虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 「用件は」

 冷ややかに返した明臣に、真美子が一瞬だけ怯む。目を伏せかけたが、すぐに持ちなおし、媚びるように体を傾けた。

 「そ、その……清花が無墨民なのはご存じでしょうか」
 「彼女の出自がなにか」
 「筆聖の明臣様と墨契婚を結ぶにふさわしい人間じゃないんです。それも禁忌の逆筆を使うなんて、きっと呪われているに違いありません。清花になにを吹き込まれたのかわかりませんが、彼女に騙されているのではないかと心配で」

 言葉の最後に真美子は両手を胸元で組み、わざとらしく首を傾げた。その仕草は憐れみを誘うよりも、場の空気をさらに冷やすだけだった。
 真美子が一歩、明臣に近づく。その動きは滑らかで、まるで舞の一節のようだったが、どこか滑稽だ。藤の簪が揺れ、香の匂いがふわりと広がる。

 「私は筆匠の家に生まれ、幼い頃から墨の扱いには慣れ親しんでまいりました」

 声はやわらかく、しかし言葉の端々に自負が滲む。

 「墨の気配を読むことも筆を通して魂を込めることも、教え込まれて育ちました。墨契の重みも墨魂の尊さも、理解しているつもりです」

 明臣は無言のまま、じっと彼女を見据えた。
 真美子はその沈黙を肯定と誤解したのか、さらに言葉を重ねる。

 「この人は墨契婚の意味を、本当に理解しているのでしょうか」

 ちらりと清花を横目で見やる。その視線は憐れみとも侮蔑ともつかない、冷たい光を帯びていた。

 「私は、明臣様の隣に立つにふさわしい者でありたい。墨を尊び、家を守り、筆聖の名に恥じぬよう尽くす覚悟があります」

 言葉の最後に真美子は膝を折り、裾を整えて深々と頭を下げた。
 その所作は完璧だったが、あまりに整いすぎていて、どこか芝居じみた印象を残す。
 清花はその様子を黙って見つめていた。梅は眉をひそめ、明臣の反応をうかがっている。
 場の空気は張りつめたまま、沈黙が流れる。明臣は真美子の深々とした礼を見下ろしながら、さらに沈黙を保った。
 それは場の空気をさらに冷やし、真美子の呼吸を浅くさせる。
 やがて明臣は静かに口を開いた。

 「墨に慣れ親しんだことと、墨契を結ぶにふさわしいことは同義ではない」

 墨契とは、魂の深奥に触れる契り。それを家柄や技術で測る者に、墨の本質は見えない。真美子の目にわずかな動揺が走る。

 「家柄も教養も、墨への理解も、たしかに価値あるものだ。だが、墨契とは魂の交わりだ。表層では測れない」

 明臣は清花を見た。彼女はまだ黙ったまま立ち尽くしている。
 その姿を見て、明臣は瞳をかすかに揺らす。

 「清花は、あなたの言うように無墨民だ。だが僕が彼女を選んだのは、墨の有無ではない」

 清花を道具と見ていた頃の明臣は、筆聖としての責務を果たすため、感情を排して合理性を優先していた。しかし清花の言動や沈黙の中にある強さ、そして彼女が無墨民にもかかわらず墨魂に響くなにかを感じたことで、その認識は揺らぎはじめた。
 墨魂の有無ではない。清花の存在そのもの――彼女の意志、感性、強さ、それらが明臣を惹きつけてやまないのだ。
 そして同時に、筆聖を頂点とした階級社会への疑念も抱きはじめていた。墨魂の有無だけで、人の価値を決めていいのか。
 明臣の言葉に、真美子の顔が強張る。

 「以後、この屋敷に無断で踏み入ることは許さない。もしも清花を傷つけるのなら、僕は容赦なくあなたを葬る」

 明臣は冷ややかな眼差しで真美子を射抜いた。

 「なっ……」
 「今すぐここから出て行け!」

 冷たく、そして強く言い放つ。声だけでなく全身から、これまで感じたことのないほどの嫌悪が溢れるのを止められない。髪の毛が逆立つほどの苛立ちを覚えた。
 その剣幕に恐れをなしたか、真美子は膝をがくがくと震えさせる。

 「で、でもっ」
 「従わないのなら……」

 明臣は懐から筆と和紙を取り出した。命字で強制退去させようと筆を握る。
 それを見た真美子は顔を引きつらせ、その場に尻もちをついた。唇は戦慄いている。
 脅しのつもりだったが効果てきめん。彼女は腰を抜かしたように無様な様子で、逃げるようにして出ていった。
 空気は急激に静まり、重かった気配は徐々に緩んでいく。肩を震わせる清花を支えようと手を伸ばしたが、梅のほうが早かった。