虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 息が詰まる朝食を終え、清花は再び使用人としての勤めに戻った。
 季節に合わせ、床の間の掛け軸や花の管理も清花の仕事のひとつである。
 宗近の指示により書庫から取り出した掛け軸には、長寿や高潔といった家格の象徴である松と鶴が描かれ、中央には清廉を意味する〝清〟の命字が書かれたものである。
 慎重に箱から取り出して床の間に飾っていると、梅が現れた。

 「破いたり汚したりしないようにするんだよ」
 「はい……」

 小さく頷き、梅を見上げる。どことなく顔色が悪いのは気のせいか。
 清花は少し戸惑いながらも、掛け軸の位置を整えるふりをしながら梅のそばへ歩み寄る。

 「……あの、梅さん。顔色があまりよくないようですが……」

 一瞬、梅は目を細めた。いつもの冷ややかな視線とは少し違う。

 「年寄りの顔色なんて気にするほど暇なのかい?」

 叱るような声だったが、そのあと少しだけ間が空いた。

 「……まあ、ちょっと昨夜から胃の具合が悪くてね。油ものでも食べ過ぎたかもしれない」

 清花はそっと首を傾げる。

 「厨房に葛湯があったかと……。あとでお持ちしましょうか」
 「……ふん、勝手なことをしなさんなよ」

 そう言いつつも梅は珍しく、ほんのわずかだけ口元を緩めた。

 静かな廊下を葛湯の湯気が漂うように、清花は梅の部屋の前に立った。引き戸を軽く叩くと、奥から「はい」とかすれた声が返ってくる。
 戸を開けると、梅は横になっていた体を起こした。
 部屋の中は薄暗く、障子越しに届く光が梅の横顔をほんのり照らしている。畳に膝をついて葛湯の器を慎重に置いた清花に、梅はちらと目を向けてから、ごく小さな声で言った。

 「昔ね、掛け軸を落として破いたことがあるのさ。十年くらい前だったね」

 清花は目を見開いた。梅がこんなふうに語りはじめるのを、今まで聞いたことがなかったからだ。

 「旦那様に怒られたよ。……それはそれは、ひどく。でもね、まだ幼かった明臣様はなにも言わずに〝清〟の命字をもう一度書いてくださった。破れた命字に代えて、新しく」

 少しだけ声が震えた気がして、清花は黙ってその続きを待つ。

 「それが今、あの掛け軸にある字だよ。宗近が保管していたものさ。……あれを見ると、なぜだか思い出すんだよ。罰じゃなく、秩序のなかに許しがあるってことを」

 梅は器に指をかけながら静かに笑んだ。
 単なる厳格さや規律の押しつけではなく、思いや過ちを包み込む余白を持っていることを意味しているのだろうか。その過ちを見つめて、赦し、新たなかたちで秩序に戻す力を、まだ幼かったはずの明臣は持っていたと。
 明臣の厳しさは、ただの冷たさではない。それは清花も感じている部分である。
 葛湯の湯気が、ふたりの間の距離をやさしく包んでいた。

 「梅さん、少しお休みになったほうがよさそうです。私にできるお仕事であれば、命じてください。私がやります」

 まだ顔色が優れない梅に提案する。

 「生意気なことを言うね、お前は」

 憎まれ口を叩くが、その表情はどこか優しい。

 「じゃあ、掛け軸が保管されていた書庫の掃除をお願いしようかね」
 「わかりました」

 清花は小さく頭を下げると、戸を静かに閉じた。
 廊下に戻った清花の足元には、凛とした光が差し込んでいる。清花は歩きながらふと、掛け軸の〝清〟の字が背中の奥で脈打つように感じた。