薬草棚を背に、彼は袴の裾に埃すら許さない完璧な姿で現れた。火事で本邸を出たあと、初めての再会。空気が一瞬、草の香りに混じって緊張の匂いを孕む。
「……用件は、今さら清花の処分ですか?」
明臣の声には火のような怒りはない。ただ、心の底に残った燻りがわずかに立ち上っていた。
「あの娘が穢れであることは変わらん。あの火事がそれを裏づけている」
清花が禁忌である逆筆を使ったから、災いが起きたと言いたいのだろう。
「お前がその判断を覆そうとした結果がどうなったか、お前にはわかっているはずだ」
正史郎の言葉は静かだった。咎めではなく、確認だった。
「穢れを名乗る者が、月華館にいる人たちを救った。それを父上は恥と呼ぶんですか?」
明臣は立ち上がる。ゆっくりと、しかし地面を踏む音はたしかだった。
「あの場で守ったのは名ではなく命です。それを否定するなら、父上と僕とは墨魂に対する考えが違います」
風がひとつ、葉を揺らす。沈黙がふたりの間を裂いた。
「お前は……やはり愚かだ」
正史郎は背を向けたまま、庭の先を見据えた。そして小さく息を吐き、ゆるやかにその場を離れていく。
明臣はそれを見送ることなく、視線を薬草棚の奥に落としたまま動かなかった。
ふたりの間に言葉は残っていない。かつて親子として交わした思い出さえ、今は墨に沈んだかのようだった。
残されたのは、交わらぬ信念。背を向けたその肩が語るように、明臣と正史郎の考えは、もう完全に背中合わせとなっていた。
薬草棚の影がゆっくり伸びる。沈香の匂いだけがまだわずかに、かつての繋がりを引き止めているように感じられた。
正史郎が去ったあと、沈黙に満ちた診療所の裏には、時間すら乾いてしまったような感覚が残った。薬草棚の影が伸びていく様子を目にしながら、明臣はふと火事の夜の出来事を思い返していた。
火を消そうと〝鎮火〟の命字を記したときの、まったく反応しなかった不可思議な静けさだ。
命字はたしかに書かれた。線は流麗で、気の配分も術理に従っていた。しかし広がらなかった。染み渡らず、沈まなかった。
あれは力不足によるものではないと確信している。命字の魂が、なにかに阻まれていた。それは感情の乖離ではなく、もっと外部からの――意図的な干渉。
透かした紙の奥に感じた、岩盤のような抵抗。命字の流れを覆い隠す膜の存在。
誰かが、あるいはなにかが、明臣の墨魂を拒んでいた。癒しでも同調でもない。もっと深く、記憶や命に触れるような力だ。
正史郎なのか。それとも、まったく別のなにか、か。
「封じられた」
思わず口の中で転がした言葉が、沈香の煙に吸われて消えていく。
封じられたのは、命字だけではない。父と息子、ふたりの間に流れうるはずだったものも、その瞬間すでに喪われていたのかもしれない。
明臣は暮れかかる空を見上げ、小さく息を吐いた。
「……用件は、今さら清花の処分ですか?」
明臣の声には火のような怒りはない。ただ、心の底に残った燻りがわずかに立ち上っていた。
「あの娘が穢れであることは変わらん。あの火事がそれを裏づけている」
清花が禁忌である逆筆を使ったから、災いが起きたと言いたいのだろう。
「お前がその判断を覆そうとした結果がどうなったか、お前にはわかっているはずだ」
正史郎の言葉は静かだった。咎めではなく、確認だった。
「穢れを名乗る者が、月華館にいる人たちを救った。それを父上は恥と呼ぶんですか?」
明臣は立ち上がる。ゆっくりと、しかし地面を踏む音はたしかだった。
「あの場で守ったのは名ではなく命です。それを否定するなら、父上と僕とは墨魂に対する考えが違います」
風がひとつ、葉を揺らす。沈黙がふたりの間を裂いた。
「お前は……やはり愚かだ」
正史郎は背を向けたまま、庭の先を見据えた。そして小さく息を吐き、ゆるやかにその場を離れていく。
明臣はそれを見送ることなく、視線を薬草棚の奥に落としたまま動かなかった。
ふたりの間に言葉は残っていない。かつて親子として交わした思い出さえ、今は墨に沈んだかのようだった。
残されたのは、交わらぬ信念。背を向けたその肩が語るように、明臣と正史郎の考えは、もう完全に背中合わせとなっていた。
薬草棚の影がゆっくり伸びる。沈香の匂いだけがまだわずかに、かつての繋がりを引き止めているように感じられた。
正史郎が去ったあと、沈黙に満ちた診療所の裏には、時間すら乾いてしまったような感覚が残った。薬草棚の影が伸びていく様子を目にしながら、明臣はふと火事の夜の出来事を思い返していた。
火を消そうと〝鎮火〟の命字を記したときの、まったく反応しなかった不可思議な静けさだ。
命字はたしかに書かれた。線は流麗で、気の配分も術理に従っていた。しかし広がらなかった。染み渡らず、沈まなかった。
あれは力不足によるものではないと確信している。命字の魂が、なにかに阻まれていた。それは感情の乖離ではなく、もっと外部からの――意図的な干渉。
透かした紙の奥に感じた、岩盤のような抵抗。命字の流れを覆い隠す膜の存在。
誰かが、あるいはなにかが、明臣の墨魂を拒んでいた。癒しでも同調でもない。もっと深く、記憶や命に触れるような力だ。
正史郎なのか。それとも、まったく別のなにか、か。
「封じられた」
思わず口の中で転がした言葉が、沈香の煙に吸われて消えていく。
封じられたのは、命字だけではない。父と息子、ふたりの間に流れうるはずだったものも、その瞬間すでに喪われていたのかもしれない。
明臣は暮れかかる空を見上げ、小さく息を吐いた。

