虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 そうして片づけを終え、いつもの掃除に向かおうとしたそのとき、清花のすぐ目の前で引き戸がすっと開いた。顔を見せた人物を見て、息を軽く吸い込む。明臣だった。

 「お、おはようございます」

 一歩下がり、両手を揃えて頭を下げる。
 清花の頭を下げる姿を見つめながら、明臣は短く「ああ」とだけ答えた。その声の響きには、明確な感情は乗っていない。しかし無関心とも違うように感じる。
 彼はしばし視線を逸らさずに清花を見ていたが、すぐに目を伏せるように室内へ一歩踏み入れた。その動きは滑らかで、無駄のない所作に品を感じさせる。

 (この部屋の空気が、明臣様に合わせて整えられているみたい……)

 清花はそんなことを思いながら、改めてその存在の重みを感じた。

 「……あの、明臣様、このようなお部屋を……ありがとうございます」

 言葉と同時に、再び頭を下げる。

 「ですが、どうして突然……」

 質問していいのか迷ったが、聞かずにはいられない。

 「名目上、君が私の妻である以上、ぞんざいな扱いをするわけにはいかないだろう」

 明臣の言葉には感情の起伏は見えなかったが、言い終えたあと、わずかに視線を外して床の一点を見つめるような仕草をした。
 その言葉で清花はすべてを悟る。つまり人の目があるからだ。
 昨日、広場で人々から清花に向けられた好奇の眼差しに明臣も気づいたからに違いない。清花と明臣が墨契婚を結んだ事実は知れ渡っていないようだが、命字の試練をともに遂行する間柄なのはわかっただろう。

 「気に入らないか」
 「い、いえっ、私にはもったいないくらいの場所です。部屋に足を踏み入れた瞬間、自分が誰なのかわからなくなりました」

 自分でも意外に思うほど素直な気持ちが口に出ていたことに気づき、慌てて口を閉じる。
 明臣は一瞬、目を細めた。戸口に立ったまま、部屋を見渡すようにして言う。

 「ここは、魂を鎮めるために整えられた場所だ。君が過ごすにふさわしい」

 それだけ告げると、明臣は振り返りもせず静かに廊下へと姿を消した。
 残された清花は開いたままの引き戸を見つめながら、小さく息を吐く。

 (私にふさわしいって……)

 改めて部屋を見渡して、壁の墨に掲げられた〝鎮〟の命字に気づいた。
 おそらく清花の中に蠢く、逆筆の力を鎮めるために明臣が書いたのだろう。

 「ありがとうございます」

 すでにいなくなった彼に向かい、清花は深々と頭を下げた。