虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 「明臣さん、見て」

 ふと名前を呼ばれて振り返ると、彼女の微笑みに幸せが滲む。

 「蝶が、ほら」

 清花の手元から墨の蝶が舞い上がった。

 「明臣さんも書いてください」

 筆を差し出す彼女の隣に腰を下ろす。〝清花〟と名前を記すと、彼女は嬉しそうに「ふふ」と笑った。
 その文字は和紙からふわりと舞い、窓の外、高い空へと飛んでいく。
 いつだったか、清花とふたりで行った川辺で似たような光景があったのを思い出した。清花の墨の蝶が舞い、明臣の墨は星となって瞬いた夜のことを。

 「……この感じ、前にもあった気がします」

 清花がぽつりと呟いた。

 「明臣さんと書いた字が、今みたいに共鳴して舞ったような気が……」

 清花の中に、なにかがたしかに残っている。それはきっと記憶ではなく、感情として。言葉ではなく、墨で。

 「前にもあったよ。ふたりで川辺を散歩したときに」

 明臣の言葉に、清花はぱあっと顔を輝かせた。
 その笑顔を見て、胸が締めつけられるような感覚を覚える。彼女の墨魂が、明臣との過去に触れた瞬間。それは、言葉では語れない奇跡だった。

 「その景色、明臣さんとふたりで、また見たいです」

 清花の言葉に、明臣はそっと頷いた。

 「行こう。いつでも、何度でも」

 ふたりは並んで座り、墨を磨く。筆先が紙に触れるたびに墨が揺れ、蝶や花が生まれる。
 それは命字ではない。ただ、ふたりの心が墨に溶けて形になったものだ。

 窓の外には、霞京の街が広がっている。かつて支配に縛られていたその場所は、今では誰もが自由に筆を持ち、自分の感情を描いている。
 そこには差別も階級もない。あるのは記憶と感情と、墨の流れだけ。
 清花は、明臣の隣で笑っている。過去の明臣は思い出せなくても、心はたしかにここにある。
 彼女の筆が描くものに、明臣は自分の名を見つけた。

 「明臣さん」

 清花がふと名前を呼ぶ。

 「この字、なんだか好きです」

 彼女が指さしたのは、明臣が書いた〝清花〟の文字だった。
 墨が微かに揺れ、空気がふたりの間で優しく震える。

 「僕も、好きだよ」

 名前だけでなくーー。
 もう、感情を抑えたり昇華させたりする必要はない。あるがままの心で、素直な気持ちを抱ける自由に、明臣はただ清花を見つめた。
 そっと彼女の手を取る。墨の香りが満ちる部屋で、ふたりは静かに笑い合った。

 「清花」

 彼女の名前を呼ぶ。清花は少し驚いたように目を瞬かせたあと、ふわりと笑った。

 「はい」

 その返事に、胸の奥が静かに満たされていく。
 名前を呼び、応えてもらえる。それだけで、ふたりの間にあるものがたしかに存在していると感じられた。
 明臣は筆を取り、もう一度〝清花〟と書いた。その文字は先ほどよりも少しだけ濃く、やわらかな印象だ。
 墨が揺れ、空気が震え、ふたりの心が共鳴する。

 「これからも書いていこう」
 「ふたりで?」
 「ああ、ふたりで」

 外では夕暮れの光が街を染める。自由の命字が空に漂い、墨魂が人々の感情に寄り添っている。
 ふたりの筆が描く未来は、まだはじまったばかりだった。


 おわり