虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 鈴の音がどこかで鳴った気がした。現実か、記憶か。清花は目を閉じ、心の奥に母の面影を探す。

 『清花、恐れずに、心を写しなさい』

 美百合の声が、胸を撫でた。それが幻であっても、清花にとっては真実だった。
 墨魂が明臣の手から流れ出し、〝龍〟の一画目が石碑に刻まれた。黒い墨はまるで生きているかのように脈打ち、空気中にかすかな光を放つ。
 清花は明臣の筆跡を見つめ、その流れるような動きに心を奪われた。
 母に教わった書道の記憶が、ふと胸に蘇る。
 母が、庭の縁側で筆を走らせていたあの日。清花はまだ幼く、母の隣で古ぼけた小さな筆を握っていた。

 『清花、字はね、形じゃないの。心を込めるの』

 そう言って母は清花の手をそっと包み、筆先を導いてくれた。
 そのとき書いたのは〝花〟という字だった。母はそれを見て微笑み、『あなたの心が、ちゃんと咲いてる』と言った。
 その記憶は、ずっと奥にしまわれていた。賀茂家での生活の中で、忘れようとしていた。
 あのときの母の声、筆の感触。それらが、今の自分に重なっていく。

 清花は墨壺を少しだけ強く握りしめた。
 明臣の筆跡は気品に満ち、しかしどこか孤独な影を帯びる。まるで彼の心そのものが、墨魂を通じて石碑に刻まれているかのようだった。
 清花の手は、墨壺を握りしめながらも震えていた。明臣の動きに合わせ、墨を補充する役割に徹する。だがふとした瞬間、清花は無意識に石碑に触れてしまった。
 冷たい石の感触が、全身に電撃のように走る。逆筆の力が抑えきれずに漏れ出したのだ。

 「――!」

 心臓が跳ねる。石碑の〝龍〟の一画が、まるで水をかけたように滲み、消えはじめた。会場にざわめきが広がる。
 黒い墨が石碑の表面を這うように濁り、祭壇の周囲で提灯の光が不自然に揺らぎ、壁の書画がうねりはじめた。
 清花は自分の手を見つめ、恐怖で凍りつく。

 「なんだ、これは!」

 正史郎の声が雷鳴のように響き、会場が一気に緊迫する。石碑から黒い霧が立ち上り、墨魂が暴走をはじめる。やがて霧が形を成し、不完全な龍が飛び出した。
 尾は途切れ、目は赤く光り、まるで怨霊のような異形の姿だった。龍は会場を旋回してシャンデリアを揺らし、壁に墨の傷を刻んだ。
 会場にいた人たちが悲鳴を上げて後ずさる中、筆聖たちは命字で龍を抑えようと動きだす。だが龍の力はあまりにも強く、簡単には制御できない。

 「清花!」

 明臣が振り返り、鋭く見つめた。

 「ご、ごめんなさい……! でも私、わざとじゃないんです!」

 清花の声は震え、涙が滲む。自分の手を見つめ、逆筆を呪った。なぜ、こんな力が自分に宿っているのか。無墨民として生まれ、ただ静かに生きようとしただけなのに。
 明臣の顔に焦りが浮かんでいる。

 「清花、落ち着け。逆筆を使え」
 「え……?」

 清花は驚き、明臣の顔を見上げた。彼の目は真剣で、必死だ。

 「龍を消すんだ。君にしかできない」

 恐怖で体が竦む。逆筆は禁断の力。使うことは、彼女が無墨民としてさらに蔑まれる危険を意味する。
 だが龍の唸り声が会場を震わせ、子どもの泣き叫ぶ声が耳に届いた。