慌てて立ち上がり、頭を下げる。
「申し訳ありません」
「謝罪はいい。僕が聞きたいのは、こんな夜更けになにをしていたのかだ」
明臣の部屋の前を通ったときに気づかれてしまったのかもしれない。不審に思い、清花を追ってここへ来たのだろう。
清花は小さく息を吐いた。空気が冷たく、喉に張りつくようだ。しかし、その冷たさよりも胸の奥にある重みのほうが、ずっと苦しい。
「……母の顔を忘れてしまったんです」
黙ったままではいられなかった。真夜中にここにいる理由を、ほかでは説明できない。
明臣の眉がかすかに動いた。母親の顔を忘れたのと、書庫に真夜中に忍び込むのとでは、繋がりがいっさい伝わらない。なにを言っているのか不可解なのだろう。
「その前は母の名前がわからなくなって……。逆筆の代償だと聞いて」
「逆筆の代償?」
初耳なのは表情からわかる。明臣は瞬きもせず清花を見つめたまま。わずかに開いた唇から次の言葉が漏れそうになるが、音にはならなかった。
「詳しいことはわからないんです。でも宗近さんがそう話していて……」
清花は少し前にここで宗近と話したこと、梅から聞いた話を明臣に打ち明けた。
明臣の瞳には驚愕と困惑が映る。
不思議なことに明臣もまた、梅と同様に宗近がいつ賀茂家にやってきたのか定かでないと言う。気づけばいた。記憶のどこにも明確なものはないのだと。
「……清花、君はそれをひとりで抱えていたのか」
清花は彼の目を見て、それからそっと視線を逸らして頷いた。
明臣の声には痛みが滲んでいた。
「気づいてやれず、すまなかった」
「いえ、そんな」
まさかそんな言葉をかけられるとは思いもせず、清花は首を横にふるふると振る。
明臣はしばし言葉を失ったまま、書庫の静けさに身を置いていた。油灯の火がわずかに揺れ、ふたりの影を棚の背に映す。
やがて明臣視線を棚の奥へ移し、言葉を紡ぎ出した。
「その手掛かりが、ここあるかもしれないと言うんだな?」
清花は浅く頷いた。
「確証はないんです。でも、そんな気がして……」
明臣はゆっくり棚に近づき、塵の積もる最下段に視線を落とした。
「なら、一緒に探そう」
清花は顔を上げた。明臣の瞳に揺らぎはなかった。ただ真っすぐに、清花の痛みを見つめていた。
こんなにも静かな優しさがあるのだろうか、と清花は思った。心の奥でずっと凝っていたものが、少しずつ溶けていくような気がした。これまで誰にも話せなかった。話したところでなにかが変わるわけではないと思っていた。
「いいんですか?」
気づけば唇からそう零れて、少しだけ震えていた。
「君ひとりに背負わせるには、重すぎる。逆筆のことも記憶のことも、僕も知らなければならない。知る責任があるんだ」
重みのある声が書庫の静寂に沈む。清花の胸の奥にあった重みが、少しだけ和らいでいく。
塵の積もった棚の前に、ふたりは並んで膝を突いた。油灯の小さな炎が静かに揺れ、ふたりの影が棚に伸びる。
しかし扉を目にした清花たちは落胆した。南京錠がついていたのだ。鍵がなければ開けられない。
「……無理ですね」
清花は肩を落としたが、明臣は躊躇いもせず手を伸ばした。その指が南京錠に触れたそのとき、カチャリと音を立てて鍵が外れた。
「申し訳ありません」
「謝罪はいい。僕が聞きたいのは、こんな夜更けになにをしていたのかだ」
明臣の部屋の前を通ったときに気づかれてしまったのかもしれない。不審に思い、清花を追ってここへ来たのだろう。
清花は小さく息を吐いた。空気が冷たく、喉に張りつくようだ。しかし、その冷たさよりも胸の奥にある重みのほうが、ずっと苦しい。
「……母の顔を忘れてしまったんです」
黙ったままではいられなかった。真夜中にここにいる理由を、ほかでは説明できない。
明臣の眉がかすかに動いた。母親の顔を忘れたのと、書庫に真夜中に忍び込むのとでは、繋がりがいっさい伝わらない。なにを言っているのか不可解なのだろう。
「その前は母の名前がわからなくなって……。逆筆の代償だと聞いて」
「逆筆の代償?」
初耳なのは表情からわかる。明臣は瞬きもせず清花を見つめたまま。わずかに開いた唇から次の言葉が漏れそうになるが、音にはならなかった。
「詳しいことはわからないんです。でも宗近さんがそう話していて……」
清花は少し前にここで宗近と話したこと、梅から聞いた話を明臣に打ち明けた。
明臣の瞳には驚愕と困惑が映る。
不思議なことに明臣もまた、梅と同様に宗近がいつ賀茂家にやってきたのか定かでないと言う。気づけばいた。記憶のどこにも明確なものはないのだと。
「……清花、君はそれをひとりで抱えていたのか」
清花は彼の目を見て、それからそっと視線を逸らして頷いた。
明臣の声には痛みが滲んでいた。
「気づいてやれず、すまなかった」
「いえ、そんな」
まさかそんな言葉をかけられるとは思いもせず、清花は首を横にふるふると振る。
明臣はしばし言葉を失ったまま、書庫の静けさに身を置いていた。油灯の火がわずかに揺れ、ふたりの影を棚の背に映す。
やがて明臣視線を棚の奥へ移し、言葉を紡ぎ出した。
「その手掛かりが、ここあるかもしれないと言うんだな?」
清花は浅く頷いた。
「確証はないんです。でも、そんな気がして……」
明臣はゆっくり棚に近づき、塵の積もる最下段に視線を落とした。
「なら、一緒に探そう」
清花は顔を上げた。明臣の瞳に揺らぎはなかった。ただ真っすぐに、清花の痛みを見つめていた。
こんなにも静かな優しさがあるのだろうか、と清花は思った。心の奥でずっと凝っていたものが、少しずつ溶けていくような気がした。これまで誰にも話せなかった。話したところでなにかが変わるわけではないと思っていた。
「いいんですか?」
気づけば唇からそう零れて、少しだけ震えていた。
「君ひとりに背負わせるには、重すぎる。逆筆のことも記憶のことも、僕も知らなければならない。知る責任があるんだ」
重みのある声が書庫の静寂に沈む。清花の胸の奥にあった重みが、少しだけ和らいでいく。
塵の積もった棚の前に、ふたりは並んで膝を突いた。油灯の小さな炎が静かに揺れ、ふたりの影が棚に伸びる。
しかし扉を目にした清花たちは落胆した。南京錠がついていたのだ。鍵がなければ開けられない。
「……無理ですね」
清花は肩を落としたが、明臣は躊躇いもせず手を伸ばした。その指が南京錠に触れたそのとき、カチャリと音を立てて鍵が外れた。

