虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 清花は冷たい畳の上に、足を抱えて座り込んでいた。
 清花の部屋は、賀茂家の奥にひっそりと用意された一室である。畳は使い込まれ、ところどころ色が褪せている。壁は煤けた土壁で、ほんのり墨の香りが染みついていた。柱の木目は艶を失い、時間の重さを刻んでいるよう。
 天井は低く、手を伸ばせば届きそうな距離にある。吊り下げられた灯りは紙で覆われた行灯で、揺れる灯火が壁に淡い影を落としていた。
 窓は小さく、格子越しに見える夜の霞京の光がわずかに差し込む。障子の隙間から外の風鈴の音がかすかに響き、静けさをより強く感じさせる。

 部屋の隅に置かれた鏡台は簡素な造りで、引き出しの取っ手には布を巻いてある。机の上には古びた硯と母の筆が並び、使い込まれた和紙の束が重ねられていた。
 一枚一枚に筆の痕跡はない。清花はそれらに触れることを、長らく許されてこなかった。
 障子の向こうに広がる夜の霞京は風さえ控えめで、静寂が息づいていた。だが、清花の心は嵐のように荒れている。
 逆筆、共鳴者、墨契婚。三つの言葉が、頭の中を暴風のように駆け巡る。
 話でしか知らない逆筆の能力。それが自分に備わっているなど到底信じられない。

 (あれは、たまたまだったに違いないのに……)

 巨大な命字に畏怖を覚えたせいで、なんらかの特異現象が起きただけ。そう何度も自分に言い聞かせるしかない。それほどありえない事態だった。
 しかし本当に偶然に起きた現象で、清花に逆筆などという力が備わっていないことが明臣の知るところとなったら……。罰がどれほど厳しいものになるか、考えるだけで背筋が震えた。
 壁際に置かれた机の上に、母の筆がある。細く、使い込まれた筆だ。幼い頃、母が墨を磨りながらつぶやいた言葉が蘇る。

 『墨は、心の奥にあるものを映すのよ』

 清花は震える指で筆を手に取った。かすかにぬくもりを感じた気がする。まるで母の手が背中を押してくれるようだった。
 だが、昼間のような黒い霧が指から滲み出るような兆候はない。

 (やっぱり偶然だったのよ……)

 逆筆──命字を〝消す〟力。
 それはこの街に生きる者にとって、創造ではなく破壊。祝福ではなく呪いだ。
 なにしろ街を守護する命字を消せるのだから。
 そのような力がないと安堵する反面、やはり自分はなんの力も備わっていない無墨民なのだと落胆する気持ちもある。そしてなにより、墨契婚を決めた明臣の怒りを買うのではないかという恐怖が清花を包み込む。
 清花は膝を抱え、額に手を添えた。

 ふと、部屋の隅にある小さな鏡に目を向ける。そこに映るのは、怯えた少女の顔だった。
 どこか遠くで風鈴が鳴る。誰かが呼んでいるような気がした。

 (私は……どうすればいいの?)

 答えは見えない。それなのに心の奥でなにかが囁く。

 〝逃げるな〟

 その声に導かれるように、清花はそっと筆を手に取った。
 床に母の名前を書こうとして――止まる。〝美〟のあとが続かない。

 (あれ? このあとは……?)

 母の名前が出てこないのだ。

 (〝美……〟……やだ、どうして!?)

 頭の中が混乱した。心の中に生まれた小さな亀裂が、静かに広がっていく。
 清花は震える指先を見つめた。筆は墨の香りを帯びたまま、床の上で止まっている。
 母の名前。幼い頃に何度も呼びかけたその響きが、まるで靄に包まれたように遠ざかっていく。

 (なんで……どうして忘れちゃうの……?)

 思い出そうとするが、頭は重い膜がかかったよう。文字の続きは霧の向こうに消えていて、手を伸ばしても掴めない。
 困惑と恐怖の間で揺れながら、清花は筆をぎゅっと握りしめる。たった一文字だけ書いた〝美〟が、微かに揺らめいたように見えた。
 ただの錯覚か、それとも異能に憧れるが故の願望か。
 息を呑み、指先で触れたが、文字に異変は起こらなかった。