虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 書庫の奥はひんやりとしていた。陽の光がほとんど届かないその一角で、清花は梅に言われた通り掃除をしていた。
 古い儀礼録や祝詞の巻物が入った棚は、ただそれだけで威厳を感じさせる。埃を取る動作でさえ手が震え、前に立つのも恐れ多いほどである。
 使用人頭である梅の仕事のひとつなのも頷けた。
 埃を払う布の音が静かに響くだけ。屋敷の気配が遠く感じられるのも、その静けさのせいだろう。

 そのとき、奥の壁際に置かれたひとつの書棚がふと目に留まった。
 ほかとは異なる重厚な木材で作られ、柱飾りにはかすかに命字の彫りが入っている。
 何気なくその前に立った瞬間――。

 「その棚はいい」

 背後から宗近の声が、いつもの静けさではなく、わずかに硬さを帯びて届いた。
 振り返ると彼は、すでに数歩分の距離を詰めていた。表情は変わらないのに、空気が一瞬で張り詰める。

 「中には雨の季節に出す書が入っています。今のうちに触れる必要はありませんので」

 その言葉に少しの違和感を覚えながらも、清花は静かに頷いた。
 宗近の目は棚の鍵に向けられたまま、まるで誰かべつの者に触れられるのを警戒しているよう。

 「その代わり、こちらの巻物を出しておいてくれますか。今夜、旦那様が目を通されます」

 促すように差し出された巻物は、通常の祭礼録。清花は視線を棚に残したまま巻物を受け取った。

 「かしこまりました」
 「もうここの掃除はいいですから」

 宗近はそれとなく清花を書庫から退出させた。
 あの書棚に刻まれた命字の彫り——清廉とも浄化とも読み取れるその線は、記録ではなく〝記憶〟を封じたなにかのように感じられた。