虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 その日の夜遅く、清花は自室をそっと抜け出し、書庫へ向かった。
 午前〇時を過ぎた屋敷内は十一月の冷え冷えとした空気と、夜の静寂が張り詰めていた。障子に映る月明かりはほのかに銀の筋を描き、黒漆の廊下に薄い光が縞模様のように落ちている。
 足を踏み出すたびに廊下が軋むが、清花の足音はまるで墨に吸い込まれるように響かなかった。

 庭に面した縁側では石灯籠が細い命字灯を灯し、その揺らぎは眠る屋敷の息遣いを守るように淡い。屏風の影が通るたびに人の形に見えるのは、夜の墨が記憶を揺さぶっているのか、それとも過去の筆跡が静かに語りかけてくるのか。

 明臣の部屋の前を通り過ぎたとき、ふと庭先でなにかの影が動いたように見えた。しかし足を止めて目を凝らしても、木の枝が揺れているだけ。
 おそらく、暗闇への怯えが見せる幻だったのだろう。心の奥に潜む不安が、ほんの一瞬、形をとっただけにすぎない。清花はそう思いなおし、再び歩みを進めた。
 書庫へ続く廊下は特に冷え込み、壁の墨彩画がひそやかに滲んで見える。書庫の入口には墨神を模した彫刻が静かに立ち、清花が触れずともその視線が夜に向かって開かれているようだった。

 扉に手をかけ、音を立てないように開ける。書庫に足を踏み入れた瞬間、冷気とは異なる静けさが清花を包み込んだ。
 掃除のために入った昼間のときとは空気がまったく違う。そこは時の止まった空間のようで、香木の淡い残り香と紙の乾いた匂いが漂っている。天井から吊るされた油灯を灯すと、弱々しい光が辺りを照らした。その揺らぐ橙の光が背表紙に影を落としている。
 書庫の奥には背の高い棚が幾列も並び、表装の裂地が色褪せた巻物たちが沈黙を守っていた。床板はわずかに反り、歩みを進めるたびに年を経た木が低く鳴く。清花は指先で空気を探るように棚へと近づいた。

 一際奥の壁際にある棚。そこは少し前に宗近が『雨の季節に出す書物が入っている』と言っていた棚だ。重要な書物が入っているから、清花を遠ざけたに違いない。
 だがそこは大事なものをしまっているような風情はまったくなく、忘れ去れたかのように静かに塵が積もっていた。
 屈み込み、その最下段にそっと手を延ばしたそのとき。

 「ここでなにをしている」

 頭上から声が降ってきたため飛び上がる。

 「ひゃっ」

 咄嗟に口を押さえたが、声が漏れたあとだった。恐る恐る振り仰ぐ。

 「明臣様……!」

 清花を見下ろしていたのは明臣だった。