虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 「……私が逆筆を使えるようになったのは、偶然じゃなかったんですね」

 清花は声をかすかに震わせながらも、はっきりと言った。
 賀茂家の命字に触れたとき、なにかが目覚める気がした。しかしそれはただの力ではない。父が残した〝問い〟のような気がした。

 「あの火事は、清花さんを消すためのものでしょう」

 清花の脳裏に、焼け落ちた屋敷の記憶が蘇る。清花の部屋が出火元だった。
 あの火は、強い意志によって清花を消そうとしたものだった。宗近から語られた事実が、静かに怒りと悲しみを呼び起こす。

 「だから僕の命字が効かなかったんだ」

 あのとき明臣は〝鎮火〟の命字を記したが、なにも起こらなかった。

 「おそらく封じられていたのでしょう」

 しかし清花はまだここに存在している。

 「このまま放っておけば……」
 「清花の命は危ういのですね」

 明臣の言葉に頷きつつ、宗近がさらに続ける。

 「階級による一方的な支配も終わりません。社の奥に掲げられた命字がある限り……」

 墨神の社の奥に掲げられた命字。それは霞京を覆う支配の象徴であり、逆筆の力を封じるための鍵でもあった。
 清花は静かに立ち上がる。

 「命字が霞京を縛り続ける限り、この社会は変わりません。それなら私が霞京を解き放ちます」

 父と母が望んだのは、人々が自由に生きる世界だ。階級に捕らわれず、墨魂のあるなしに関わらず、人が等しく平等に生きる世界。
 そのために〝支配〟の命字を消す。かつて父が試みたように。

 「ただし、命字を消すには逆筆の力が必要です。……記憶と引き換えになることを忘れてはいけません」

 宗近の言葉が心に重く響く。
 逆筆の代償。清花はまた、大切な記憶を失うだろう。
 だが、それをもってしなければ、霞京は変わらない。支配から逃れられないのだ。

 「覚悟はできています」

 清花の中に強い信念が沸き立つ。

 「僕が清花の記憶を守る。たとえ失うものがあったとしても、僕が清花を覚えているから」

 明臣もまた立ち上がった。彼の目に迷いは見えない。

 「清花を守る。命字が消えるまで、絶対に」

 清花は明臣を見つめた。その瞳に宿るのはかつての弱さではなく、覚悟を宿した光だ。

 「ありがとうございます」

 明臣以上に頼りになる言葉はない。

 「行こう、清花」

 明臣の言葉に清花は強く頷いた。

 「命字は社の奥、墨殿と呼ばれる禁域に刻まれています」

 宗近の声は、どこか祈るように低い。
 清花と明臣は、未来を描くための第一歩を踏み出した。