虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 迷っている猶予はない。清花は唇を噛み、決意を固める。

 (私がやらなきゃ……)

 清花は震える手を石碑に伸ばした。指先が冷たい石の表面に触れた瞬間、背筋を貫くような痛みが走る。墨魂が逆流する感覚。逆筆の力が、封じ込められていた闇をこじ開けた。

「……ごめんなさい」

 呟きは誰にも届かない。ただ清花自身が、その言葉を呪文のように必要としていた。
 指先から黒い光が滲み出し、空間の空気が一気に沈む。あたりは音を殺されたように静まり返った。
 祭壇に渦巻いていた龍の墨魂がその光に気づいたのか、鋭い咆哮を放つ。提灯の火が揺らぎ、天井の命字灯が明滅した。

 清花は石碑に両手を添えた。墨魂が触れた肌に熱とも冷たさともつかぬ感触が走り、息が詰まる。霧のように漂っていた龍の体が、じわじわと崩れはじめた。
 その姿は墨を浴びた布が水に沈むよう。静かに、だが確実に消えていく。

 「う……っ!」

 逆筆の力が清花の体内を逆巻くように駆け抜け、膝が折れそうになる。だが、石碑に宿った墨魂が手を通して流れ出し、濁った龍の輪郭を喰らうように引き裂いていく。
 筆聖たちは息を呑み、言葉を失っていた。誰も動けない。ただ、黒い光が石碑の〝龍〟を覆い尽くし、未完成の命字が音もなく消えていくのを見ていた。
 龍が最後の咆哮をあげる。だがその声は墨に飲まれ、静寂の中へと落ちていった。

 光が収まったとき、祭壇は静かだった。石碑の表面には、かすかに滲んだ墨の痕が残るだけ。
 清花は石碑に触れたまま。息は荒く、額には細かな汗が浮かんでいた。
 闇は消えた。しかしその代償に、空気はなにか大切なものを引き剥がされたような、張り詰めた静けさをまとっていた。
 会場は静寂に包まれ、誰もが息を止めて清花を見つめている。シャンデリアの光が再び穏やかに揺れ、壁の書画も静まった。会場を満たしていた緊張がふっと緩み、代わりに沈黙だけがり積もった。

 誰も動かない。誰も言葉を発さない。
 まるで、命字に触れた墨魂だけでなく、人々の思考まで凍りついたかのようだった。
 しかしその沈黙も次第に消え去り、人々が我に返っていく。

 「……命字を消した?」
 「逆筆じゃないのか!?」
 「あの娘は無墨民じゃないのか!?」
 「禁断の力だ! 穢れた存在だ!」

 筆聖たちの非難の声が響く。
 清花は肩を震わせ、床に膝をついた。着物の裾が墨で汚れ、まるで自分自身が穢れの象徴であるかのようだった。