階級社会に疲れた和仁が街の外れを歩いていたとき、美百合が子どもたちに読み書きを教えているところに出くわしたという。
『言葉は誰かの居場所になります。墨魂がなくても、心に残るものはあると思うんです』
そう笑顔で語る美百合の姿が印象的だったと宗近に打ち明けたそうだ。そうして何度か会ううちに、ふたりは恋に落ちた。
生きた感情は、命字を崩す。あるとき墨神の社で行われた試練で、和仁の書いた命字は墨崩れを起こし、墨鴉が出現した。
逆筆の力が開花したのはそのとき。筆聖をはじめとした墨魂使いたちは恐れおののき、その場は混乱の渦と化したといいう。
その騒ぎの中で、和仁は見てしまったのだ。墨神の社に隠された強大な命字を。
「それはどんな命字だったんですか?」
明臣の問いに宗近は一瞬、言葉を探すように唇を閉じたまま沈黙した。その瞳には、畏怖と哀惜が入り混じった色が宿っていた。
「〝支配〟です」
清花と明臣は息を呑んだ。
(そんな命字が、墨神の社に隠されていたなんて……)
清花の胸の奥に、冷たいものが落ちていく感覚が走る。その言葉が、霞京の空気すべてを覆っているように思えた。
宗近の声は静かだったが、その静けさがかえって重く響く。
清花は思わず自分の掌を見つめた。墨も命字も言葉も、人を守るためにあると信じていた。けれどその根底に〝支配〟という力が潜んでいたのだとしたら――。
それは今まで信じてきたものすべてが、誰かの意志に操られている可能性を示していると言っていいだろう。胸がざわついた。怒りとも悲しみともつかない感情が芽吹いていた。
「階級の名のもとに統率し、支配していたのです。和仁様は逆筆を使い、幾度となくそれを消そうとなさいました。しかし……」
宗近はそこで言葉を止め、唇を噛む。和仁は、社の長老である創太郎の命字によって現れた墨神獣に命を奪われたのだと微かに聞こえる声で言った。
「私はすぐさまここに〝憶〟の命字を彫り込みました。霞京を命字で支配していた長老なら、今度は都合の悪い記憶を消し去るだろうと」
予想通りの結果になったというわけだ。
逆筆の発現はもちろん和仁の存在、そして霞京は命字によって守られているのではなく、支配されているのだという事実まで封印された。
もしかしたら和仁の側近だった宗近の存在も、人々の記憶からなくなったのかもしれない。だから宗近がいつから賀茂家にいるのか、梅も明臣も明確に覚えていないのではないか。
「しかし、より強力な命字で私の記憶が消える可能性もある。そう考え――」
「巻物に残したのですね」
明臣が代弁した。宗近が深く頷く。
「和仁さんの忘れ形見である清花さんのことは、密かに追っていました」
「……それじゃ賀茂家に仕えているのは」
「清花さんをそばで見守るためです。和仁さんの血を受け継いだあなたが、いつか逆筆の能力に目覚めるのではないかと。そして、あなたはその力を開花させた」
清花は宗近の言葉を静かに受け止めながら、胸の奥に広がる感情を整理しようとした。
守られていたこと。見張られていたのではなく、父の遺志を継ぐ者として見守られていたこと。
それは孤独だと思っていた日々が、実は誰かの祈りの中にあったという証だった。
『言葉は誰かの居場所になります。墨魂がなくても、心に残るものはあると思うんです』
そう笑顔で語る美百合の姿が印象的だったと宗近に打ち明けたそうだ。そうして何度か会ううちに、ふたりは恋に落ちた。
生きた感情は、命字を崩す。あるとき墨神の社で行われた試練で、和仁の書いた命字は墨崩れを起こし、墨鴉が出現した。
逆筆の力が開花したのはそのとき。筆聖をはじめとした墨魂使いたちは恐れおののき、その場は混乱の渦と化したといいう。
その騒ぎの中で、和仁は見てしまったのだ。墨神の社に隠された強大な命字を。
「それはどんな命字だったんですか?」
明臣の問いに宗近は一瞬、言葉を探すように唇を閉じたまま沈黙した。その瞳には、畏怖と哀惜が入り混じった色が宿っていた。
「〝支配〟です」
清花と明臣は息を呑んだ。
(そんな命字が、墨神の社に隠されていたなんて……)
清花の胸の奥に、冷たいものが落ちていく感覚が走る。その言葉が、霞京の空気すべてを覆っているように思えた。
宗近の声は静かだったが、その静けさがかえって重く響く。
清花は思わず自分の掌を見つめた。墨も命字も言葉も、人を守るためにあると信じていた。けれどその根底に〝支配〟という力が潜んでいたのだとしたら――。
それは今まで信じてきたものすべてが、誰かの意志に操られている可能性を示していると言っていいだろう。胸がざわついた。怒りとも悲しみともつかない感情が芽吹いていた。
「階級の名のもとに統率し、支配していたのです。和仁様は逆筆を使い、幾度となくそれを消そうとなさいました。しかし……」
宗近はそこで言葉を止め、唇を噛む。和仁は、社の長老である創太郎の命字によって現れた墨神獣に命を奪われたのだと微かに聞こえる声で言った。
「私はすぐさまここに〝憶〟の命字を彫り込みました。霞京を命字で支配していた長老なら、今度は都合の悪い記憶を消し去るだろうと」
予想通りの結果になったというわけだ。
逆筆の発現はもちろん和仁の存在、そして霞京は命字によって守られているのではなく、支配されているのだという事実まで封印された。
もしかしたら和仁の側近だった宗近の存在も、人々の記憶からなくなったのかもしれない。だから宗近がいつから賀茂家にいるのか、梅も明臣も明確に覚えていないのではないか。
「しかし、より強力な命字で私の記憶が消える可能性もある。そう考え――」
「巻物に残したのですね」
明臣が代弁した。宗近が深く頷く。
「和仁さんの忘れ形見である清花さんのことは、密かに追っていました」
「……それじゃ賀茂家に仕えているのは」
「清花さんをそばで見守るためです。和仁さんの血を受け継いだあなたが、いつか逆筆の能力に目覚めるのではないかと。そして、あなたはその力を開花させた」
清花は宗近の言葉を静かに受け止めながら、胸の奥に広がる感情を整理しようとした。
守られていたこと。見張られていたのではなく、父の遺志を継ぐ者として見守られていたこと。
それは孤独だと思っていた日々が、実は誰かの祈りの中にあったという証だった。

