虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 「えっ」
 「施錠されてない」

 意外にも、宗近が清花を遠ざけた棚はいとも簡単に侵入を許したのだ。
 奥深くの塵が積もった棚に、まさか大事なものが入っているとは思わないだろうという油断か。それとも、たまたま鍵をかけ損ねたか。
 もしくは、清花が期待するような重要なものがここにないか。宗近が言っていたように、本当に雨の季節に出す巻物が入っているだけの可能性も捨てきれない。
 いずれにせよ、たしかめる以外にない。
 清花と頷き合った明臣は、南京錠を取り外して棚の扉を開いた。

 いくつかの巻物が整然と収められ、どれにも墨で外題が書かれている。賀茂家の系図、歴史などだ。
 明臣が賀茂家に関する巻物を手に取る中、清花はある巻物に目が留まった。〝記憶の記録〟と書かれたそれに吸い寄せられるように手が伸びる。
 両手で丁寧に取り出し、紐を解く。巻物を広げると、墨の筆跡が揺れながら現れた。流麗でありながら、どこか急ぎ足で書かれたような筆致だ。

 【これは、私の記憶が封印されるか、もしくは消されたときのための記録である】

 冒頭、そう書かれていた。自分の意思に反し、誰かによって記憶を失くすような書き方だ。

 (賀茂家の人が書いたもの?)

 清花がじっと見入っていると、明臣が隣から巻物を覗き込んだ。

 「これは宗近の字だ」

 明臣の言葉に清花は息を呑んだ。
 宗近自身も、記憶に関する問題を抱えているのかもしれない。だとしたら、彼も逆筆の異能者なのだろうか。
 次の行にはこうあった。

 【霞京の人間の記憶が消された今、清花が何者であるか、知るのは私とあともうひとり、支配する者である】

 清花はその一文に目を吸い寄せられた。

 (霞京の人たちの記憶が消された……? 宗近さんはいったい私のなにを知っているの?)

 霞京の人々の記憶が〝消された〟と明言されていること。それは単なる風化や忘却ではなく、意図的な操作によるものだ。なんのために、誰が、どうして。
 清花に関する記憶を奪ったのか。それとも、なにかもっと大きな存在の記憶なのか。
 胸の奥がひりつく。たしかなはずの過去が、誰かの意思によって掘り崩されたような気がした。
 記憶がなければ、証明するものもない。

 (それに、支配する者って……?)

 巻物の墨跡に触れながら、清花はゆっくりと息を吐いた。暗闇に潜むものを見極めるには、光がいる。その光を見つけるためにこの記録があるのだとしたら、宗近はいつか清花自身がそれに辿り着くことを知っていたのだろうか。

 「明臣様」

 顔を上げた清花が呼びかけたそのとき。

 「火だ! 出火だ!」
 「逃げろ!」

 どこからか響いた叫び声に清花たちは顔を見合わせる。煙の臭いが鼻をついた。