虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 その日の午後、清花は書斎で明臣と向き合っていた。広場での試練の成功を祝う間もなく、次の課題が与えられているのだ。
 明臣が新しい和紙を広げる。

 「次は〝結〟の命字だ。街の絆を強める文字。できるな?」

 清花は頷き、筆を取る。だが、逆筆の疼きが彼女を苛む。彼女は深呼吸し、母の教えを胸に刻んだ。

 『静かに、強く』

 筆先が和紙を滑り、「結」の文字が形作られる。墨魂が小さな星となって舞い、書斎に光を放つ。明臣はそれを静かに見つめた。

 「……お前には、才能がある」

 清花は顔を上げ、驚いた。

 「才能……?」
 「そうだ」

  明臣は目を逸らし、窓の外を見た。

 「だが、逆筆を制御しなければ、才能も呪いになる。覚悟したほうがいい」

 清花は小さく頷き、胸が高鳴る。明臣の言葉は厳しかったが、その奥に清花に対するかすかな信頼が感じられた。

 「一週間後、月華館(げっかかん)で開かれる宴がある。そこで僕とともに命字を披露することになった」
 「……私が、明臣様と一緒に?」
 「ああ。共鳴者なら当然だろう」

 月華館の宴は、賀茂家をはじめとする筆聖の家々や命字に通じた者たちが一堂に会し、その年の筆技と霊力、精神性を披露し合う場として知られる。単なる祝賀や歓談ではなく、命字を用いて空間を操る者たちの、静かなる競演と結束の場である。

 「私にそのような大役が務まるのでしょうか……」

 街の広場で披露したのとはわけが違う。月華館の宴ともなれば、周りは墨魂の使い手として最上級の地位にいる筆聖たちばかり。墨神の社の頂点に立つ、長老も招かれるはずだ。

 「だからこうして訓練を重ねてきたのではないか。不安に思う必要はない」

 明臣はそう言ったあと、筆先を拭う手をゆるやかに止めた。声に憐れみはない。ただ、試練を前にした者への鼓舞はたしかにあった。
 清花は黙ったまま、膝の上で指を重ねた。部屋の隅に差し込む光が〝結〟の文字に反射し、墨の粒がゆらりと宙に漂っている。

 (もしもそんな場で逆筆が抑えられなかったら……)

 想像すると恐ろしく、胸の奥にざわめくものは消えないが、やる以外にないと覚悟を決める。

 「……はい」

 清花は小さいながらも力強く頷いた。
 書斎の外では霞京の街が朝の光に輝き、提灯の命字が静かに揺れている。
 清花は筆を握りなおし、逆筆の力と向き合う決意を固めた。文字はまだ不安定だが、明臣の視線が支えてくれていた。