虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 「清花さん、あなたのお父様は逆筆を操る筆聖でした」

 その言葉が空気を切り裂いた瞬間、病室の温度が変わったように感じられた。まるで、見えないなにかが部屋の隅から立ち上がったかのように。
 清花は、瞬きも忘れて宗近を見つめた。

 「……え?」

 声にならない声が喉の奥で震え、唇だけがわずかに動く。

 (そんなまさか……。父が筆聖、しかも逆筆を使えただなんて……)

 にわかには信じられない話だった。母から聞いていた話とはまるで違うからだ。

 「いえ、そんなはずは……」

 言葉が頼りなく揺れる。
 父も母も無墨民のはずだ。墨魂を使える人間だとは聞いていない。
 だがしかし、それで清花が逆筆を発動させた理由がつくのも事実である。なんらかの理由で眠っていた力が、ふとしたきっかけ――賀茂家の強力な命字に触れたことで目覚めたのだと。
 明臣も、思わず宗近に視線を向けなおす。眉がわずかに跳ね上がり、椅子の背に寄りかかっていた体が前へと傾いた。

 宗近はふたりの反応を静かに受け止めながら、表情は変えなかった。その瞳は清花をまっすぐに捉え、まるで彼女の内側にあるなにかを見透かしているよう。

 「あなたのお父様である和仁様は今では没落していますが、代々筆聖として名を馳せてきた琴宮家の当主でした」
 「琴宮家……?」

 宗近の言葉を繰り返す。自分に名字があるとは知らなかった。
 無墨民には名字すら与えられないのだ。母の口からも、一度もそんな名前が出たことはない。
 明臣を見たが、彼も初めて聞く名のようだった。

 「そのような家の名は初めて聞きますが」

 明臣が首を傾げながら訝しむ。
 宗近は少しだけ目を細めた。その表情には語ることへの覚悟と、なにかを託す者の静かな決意が滲んでいる。

 「当然です。霞京の人間の記憶から消されたんです」
 「えっ」

 清花と明臣の声が重なる。記憶が消されているとはどういう意味か。

 「墨神の社による統制です」
 「つまり、命字によって消されたと」

 すかさず切り返した明臣に、宗近が深く頷く。
 清花は宗近の言葉を聞いた瞬間、体の奥が冷たくなるのを感じた。霞京の人々の記憶から家そのものが消される。そんなことが本当に可能なのか。
 それは、存在そのものを否定されることに等しい。

 「記憶が……消された……?」

 呟いた声は、自分のものとは思えないほどかすれていた。胸の奥に、なにかが沈んでいくような感覚。琴宮家という名前が、自分の中にまったく響かないことが、逆に恐ろしかった。