診療所をあとにした明臣が別邸の門扉をくぐると、玄関から言い争う声が聞こえてきた。
「いやっ、やめてください」
「なにをするつもりなんだい! その手をお放し!」
清花と梅が声をあげたあと、聞き覚えのない女の声が続く。
「あんたみたい逆筆使いの下女虫が、どうして賀茂家の跡取りと墨契婚なんかできるのよ! 家柄も教養もないくせに、私よりふさわしいと思ってるの?」
玄関の引き戸を開けると、そこには見知らぬ女がひとり、清花に詰め寄っていた。眉間には皺を寄せ、今にも殴りかかりそうな勢いだ。
清花は声を荒げるでもなく、ただその場に小さく立ち、梅の背筋には緊張が走っている。
明臣は迷いなく、一歩前に進み声を落とした。
「彼女から手を放せ。私の許可なく、ここに足を踏み入れていい者はいない」
淡々とした語調だが、背後に墨魂の揺れを孕むのを感じた。
場の気配が静まり、空気が一拍、重く沈む。
淡い紫の小紋を着た女は、清花に詰め寄ったまま、明臣の声に反応してゆっくりと振り返った。その顔は、驚きと恍惚が入り混じったような複雑な表情だ。
化粧の艶やかさが不気味に映り、丁寧に結われた髪には季節外れの藤の簪が揺れていた。
その姿は整ってはいるが、どこか無理に飾った印象を残す。まるで、自分の立場を誇示するために纏った鎧のようだった。
明臣は一瞥しただけで、女の意図を察した。彼女の怒りは清花に向けられているようでいて、実のところ自分自身の不安と焦燥の裏返しなのだろう。
墨を持たないとされる無墨民に対する侮蔑の言葉は、彼女の誇りの裏にある脆さを露呈している。
「明臣様ですよね?」
先ほど清花にぶつけていた怒りはどこへいったのか、薄気味悪いほどの猫なで声だ。その声色に合わせるように、体をくねらせながら一歩近づく。視線は明臣の顔をなぞるように動き、唇には作り物めいた笑みが浮かんでいた。
「私は三木谷真美子と申します。この下女――いえ、清花が使用人として働いていた、筆匠の三木谷家のひとり娘です」
真美子と名乗った女は顎をツンと上に向け、胸を張った。筆匠の家柄が誇らしくてたまらないといった様子だ。その姿勢は、まるで自分の存在を売り込む商人のようである。
「いやっ、やめてください」
「なにをするつもりなんだい! その手をお放し!」
清花と梅が声をあげたあと、聞き覚えのない女の声が続く。
「あんたみたい逆筆使いの下女虫が、どうして賀茂家の跡取りと墨契婚なんかできるのよ! 家柄も教養もないくせに、私よりふさわしいと思ってるの?」
玄関の引き戸を開けると、そこには見知らぬ女がひとり、清花に詰め寄っていた。眉間には皺を寄せ、今にも殴りかかりそうな勢いだ。
清花は声を荒げるでもなく、ただその場に小さく立ち、梅の背筋には緊張が走っている。
明臣は迷いなく、一歩前に進み声を落とした。
「彼女から手を放せ。私の許可なく、ここに足を踏み入れていい者はいない」
淡々とした語調だが、背後に墨魂の揺れを孕むのを感じた。
場の気配が静まり、空気が一拍、重く沈む。
淡い紫の小紋を着た女は、清花に詰め寄ったまま、明臣の声に反応してゆっくりと振り返った。その顔は、驚きと恍惚が入り混じったような複雑な表情だ。
化粧の艶やかさが不気味に映り、丁寧に結われた髪には季節外れの藤の簪が揺れていた。
その姿は整ってはいるが、どこか無理に飾った印象を残す。まるで、自分の立場を誇示するために纏った鎧のようだった。
明臣は一瞥しただけで、女の意図を察した。彼女の怒りは清花に向けられているようでいて、実のところ自分自身の不安と焦燥の裏返しなのだろう。
墨を持たないとされる無墨民に対する侮蔑の言葉は、彼女の誇りの裏にある脆さを露呈している。
「明臣様ですよね?」
先ほど清花にぶつけていた怒りはどこへいったのか、薄気味悪いほどの猫なで声だ。その声色に合わせるように、体をくねらせながら一歩近づく。視線は明臣の顔をなぞるように動き、唇には作り物めいた笑みが浮かんでいた。
「私は三木谷真美子と申します。この下女――いえ、清花が使用人として働いていた、筆匠の三木谷家のひとり娘です」
真美子と名乗った女は顎をツンと上に向け、胸を張った。筆匠の家柄が誇らしくてたまらないといった様子だ。その姿勢は、まるで自分の存在を売り込む商人のようである。

