虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 賀茂家の屋敷は、息を呑むほどの静寂に包まれている。
 黒漆塗りの廊下は鏡のように鈍く光り、清花の足音さえ吸い込んでしまう。襖には白地に黒の荒波文様が描かれ、家の権力や力を暗示しているよう。夏だというのに冷気が壁の隙間からじわりと流れ出し、まるで屋敷そのものが体温を奪っているかのようだ。
 どこか炭の残り香のような匂いが漂い、それが長年ここに積み重ねられてきた人の気配を感じさせた。
 とはいえ、それはぬくもりとは違う。時間を閉じ込めた冷たい気配──沈黙の重さに似たものだった。

 清花が畳の間へ足を踏み入れると、柱時計の音が遠くから響いてきた。やわらかな朝の光は障子の銀糸に反射し、空気全体を仄白く染める。
 中央には巨大な命字が掲げられている。上質の和紙に墨で力強く書かれた〝繁栄〟の二文字。賀茂家の栄華を支える聖なる文字は、墨魂の力で微かに脈動し、屋敷全体に威厳を与えていた。
 和紙の表面には雲龍模様が浮かび、漆塗りの軸に巻かれた命字は、まるで生きているかのように息づいている。

 無墨民の自分が、これほど聖なる存在に近づいてよいのか。近づくことさえ、罰に等しいのではないか。
 箒を握る手が震える。

 凛とした欄間の鳳凰や飾り棚の陶器が命字の力に守られて、ひとつずつ異なる重みを宿している。そんな空間に清花はただひとり、影のように存在していた。
 背後の襖の向こうから墨魂を持つ者たちの話し声が漏れ聞こえてくる。まるで壁一枚を隔てて、別の世界が広がっているようだ。

 清花はその境界を越えることなく、箒を手に命字の周りを慎重に掃除しはじめた。埃ひとつ許されない仕事だ。その動きは無駄がなく、まるで舞うように静かだった。
 だが胸の奥では緊張が渦巻く。

 (私はただ、掃除をしているだけ。命字に触れるつもりなんてない。でも、それでも……怖い)

 「気をつけなさい、清花。命字に触れるんじゃないよ」

 四十代半ば、賀茂家の当主であり〝筆聖(ひっせい)〟である正史郎(せいしろう)の声が、不意に背後で響く。襖が開く音すらしなかった。
 絹の黒羽織は精緻な刺繍の家紋が背中で静かに光を返し、漆黒の羽織紐が結界を解くなとばかりに胸元を固く結んでいる。袴は一分の乱れもなく、折り目正しく威厳を放っていた。
 筆聖は霞京の運命を司る命字を操ることができる、最高位の存在である。
 彼の厳格な目が、清花を道具同然に見つめる。背の高い正史郎の声は低く、屋敷の空気を凍らせる。

 「……はい」

 清花は小さく頷き、目を伏せた。
 無墨民には命字に触れる権利などない。清花は布を握り、額に汗が滲むのを感じた。

 (ただ立っているだけなのに。どうしてこんなにも息苦しいの)

 清花はそっと命字を見上げた。墨の筆跡は力強く、まるで山脈のように堂々としている。
 目の前に立つだけでも畏怖を覚え、膝が震えてくる。それほど賀茂家の命字は強力なものだった。
 そして正史郎の命令は厳しい。

 「命字を磨け。だが、触れるな」

 矛盾した指示に、全身が強張る。無墨民として失敗は許されない。
 粗相がないように。そればかりを考えていた。
 正史郎が去ると、ふと清花の胸に母の記憶が蘇る。