その夜、別宅の座敷には小さな灯が灯っていた。
清花は文机に向かい、母の筆を手にしていた。今も母の顔は完全には思い出せない。でも筆の角度や墨の香りに包まれると、不思議と胸の奥があたたかくなる。
『心を映す字を書きなさい』
耳の奥に残ったその声だけが、今も筆先を導いていた。
そっと墨を落とす。
〝兆〟――なにかがはじまる予感の文字。墨魂が一羽、小さな蝶となってふわりと宙を舞った。冷たい空気を切るように蝶は行灯の灯に近づき、やわらかな光に照らされながら明臣の肩へ舞い降りる。
「……兆か」
「はい。なんとなく、今夜はそんな気がしたんです」
明臣は蝶をじっと見ていた。肩先で静止するその存在が、墨魂である以上に清花の内面そのもののように感じられた。
「そういう感覚で、字を書くのか」
「……はい。うまくは言えませんが、書くというより、筆が言葉を探しているみたいで」
明臣は静かに頷いた。ふたりの間を隔てていた風のような距離は、その夜、少しだけ近づいた。
行灯の灯が細く揺れ、蝶はもう一度ふたりの間をひと回りしたあと、墨の中にそっと戻っていった。
そして今、まだ明確な絆ではないかもしれないが、その筆跡のかすかな余韻が、ふたりの生活に新しいページを刻んでいるように感じる。
このままここで、平穏な生活を送っていけたらどれだけいいだろう。
そう願わずにはいられない。賀茂家と離れたここは、それだけ清花には居心地がいい場所だった。
清花は文机に向かい、母の筆を手にしていた。今も母の顔は完全には思い出せない。でも筆の角度や墨の香りに包まれると、不思議と胸の奥があたたかくなる。
『心を映す字を書きなさい』
耳の奥に残ったその声だけが、今も筆先を導いていた。
そっと墨を落とす。
〝兆〟――なにかがはじまる予感の文字。墨魂が一羽、小さな蝶となってふわりと宙を舞った。冷たい空気を切るように蝶は行灯の灯に近づき、やわらかな光に照らされながら明臣の肩へ舞い降りる。
「……兆か」
「はい。なんとなく、今夜はそんな気がしたんです」
明臣は蝶をじっと見ていた。肩先で静止するその存在が、墨魂である以上に清花の内面そのもののように感じられた。
「そういう感覚で、字を書くのか」
「……はい。うまくは言えませんが、書くというより、筆が言葉を探しているみたいで」
明臣は静かに頷いた。ふたりの間を隔てていた風のような距離は、その夜、少しだけ近づいた。
行灯の灯が細く揺れ、蝶はもう一度ふたりの間をひと回りしたあと、墨の中にそっと戻っていった。
そして今、まだ明確な絆ではないかもしれないが、その筆跡のかすかな余韻が、ふたりの生活に新しいページを刻んでいるように感じる。
このままここで、平穏な生活を送っていけたらどれだけいいだろう。
そう願わずにはいられない。賀茂家と離れたここは、それだけ清花には居心地がいい場所だった。

