宴から三日が経過した。
あの夜以降、賀茂家の朝は静けさよりも監視の気配が先に目を覚ます。屋敷の使用人の目線ひとつ、廊下の立ち居振る舞いひとつが、いつしか清花に向けられる選別のように感じられる。
正史郎が清花に目を光らせているのは明らかだった。逆筆の異能者として、そして明臣の隣に立つ者として。
その指示はひそやかに伝わり、屋敷の空気は次第に冷たくなるいっぽう。廊下を歩くだけで、足音が誰かの耳に届いている気がした。障子の向こうで交わされる小声が、自分の名を含んでいるように思えてならない。
清花は意識的に視線を伏せ、気配を消すように動くことを覚えはじめていた。しかし、どれだけ静かにしていても、存在そのものがこの家にとって異物なのだと、肌で感じる瞬間が増えていく。
そうして息を殺して過ごしていた、その日の夕方、清花は明臣に屋敷の外へ連れ出された。
「監視を避けたかっただけだ」
川辺へ向かう道すがら、そう言った彼の声はやわらかかったが、どこか強い意思が滲んでいた。
明臣と訓練や命字の試練以外で行動をともにするのは初めて。清花の視線は地を這い、言葉も出せなかったが、心の中では何度も〝ありがとうございます〟と繰り返していた。
(あの屋敷にいると、呼吸さえ墨に染まりそう)
清花の胸には、いつしか言葉にできない感情が積もっていたのだ。
しかし今、明臣の背中を追いながら歩くこの道には、風も水も、誰にも支配されていない静けさがある。川辺に近づくにつれ、風が髪を揺らし、草の匂いが鼻先をくすぐった。
清花はそっと顔を上げる。空が広い。屋敷の障子越しでは決して見えない、澄んだ夕空がそこにあった。
明臣は少し先を歩いていたが、ふと立ち止まって振り返る。
「ここなら、誰にも邪魔されない」
その言葉に、清花の胸がふっと軽くなる。誰にも邪魔されない。それは今の清花にとって、なによりも優しい許しだった。
霞京の川辺は、月明かりに淡く照らされていた。柳の枝が静かに風に揺れ、川面には墨の提灯がいくつも浮かび、ゆらりゆらりと流れていく。
次第に夜は深まり、街の喧騒も遠ざかる。
明臣は清花の歩調に合わせ、ゆっくりと石畳を進んでいく。屋敷の緊張も噂の視線も、今はこの川辺の空気に溶けて消えていた。
「ここは昔、姉とよく来た場所なんだ」
明臣は懐かしそうに言った。姉の存在は使用人たちの噂で聞いていたが、彼の口から聞くのは初めてだ。
「紫桜様、ですか……?」
「ああ。誰よりも親身に命字を教えてくれた人でもある」
一拍置かれたのち、明臣は月を見上げた。
「姉は〝調和〟という字を最後に亡くなった。墨魂が暴れて……」
言葉を切った明臣の肩が、ほんのわずかに震える。
清花は静かに足を止めた。月が川面に映り、ふたりの影が寄り添う。その空気の中で、清花はゆっくりと口を開いた。
「母は言っていました。文字は心を映す、と。震える筆にも迷いの筆にも、それぞれの美しさがある。その先に希望があるのだと」
明臣が振り向く。清花はその目を真っすぐ見つめ返した。
ふたりは並んで腰を下ろし、小さな筆と和紙を広げた。墨の香りが風に溶ける。
清花は筆を取り、〝希望〟と紙に書いた。その瞬間、墨がふわりと光を放ち、蝶の形に姿を変えて宙を舞う。黒く染まりながらも、どこかあたたかな光をまとって。
「……美しい」
明臣がぽつりと漏らす。
川辺に墨の香が残る中で舞い上がった蝶は、ふわりと夜の風に乗って空へ消えていった。墨で染まった羽がきらめき、提灯の影をなぞるように漂っていく。
その光景に目を奪われながら、明臣も筆を取った。
清花が差し出した和紙の余白に、同じく〝希望〟と流麗な筆跡で書き入れる。墨が紙に染みる瞬間、空気がぴたりと張りつめる。やがて、明臣の命字から一筋の光が煌めき、空へと昇った。
それは蝶ではなかった。墨魂は小さな星の粒となり、夜空の一点で淡く瞬きはじめる。清花は目を見張った。蝶と星、異なる形の命字が、同じ空をゆるやかに舞っている。
ひとつは風に、ひとつは光に。だが、交わらないはずのふたつがほんの一瞬、軌道を揃えてすれ違った。
「……共鳴してる」
明臣が呟いた声は、書とは無縁の純粋な驚きと安堵に満ちていた。
清花は頷いた。言葉にせずとも伝わるものが、たしかにそこにある。
川面に星と蝶の影が映り込む。水の波紋がそれを撫でるように広げていく。
「……母は、命字ですべての人が救われる日をずっと夢見ていました」
清花は、墨魂の蝶が少しずつ星に寄っていくのを見ながら口を開いた。
階級に関係なく、皆が等しく生きられる日を願う母の字は、とても優しく偉大だった。
明臣は目を伏せ、少しだけ筆先を握りなおす。
「姉は、命字に命を奪われた。でも今……、僕は清花の字に希望を見ている」
風が通り、ふたりの袖がほんの一瞬触れ合った。
誰も気づかないほどの距離。しかし、ふたりの心に宿った命字は、その触れ合いよりももっと近くに寄り添っていた。
あの夜以降、賀茂家の朝は静けさよりも監視の気配が先に目を覚ます。屋敷の使用人の目線ひとつ、廊下の立ち居振る舞いひとつが、いつしか清花に向けられる選別のように感じられる。
正史郎が清花に目を光らせているのは明らかだった。逆筆の異能者として、そして明臣の隣に立つ者として。
その指示はひそやかに伝わり、屋敷の空気は次第に冷たくなるいっぽう。廊下を歩くだけで、足音が誰かの耳に届いている気がした。障子の向こうで交わされる小声が、自分の名を含んでいるように思えてならない。
清花は意識的に視線を伏せ、気配を消すように動くことを覚えはじめていた。しかし、どれだけ静かにしていても、存在そのものがこの家にとって異物なのだと、肌で感じる瞬間が増えていく。
そうして息を殺して過ごしていた、その日の夕方、清花は明臣に屋敷の外へ連れ出された。
「監視を避けたかっただけだ」
川辺へ向かう道すがら、そう言った彼の声はやわらかかったが、どこか強い意思が滲んでいた。
明臣と訓練や命字の試練以外で行動をともにするのは初めて。清花の視線は地を這い、言葉も出せなかったが、心の中では何度も〝ありがとうございます〟と繰り返していた。
(あの屋敷にいると、呼吸さえ墨に染まりそう)
清花の胸には、いつしか言葉にできない感情が積もっていたのだ。
しかし今、明臣の背中を追いながら歩くこの道には、風も水も、誰にも支配されていない静けさがある。川辺に近づくにつれ、風が髪を揺らし、草の匂いが鼻先をくすぐった。
清花はそっと顔を上げる。空が広い。屋敷の障子越しでは決して見えない、澄んだ夕空がそこにあった。
明臣は少し先を歩いていたが、ふと立ち止まって振り返る。
「ここなら、誰にも邪魔されない」
その言葉に、清花の胸がふっと軽くなる。誰にも邪魔されない。それは今の清花にとって、なによりも優しい許しだった。
霞京の川辺は、月明かりに淡く照らされていた。柳の枝が静かに風に揺れ、川面には墨の提灯がいくつも浮かび、ゆらりゆらりと流れていく。
次第に夜は深まり、街の喧騒も遠ざかる。
明臣は清花の歩調に合わせ、ゆっくりと石畳を進んでいく。屋敷の緊張も噂の視線も、今はこの川辺の空気に溶けて消えていた。
「ここは昔、姉とよく来た場所なんだ」
明臣は懐かしそうに言った。姉の存在は使用人たちの噂で聞いていたが、彼の口から聞くのは初めてだ。
「紫桜様、ですか……?」
「ああ。誰よりも親身に命字を教えてくれた人でもある」
一拍置かれたのち、明臣は月を見上げた。
「姉は〝調和〟という字を最後に亡くなった。墨魂が暴れて……」
言葉を切った明臣の肩が、ほんのわずかに震える。
清花は静かに足を止めた。月が川面に映り、ふたりの影が寄り添う。その空気の中で、清花はゆっくりと口を開いた。
「母は言っていました。文字は心を映す、と。震える筆にも迷いの筆にも、それぞれの美しさがある。その先に希望があるのだと」
明臣が振り向く。清花はその目を真っすぐ見つめ返した。
ふたりは並んで腰を下ろし、小さな筆と和紙を広げた。墨の香りが風に溶ける。
清花は筆を取り、〝希望〟と紙に書いた。その瞬間、墨がふわりと光を放ち、蝶の形に姿を変えて宙を舞う。黒く染まりながらも、どこかあたたかな光をまとって。
「……美しい」
明臣がぽつりと漏らす。
川辺に墨の香が残る中で舞い上がった蝶は、ふわりと夜の風に乗って空へ消えていった。墨で染まった羽がきらめき、提灯の影をなぞるように漂っていく。
その光景に目を奪われながら、明臣も筆を取った。
清花が差し出した和紙の余白に、同じく〝希望〟と流麗な筆跡で書き入れる。墨が紙に染みる瞬間、空気がぴたりと張りつめる。やがて、明臣の命字から一筋の光が煌めき、空へと昇った。
それは蝶ではなかった。墨魂は小さな星の粒となり、夜空の一点で淡く瞬きはじめる。清花は目を見張った。蝶と星、異なる形の命字が、同じ空をゆるやかに舞っている。
ひとつは風に、ひとつは光に。だが、交わらないはずのふたつがほんの一瞬、軌道を揃えてすれ違った。
「……共鳴してる」
明臣が呟いた声は、書とは無縁の純粋な驚きと安堵に満ちていた。
清花は頷いた。言葉にせずとも伝わるものが、たしかにそこにある。
川面に星と蝶の影が映り込む。水の波紋がそれを撫でるように広げていく。
「……母は、命字ですべての人が救われる日をずっと夢見ていました」
清花は、墨魂の蝶が少しずつ星に寄っていくのを見ながら口を開いた。
階級に関係なく、皆が等しく生きられる日を願う母の字は、とても優しく偉大だった。
明臣は目を伏せ、少しだけ筆先を握りなおす。
「姉は、命字に命を奪われた。でも今……、僕は清花の字に希望を見ている」
風が通り、ふたりの袖がほんの一瞬触れ合った。
誰も気づかないほどの距離。しかし、ふたりの心に宿った命字は、その触れ合いよりももっと近くに寄り添っていた。

