「清花、ここから出るぞ」
「えっ? は、はいっ」
明臣に腕を引っぱられて立ち上がる。その弾みで巻物が手からするりと落ちた。
「あっ」
拾おうと手を伸ばすが、明臣の引きが強く、指先がわずかにかすめただけだった。
「明臣様! お待ちください、巻物が!」
「今は巻物より命だ。火がここまで来る前に外へ!」
後ろ髪を引かれながら、清花は書庫をあとにした。
廊下の先、薄暗い窓の外にぼんやりと赤い光が揺れていた。たしかに火が上がっている。小さな炎ではなく、空気を歪ませるほどの熱の波だ。
「清花、こっちだ」
明臣は懐から筆と和紙を取り出し、〝鎮火〟の字を書いた。だが――墨が震えるだけで、なにも起こらない。
「……効かない……?」
呟く明臣の眉が深く歪む。
「外へ、清花!」
「でも命字が……」
「理由はあとで考える!」
あちこちから悲鳴と足音が交錯する。
明臣に手を引かれ、広縁から裸足のまま外へ飛び出した。
息を呑むほどの焦燥が胸を圧迫する。まるで記憶の記録を読み取った瞬間、それが空気の糸を震わせてなにかを呼び寄せたような、そんな錯覚すらあった。
庭の一角には人だかりができていた。水桶を抱えて走る者、濡れ布を持って火に近づこうとする者、指示を叫ぶ者。使用人たちが息も絶え絶えに動き回り、混乱が庭全体を覆っていた。
火の粉が風に乗って舞い上がり、衣に燃え移りそうな瞬間に叫び声が上がる。
奥座敷からは賀茂家の者たちも避難してきていた。年配の者は若い使用人に支えられながら袖を押さえて顔を覆い、無言のまま外気へ逃れてくる。
「清花、ここにいるんだ。巻物を取ってくる」
「えっ、ですが――」
清花が戸惑う間に明臣は身を翻し、巻物を取り戻すべく再び屋敷へと駆け戻っていった。
辺りには灰が降り注ぎ、夜の闇を灰色に染める。叫び声、足音、指示――すべてが耳を打つ中、清花はただ立ち尽くす。
(明臣様……!)
使用人らが騒然と動く中、清花は両手を握りしめて茫然と燃え盛る炎を見つめた。灰が夜風に舞い、闇を灰色に染めていく。
「桶を! 裏手からまだ運ばれてないぞ!」
「火元はどこだ!?」
「皆、離れて! 煙で気を失うぞ!」
叫び声が次々に飛び交い、誰もが余裕など持てなかった。灰が降るたび、人々の肩に積もり、それを振り払う間もなくまた次の指示が飛ぶ。
よく見ると、火は清花の部屋のほうから上がっていた。
「どうしてあんな場所から……」
もしも清花が寝入っていたら、炎に呑み込まれていたかもしれない。
得体の知れない恐怖に包まれ、膝が震えだす。
時間が無限に伸びたような感覚ののち、屋敷から明臣が現れた。その腕には宗近が抱えられている。
「宗近さん!?」
清花が駆け寄ると、宗近の顔は煤にまみれ、呼吸は浅く、唇が青い。
「煙を吸い込んだらしい」
明臣の袖も焦げ、肩口に血が滲んでいた。
「明臣様がご無事でよかったです……」
火の中に置き去りにされた記憶も墨跡も、すべてが遠ざかっていく。しかし、それよりも怖いのは、明臣が戻らなかった場合の世界だった。
夜風に舞う灰が肩に積もる。明臣は静かに宗近を地へ横たえ、脈を測った。
「急いで医師を。誰か! 誰か医師を呼んでください!」
清花は振り返り、大声で助けを求めた。
明臣はなお、墨魂が働かなかったことに目を伏せていた。
どこかで、なにかが変わっているのかもしれない。そんな予感が胸の奥で冷たく疼く。
「明臣様! ご無事でしたか!」
使用人のひとりが明臣に駆け寄る。その中には梅もいて、清花と明臣の無事な姿を見て安堵の表情を浮かべた。
「すぐに医師を呼んでくれ」
「承知しました」
「父上たちは?」
「旦那様方も皆さん避難され、無事です」
どこかで瓦が崩れ落ちる音がして、明臣が咄嗟に清花の肩をかばった。
「大丈夫か!?」
「……はい、ありがとうございます」
明臣の手はまだ震えていた。火傷か、それとも墨魂が応えなかったことへの動揺か。
清花はその指先に目を落としながら、言葉を探した。
「命字が使えなかったんですよね」
明臣は短く頷いた。
「なにかが遮っている。ただの偶然じゃない」
瓦礫の中、遠くから水音と叫びが入り混じって聞こえてくる。火勢は落ち着きつつあったが、館の奥ではまだ赤い炎が脈打っていた。
宗近の体に布をかけながら、清花はそっと問いかけた。
「巻物は……」
「そこまでたどり着けなかった」
「……そうですか」
火の手が回り、明臣が中に戻ったときには手遅れだったのかもしれない。途中で倒れた宗近を見つければ、そちらを優先しなければならないだろうから。
灰が舞い、空がかすむなかでひと筋の風が通り抜ける。
その風が、新たな問いを運んできた。
書かれた〝鎮火〟の命字が響かない理由、宗近の沈黙、そしてこの火が偶然なのかどうか。
火は残骸を残して静まりゆく。だが本当の熱源は、まだ燃えはじめたばかりなのかもしれなかった。
「えっ? は、はいっ」
明臣に腕を引っぱられて立ち上がる。その弾みで巻物が手からするりと落ちた。
「あっ」
拾おうと手を伸ばすが、明臣の引きが強く、指先がわずかにかすめただけだった。
「明臣様! お待ちください、巻物が!」
「今は巻物より命だ。火がここまで来る前に外へ!」
後ろ髪を引かれながら、清花は書庫をあとにした。
廊下の先、薄暗い窓の外にぼんやりと赤い光が揺れていた。たしかに火が上がっている。小さな炎ではなく、空気を歪ませるほどの熱の波だ。
「清花、こっちだ」
明臣は懐から筆と和紙を取り出し、〝鎮火〟の字を書いた。だが――墨が震えるだけで、なにも起こらない。
「……効かない……?」
呟く明臣の眉が深く歪む。
「外へ、清花!」
「でも命字が……」
「理由はあとで考える!」
あちこちから悲鳴と足音が交錯する。
明臣に手を引かれ、広縁から裸足のまま外へ飛び出した。
息を呑むほどの焦燥が胸を圧迫する。まるで記憶の記録を読み取った瞬間、それが空気の糸を震わせてなにかを呼び寄せたような、そんな錯覚すらあった。
庭の一角には人だかりができていた。水桶を抱えて走る者、濡れ布を持って火に近づこうとする者、指示を叫ぶ者。使用人たちが息も絶え絶えに動き回り、混乱が庭全体を覆っていた。
火の粉が風に乗って舞い上がり、衣に燃え移りそうな瞬間に叫び声が上がる。
奥座敷からは賀茂家の者たちも避難してきていた。年配の者は若い使用人に支えられながら袖を押さえて顔を覆い、無言のまま外気へ逃れてくる。
「清花、ここにいるんだ。巻物を取ってくる」
「えっ、ですが――」
清花が戸惑う間に明臣は身を翻し、巻物を取り戻すべく再び屋敷へと駆け戻っていった。
辺りには灰が降り注ぎ、夜の闇を灰色に染める。叫び声、足音、指示――すべてが耳を打つ中、清花はただ立ち尽くす。
(明臣様……!)
使用人らが騒然と動く中、清花は両手を握りしめて茫然と燃え盛る炎を見つめた。灰が夜風に舞い、闇を灰色に染めていく。
「桶を! 裏手からまだ運ばれてないぞ!」
「火元はどこだ!?」
「皆、離れて! 煙で気を失うぞ!」
叫び声が次々に飛び交い、誰もが余裕など持てなかった。灰が降るたび、人々の肩に積もり、それを振り払う間もなくまた次の指示が飛ぶ。
よく見ると、火は清花の部屋のほうから上がっていた。
「どうしてあんな場所から……」
もしも清花が寝入っていたら、炎に呑み込まれていたかもしれない。
得体の知れない恐怖に包まれ、膝が震えだす。
時間が無限に伸びたような感覚ののち、屋敷から明臣が現れた。その腕には宗近が抱えられている。
「宗近さん!?」
清花が駆け寄ると、宗近の顔は煤にまみれ、呼吸は浅く、唇が青い。
「煙を吸い込んだらしい」
明臣の袖も焦げ、肩口に血が滲んでいた。
「明臣様がご無事でよかったです……」
火の中に置き去りにされた記憶も墨跡も、すべてが遠ざかっていく。しかし、それよりも怖いのは、明臣が戻らなかった場合の世界だった。
夜風に舞う灰が肩に積もる。明臣は静かに宗近を地へ横たえ、脈を測った。
「急いで医師を。誰か! 誰か医師を呼んでください!」
清花は振り返り、大声で助けを求めた。
明臣はなお、墨魂が働かなかったことに目を伏せていた。
どこかで、なにかが変わっているのかもしれない。そんな予感が胸の奥で冷たく疼く。
「明臣様! ご無事でしたか!」
使用人のひとりが明臣に駆け寄る。その中には梅もいて、清花と明臣の無事な姿を見て安堵の表情を浮かべた。
「すぐに医師を呼んでくれ」
「承知しました」
「父上たちは?」
「旦那様方も皆さん避難され、無事です」
どこかで瓦が崩れ落ちる音がして、明臣が咄嗟に清花の肩をかばった。
「大丈夫か!?」
「……はい、ありがとうございます」
明臣の手はまだ震えていた。火傷か、それとも墨魂が応えなかったことへの動揺か。
清花はその指先に目を落としながら、言葉を探した。
「命字が使えなかったんですよね」
明臣は短く頷いた。
「なにかが遮っている。ただの偶然じゃない」
瓦礫の中、遠くから水音と叫びが入り混じって聞こえてくる。火勢は落ち着きつつあったが、館の奥ではまだ赤い炎が脈打っていた。
宗近の体に布をかけながら、清花はそっと問いかけた。
「巻物は……」
「そこまでたどり着けなかった」
「……そうですか」
火の手が回り、明臣が中に戻ったときには手遅れだったのかもしれない。途中で倒れた宗近を見つければ、そちらを優先しなければならないだろうから。
灰が舞い、空がかすむなかでひと筋の風が通り抜ける。
その風が、新たな問いを運んできた。
書かれた〝鎮火〟の命字が響かない理由、宗近の沈黙、そしてこの火が偶然なのかどうか。
火は残骸を残して静まりゆく。だが本当の熱源は、まだ燃えはじめたばかりなのかもしれなかった。

