葉に、僕の胸を占めていた不安が少しだけ薄れていく。だけど、僕の頭の中には、一つの疑問が浮かんでいた。
(どうして、異変は起きなかったんだ?)
喫茶店で、僕が桜子の秘密を知った時。僕の心臓は激しく脈打った。そして、窓の外には、雨なのに桜が舞い散るという異変が起きた。でも、今、手をつないでいるこの瞬間、僕の心臓はさっきと同じくらい高鳴っているのに、何も起きていない。
僕は、ありまが再び二人をからかう前に、勇気を出して桜子に尋ねた。
「桜子……さっき、手、つないでたけど、何も起きなかったよね」
桜子は、僕の言葉に、少しだけ真剣な表情を浮かべた。ありまは、僕の意外な言葉に、黙って僕らを見つめていた。
「うん。そうだよ」
桜子は静かに答えた。
「私の『儚さ』の力は、単純な感情の強さだけじゃ、発動しないんだ」
「え……どういうこと?」
「たぶんね、私の力が発動するのは、遙人の『感傷的風景』と、私の『刹那・無常の美しさ』という、お互いの世界観が、完璧に重なり合った時なんだと思う」
桜子の言葉に、僕は息をのんだ。
「入学式の時、君は桜を見て、自分の人生が置き去りにされているような感覚を抱いた。それは、君の『感傷』が、桜という『儚さ』に強く反応した瞬間だった。だから、私の力が発動したんだ」
「そして、さっき喫茶店で、君は私の秘密を知った。その時、君の『感傷』は、私の『儚さ』
と、最も深く、そして鮮明に重なり合った。それが、雨に桜を咲かせた」
桜子は、僕の目をじっと見つめ、ゆっくりと、しかしはっきりと、言葉を続けた。
「つまり、遙人の心臓の鼓動は、私の力を増幅させるための『エネルギー』。そして、君と私の世界観が重なり合う瞬間が、そのエネルギーを解放する『スイッチ』なんだ」
僕は、その言葉の意味を理解した瞬間、全身から血の気が引いていくような感覚を覚えた。
手をつなぐことは、確かに僕の心を高鳴らせた。しかし、それは、僕の『感傷』や、桜子の『儚さ』といった、僕らの本質に触れるものではなかった。
僕が桜子に心を奪われれば奪われるほど、僕らの世界観は、より深く重なり合っていく。
そして、その先には、雨に桜を咲かせるような、美しくも残酷な異変が待ち受けている。そして、それが極限に達した時、桜子は……。
僕の心臓が、また激しく脈打った。この恋を止めれば、彼女を救えるのだろうか? それとも、この恋を育て、彼女の儚さを、最後まで見届けなければならないのだろうか? 僕は、その答えを、まだ見つけられずにいた。
「はぁ……。もうやだ、梅雨。ありまのモチベーションが完全にゼロだよー」
ありまは、机に突っ伏したまま、まるで瀕死の動物のように弱々しいうめき声をあげた。入学式の日からずっと、太陽のように快活だった彼女が、こんなにも元気がないのは初めてだ。
「しかたないよ、今時期ちょうど梅雨だからね」
僕は当たり障りのない言葉を返した。教室の窓を叩く雨音は、皆の心にも不安定な影を落としているようだった。僕はありまを励ましながら、窓の外を眺めていた。集中して雨を観察する。窓ガラスを伝う雨粒の一つ一つが、僕の目に鮮明に映る。それは、ただの雨ではない。僕の心の中の何かを呼び起こす。それは、過去の記憶かもしれないし、今に対する憂いかもしれない。心にそっと触れてくる、その正体不明の感情は、まるで遠くで聞こえる切ないピアノのBGMのようだった。なぜだか分からないけれど、僕はその感傷的な響きに、安堵している自分がいた。桜子とありまと出会ってから二か月がたった。その間特段変わったことはなくいつも通りの『日常』を過ごしていた。
「ねえ、桜子。雨、好き?」
僕が尋ねると、隣の席の桜子は、僕とは違う表情で雨を見ていた。彼女の瞳は、まるで雨粒そのもののように透き通っていて、僕はその深い眼差しに吸い込まれそうになった。
「好きだよ。だって、雨って、空の涙でしょう? 雲の向こう側で、誰かが泣いている。その涙が、地上を洗って、全てをリセットしてくれる」
桜子は少し微笑んで、言葉を続けた。
「それは、とても儚くて、美しい瞬間。ねぇ、遙人。私にとっての雨は、未来の始まりなんだ」
同じ雨を前にして、僕と桜子の世界観は全く違っていた。僕にとっての雨が、まだ名前のつけられない感情だとしたら、彼女にとっての雨は、新しい物語の始まりだった。僕の頭の中で、二つの異なる哲学が混ざり合っていく。それは、少しずつ、僕の世界を形作り、僕の人生の解像度を上げていくようだった。その時、僕らの会話に退屈しきっていたありまが、勢いよく顔をあげた。
「なんか、あんたら見てると、雨の日も悪くない気がしてきた!ねえ、なんか面白いこと探しに行こうよ!こんな雨の日だからこそ、絶対なんかスゴイことが始まるって!プロローグの煌めきを感じるんだよねー」
ありまの言葉に、桜子はクスッと笑みをこぼした。
「それは面白そうだね」
僕と桜子は顔を見合わせた。僕は、ありまの言葉が、ただの思いつきではないことを、なんとなく感じていた。それは、この退屈な梅雨の日に、僕らの物語を動かす、最初の言葉になるような気がした。
放課を告げるチャイムが、いつもより重く、湿った空気を震わせた。生徒たちが慌ただしく帰り支度を始める中、ありまは待ちきれないといった様子で身を乗り出した。
「ねえ、ねえ!言ったでしょ!絶対面白いこと見つかるって!」
彼女の目は、雨空の下でもキラキラと輝いている。まるで、これから始まる冒険を予感しているかのようだ。
「面白いことって、具体的に何があるの?」
僕は、窓の外を降り続く雨を見ながら、少しだけ気が重くなった。雨の日の放課後といえば、早く家に帰って静かに過ごしたいのが本音だった。雨音は、僕の心にそっと忍び寄り、過去の些細な後悔や、未来への漠然とした不安を優しく撫でてくる。これもまた、僕にとっての雨の日の風景なのだ。
「んー、それは行ってからのお楽しみ!」
ありまは、いたずらっぽくウインクをした。
「だってそうでしょ?何が起こるかわからないからこそ、『プロローグの煌めき』ってもんがあるんだよ!完璧に予想できちゃう物語なんて、つまんないじゃん!」
桜子は、ありまの言葉に興味深そうに耳を傾けていた。雨の日の静けさは、彼女の儚さの世界観とどこか共鳴するのかもしれない。雨粒が窓を滑り落ちる様子を、彼女はまるで時間を切り取るように、じっと見つめている。
「確かに、雨の日の街は、いつもと違う表情を見せるかもしれないね」
桜子の言葉は、ありまの提案を後押しするように、穏やかに響いた。
「そうでしょ、そうでしょ!遥人も、たまにはいつもの感傷的な気分から抜け出して、あたしたちと冒険に行こうよ!きっと、忘れられない『プロローグ』になるって!」
ありまは、僕の腕をぐいぐいと引っ張る。その勢いに、僕は抗うことができなかった。雨はまだ降り続いている。けれど、ありまの眩しいほどの笑顔と、桜子のどこか期待に満ちた眼差しを見ていると、この雨の日の放課後が、いつもとは違う何か特別な時間になるような気がしてきた。
「……わかったよ。行こうか」
僕がそう答えると、ありまは歓声をあげ、桜子も小さく微笑んだ。雨音だけが響く教室に、僕たちの新しい物語の序章が、ひっそりと始まった。
「雨止まないうちにさっさと行くよ!」
「ありま、行き先はどこなんだ?」
ありまはニヤリと笑うと、僕らの腕を引いて校舎を飛び出した。雨に濡れる地面は、アスファルトの匂いと湿った土の匂いを混ぜ合わせていた。ありまはそんな匂いも気にしないように、水たまりを避けながら軽快に歩を進める。
僕らの行き先は、駅から少し離れた場所にある、古びた商店街だった。シャッターが下ろされたままの店が多く、人通りもまばらで、雨音だけが静かに響いていた。
「なーんだ、ただの商店街じゃん。全然面白くないよー」
僕がぼそりと呟くと、ありまは僕の言葉を遮るように答えた。
「ちょっと待って、遥人。ここからがプロローグだよ!」
ありまはそう言って、僕らをシャッターが下ろされたままの小さな喫茶店の前へと連れて行った。その喫茶店の、ひび割れた窓ガラスを指差す。窓ガラスには、雨粒が不規則な模様を描きながら流れ落ちていた。
「見てよ、遙人。この窓ガラス!」
僕は言われるがままに窓ガラスを覗き込んだ。ありまの言う通り、雨粒が描く模様は、まるで万華鏡のように複雑に変化し、その奥に映る商店街の景色を歪ませていた。
その歪みが、僕の心の中に、忘れかけていた感情の断片を呼び起こした。
それは、悲しみでも、後悔でもない。ただ、漠然とした切なさと、それがもたらす不可解な安堵だった。雨音が、僕の耳の奥で、静かに、そして優しいピアノの旋律を奏で始める。その旋律は、僕の人生のあらゆる風景を、どこか懐かしい感傷的な色で塗り替えてきた。
僕は、これまでこの感情に名前をつけられずにいた。ただ、美しいものに心を奪われるたびに、この旋律は決まって流れ、僕の心を静かに満たしていた。
だから、僕はいつも、自分の人生をぼやけたフィルター越しに見ていたのかもしれない。美しい景色を、ただの景色として見ると、その心に響く旋律が流れてこないから。
今、目の前にある窓ガラスの雨は、僕の心の中にある「感傷的風景」を、より鮮明に、そしてより深く僕に感じさせていた。
そして、僕の隣には、桜子が立っていた。
彼女がそっと僕の手に触れる。僕の心臓が激しく高鳴った。桜子は、僕が感じている「感傷」に気づいたかのように、僕の目をじっと見つめていた。
「遙人。あなたの目には、この雨はどんな風に見えているの?」
桜子の問いかけに、僕の思考は一瞬止まった。ありまの「プロローグ」と、僕の「感傷」、そして桜子の「儚さ」。雨という一つの現象を通して、僕たちの世界観が交錯していく。桜子は、答えを急かすことなく、ただ静かに僕を見つめている。彼女の瞳は、まるで僕の心の奥底を見通しているかのようだった。僕は、初めて誰かに自分の心の内側を話せるような気がした。
「えっと……」
僕は、窓ガラスを伝う雨粒に視線を戻した。
「僕にとって、雨は……悲しいピアノの音色が聞こえる日、かな。今日みたいに雨が降ると、心の中に、忘れかけていた切ない気持ちが蘇ってくるんだ」
「切ない気持ち?」
「うん。でも、それがなんだか、すごく安心できるんだ。例えるなら、自分だけの秘密基地にいるみたいな、そんな安らぎかな」
言葉にしながら、僕は驚いていた。今まで誰にも話したことのない、自分でも上手く説明できなかった感情が、こんなにもスムーズに言葉になっていく。桜子の前では、ありのままの自分でいられるような気がした。
桜子は、静かに頷いた。彼女の表情は、驚きでも、戸惑いでもなかった。ただ、深く理解している、そんな穏やかな微笑みを浮かべていた。
「面白いね、遙人」
「面白い?」
「うん。だって、あなたの雨は、過去と繋がっている。でも、私の雨は、未来と繋がっているから」
そう言って、桜子は僕の手をそっと握りしめた。
「でも、それでいいんだよ。私たちは違うから、面白いんだ」
「でしょ!この雨の日にしか見られない、特別な景色なんだよ!この雨粒の一つ一つが、次に起こる物語の伏線みたいじゃない?この歪んだ世界が、きっと何かすごいことの始まりなんだよ!」
ありまは、屈託のない笑顔で言った。彼女の目には、このさびれた商店街の雨が、壮大な物語の序章の煌めきに見えているのだろう。
桜子の手が、僕の手を強く握る。その温かさが、僕の心臓を激しく脈打たせた。僕の世界は、悲しいピアノの音色に彩られているけれど、桜子といることで、その旋律は、少しずつ変わっていくような気がした。
ありまはそんな僕らのやりとりに気づかないように、あるいは気づいていて気づかないふりをしているように、スマホの画面を凝視していた。
「あったー!ここだよ!」
ありまは、まるで宝物を見つけたかのように歓声をあげた。僕らはありまの指差す方を見た。そこには、ひっそりと佇む小さな路地裏の入り口があった。路地裏の入り口は、蔦が絡まる古い煉瓦の壁に囲まれていて、まるで別世界への入り口のようだった。
「ここ、絶対面白いでしょ!ワクワクするね!」
ありまはそう言って、僕らを路地裏へと導いた。路地裏は、雨音だけが響き、街の喧騒から隔絶された、静かな空間だった。雨水が地面に溜まり、水たまりが小さな湖のように光っていた。
「ねえ、遙人。ここ、君の好きな『感傷的風景』じゃない?」
桜子が僕に囁いた。僕は頷いた。僕の心に、またあのピアノの旋律が流れ始めた。それは、路地裏の薄暗い雰囲気と、水たまりに映る歪んだ空を、切なくも美しいものに変えていく。
「こんな場所、よく見つけたね」
僕はありまに言った。
「でしょー!雨の日って、普段見過ごしちゃうような場所に、すごい物語の始まりが隠されてるんだよね!この路地裏だって、もしかしたら、すごい事件の始まりの舞台かもしれないじゃん!」
ありまの言葉に、僕は思わず笑ってしまった。彼女の目に映る世界は、僕や桜子のそれとは全く違う。僕の『感傷』と桜子の『儚さ』を、ありまは『物語』という形で肯定してくれる。彼女は、僕らの世界観を、自分だけの視点で面白がってくれる、まるで僕らの世界観の『プロローグの煌めき』の体現者のようだった。
僕らは、路地裏をゆっくりと進んでいく。雨音が、僕らの足音をかき消すように響き渡る。その時、ありまが再び歓声をあげた。
「見て!ここだよ!」
ありまの指差す先には、古びた喫茶店があった。店の名前は「喫茶 夢見草」。古びた木製の扉は、雨に濡れて深い色合いを帯びていた。
「ここ、雨の日にしか開かない喫茶店らしいんだ!なんかすごくない?」
ありまは、興奮した様子で言った。桜子が、静かに僕に問いかけた。
「遙人。ここ、どう思う?」
僕の心は、またも揺れていた。この喫茶店は、僕の『感傷的風景』に完璧にフィットする。雨の日しか開かないという秘密めいた設定も、僕の感傷をさらに掻き立てる。僕は、この喫茶店の扉を開ける前から、店の中で流れるピアノの音色が聞こえるような気がした。
「行ってみようか」
僕がそう言うと、ありまは満面の笑みを浮かべ、桜子は静かに頷いた。僕は、意を決して喫茶店の扉を開けた。
扉を開けると、そこはまるで時間が止まったような、ノスタルジックな空間だった。古いレコードプレイヤーから、優しいジャズの旋律が流れ、店内には、コーヒーの香ばしい匂いが漂っていた。客は僕ら以外に誰もいなかった。店主らしき老人が、カウンターの奥で静かに本を読んでいた。
僕らは窓際の席に座った。窓の外には、雨に濡れた路地裏が見える。雨粒が、窓ガラスに不規則な模様を描きながら流れ落ちていく。
「すごい……本当に、ここだけ時間が止まってるみたいだ」
ありまは、感動したように呟いた。僕は、その言葉に深く頷いた。僕の心に流れるピアノの旋律が、ジャズの音色と重なり、僕の心を満たしていく。
「ねえ、桜子。さっき、僕の雨は過去と繋がっているって言ったけど、桜子の雨は未来と繋がっているって、どういうこと?」
僕は、この機会に桜子の哲学を深く知りたいと思った。桜子は、僕の問いかけに、少しだけ考えるように首を傾げた。
「未来……そうだな。雨は、全てを洗い流してくれる。色褪せた景色も、君の心の中にある『感傷』も、全部。そして、洗い流された後に、新しい何かが始まる。それが、雨の持つ未来だと思うんだ」
桜子は、そう言って、窓ガラスを流れる雨粒に指を伸ばした。
「そしてね、遙人。私は、その『未来』に、君がいるような気がするんだ」
桜子の言葉に、僕の心臓は再び激しく脈打った。彼女が、僕を特別な存在として見ていることが、言葉ではなく、彼女の視線から、その声の震えから、はっきりと伝わってきた。
その時、僕の目に、信じられない光景が飛び込んできた。
窓ガラスを流れる雨粒が、まるで意思を持ったかのように、桜子の指先に吸い込まれていく。そして、その吸い込まれた雨粒は、窓ガラスに桜の花びらの形を描き出した。それは、まるで、桜子が窓に桜を咲かせているかのようだった。
「……桜子……これは、何だ?」
僕は、驚きで声が出なかった。ありまは、目を丸くして、窓の外を指差していた。
「ねえ、見てよ!あれ、全部桜の花びらじゃない?この季節に桜なんておかしいよ!」
窓の外には、雨に濡れた路地裏に、無数の桜の花びらが舞い散っていた。雨の日に咲くはずのない桜が、僕らの周りにだけ、儚く、そして美しく咲き誇っていた。
これが、桜子の『儚さ』がもたらす、世界の異変なのか。そして、僕の心臓が激しく脈打つ度に、桜の儚さが加速しているとすれば、僕のこの恋心は、桜子を消してしまうのではないか。
僕は、桜子を見つめた。彼女の瞳は、まるで雨に濡れた桜の花びらのように、美しく、そして儚く揺れていた。
「遥人。これが、私なんだ」
桜子は、そう言って、静かに微笑んだ。その笑顔は、僕の心を温かく満たすと同時に、激しい不安を呼び起こした。僕らの物語は、雨が桜を咲かせる、奇妙で美しいプロローグを迎えていた。
「ねぇ桜子!何か知ってるの?それともCGかなにか!?」
ありまは興奮した様子で、あり得ない推測を口にしていた。僕の隣にいる桜子は、そんなありまの言葉に静かに耳を傾けている。彼女の瞳は、まるで雨に濡れた桜の花びらのように、美しく、そして儚く揺れていた。
「……桜子……どういうこと?」
僕は、か細い声で尋ねた。桜子は、僕の視線から逃げることなく、まっすぐに僕を見つめた。
「たぶん……私なんだよ」
桜子の言葉に、僕とありまは息をのんだ。
「どういうこと?桜子教えて」
ありまも、いつもの快活な調子ではなく、少しだけ真剣な表情で桜子に再び問いかけた。
桜子は、カップに注がれた紅茶を一口飲むと、ゆっくりと話し始めた。
「私ね、物心ついた時から、この世界が全部『儚いもの』に見えてたの」
「儚い……?」
ありまが首を傾げた。
「そう。形あるものはいつか壊れる。美しいものはいつか色褪せる。人の気持ちだって、永遠じゃない。そういう『無常』なものが、私の目には、まるで『桜の花びら』のように見えた。だから、私は、世界を『刹那・無常の美しさ』として捉えていたんだ」
桜子の言葉は、僕の心を強く揺さぶった。それは、僕の『感傷的風景』とは異なる、しかしどこか深く共鳴する、普遍的な哲学だった。
「でね……たぶん、その『儚さ』は、私自身の体にも、不思議な力を与えているみたいなんだ」
「不思議な力?」
「うん。私の心が高鳴ったり、誰かの強い感情に触れたりすると、その『儚さ』が、現実の現象として現れることがあるみたい。まるで、私の心が、この世界の理(ことわり)を少しだけ歪ませるみたいな感じかな」
桜子は、そう言って、もう一度窓の外に目を向けた。
「……例えば、この雨の日に、桜が舞い散る現象とか」
桜子の言葉は、僕の胸にすとんと落ちてきた。僕の心臓が激しく脈打つ度に、桜子が消えてしまうのではないかという、漠然とした不安。それは、僕の勝手な妄想ではなく、桜子の身に起きている真実だったのだ。
「え、じゃあ、あの入学式の日の桜も、桜子の力ってこと!?」
ありまは、驚きで目を丸くしていた。
「たぶんね。そして……もしかしたら、その力が、遥人という存在に強く反応しているのかもしれない」
桜子は、僕の目をじっと見つめ、そう言った。
僕の心臓が、ドクンと大きく鳴った。その瞬間、窓の外の桜の花びらが、一斉に、風もないのに激しく舞い上がった。
ありまは、目を輝かせながら立ち上がった。
「やっぱそうじゃん!これ、絶対すごい物語の始まりだよ!ヒロインが特別な力を持ってて、その力が主人公にしか反応しないなんて、最高すぎるでしょ!」
ありまは、怖がるどころか、物語の登場人物になったかのように興奮している。
「ねえ、桜子。この力って、何に使うの? 悪者を倒すとか!?」
「残念だけど、この力は、誰かを救うような力じゃないんだ」
桜子は、悲しげな微笑みを浮かべた。
「むしろ……私を、この世界から消してしまうような力かもしれない」
その言葉に、ありまの表情から、一瞬にして光が失われた。僕の胸には、言葉にできないほどの痛みが走った。僕の恋心が、彼女の『儚さ』を増幅させ、彼女を消してしまうかもしれないという、最も恐れていた可能性が、今、桜子自身の口から語られた。
僕らの物語は、雨が桜を咲かせる、奇妙で美しいプロローグを迎えていた。しかし、その物語の結末は、僕がこの恋を続ける限り、桜子の消滅という、あまりにも残酷な結末へと向かっているように思えた。
僕らは、雨の降りしきる路地裏を、ゆっくりと歩いていた。喫茶店を出てからも、しばらくの間、誰も言葉を発しなかった。僕の心の中では、桜子が語った「儚さ」の秘密と、僕の恋心が彼女を消してしまうかもしれないという不安が、渦を巻いていた。僕と桜子の間に流れる空気は、さっきまでよりも、ずっと重く、そしてどこか張り詰めていた。そんな重い空気を破ったのは、いつも通り、ありまだった。
「ねえ、さっきさ」
ありまは、僕と桜子を交互に見ながら、ニヤニヤと笑った。
「あんたら、手、握ってたでしょ?それに今も」
その言葉に、僕はハッと我に返った。慌てて桜子の方を見る。桜子もまた、僕と同じように少し目を見開いて、自分の手をじっと見つめている。僕は、いつの間にか、彼女と手を繋いでいたことを、すっかり忘れていた。
「えっ、あ、えっと……」
僕は、言葉を詰まらせた。心臓が、また激しく脈打つ。それは、不安からではなく、桜子への想いが溢れ出すような、甘く、そして熱い鼓動だった。
「…あ、うん。そうだよ。さっき、ちょっと成り行きというか自然とつないでたみたい」
桜子は、顔を少し赤らめながら、小さな声で答えた。彼女のそんな姿を見るのは、これが初めてだった。いつもどこか達観していて、感情を見せることの少なかった桜子が、僕と同じように動揺している。その事実が、僕の心を温かいもので満たした。
ありまは、そんな僕らの反応を見て、さらに楽しそうに笑った。
「いやー、やっぱそうじゃん!なんかさ、あんたら見てると、ドラマの主人公みたいでさ、マジで面白いんだよねー!」
ありまの軽快な言葉に、僕の胸を占めていた不安が少しだけ薄れていく。だけど、僕の頭の中には、一つの疑問が浮かんでいた。
(どうして、異変は起きなかったんだ?)
喫茶店で、僕が桜子の秘密を知った時。僕の心臓は激しく脈打った。そして、窓の外には、雨なのに桜が舞い散るという異変が起きた。でも、今、手をつないでいるこの瞬間、僕の心臓はさっきと同じくらい高鳴っているのに、何も起きていない。
僕は、ありまが再び二人をからかう前に、勇気を出して桜子に尋ねた。
「桜子……さっき、手、つないでたけど、何も起きなかったよね」
桜子は、僕の言葉に、少しだけ真剣な表情を浮かべた。ありまは、僕の意外な言葉に、黙って僕らを見つめていた。
「うん。そうだよ」
桜子は静かに答えた。
「私の『儚さ』の力は、単純な感情の強さだけじゃ、発動しないんだ」
「え……どういうこと?」
「たぶんね、私の力が発動するのは、遙人の『感傷的風景』と、私の『刹那・無常の美しさ』という、お互いの世界観が、完璧に重なり合った時なんだと思う」
桜子の言葉に、僕は息をのんだ。
「入学式の時、君は桜を見て、自分の人生が置き去りにされているような感覚を抱いた。それは、君の『感傷』が、桜という『儚さ』に強く反応した瞬間だった。だから、私の力が発動したんだ」
「そして、さっき喫茶店で、君は私の秘密を知った。その時、君の『感傷』は、私の『儚さ』
と、最も深く、そして鮮明に重なり合った。それが、雨に桜を咲かせた」
桜子は、僕の目をじっと見つめ、ゆっくりと、しかしはっきりと、言葉を続けた。
「つまり、遙人の心臓の鼓動は、私の力を増幅させるための『エネルギー』。そして、君と私の世界観が重なり合う瞬間が、そのエネルギーを解放する『スイッチ』なんだ」
僕は、その言葉の意味を理解した瞬間、全身から血の気が引いていくような感覚を覚えた。
手をつなぐことは、確かに僕の心を高鳴らせた。しかし、それは、僕の『感傷』や、桜子の『儚さ』といった、僕らの本質に触れるものではなかった。
僕が桜子に心を奪われれば奪われるほど、僕らの世界観は、より深く重なり合っていく。
そして、その先には、雨に桜を咲かせるような、美しくも残酷な異変が待ち受けている。そして、それが極限に達した時、桜子は……。
僕の心臓が、また激しく脈打った。この恋を止めれば、彼女を救えるのだろうか? それとも、この恋を育て、彼女の儚さを、最後まで見届けなければならないのだろうか? 僕は、その答えを、まだ見つけられずにいた。


