その夜、清花は静寂に包まれた裏庭にひっそりと座った。
あのあと清花は墨契婚の契約書に署名をし、名実ともに明臣の共鳴者であり妻となった。
とはいえそれは名ばかりで、彼も言っていた通り、清花は賀茂家の道具となっただけである。
昼の名残を残す蒸し暑さはすでに薄れ、夜露が苔むした石畳をしっとりと染めている。敷石の隙間からは細い草が顔を出し、まるでこの空間の秘密を見届けているようだ。
桜の老木は、かつて春を彩った面影をほんのわずかに残しながら枝先を夜空に向けて伸ばしている。その幹は幾重にも裂け、墨崩れの爪痕が刻まれていた。
まるで見えざる力が、時間とともにこの庭を引き裂いたかのように。その傷は深く冷たく、清花の心と響き合っていた。
池の縁には苔が厚く生え、黒く沈んだ水面には月の光が揺らめいている。その月影は時に蝶の羽ばたきのように見え、清花が指で書いた文字へと吸い寄せられるようだった。
水面に漂う一枚の葉は、その波紋に誘われながら静かに沈んでいく。
周囲には誰もいないはずなのに、竹垣の向こうから笹が風に触れる音が、かすかなささやきのように響いた。まるで庭そのものが、清花の心の揺らぎに呼応しているかのよう。
その夜の庭は、過去と現在、罪と希望、そして名を持つ力と名を失った闇が交錯する場所だった。
池の黒い水面に月が揺れる。清花は地面に指を這わせ、想いを込めて母の名前を書こうとした。しかし、やはり〝美〟で止まってしまう。
すると突然、たった一文字だけ書いた母の名の断片は墨魂となって小さな蝶に変わった。
(……嘘でしょう)
それはふわりと舞い、夜空に消えていく。
「母さん、この力はいったいなんなの?」
唐突に目覚めた能力に、清花はただただ困惑するばかり。
逆筆は呪いなのか、加護なのか。清花にはとうていわからない。
清花は着物の袖を握り、夜空を見上げた。蝶が夜空に消えても、清花の胸にはまだその光が残る。
墨崩れにはじまり、その胸の内にはまだ収まりきらない感情が渦を巻いていた。
そのとき不意に、風が吹いた。
桜の枯枝が揺れ、ひとひらの花びらのような黒い欠片が舞う。それはかつて命字だったもののなれの果て。それなのに、なぜか美しかった。
霞京の空にまたたく提灯の灯り。あの光のひとつ一つに、人々の願いや記憶が込められているという。ならば、自分の魂もいつか、なにかを灯すことができるのだろうか。
清花は指先に意識を込め、夜露に濡れた庭石の上に文字を書いた。
〝生〟
滲んだ線が、ひときわ強く煌めく。力を宿しながら、それでもなお文字はたしかに輝いている。
清花は静かに目を閉じ、頬を撫でる風に身を委ねた。胸に息を溜め、再び目を開いたとき、か弱い瞳でまだ見ぬ未来を見据えた。
あのあと清花は墨契婚の契約書に署名をし、名実ともに明臣の共鳴者であり妻となった。
とはいえそれは名ばかりで、彼も言っていた通り、清花は賀茂家の道具となっただけである。
昼の名残を残す蒸し暑さはすでに薄れ、夜露が苔むした石畳をしっとりと染めている。敷石の隙間からは細い草が顔を出し、まるでこの空間の秘密を見届けているようだ。
桜の老木は、かつて春を彩った面影をほんのわずかに残しながら枝先を夜空に向けて伸ばしている。その幹は幾重にも裂け、墨崩れの爪痕が刻まれていた。
まるで見えざる力が、時間とともにこの庭を引き裂いたかのように。その傷は深く冷たく、清花の心と響き合っていた。
池の縁には苔が厚く生え、黒く沈んだ水面には月の光が揺らめいている。その月影は時に蝶の羽ばたきのように見え、清花が指で書いた文字へと吸い寄せられるようだった。
水面に漂う一枚の葉は、その波紋に誘われながら静かに沈んでいく。
周囲には誰もいないはずなのに、竹垣の向こうから笹が風に触れる音が、かすかなささやきのように響いた。まるで庭そのものが、清花の心の揺らぎに呼応しているかのよう。
その夜の庭は、過去と現在、罪と希望、そして名を持つ力と名を失った闇が交錯する場所だった。
池の黒い水面に月が揺れる。清花は地面に指を這わせ、想いを込めて母の名前を書こうとした。しかし、やはり〝美〟で止まってしまう。
すると突然、たった一文字だけ書いた母の名の断片は墨魂となって小さな蝶に変わった。
(……嘘でしょう)
それはふわりと舞い、夜空に消えていく。
「母さん、この力はいったいなんなの?」
唐突に目覚めた能力に、清花はただただ困惑するばかり。
逆筆は呪いなのか、加護なのか。清花にはとうていわからない。
清花は着物の袖を握り、夜空を見上げた。蝶が夜空に消えても、清花の胸にはまだその光が残る。
墨崩れにはじまり、その胸の内にはまだ収まりきらない感情が渦を巻いていた。
そのとき不意に、風が吹いた。
桜の枯枝が揺れ、ひとひらの花びらのような黒い欠片が舞う。それはかつて命字だったもののなれの果て。それなのに、なぜか美しかった。
霞京の空にまたたく提灯の灯り。あの光のひとつ一つに、人々の願いや記憶が込められているという。ならば、自分の魂もいつか、なにかを灯すことができるのだろうか。
清花は指先に意識を込め、夜露に濡れた庭石の上に文字を書いた。
〝生〟
滲んだ線が、ひときわ強く煌めく。力を宿しながら、それでもなお文字はたしかに輝いている。
清花は静かに目を閉じ、頬を撫でる風に身を委ねた。胸に息を溜め、再び目を開いたとき、か弱い瞳でまだ見ぬ未来を見据えた。

