虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました


 霞京は静かに息を吹き返した。

 墨神の社による支配は終わり、階級が消えて三カ月が経った。
 筆聖も無墨民も、今ではただの「人」である。街を守るのは〝自由〟の命字。それは墨神の社で、明臣が刻んだものだ。

 墨魂は、今もこの街に息づいている。それは力ではなく、感情のかたち。誰かが墨を磨き、筆を走らせるとき、その人の記憶や想いが文字や図形に命が吹き込まれる。
 書は語り、絵は動き、墨は心を映す。

 かつて明臣を『愚かな息子』と呼んだ父も、今ではその筆跡に静かに目を落とすようになった。
 ふたりの間にあった確執は、墨神との戦いのあとから少しずつ溶け、やがて言葉ではなく筆を通して理解に変わった。賀茂家の格式は残っても、そこにあるのはもう、支配ではなく継承と対話だ。
 明臣はそんな日々の中、あの別邸で清花とともに暮らしている。

 『どこにも行くところがないので置いてください』

 そう言って頭を下げた梅と三人、平穏で静かな日々は明臣にとってなにものにも代えがたい。
 朝になると、清花は墨を磨く。それは命字を刻むためではない。ただ墨の香りが好きだからだ。
 清花が筆を走らせると、時折、文字が微かに揺れる。彼女はそれを見て首を傾げる。

 「これ、なんだか懐かしい気がするんです」

 そう言って微笑む清花は、墨神の社での戦い以前の明臣と逆筆のことを覚えていない。代償で、明臣の記憶がすべて失われたのだ。
 宗近によれば、逆筆の代償は本人にとって大切なものから奪われていくという。彼女が母親の顔を忘れてしまったのもそのせいだ。
 つまり墨神の社での闘いのとき、清花にとって明臣は大切な存在になっていたことの証。清花の記憶から自分が消えた残酷な出来事は、宗近の言葉によって救われた。

 (忘れられたことが、愛されていた証になるとは……)

 当初はそんな矛盾に戸惑った。だが今はそれでいいと思っている。
 彼女が幸せなら、それでいい。これからの自分を、清花の心に刻めばいいのだから。
 街では、かつて無墨民と蔑まれていた者が壁に詩を描き、筆聖が子どもたちに墨の扱い方を教えている。誰もが心のあるがまま、自由に生きている。
 階級も差別もない。それが、明臣たちが命字に託した自由の形だった。

 姉、紫桜が生きていたら、この世界をどう思っただろう。
 白椿の影が障子に揺れ、墨の香りが部屋に満ちている。
 清花はいつものように墨の流れに身を委ねるように、筆を走らせていた。