虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 「ここに署名しなさい」
 「えっ……」

 その声は屋敷の静寂に溶け込みながらも、清花の胸を容赦なく突き刺す。
 文机の上に置かれているのは、墨契婚の契約書だった。明臣は、本気で清花と墨契婚をするつもりらしい。命字が織り込まれた和紙は、光を帯びて微かに脈打っている。

 「君は僕の共鳴者として命字を補助する。逆筆は隠し、賀茂家の名誉を守る。それが条件だ」
 「……あの、明臣様」

 明臣は、恐る恐る呼びかけた清花を温度のない目で見た。

 「署名しないつもりか」
 「い、いえっ、決してそうではなく……。ただ、私は無墨民で……逆筆などでは……」

 口答えなど言語道断。声はどんどん小さく、か細くなっていく。
 だが、婚姻を結んでから無能だとわかっては遅いのだ。
 そうなれば厳しい正史郎は、明臣を激しく責め立てるだろう。

 「では、なぜ命字が消えた。墨崩れが起こった理由をなんと説明する」

 静かな口調だが、その目は一点の曇りもなく清花を見据えていた。まるで冷えた硯に沈む墨のように、底知れぬ圧が声の背後に潜んでいる。
 眉ひとつ動かさず、しかし空間の空気がわずかに濁る。明臣の正座する背筋は凛然と伸び、その存在はまるで儀式を司る墨神の化身のようだった。

 「も、申し訳ありません……私にもわかりません」

 明臣が軽く息を吐く。反論などたいがいにしろと言われたようで、清花は震え上がる。恐れと自責の念で潰されそうだ。

 「僕はこの目で清花、お前の力を見た。それは幻覚だと?」

 清花はふるふると首を横に振る。
 そうではないが命字を消してしまうなど、あの一度きり。なにかの間違いではないかと、清花は言いたかった。
 しかしこれ以上、明臣を否定するのは不届き者の所業だ。

 「であれば異論はないな?」

 明臣の視線に強く射貫かれ、清花は消え入りそうなほどの声で「はい」と言った。
 指示されるままに筆を取るが、その手は震え、墨が滲む。
 もともと無墨民として、そして使用人として自由などない身の上だったが、これからはさらに抑圧された生活が待っているかもしれない。

 だがここで契約に首を横に振る権利すら、清花にはない。筆聖をはじめとした墨侯や筆匠、書徒といった階級社会において、無墨民は最下層の人間。生きているだけでもありがたく思う以外にないのだ。
 母の声が胸の奥で響く。

 『文字は心を映す』

 だが今、心を映すことが許されるほど清花は自由ではない。心は恐怖と混乱で揺れていた。
 拒めば追放、あるいはそれ以上の罰が待っている。それは〝生〟を諦めるに等しい。
 清花は目を閉じ、母の笑顔、地面に書いた名前の記憶を呼び起こした。震える手で、自分の名前を書きはじめる。
 その瞬間、署名から小さな蝶が舞い上がった。

 墨魂だ。
 黒い蝶が光を帯び、静かな座敷の中で舞いながら空気を揺らした。

 (どうして……)

 だが契約書の命字に、かすかな乱れが生じる。
 明臣の瞳が一瞬揺れた。

 「――っ」

 息を呑む様子には動揺が混じっていた。だがすぐに表情は硬くなり、清花を鋭い目で見る。

 「これでもまだ違うと言うのか」

 清花は目を瞠りながら首を小さく横に振る。
 なぜ無墨民の自分に、このような力が宿っているのか。幼い頃、母と一緒に書いた文字がたった一度だけ蝶になり舞ったことがあるが、そのとき以来の出来事だった。

 「だが君の力は不安定で、制御しなければ危険だ。道具として働いてもらう」

 ――道具。明臣が清花に課すのは共鳴者とは名ばかりの、道具でしかないのだ。
 清花は唇を噛んだ。
 無墨民の少女に、明臣が求めるのはそれだけだ。当然だが、改めて自分の立場を痛烈に思い知る。
 だが蝶が舞った瞬間、清花の胸に小さな火が灯った。その蝶が、まるで母の笑顔のようだったからだ。
 今の自分は、命令に従うだけの存在。道具として扱われることに、疑問すら口にできない。

 けれど、蝶が舞った瞬間だけは心が墨に触れた気がした。それは誰かに命じられたものではなく、清花自身のなにかが応えた証のようだった。