清花が明臣や梅と賀茂家の別邸に移り住んで一カ月が経過しようとしていた。暦はまもなく年の瀬を迎える。
真美子の突然の訪問から二週間、清花はこれまでとは比べ物にならないほど穏やかな時を過ごしている。
毎日欠かさず行っている命字や逆筆を制御するための訓練は気を抜けないが、賀茂家にいた人間の侮蔑に満ちた目から離れられたのは大きい。なにより明臣の優しさに触れる機会が増えた。
母の顔を思い出せない点と、宗近の意識が戻らない点は清花を悩ませているにせよ、人間らしい生活を送る日々は清花の心を安らかにしている。それは、明臣が書いた命字〝安寧〟がもたらすものでもあるのだろう。
明臣に追い払われた真美子は、きっと二度と清花に接触してこないだろう。明臣の怒りに触れ、その恐ろしさが身に染みたはずだ。
朝の光が障子越しにやわらかく差し込む。清花は台所から漂う出汁の香りに目を覚ました。自室の襖をそっと開けると、すでに梅が湯気の立つ味噌汁を椀に注いでいた。
「おはよう、清花」
梅の声は以前のような張り詰めたものではなく、どこか綻びを含んでいた。
「梅さん、すみません。寝過ごしてしまいました」
梅ひとりに食事の支度をさせるなど、さすがに図に乗り過ぎだ。
「別にいいんだよ。お前は――っと、明臣様の奥様をそんなふうに呼んじゃいけないね。よく眠れたかい?」
「はい」
本邸にいたときはもちろん三木谷家にいたときも、ぐっすり眠れた夜はない。物音や人の気配に怯え、神経が休まるときはなかった。
卓に並べられた朝食に目をやると焼き鮭、卵焼き、ほうれん草のお浸し。どれも素朴だが丁寧に作られている。
「顔を洗って着替えておいで」
清花は小さく頷き、身支度を整えた。
ほどなくして現れた明臣は白いシャツに羽織を重ね、髪はまだ少し濡れている。
「おはよう」
「おはようございます」
明臣の挨拶に梅と揃って応える。
彼は清花の向かいに座り、梅が差し出した茶碗を受け取る。その仕草が自然で、清花はふと胸の奥があたたかくなるのを感じた。
三人で食卓を囲むのにも、この頃はすっかり慣れた。最初はぎこちなかったが、今は静かな呼吸のように互いの存在がそこにある。
「今朝は少し冷えるね」
「はい」
障子の向こう、庭に目をやると、朝の光に照らされた柊の葉がわずかに震えていた。風はないのに葉の縁に残る夜露が凍りかけているのか、光を受けて白くきらめいている。
梅が湯呑を卓に置きながら、ふと呟いた。
「霜が降りたみたいですね。椿の蕾も、少し縮こまって見えます」
清花も目を細めて庭を見た。
石灯籠の上に薄く積もった霜が、まるで粉砂糖のように白く、静かにそこにある。空気は澄んでいて、吐く息が細く白く伸びる。
「年の瀬だな。こうして寒さが深まると、時間の流れが急に輪郭を持ちはじめる気がする」
その言葉に、清花は頷いた。寒さの中にある静けさが、どこか心を落ち着かせるよう。
「午後、少し街に出ようか。年末の支度もあるし、清花を連れて行きたい場所がある」
清花は驚いて顔を上げた。彼の瞳は、どこか楽しげだ。
「それはいいですね。おふたりで街へなんて行ったことがないでしょう。墨契婚とはいえ夫婦なんですから」
〝夫婦〟という言葉が梅の口から自然に零れた瞬間、清花の胸の奥に小さなざわめきが生まれた。
墨契婚は形式だけの関係。そう理解していたはずなのに、その言葉が持つ響きは思いのほか重く、やわらかい。
夫婦。その言葉に含まれるものは、清花にとって遠いものだった。
寄り添うこと、守ること、分かち合うこと。それらは母を亡くした清花の世界にないものだった。
しかし今、明臣の瞳に浮かぶ楽しげな光と梅の穏やかな声に包まれて、その言葉がほんの少しだけ違う意味を帯びて聞こえた。
夫婦、それは誰かと並んで歩くこと。寒さの中で、同じ湯気を分け合うこと。言葉にしなくても、そこにいてくれること。
清花は自分の胸の奥に生まれたその感覚が、なんなのかわからない。ただ、梅の言葉に頷くことも否定することもできず、静かに視線を落とす。
その瞬間、明臣がふと清花を見た。なにも言わず、ただ目が合っただけなのに、清花はなぜか少しだけ息を止めた。

