清花は布を手に、呼吸を潜めた。命字の枠にそっと指を伸ばすと、その冷たい空気が指先を締めつけ、緊張が喉の奥を塞ぐ。
墨魂を宿す〝繁栄〟の命字。その墨は静かに脈を打ち、なぜか清花の鼓動に共鳴するように震えた。
驚いたそのとき、指が和紙に触れる。
――瞬間、黒い霧が命字から立ちのぼった。
(えっ、これは……!?)
その墨は意志を持つように揺れ、〝繁栄〟の一画が水をかけた絵のように溶けだす。墨が滲み、和紙が波を打った。
その瞬間、庭の桜が音もなく崩れ落ちるのが見えた。池の水が黒く濁っていく。
墨崩れ――命字の破壊が、屋敷に災いをもたらしていた。
(私が……やってしまったの?)
混乱と恐怖に飲み込まれながら、清花は立ちすくむ。体の奥から冷たい汗が滲み、足元の畳が遠く感じるほど、世界が歪んでいた。
「清花! なにをした!」
駆けつけた正史郎の怒号が大広間に響く。
清花は膝をつき、頭を下げた。心臓が早鐘のように鳴る。
無墨民が命字を汚すなど、死罪に等しい。
(私はなにをしてしまったの……!?)
指先から黒い霧が湧き上がっていた。
「も、申し訳ありません……私が、間違えて……」
恐怖で言葉は震え、途切れる。
命字が墨崩れを起こしたあとの大広間は、まるで濃霧に包まれたような重さに満ちていた。
正史郎の足音が、黒漆の床を踏み鳴らす。近づくたびに空気が冷え、清花は身を縮めて膝に力を入れた。
死を覚悟し、沈黙に怯えたその瞬間、別の声が部屋を切り裂く。
「父上、待ってください」
静かだが、鋼のような威厳ある声。明臣だった。
二十歳の彼は正史郎の長男、賀茂家の後継者である。
霞京で彼以上に美しい人はいないと噂されている明臣は、見る者を魅了しながらも決して近づけない氷の面影を纏う。さらりとした黒髪は静かに額に流れ落ち、磨き抜かれた銀の時計と同じく端正な印象を与える。
英国仕立ての背広に身を包み、銀の懐中時計を胸元に差す気品ある佇まいが大広間を支配する。
黒い瞳が、冷たく清花を見つめた。だが、その奥にはかすかな好奇心が滲んでいる。
「この娘の力、興味深いですね」
明臣の言葉に、正史郎が片方の眉を上げる。
「興味深い? 命字を汚した無墨民だぞ!」
「逆筆です」
「なに?」
明臣は床に目を落としながら、静かに言葉を継いだ。
「命字を消す力。文献では伝説としてのみ語られてきました。ですが彼女は、それを発動させたのです」
清花は力なく立ち上がりながら息を呑んだ。
逆筆──墨魂と正反対の異能だ。
書ではなく、消し去る力。墨魂とは対極の力である。
指先には、まだ黒い霧がまとわりついていた。なにものかもわからないものが、清花の内側から湧いている。
(そんな恐ろしいものが私から……?)
清花は自分の指先を見て体を震わせながら、再びその場に膝から崩れ落ちた。
明臣の瞳は清花の心を貫きそうなほどに強い。だがその冷たさの裏に、なにかが見えたような気がした。
「まさか、そんな能力が存在するなどありえない。ただの言い伝えのはずだ」
正史郎は一刀両断するかのように手で空を切るが、声の端はわずかに揺れていた。
「ですが彼女は命字を消しました。それにより実際に墨崩れが起こったのです」
壁にかけられた命字が、わずかに震える。それは清花に呼応しているかのようだった。
正史郎は苦い顔をしながらも、視線を清花に向ける。その目は、罰ではなく警戒へと変わっていた。
「だとしたらなおさら危険だ。直ちに処罰しなければならない」
ぐっと言葉に詰まった正史郎だが、すぐに立てなおして清花を厳しい目で見た。
処罰という言葉に、清花はさらに体を硬くする。
「いいえ、罰するより利用すべきです」
明臣が一歩踏み出し、清花を見下ろす。その声は感情を含まず、ただ事実を述べるだけのようだ。
「この娘を僕の共鳴者にします」
清花はこれ以上ないほどに目を見開いた。
(……私を……共鳴者に?)
共鳴者。命字と墨魂が安定するために、筆聖が必要とする補助者だ。
しかし無墨民がそれになれるなど、聞いたこともない。
「逆筆を共鳴者にするなどもってのほか! しかも無墨民だぞ! 正気の沙汰とは思えん!」
正史郎は吐き捨てるように言うが、明臣は揺るがない。
それどころか、正史郎はもとより清花をさらに驚かせるひと言を放った。
「父上、僕は彼女と墨契婚を結びます」
目の前で起きているすべてが、清花を困惑させる。
(ぼ、墨契婚を? ……私と?)
胸の前で手を組み、怯えるように明臣を見上げた。
「逆筆の強大な力を封じ、同時に命字の強度を高めるのです。秘密として守り抜けば賀茂家は繁栄するでしょう。むしろ、この娘は鍵となるかもしれません」
墨契婚──筆聖と共鳴者の魂を結ぶ、命字のための婚姻だ。
清花は手を震わせ、唇を噛みしめた。
拒否権はない。ただ沈黙が身体を染めていく。
「立ちなさい、清花」
明臣の声には、命令以外のなにものもなかった。
清花は震える足で立ち上がり、その瞳と向き合う。冷たい光が自分を飲み込もうとしていた。
「逆筆のことは他言無用だ。わかったな?」
その瞳の奥には好奇心でも慈悲でもない、〝所有〟の予兆が光っていた。
墨魂を宿す〝繁栄〟の命字。その墨は静かに脈を打ち、なぜか清花の鼓動に共鳴するように震えた。
驚いたそのとき、指が和紙に触れる。
――瞬間、黒い霧が命字から立ちのぼった。
(えっ、これは……!?)
その墨は意志を持つように揺れ、〝繁栄〟の一画が水をかけた絵のように溶けだす。墨が滲み、和紙が波を打った。
その瞬間、庭の桜が音もなく崩れ落ちるのが見えた。池の水が黒く濁っていく。
墨崩れ――命字の破壊が、屋敷に災いをもたらしていた。
(私が……やってしまったの?)
混乱と恐怖に飲み込まれながら、清花は立ちすくむ。体の奥から冷たい汗が滲み、足元の畳が遠く感じるほど、世界が歪んでいた。
「清花! なにをした!」
駆けつけた正史郎の怒号が大広間に響く。
清花は膝をつき、頭を下げた。心臓が早鐘のように鳴る。
無墨民が命字を汚すなど、死罪に等しい。
(私はなにをしてしまったの……!?)
指先から黒い霧が湧き上がっていた。
「も、申し訳ありません……私が、間違えて……」
恐怖で言葉は震え、途切れる。
命字が墨崩れを起こしたあとの大広間は、まるで濃霧に包まれたような重さに満ちていた。
正史郎の足音が、黒漆の床を踏み鳴らす。近づくたびに空気が冷え、清花は身を縮めて膝に力を入れた。
死を覚悟し、沈黙に怯えたその瞬間、別の声が部屋を切り裂く。
「父上、待ってください」
静かだが、鋼のような威厳ある声。明臣だった。
二十歳の彼は正史郎の長男、賀茂家の後継者である。
霞京で彼以上に美しい人はいないと噂されている明臣は、見る者を魅了しながらも決して近づけない氷の面影を纏う。さらりとした黒髪は静かに額に流れ落ち、磨き抜かれた銀の時計と同じく端正な印象を与える。
英国仕立ての背広に身を包み、銀の懐中時計を胸元に差す気品ある佇まいが大広間を支配する。
黒い瞳が、冷たく清花を見つめた。だが、その奥にはかすかな好奇心が滲んでいる。
「この娘の力、興味深いですね」
明臣の言葉に、正史郎が片方の眉を上げる。
「興味深い? 命字を汚した無墨民だぞ!」
「逆筆です」
「なに?」
明臣は床に目を落としながら、静かに言葉を継いだ。
「命字を消す力。文献では伝説としてのみ語られてきました。ですが彼女は、それを発動させたのです」
清花は力なく立ち上がりながら息を呑んだ。
逆筆──墨魂と正反対の異能だ。
書ではなく、消し去る力。墨魂とは対極の力である。
指先には、まだ黒い霧がまとわりついていた。なにものかもわからないものが、清花の内側から湧いている。
(そんな恐ろしいものが私から……?)
清花は自分の指先を見て体を震わせながら、再びその場に膝から崩れ落ちた。
明臣の瞳は清花の心を貫きそうなほどに強い。だがその冷たさの裏に、なにかが見えたような気がした。
「まさか、そんな能力が存在するなどありえない。ただの言い伝えのはずだ」
正史郎は一刀両断するかのように手で空を切るが、声の端はわずかに揺れていた。
「ですが彼女は命字を消しました。それにより実際に墨崩れが起こったのです」
壁にかけられた命字が、わずかに震える。それは清花に呼応しているかのようだった。
正史郎は苦い顔をしながらも、視線を清花に向ける。その目は、罰ではなく警戒へと変わっていた。
「だとしたらなおさら危険だ。直ちに処罰しなければならない」
ぐっと言葉に詰まった正史郎だが、すぐに立てなおして清花を厳しい目で見た。
処罰という言葉に、清花はさらに体を硬くする。
「いいえ、罰するより利用すべきです」
明臣が一歩踏み出し、清花を見下ろす。その声は感情を含まず、ただ事実を述べるだけのようだ。
「この娘を僕の共鳴者にします」
清花はこれ以上ないほどに目を見開いた。
(……私を……共鳴者に?)
共鳴者。命字と墨魂が安定するために、筆聖が必要とする補助者だ。
しかし無墨民がそれになれるなど、聞いたこともない。
「逆筆を共鳴者にするなどもってのほか! しかも無墨民だぞ! 正気の沙汰とは思えん!」
正史郎は吐き捨てるように言うが、明臣は揺るがない。
それどころか、正史郎はもとより清花をさらに驚かせるひと言を放った。
「父上、僕は彼女と墨契婚を結びます」
目の前で起きているすべてが、清花を困惑させる。
(ぼ、墨契婚を? ……私と?)
胸の前で手を組み、怯えるように明臣を見上げた。
「逆筆の強大な力を封じ、同時に命字の強度を高めるのです。秘密として守り抜けば賀茂家は繁栄するでしょう。むしろ、この娘は鍵となるかもしれません」
墨契婚──筆聖と共鳴者の魂を結ぶ、命字のための婚姻だ。
清花は手を震わせ、唇を噛みしめた。
拒否権はない。ただ沈黙が身体を染めていく。
「立ちなさい、清花」
明臣の声には、命令以外のなにものもなかった。
清花は震える足で立ち上がり、その瞳と向き合う。冷たい光が自分を飲み込もうとしていた。
「逆筆のことは他言無用だ。わかったな?」
その瞳の奥には好奇心でも慈悲でもない、〝所有〟の予兆が光っていた。

