虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 「清花、下がれ!」

 明臣が前に出ると、彼の掌に命字が浮かび上がった。

 〝破〟〝守〟〝斬〟

 それらは彼の意志に応じて形を変え、空中に陣を描く。
 墨神獣が突進する。明臣は命字を空に描き、〝斬〟の字が光を放った。

 一閃。墨神獣の前脚が切り裂かれ、墨が飛び散る。
 創太郎は眉をひそめ、さらに二体の神獣を召喚した。
 墨殿の床が裂け、黒煙を纏った獣が咆哮とともに姿を現す。ひとつは六つの眼を持つ巡墨(じゅんぼく)、もうひとつは尾に命字を刻む縛牙(ばくが)だ。

 「命字を操るか……。だが、墨の本質は〝支配〟だ。お前の命字など、墨神獣には届かぬ」

 明臣は息を整え、命字を再構築する。

 〝結〟〝律〟〝断〟

 明臣の命字が空間に浮かび上がると、巡墨の六つの眼が一斉に明臣を捉えた。だが〝律〟の命字が空間の流れを歪め、獣の視線が散る。
 縛牙が尾を振るい、命字の鎖を放つ。明臣は〝断〟の命字でそれを切り裂き、墨の軌道を反転させた。
 いっぽう清花は石碑の前に立ち、逆筆を構えていた。周囲に命字が浮かび上がり、墨殿全体が清花の意志に応じて震えはじめる。

 「私は、この命字に支配されない」

 清花の筆が石碑に触れた瞬間、墨が爆ぜ〝支配〟の命字が崩れはじめる。
 創太郎が叫ぶ。

 「やめろ!」

 だが、清花は止まらなかった。支配の命字が一画ずつ消えていく。
 その瞬間、巡墨と縛牙が苦悶の叫びを上げ、墨の形を保てなくなっていく。明臣の命字が最後の一撃となり、空間の〝律〟が獣たちを創太郎もろとも呑み込んだ。

 「うわあああああ!」

 創太郎の断末魔の叫びが墨殿に響き渡る。そして次の瞬間、世界は音を失った。空気は張り詰めたまま、墨の匂いだけが微かに残る。
 明臣は清花によって命字を消された石碑に、新たに〝自由〟の命字を刻み、筆を静かに地に置く。その指先は微かに震え、視線は清花の背に向けられている。

 「これで、君は自由だ」

 穏やかな表情には達成感が滲む。
 清花は、静かに立つ明臣を見つめていた。
 言葉をかけることができない。逆筆の使いすぎで、身体が限界を超えていたのだ。

 視界が揺れ、墨の残光が滲んで見える。最後に見たのは明臣の背中。
 清花はその場に、音もなく倒れ込んだ。