虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 夕暮れが障子に滲む頃、庭に水を撒いていた清花は門のほうから聞こえたほんのかすかな足音に気づいた。風の音に紛れるような気配だったが、顔を上げると、そこに佇む浅紫の羽織が目に入った。

 「清花……?」

 澄江だった。目の下には寝不足の影があり、普段よりもぎこちない所作に迷いと不安が滲んでいる。

 「澄江……どうして……」
 「……ごめん、来るべきか迷ったの。でも……賀茂家が焼けたって聞いて心配で」

 澄江は賀茂家に駆けつけ、そこで清花がここへ避難していると聞いたと言う。
 清花が言葉に詰まると、澄江は一歩だけ踏み出しながら声を落とした。

 「月華館で逆筆が現れたって聞いて、それが清花だって噂を聞いてびっくりしちゃって……。それに賀茂家の跡取りと墨契婚を結んだなんて言うから……。その賀茂家は火事で焼け落ちちゃうし、もうわけがわからなくて」

 その言葉には驚きというよりも、動揺と葛藤が混ざっていた。澄江自身、なにが本当でなにが誇張なのか掴めないまま、心だけが先走ってしまったのだろう。
 清花は小さく頷くだけで答えず、ゆっくり澄江に歩み寄ると、その手をそっと包んだ。汗ばんだ指先が、言葉より先に互いの感情に触れていた。

 「……ごめんね。来てくれてありがとう」

 夕焼けの風が庭を通り過ぎ、大輪のダリアが一輪、ゆっくり首を垂れた。
 明臣は宗近の診療所に行き、屋敷には清花と梅だけが静かに残っていた。
 縁側に座った清花は澄江にあたたかい茶を差し出すと、しばらくなにも言えずに黙っていた。
 その茶を淹れたのは梅だった。ふたりの距離を察したかのように、なにも言わずに盆をそっと差し出し、気配を残すことなく部屋を退いた。その所作には、言葉にせずとも空気を和らげる静かな心遣いがあった。
 庭では風が庭木の葉を揺らし、ふたりの間にはその葉音だけが静かに流れている。

 「……ほんとに、いろんなことが一度に起こって……頭がついていかないの」

 清花の声に澄江が顔を上げる。その声は普段より小さく、目線も庭の土間に落ちていた。

 「明臣様と墨契婚を結んだ……って噂で聞いたとき、なんだか信じられなかった。でも今こうして見てると……清花、ちょっと遠くなった気がして」

 その言葉に清花は目を瞬き、戸惑いを隠せず眉を寄せる。

 「私自身、よくわからないの。逆筆を使ったとき……命字を書いたとき……指は動いてたのに、心が追いついてなくて。墨魂が蝶になって明臣さんの肩に止まったときも……夢の中みたいで」

 風がふたりの髪をやわらかく揺らす。

 「ここで暮らしはじめて、やっと少し落ち着いたの。でも、それが現実なのか、逃げてるだけなのか……わからない。ねえ、澄江……私、そんなに変わってしまったかな」

 澄江は少しだけ微笑むと、手を伸ばして清花の手に触れた。

 「清花が変わったなら、それは今の清花の形になっただけ。でも、あなたの指があの日動いたのなら、それは本当のことなんじゃない?」

 そのひと言に清花は肩を落としながらも、胸の奥で反芻した。ダリアの影がふたりの膝に落ち、静かな夕暮れが境界を和らげていく。
 澄江は湯呑みに口をつけたあと、ふと目線を伏せた。

 「……街の人たち、ね……なんだか、ざわざわしてる。火事のこともそうだけど、それ以上に……逆筆の話で持ちきりなの」

 ダリアの葉が風にそっと揺れた。清花は黙って耳を傾ける。

 「みんな、『無墨民から逆筆が発現するなんて、なんの祟りだ』って……そんな前例、聞いたことないから。しかも墨契婚の相手は賀茂家の跡取りでしょう? 話が飛びすぎてて」

 澄江の語調は責めるものではなかった。ただ、身近な空気を素直に伝えているようだった。

 「町の書具屋では、『墨の理が歪んだ』とか、『時代が変わる兆しだ』って言う人もいるし……。反対に『無墨民が墨を扱うなんて不敬だ』って怒る人もいて。……正直、私は清花を知ってるから、なにも言えなかった」

 清花は手元の湯呑に目を落とした。そこに映る自分の顔は、少しだけぼやけて見える。
 伝説でしかなかった逆筆が現れたと聞けば、怒りたくなる気持ちもわかる。街を守る命字を消せる力は禁忌だ。

 「墨魂なんて扱えなかったのに、いきなり命字を消すような力が現れて、私もまだどうしたらいいかわからないの」

 澄江が頷き、少し前に身体を傾ける。

 「そうだよね、清花が一番戸惑ってるよね。清花がなにかを仕組んだわけじゃないって、私は知ってるから。でも、みんなは無墨民ってだけで、特別な枠に閉じ込めようとする。それが悔しい」

 夕焼けが縁側に滲み、庭の奥に咲くマリーゴールドが静かに揺れる。

 「あ、そうだ。さっきここへ来たとき、中の様子を伺ってる女の人がいたの」
 「……女の人?」
 「うん。小綺麗な格好してたけど、私が近づいたら急いでパーッと逃げちゃって」

 賀茂家の人間が偵察にでも来たのだろう。火事の復旧で人手が足りず、梅ひとりを見張りにつけているが、それでは物足りないのかもしれない。

 (いくら見張っていても、私はなにもしないのに)

 逆筆の異能を持つというだけで、清花は忌み避けられる人間になってしまった。無墨民のときは誰も彼も無関心だったが、逆筆が開花してからは必要以上の目が清花を追いかけ回す。

 「とにかく気をつけて」
 「うん。ありがとう」

 澄江は湯呑をそっと置き、小さく呼吸を整えるように唇を閉じた。澄江の隣で過ごしたひとときは短かったが、静かで濃密だった。
 縁側に差し込む光が少しだけ角度を変え、障子の紙に澄江の影が映る。

 「そろそろ帰るね。夕方の帳が下りる前に」

 澄江の言葉に清花は立ち上がり、門扉で彼女を見送る。庭を踏みしめるふたりの足音が、静かな空気にザッザッと響いた。
 門を出てすぐ、澄江が振り返る。

 「また来ていい?」
 「うん。……いつでも」

 ふたりは笑った。その笑みは、不安や噂のすべてを押し流してしまうほどの、小さな灯のようだった。
 澄江は道へと足を向ける。浅紫の羽織が夕空に溶けるように遠ざかり、やがて角を曲がって見えなくなった。
 清花はしばらくその場に佇んでいた。門の向こうには、澄江の言葉を運んだ風がまだ残っているような気がした。そしてふと胸の奥が、少しだけ軽くなるのを感じた。