虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 いっぽう、明臣も月華館から帰り、自室の書斎にこもっていた。
 大きな机に身を預け、抽斗から一枚の和紙を取り出す。それは姉、紫桜の遺した命字だった。

 〝絆〟――その二文字は今では墨魂の光をすっかり失い、墨の痕だけが残されている。
 明臣はしばらく、そこから目を離せなかった。
 紫桜の筆跡は力強く、気品に満ちている。

 「姉さんを亡くしたあのとき、僕はなにもできなかった」

 その囁きには、悔恨の重みが滲む。命字を継ぐ者として、家を守る者として、明臣は姉の死を未だに引きずっていた。
 誰よりも信頼していた命字の力が、人を滅ぼしたのだ。
 だが、月華館で清花は、たしかに人々を救った。
 禁じられた力ではあったが、あの墨魂の龍に立ち向かい、彼女の手から放たれた〝消却〟は、命字の原点を思い起こさせた。それは誰かを護るための文字の力だ。

 明臣は、心の奥にざわめきを感じた。
 清花の姿が脳裏に浮かぶ。震えながら石碑に手を伸ばし、自らの力を恐れながらも逃げずに立ち向かった彼女の背。その凛とした姿は、明臣の胸に思いがけず波紋を広げていた。

 (清花は芯の強い女性だ。怖がりなのに、それでも前を向いた)

 墨魂を鎮めた瞬間の清花の瞳、怯えと決意が重なるあの瞬間を思い返し、明臣の指先はわずかに震えた。
 今、清花との間に生まれたたしかな繋がりは、共鳴と呼ぶにはあまりにあたたかい。
 その感覚に、明臣はまだ名前をつけられずにいる。だが、彼女を守りたいと思ったのは家のためでも、義務のためでもなかった。もっと個人的な、言葉にしづらい衝動だった。

 しかし生身の感情は命字にとって危険なもの。明臣は沸き上がりそうになる想いを冷静に鎮めた。