虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 明臣は宗近の言葉を聞き、眉間に深い皺を刻んだ。彼の目は鋭く、宗近を見据えている。

 「墨神の社が、命字を使って記憶を改ざんしたということですか?」

 その声には、怒りとも疑念ともつかない熱がこもっていた。
 彼は霞京の法と秩序を信じていた。その根幹を揺るがすような話に、思考が追いつかないのだろう。
 清花は明臣の横顔を見ながら、自分の中に芽生えた不安を押し殺そうとしていた。

 父が筆聖だったこと。琴宮家という名家の出だったこと。そして、そのすべてが人々の記憶から消されているという事実。
 宗近は明臣の質問に静かに頷いた。

 「では私が知らなかったのは、母が隠していたからじゃなくて……」

 言葉が途中で途切れる。宗近は静かに頷いた。

 「あなたのお母様は、もっとも命字の影響を受けた者です。記憶を消されたのではなく、記憶を書き換えられた。それが墨神の社のやり方です」

 清花は、椅子の肘掛けを握りしめた。指先に力が入りすぎて、爪が白くなる。
 自分の過去が、家族が、名前が――すべて誰かの手で塗り替えられていた。
 その事実が静かに、しかし確実に心を侵食していく。

 「なぜそのようなことをする必要が?」

 明臣の質問は当然のものだった。琴宮家の存在を人々の記憶から消す理由がわからない。

 「私は和仁様の側近として、琴宮家に仕えていました」
 「その前にちょっと待ってください。では、なぜあなたには記憶があるんですか?」

 明臣の問いは、鋭い刃のように宗近に向けられた。声には冷静さがあるが、真実を暴こうとする強い意志が滲んでいる。

 (本当だわ。人々の記憶からは消されたのに、どうして宗近さんは覚えているの?)

 宗近はわずかに目を伏せながら、寝間着の袖を捲り上げた。
 明臣がハッと息を呑む。
 そこには〝憶〟という文字が彫られていた。

 「私にはこの命字があったからです」

 宗近は自分でその命字を左腕に刻んだのだと言う。記憶の〝憶〟という命字のおかげで、彼は消失を免れたのだと。

 「和仁様は、今の明臣様と同じ歳の頃から霞京における階級社会に疑念を抱いていました。なぜ階級を作る必要があるのか。なぜ人は同じく平等ではいられないのかと。無墨民である美百合さんと出会ったのはその頃です」

 宗近は窓の外、遠くを見ながら静かに語りはじめた。