屋敷に戻り、清花はその足で自室へ向かった。
静けさに包まれたその空間に足を踏み入れた途端、清花の胸に疲労が広がっていく。宴の騒動から解放されたせいだろう。
清花は膝を折って畳の上に座り、机の引き出しから細長い木箱を取り出す。それは母が遺した、小さな筆が収められた箱だった。蓋を開けると、墨の香りがほんのり漂う。
「……ただいま、母さん」
その呟きは、誰に聞かせるでもない声だった。清花はそっと筆を取り出し、墨を擦る。小さな硯に落ちた水が波紋を描くたび、胸の奥で眠っていた記憶が、やわらかく蘇っていく。
幼い日、母の膝の上で筆を握ったときの感触。うまく書けずに涙ぐんだ自分を、やさしく包んでくれたぬくもり。
『清花、いいのよ。字がゆらいでも、それがあなたの心なら美しいの』
清花は訓練用に明臣からもらった和紙をそっと広げ、筆を紙に落とす。
〝救〟――その一文字を書き終えた瞬間、墨魂が静かに立ち上がり、蝶となって舞った。
その蝶は部屋を一巡したあと、ふわりと清花の肩に止まった。墨で染まった羽が、どこかあたたかく感じられる。
「母さん……」
目を閉じて呟いたそのとき、異変が起きた。
(えっ、どうして……?)
母の顔が思い出せないのだ。
いつも背筋を伸ばし、揺らがぬ優しい眼差しで清花を見守ってくれた母の顔がぼやける。
清花は筆を置き、震える手で蝶をそっと撫でた。羽がふるふると微かに揺れる。
しかし、そのぬくもりだけでは心の動揺を鎮められない。目を閉じても、開いても、母の顔が霞のように遠ざかっていく。
(どうして忘れたの? 宴まで、はっきり思い出せていたのに……)
焦りとも悲しみともつかない感情が、胸の奥で静かに広がっていく。大事にしていた記憶の欠片がぽろりと剥がれていく感覚。それは墨で染まった紙が水に溶けていくような、無力で切ない感触だった。
肩に止まった蝶が、そっと羽を震わせる。それは慰めのようでもあり、告げられぬ悲しみを伝えに来た使いのようでもあった。
静けさに包まれたその空間に足を踏み入れた途端、清花の胸に疲労が広がっていく。宴の騒動から解放されたせいだろう。
清花は膝を折って畳の上に座り、机の引き出しから細長い木箱を取り出す。それは母が遺した、小さな筆が収められた箱だった。蓋を開けると、墨の香りがほんのり漂う。
「……ただいま、母さん」
その呟きは、誰に聞かせるでもない声だった。清花はそっと筆を取り出し、墨を擦る。小さな硯に落ちた水が波紋を描くたび、胸の奥で眠っていた記憶が、やわらかく蘇っていく。
幼い日、母の膝の上で筆を握ったときの感触。うまく書けずに涙ぐんだ自分を、やさしく包んでくれたぬくもり。
『清花、いいのよ。字がゆらいでも、それがあなたの心なら美しいの』
清花は訓練用に明臣からもらった和紙をそっと広げ、筆を紙に落とす。
〝救〟――その一文字を書き終えた瞬間、墨魂が静かに立ち上がり、蝶となって舞った。
その蝶は部屋を一巡したあと、ふわりと清花の肩に止まった。墨で染まった羽が、どこかあたたかく感じられる。
「母さん……」
目を閉じて呟いたそのとき、異変が起きた。
(えっ、どうして……?)
母の顔が思い出せないのだ。
いつも背筋を伸ばし、揺らがぬ優しい眼差しで清花を見守ってくれた母の顔がぼやける。
清花は筆を置き、震える手で蝶をそっと撫でた。羽がふるふると微かに揺れる。
しかし、そのぬくもりだけでは心の動揺を鎮められない。目を閉じても、開いても、母の顔が霞のように遠ざかっていく。
(どうして忘れたの? 宴まで、はっきり思い出せていたのに……)
焦りとも悲しみともつかない感情が、胸の奥で静かに広がっていく。大事にしていた記憶の欠片がぽろりと剥がれていく感覚。それは墨で染まった紙が水に溶けていくような、無力で切ない感触だった。
肩に止まった蝶が、そっと羽を震わせる。それは慰めのようでもあり、告げられぬ悲しみを伝えに来た使いのようでもあった。

