虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 食事を終えた清花が片づけようと盆に食器を並べていると、別の手が目の前に突き出された。梅だ。

 「片づけは私がやるから」

 そう言って盆ごと持ち上げる。

 「ですが」

 梅にやってもらうわけにはいかない。

 「みんなの前に顔を出したら、またなんやかんや言われるよ」

 そういえばと、ふと思い返す。
 清花を見て噂話をしていた人たちの中に梅はいなかった。いつもの彼女だったら中心になって騒ぐはずだというのに。

 「この前の葛湯の礼さ」

 清花は思わず梅の顔を見つめた。彼女はいつも通りの飄々とした表情だったが、その目にはどこか優しいものが宿っていた。

 「お前が作ってくれた葛湯のおかげで体調が整ったのさ。だからお返しだ」

 あれはほんの些細なことだった。胃腸の調子が悪いと言っていた梅に、あたたかい葛湯を作っただけだ。

 「それだけだから勘違いしないでおくれ」

 梅はそっぽを向いたまま、手際よく盆を抱えなおす。廊下の奥に吸い込まれていく足音を聞きながら、清花の胸の奥で小さなぬくもりがじわりと広がった。
 残された空気の余韻に浸っていた清花だったが、ふと顔を上げると障子の向こうに人の気配がした。ふすまが静かに開く。

 「おはようございます」

 現れたのは宗近だった。いつも通り丁寧な身なりで、ただその視線にはどこか探るような色が混じっていた。

 「お、おはようございます」

 清花は急いで姿勢を正し挨拶を返す。
 昨夜の宴の出来事なら彼の耳にも入っているだろう。正史郎の指示でここへやってきたのだろうか。

 「……記憶に、なにかおかしな点はありませんか?」

 宗近の問いは、あまりに唐突だった。だがその声色には、明確な意図が込められている。
 清花は思わず息を呑んだ。胸の奥に不安が立ち上がる。

 (どうして宗近さんが、そのことに気づくの……?)

 自分の内側に起きている違和感に、他人が触れたことが恐ろしく感じられる。
 指先が震えた。昨夜以来、母の顔がどうしても思い出せない。それなのに宗近は、まるでその変化を正確に見抜いたかのような口ぶりだった。
 障子から差し込む朝日が、宗近の瞳を細く照らす。その目は淡々としていながら、どこか検分するような冷静さを宿している。清花の記憶の奥まで、書物でもめくるように見通しているようだ。

 「逆筆を発動すると、そういった現象が起きることがあります。特に、深層に染み込む力を持っていた場合、記憶と感情の境が揺らぐことがある」

 宗近の言葉は穏やかだが、内容はあまりに重い。
 清花は黙ったまま、拳を膝の上で握りしめた。記憶と感情の境。それはつまり、自分の記憶の一部が、あの夜の代償として奪われたということなのか。
 そこで、はたと思い出す。清花が母の名前を忘れたのも、逆筆が現れたあとだ。

 (私は、これからもっと失うの? 母さんの存在自体、忘れるような事態がきてしまう?)

 胸にぽっかりと開いた穴が、宗近の言葉でさらに広がるように感じられた。
 しかしなぜ、宗近は逆筆の代償など知っているのか。正史郎や明臣でさえ知らないようだったのに。

 「やはりなんらかの記憶を失ったのですね」

 なにも返せずに黙り込む清花を見て、宗近は確信を得たようだ。

 「……宗近さんは、どうして」

 清花がその理由を問おうとしたそのとき、襖が音もなく滑り、明臣が姿を現した。
 その目は、座敷に向けられたまま鋭く細められる。清花と宗近の間に漂っていた空気に、なにかを察したようだった。

 「宗近、なんの用だ?」

 声は静かだが、芯に警戒が滲んでいる。
 宗近は一瞬だけ明臣に目をやったあと、表情を崩さずに軽く頭を下げる。

 「様子を見にきました。清花さんの体調を気にされていた方がおりまして、少しだけご機嫌を伺っていたまでです」

 語調は丁寧だが、明らかに要をぼかしている。

 「それでは、失礼します」

 宗近は身を引き、挨拶の言葉を残して立ち去った。足音は軽く、振り返ることもなく廊下へ消えていく。
 その背を見送ったあと、明臣は清花のほうへ顔を向けた。

 「宗近と、なにを話していた?」

 問いかけは穏やかだが、目の奥には小さな疑念が灯っている。
 清花は喉の奥が引き絞られるような感覚に襲われた。宗近の言葉――記憶が薄れていくこと、逆筆との因果関係、それらを明臣に伝えることができない。
 清花は逆筆の力を使ってしまったことで宴を混乱に巻き込み、賀茂家を揺るがす事態を引き起こした。その上さらに〝自分の記憶が犠牲になった〟と告げれば、明臣にさらなる負担をかけるだろう。それは避けたかった。

 なにより清花は、自分がおかしいのかもしれないという疑念を誰かに抱かれる自体に臆している。逆筆の力を持つだけで穢れと言われる世界で、記憶まで揺らいでいるなどと伝えたら、明臣にまで恐れられるかもしれない。それが怖かった。
 明臣は今の清花にとって、ただひとり寄り添ってくれている人だから。

 「……いえ、少し体の調子を聞かれていただけです」

 声は震えなかったが、言葉は浅く、そこには語るべきことの影が静かに沈んでいた。どうかこれ以上、なにも問わないでと願わずにはいられない。
 明臣はそれ以上なにも言わず、ただ短く頷いた。
 しかし清花の胸の奥では、誰にも明かせない不安が墨のようにゆっくりと広がっていった。