虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 五歳の清花は母、美百合と小さな家で暮らしていた。父は清花が産まれる前に亡くなったため、母娘ふたりきりである。
 藁の床、雨漏りする屋根。無墨民の貧しさの中でも、母はいつも笑っていた。
 夜になると母はよく清花の手を取り、地面に筆で文字を書かせた。紙は買えなかったが、母の文字は魔法のようだった。

 『文字は心を映すのよ、清花。どんなときも、筆に魂を込めなさい』

 美百合の声は優しく、月光に照らされた笑顔はあたたかかった。母の書は、貧しさの中でも希望の光だった。
 母は〝美百合〟と自分の名を書き、清花に真似させた。小さな指で地面に書いた〝美百合〟の文字は、まるで蝶が舞うように揺れた。無墨民である清花に、そのような力などないはずなのに。
 清花は目を輝かせ、母に抱きついた。

 『母さん、私にも墨魂が使えるの?』

 清花が問うが、美百合は悲しく笑うばかり。その後、母は病に倒れ、八歳の清花を残して逝った。
 しかし清花には、悲しみに暮れる間もない。清花が引き取られた三木谷(みきたに)家は筆匠と呼ばれる階級の上流家庭で、表向きは慈善だった。

 だがその実、清花の居場所は台所の隅に敷かれた薄い座布団ひとつ。朝は誰よりも早く起こされ、誰よりも遅く眠る日々。食卓に並ぶ食事に清花の箸はなく、残飯を黙って受け取るのが日課となっていた。
 声を出すと怒られ、目が合うと睨まれた。名前ではなく『下女虫(げじょむし)』と呼ばれ、存在は使用人以下だった。

 服は母から受け継いだもので、ほころびを針と糸でなおす時間すら与えられない。寒い日も、裸足のまま床を拭き続けた。

 清花を徹底的に虐めたのは、その家のひとり娘、真美子(まみこ)だ。
 同じ歳にもかかわらず、清花は真美子の顔を正面から見ることができなかった。目が合えば、ひどい仕打ちがはじまるからだ。
 それでも彼女の姿は横顔や背中、すれ違いざまの香りから嫌でも記憶に刻まれていった。
 白粉を塗っているわけではないのに陽に焼けることのないその肌は、まるで障子越しの光のようにやわらかいのに冷たい。瞳は艶やかで黒曜石のように美しかったが、清花には映るものすべてを値踏みするような冷たい光しか見えなかった。
 細い指先で清花の髪を引っ張り、針箱をよく庭に投げた。美しい指だが、清花にはそれが鞭のようにしか見えなかった。

 清花が茶碗を洗っていると背後から水をかけられた。冷たい水が背中を伝い、濡れた裾が床に張りつく。

 『きゃっ……』

 振り返ると、真美子が笑っていた。

 『汚い下女虫には水が似合うわね。あんた、風呂なんて入ったことあるの?』

 清花は黙って俯く。答えれば怒られる。黙っていても怒られる。
 ある日、真美子は清花のほころびた服を見て、わざと客の前で声を上げた。

 『まあ、見てよ、このみすぼらしい格好! うちの雑巾のほうがまだマシじゃない?』

 客が苦笑する。清花はその場から逃げられず、ただ立ち尽くすばかり。
 真美子は清花の食事の時間になると、わざと残飯を床に落とした。

 『拾って食べなさいよ。虫なんだから、床のほうが落ち着くでしょ?』

 清花は無言で膝をつき、冷えた飯粒を指で集める。
 冬になると、真美子は清花の草履を隠した。外に出て水汲みを命じながら、笑いをこらえて言う。

 『裸足で行きなさいよ。あんたの足なんて、草履以下でしょう?』

 清花は凍える石畳を踏みしめながら、桶を抱えて歩いた。
 三木谷家の人間はもちろん、ほかの使用人もみな見て見ぬふり。誰も気づかず、誰も声をかけない。清花は声を出さないことが生きる知恵だと悟った。

 そうして二年の月日が流れたある日、清花は賀茂家に身売りされた。墨魂を持たぬ清花にとって、それは終わりではなく、永遠に続く監獄のようなものだった。
 賀茂家でもまた、清花は使用人として過酷な労働を強いられている。母の筆だけが、清花の心に残った宝物だった。