虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました


 いよいよその日はやってきた。
 月華館の大扉が、静かに開く。夜の帳が落ちた館内には、月光を映すステンドグラスの円窓から青白い光が差し込んでいた。まるで夢の入り口のようなその空間に清花は一歩、足を踏み入れる。
 清花はその縁に立ち、しばし息を整えた。足元には象牙張りの床が広がり、一歩踏み出すごとに絹が擦れる音が静寂に溶けるように響いた。

 清花が身に纏ったのは、銀ねずの訪問着——ほんのり光沢を帯びた生地に、月と散り桜の意匠が織り込まれている。花は満開ではなく、まるで風にさらわれて流れる花弁が意図的に儚さを象っていた。
 裾と袖には白練のぼかしが入り、動くたびに霧のような陰影が立ちのぼる。淡藍の帯には藤紫の刺繍があしらわれており、家紋の代わりに織りの質が賀茂家の格式を物語っていた。髪は品良く結い上げられ、銀の玉簪が月明かりを返す。

 清花が身に着けているものはすべて、明臣がこの日のために用意してくれたものである。
 着古したものしか持っていないため、どうしたものかと思案していたところ、明臣が呉服屋を自宅に呼び、仕立てを頼んだのだ。
 賀茂家の名に相応しい装いにするためにほかならないが、初めて着る高価な着物に少なからず心は弾む。とはいえ、それ以上に重圧が双肩にのしかかり、緊張に体は強張っていた。

 清花はゆっくりと息を吸う。
 肌に触れる絹の感触と微かに焚かれている沈香の香りが混じり合い、胸の奥でなにかが目を覚ましかけていた。
 清花が歩みを進めると、広間の空気がわずかに震えた。沈香の香が漂い、空間そのものが彼女の気配を受け入れるかのように静かに息づく。

 そして、その静けさを裂くように別の足音が床を叩いた。明臣である。
 清花より半歩前を歩く彼は、墨色の縞を重ねた長着に、銀刺の羽織に身を包んでいた。裾には波と月の意匠が織り込まれ、羽織紐は白金色の組紐で結ばれている。歩幅は無駄なく、しかし空気を押しわけるような威厳を伴っていた。
 髪は両サイドをきっちりと撫でつけ、筆型の根付が懐からかすかに覗く。沈香の香りが彼の気配にも馴染み、まるで空間ごと筆に整えられているようだった。

 明臣が清花に振り返る。〝こちらへ〟とその手が自身の隣を指す。
 恐れ多いながらも彼の横に並ぶと、月華館の空間がその存在に呼応するかのように、天井の命字灯がわずかに揺らめいた。

 「大丈夫か」

 低く抑えた彼の声が、微かに届く。
 清花は首を横に振りかけて思い留まった。

 「はい」

 そう答える声は少し震えていた。明臣に聞こえたかはわからない。
 広間の天井に西洋製のシャンデリアが輝く中、円舞曲が流れはじめた。まるで月の音色のように空間を満たしていく。
 筆聖たちが集い、笑い声が軽やかに響いている。しかし清花はその華やかさに馴染まず、孤島のようだ。

 清花の役割は、筆聖の後継者である明臣の共鳴者として、命字の補助をすること。だが、内心では、賀茂家の庭を荒らした逆筆の力が再び暴走するのではないかという恐怖が渦巻いている。
 霞京の名士たちが祭壇を取り囲む中、筆聖の家系が命字を書き、次々と成功させていく。拍手を浴びる様子を見るにつけ、恐怖は募っていった。

 「清花、ぼんやりするな。準備はできているか?」

 明臣の声が、清花の耳に鋭く響いた。気品ある顔立ちには、冷ややかながらも優しい色が見え隠れする。
 いよいよ清花たちの番だ。清花は慌てて顔を上げ、頷いた。

 「はい、明臣様。墨と筆は整えてあります」

 清花の声は小さいが澄んでいた。明臣は一瞬、彼女の静かな眼差しに目を留めたが、すぐに視線を逸らし、会場中央の祭壇へと歩を進めた。そこには命字を刻むための巨大な石碑が据えられている。
 今夜の試練は、霞京を守護する命字を書くこと。石碑に刻まれる〝龍〟の文字は、街の調和と繁栄を守る力を持つとされている。
 明臣が筆を取り、清花が墨を磨る。この共同作業は墨契婚の契約に基づくものである。

 清花は明臣のそばで、墨壺を手に静かに立つ。手は微かに震えているが、それを隠すように深呼吸を繰り返した。
 逆筆――命字を消す禁断の力。あの日の記憶が、清花を焦らせる。賀茂家の庭で花が枯れ、池が黒く濁った光景が脳裏に蘇る。
 賀茂家の当主、正史郎が最前列に立ち、厳格な眼差しで明臣を見据える。正史郎の袴姿は荘厳で、まるで墨魂そのものが彼を包んでいるかのようだった。
 清花は正史郎の視線を感じ、背筋を伸ばした。無墨民である清花は、この場にいるだけで異質な存在。筆聖たちの囁きが、ふと耳に届いた。

 「無墨民が共鳴者だと? 賀茂家の面汚しじゃないか」
 「明臣くんも、よくあんな娘をそばに置くものだ」

 清花は唇を噛み、視線を下げた。

 『文字は心を映す。清花、どんな時も自分を信じなさい』

 心に母、美百合の言葉が響く。

 「はじめなさい、明臣。賀茂家の名にかけて、完璧な命字を刻め」

 明臣は正史郎の言葉に無言で頷き、筆を手に取った。
 清花はそばで墨を差し出し、明臣の動きに合わせて静かに補助する。心臓は鼓動のたびに重く鳴った。
 墨壺を持つ手に、冷たい汗が滲む。明臣が筆を石碑に近づけた瞬間、会場が一斉に息を止めたかのように感じられた。