夕暮れの霞京は深い憂愁を秘めた色と光に染まりながら、賀茂家の格子窓をやわらかく照らす。
命字を消した翌日の夕方、清花は屋敷の廊下を静かに歩いていた。床を踏む音は、心のざわめきを映すように微かだ。
未だ、母の名前は思い出せないまま。なぜ突然、大事な名前を忘れてしまったのか、清花は焦りと混乱、そして忘れてしまった自分への戸惑いと自己嫌悪で呼吸さえ苦しい。それらが心を深くえぐっていた。
屋敷内には沈香の香りが漂い、廊下の命字灯が静かに揺れている。その一つひとつが、この家の格式と階級の重みを突きつけてくる。
清花は屏風の影を縫うように、奥へ足を進めた。
明臣の指示で呼ばれたのは賀茂家の奥座敷である。格式ある客間だが滅多に使われないその場所は、結界の命字によって外の音すら届かない静謐な空間だと聞いたことがある。清花には足を踏み入れたことのない場所だ。
しかし賀茂家の屋敷は広い。おおよその場所は見当がつくが、清花はそれがどこにあるのかわからず、屋敷の中を彷徨っていた。
すると不意を突き、背後から声がかけられる。
「どちらに行かれるのですか」
振り返ると、使用人の宗近がいた。賀茂家の儀礼書や歴史を代々記録する家文書管理人である。
年齢は五十を少し越えたばかりだが、佇まいには若者にはない緊張と余裕が並び立つ。
髪は肩まで届くほどの長さを後ろに束ね、少し灰がかった黒。手入れは行き届いているが飾り気はなく、見る者に家の格式よりも個の練達を思わせる。額には浅い皺が寄るが、それは年齢によるものというより、記憶と記録に生きる者に刻まれる思考の線だろう。
濃紺の狩衣に身を包み、襟元にはかすかに藤色が覗く。派手さはないものの、布地の質や縫い目に、賀茂家の内情に通じた者であることが滲んでいる。
筆聖には及ばないものの、筆匠という地位にいながら、屋敷内のほかの人間と分け隔てなく清花に丁寧に接するただひとりの人物である。
「あ、あの……明臣様に奥座敷に来るように言われたのですが……」
〝場所がわからなくて〟という声は、ほぼ消えかかる。
「それならこちらです」
宗近は目線をさらに奥に向け、清花を先導して歩きはじめた。
清花は彼のあとを追いながら、胸の奥に小さな針のような緊張を覚えていた。宗近の背に宿る静かな権威が、言葉ではない階級の深さを語っている気がしたのだ。
本来であれば無墨民に対し、丁寧な対応をとるべき人間ではない。彼の歩幅に合わせるたび、清花の胸の奥で針のような緊張が少しずつ深く刺さっていく。
ほどなくして宗近は足を止めた。
「こちらです」
「……ありがとうございました」
清花が頭を下げているうちに、宗近の姿は廊下の角を曲がって消えた。
床の間には筆神を描いた古墨画が掛けられ、文机の上には帳箱と契約の和紙が慎重に並べられている。墨を挽くための硯がすでに準備されており、儀式の場としての厳粛さに包まれていた。
壁には家紋が染め抜かれた掛け軸が垂れ、空間全体が張り詰めた儀式の場を思わせる。
こんな神聖な場所でいったいなにをするつもりなのだろう。
ただ『来るように』と呼ばれ、用件はなにひとつ聞かされていない。使用人の清花は、主である賀茂家の人間の指示や命令には従う以外にないのだ。その命令に対して質問するなどもってのほか。
清花が一歩踏み入れると、明臣はすでに座していた。
背筋を伸ばし、書類を手に取る姿は冷ややかで、まるで墨魂の代弁者のようである。
清花は音を立てないように畳を踏みしめ、明臣に命じられるまま、文机を挟んで彼の前に正座した。
命字を消した翌日の夕方、清花は屋敷の廊下を静かに歩いていた。床を踏む音は、心のざわめきを映すように微かだ。
未だ、母の名前は思い出せないまま。なぜ突然、大事な名前を忘れてしまったのか、清花は焦りと混乱、そして忘れてしまった自分への戸惑いと自己嫌悪で呼吸さえ苦しい。それらが心を深くえぐっていた。
屋敷内には沈香の香りが漂い、廊下の命字灯が静かに揺れている。その一つひとつが、この家の格式と階級の重みを突きつけてくる。
清花は屏風の影を縫うように、奥へ足を進めた。
明臣の指示で呼ばれたのは賀茂家の奥座敷である。格式ある客間だが滅多に使われないその場所は、結界の命字によって外の音すら届かない静謐な空間だと聞いたことがある。清花には足を踏み入れたことのない場所だ。
しかし賀茂家の屋敷は広い。おおよその場所は見当がつくが、清花はそれがどこにあるのかわからず、屋敷の中を彷徨っていた。
すると不意を突き、背後から声がかけられる。
「どちらに行かれるのですか」
振り返ると、使用人の宗近がいた。賀茂家の儀礼書や歴史を代々記録する家文書管理人である。
年齢は五十を少し越えたばかりだが、佇まいには若者にはない緊張と余裕が並び立つ。
髪は肩まで届くほどの長さを後ろに束ね、少し灰がかった黒。手入れは行き届いているが飾り気はなく、見る者に家の格式よりも個の練達を思わせる。額には浅い皺が寄るが、それは年齢によるものというより、記憶と記録に生きる者に刻まれる思考の線だろう。
濃紺の狩衣に身を包み、襟元にはかすかに藤色が覗く。派手さはないものの、布地の質や縫い目に、賀茂家の内情に通じた者であることが滲んでいる。
筆聖には及ばないものの、筆匠という地位にいながら、屋敷内のほかの人間と分け隔てなく清花に丁寧に接するただひとりの人物である。
「あ、あの……明臣様に奥座敷に来るように言われたのですが……」
〝場所がわからなくて〟という声は、ほぼ消えかかる。
「それならこちらです」
宗近は目線をさらに奥に向け、清花を先導して歩きはじめた。
清花は彼のあとを追いながら、胸の奥に小さな針のような緊張を覚えていた。宗近の背に宿る静かな権威が、言葉ではない階級の深さを語っている気がしたのだ。
本来であれば無墨民に対し、丁寧な対応をとるべき人間ではない。彼の歩幅に合わせるたび、清花の胸の奥で針のような緊張が少しずつ深く刺さっていく。
ほどなくして宗近は足を止めた。
「こちらです」
「……ありがとうございました」
清花が頭を下げているうちに、宗近の姿は廊下の角を曲がって消えた。
床の間には筆神を描いた古墨画が掛けられ、文机の上には帳箱と契約の和紙が慎重に並べられている。墨を挽くための硯がすでに準備されており、儀式の場としての厳粛さに包まれていた。
壁には家紋が染め抜かれた掛け軸が垂れ、空間全体が張り詰めた儀式の場を思わせる。
こんな神聖な場所でいったいなにをするつもりなのだろう。
ただ『来るように』と呼ばれ、用件はなにひとつ聞かされていない。使用人の清花は、主である賀茂家の人間の指示や命令には従う以外にないのだ。その命令に対して質問するなどもってのほか。
清花が一歩踏み入れると、明臣はすでに座していた。
背筋を伸ばし、書類を手に取る姿は冷ややかで、まるで墨魂の代弁者のようである。
清花は音を立てないように畳を踏みしめ、明臣に命じられるまま、文机を挟んで彼の前に正座した。

