長老の衣は墨に染まり、背後には巨大な墨神獣が蠢いている。それは獣とも龍ともつかぬ形をしており、命字の墨から生まれた存在だった。
「その命字に触れることは、霞京の秩序を壊すこと。それを許すわけにはいかん」
創太郎が手を掲げると墨神獣が咆哮を上げ、空間が震えた。墨が渦を巻き、岩壁の命字が共鳴する。
創太郎の言葉に、明臣は静かに目を細めた。墨神獣の鳴く声が響く中、彼が一歩前に出る。
「秩序ですか」
明臣の低い声が響く。
「あなたの言う秩序は、命字による支配です。墨を操る者が、墨に縛られぬ者を選び、従わせる。それは秩序じゃない。恐怖と服従の連鎖だ」
創太郎の眉がわずかに動く。
「命字は本来、意志を記すものです。誰かを縛るためじゃない」
明臣の言葉に創太郎は目を細め、墨神獣の気配をさらに濃くした。その背後で、岩壁の命字がざわめくように揺れる。
「意志を記す、だと?」
彼の声は静かだったが、墨殿全体に響いた。
「意志がいかに純粋でも、それが墨に刻まれた瞬間、力になる。力は争いを生み、争いは命を奪う。我々はそれを何度も見てきた」
創太郎は一歩前に出て言った。その足元に、かつて封じられた命字の残滓が揺らめく。
「命字は、意志を記すだけでは済まない。それを読む者がいて、解釈する者がいて、利用する者がいる。だからこそ秩序が必要なのだ」
「墨魂を持たない者を無下に扱うことが、あなたの言う秩序ですか」
明臣の声は怒りを抑えながらも、鋭く響いた。
「人々の記憶を消し、意志を封じ、墨に触れる資格すら奪う。それが秩序の名で正当化されてきた。墨魂を持たぬ者は命字を記すことも許されず、ただ命令を受けるだけの存在として扱われてきた」
彼の掌に浮かぶ命字が、淡く震える。それは怒りではなく、悲しみの色を帯びていた。
「墨魂があるかないかで、人の価値を決める。それは秩序じゃない。選別だ。そしてその選別は、あなたたちが作った命字によって支えられている」
明臣は一歩、創太郎に近づいた。墨神獣が唸るが、彼は怯まなかった。
「命字は、読む者のためにあるんじゃない。記す者のためにあるんです。誰もが自分の意志を記していいはずだ。墨魂があろうとなかろうと刻まれるべきなんです」
彼の言葉に、墨殿の命字がわずかに揺れた。まるで長く封じられていた意志が、呼応するように。
墨神獣が低く唸る。
「お前たちはまだ若い。意志を信じることは美しい。だが、それだけでは国は守れん。支配あってこその安定だ。意志が交錯すれば国は分裂する。墨魂を持つ者が導き、持たぬ者は従う――それが均衡だ。美しさでは国は動かん。動かすのは、恐れと秩序だ」
明臣は黙って創太郎を見つめた。墨神獣の雄叫びが空間を満たす中、彼はさらに一歩前に出る。
「恐れで動かす秩序は、いつか崩れます」
その声は静かだったが、揺るぎなかった。
「人は怯えて従うことに慣れれば、やがて考えることをやめる。そして考えない者は、意志を持たない者になる。そんな秩序に未来はない」
明臣の言葉は、清花自身について言われているようだった。
かつて清花は言葉通りの人間だった。虐げられ、蔑まれ、息をするのさえ憚られた。そしていつしかそれがあたり前になっていた。
声を上げれば叱られ、意見を持てば否定された。墨魂を持たないというだけで、存在は薄く扱われた。だから、なにも望まないようにした。なにも感じないようにした。それが生き延びる術だった。
けれど今――。明臣の言葉が、胸の奥に火を灯した。忘れたはずの痛みが、輪郭を取り戻す。
それは苦しみではなく、たしかに自分がいたという証のような気がした。
創太郎の目がわずかに動く。
「墨魂がある者だけが導き、ない者は従う。それが均衡だと、あなたは言いました。でもそれは均衡じゃない。沈黙の強制です」
明臣は掌に浮かぶ命字を見つめた。
〝守〟の字が淡く光る。
「なにをわかったようなことを」
創太郎は見下すようにふっと強く息を吐いた。
「国を動かすのは恐れじゃありません。信じることです。誰かの意志が、誰かの意志に響くこと。それが命字の本来の力です」
明臣が清花を見る。その目に、未来の可能性が宿っているのを清花は感じた。
「霞京が築いてきたものを否定するつもりはありません。でも、それが誰かの痛みの上に成り立っているなら、その秩序は守る価値がない。支配のための命字は、今日で終わりです」
「黙れ! お前たちは墨の重さがわかっていない!」
創太郎が張り上げた声に、墨神獣が反応して咆哮を上げる。
「その命字に触れることは、霞京の秩序を壊すこと。それを許すわけにはいかん」
創太郎が手を掲げると墨神獣が咆哮を上げ、空間が震えた。墨が渦を巻き、岩壁の命字が共鳴する。
創太郎の言葉に、明臣は静かに目を細めた。墨神獣の鳴く声が響く中、彼が一歩前に出る。
「秩序ですか」
明臣の低い声が響く。
「あなたの言う秩序は、命字による支配です。墨を操る者が、墨に縛られぬ者を選び、従わせる。それは秩序じゃない。恐怖と服従の連鎖だ」
創太郎の眉がわずかに動く。
「命字は本来、意志を記すものです。誰かを縛るためじゃない」
明臣の言葉に創太郎は目を細め、墨神獣の気配をさらに濃くした。その背後で、岩壁の命字がざわめくように揺れる。
「意志を記す、だと?」
彼の声は静かだったが、墨殿全体に響いた。
「意志がいかに純粋でも、それが墨に刻まれた瞬間、力になる。力は争いを生み、争いは命を奪う。我々はそれを何度も見てきた」
創太郎は一歩前に出て言った。その足元に、かつて封じられた命字の残滓が揺らめく。
「命字は、意志を記すだけでは済まない。それを読む者がいて、解釈する者がいて、利用する者がいる。だからこそ秩序が必要なのだ」
「墨魂を持たない者を無下に扱うことが、あなたの言う秩序ですか」
明臣の声は怒りを抑えながらも、鋭く響いた。
「人々の記憶を消し、意志を封じ、墨に触れる資格すら奪う。それが秩序の名で正当化されてきた。墨魂を持たぬ者は命字を記すことも許されず、ただ命令を受けるだけの存在として扱われてきた」
彼の掌に浮かぶ命字が、淡く震える。それは怒りではなく、悲しみの色を帯びていた。
「墨魂があるかないかで、人の価値を決める。それは秩序じゃない。選別だ。そしてその選別は、あなたたちが作った命字によって支えられている」
明臣は一歩、創太郎に近づいた。墨神獣が唸るが、彼は怯まなかった。
「命字は、読む者のためにあるんじゃない。記す者のためにあるんです。誰もが自分の意志を記していいはずだ。墨魂があろうとなかろうと刻まれるべきなんです」
彼の言葉に、墨殿の命字がわずかに揺れた。まるで長く封じられていた意志が、呼応するように。
墨神獣が低く唸る。
「お前たちはまだ若い。意志を信じることは美しい。だが、それだけでは国は守れん。支配あってこその安定だ。意志が交錯すれば国は分裂する。墨魂を持つ者が導き、持たぬ者は従う――それが均衡だ。美しさでは国は動かん。動かすのは、恐れと秩序だ」
明臣は黙って創太郎を見つめた。墨神獣の雄叫びが空間を満たす中、彼はさらに一歩前に出る。
「恐れで動かす秩序は、いつか崩れます」
その声は静かだったが、揺るぎなかった。
「人は怯えて従うことに慣れれば、やがて考えることをやめる。そして考えない者は、意志を持たない者になる。そんな秩序に未来はない」
明臣の言葉は、清花自身について言われているようだった。
かつて清花は言葉通りの人間だった。虐げられ、蔑まれ、息をするのさえ憚られた。そしていつしかそれがあたり前になっていた。
声を上げれば叱られ、意見を持てば否定された。墨魂を持たないというだけで、存在は薄く扱われた。だから、なにも望まないようにした。なにも感じないようにした。それが生き延びる術だった。
けれど今――。明臣の言葉が、胸の奥に火を灯した。忘れたはずの痛みが、輪郭を取り戻す。
それは苦しみではなく、たしかに自分がいたという証のような気がした。
創太郎の目がわずかに動く。
「墨魂がある者だけが導き、ない者は従う。それが均衡だと、あなたは言いました。でもそれは均衡じゃない。沈黙の強制です」
明臣は掌に浮かぶ命字を見つめた。
〝守〟の字が淡く光る。
「なにをわかったようなことを」
創太郎は見下すようにふっと強く息を吐いた。
「国を動かすのは恐れじゃありません。信じることです。誰かの意志が、誰かの意志に響くこと。それが命字の本来の力です」
明臣が清花を見る。その目に、未来の可能性が宿っているのを清花は感じた。
「霞京が築いてきたものを否定するつもりはありません。でも、それが誰かの痛みの上に成り立っているなら、その秩序は守る価値がない。支配のための命字は、今日で終わりです」
「黙れ! お前たちは墨の重さがわかっていない!」
創太郎が張り上げた声に、墨神獣が反応して咆哮を上げる。

