虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 翌日の早朝、清花は部屋の引き戸を激しく開ける音で目覚めた。
 布団から飛び起き、戸のところで仁王立ちする人物を寝ぼけ眼で見上げる。梅だった。

 「お、おはようございます」

 外はまだ薄暗く、梅は明け方の冷え込みも意に介さぬ様子でじろりと清花を睨んだ。

 「目ぇ覚ましたなら、すぐに顔を洗いな。引っ越しだよ」

 どこか怒気を含んだ声に眠気がすぐさま吹き飛ぶ。

 「……引っ越し、ですか?」

 いきなりかけられた言葉がすぐに理解できない。まだ夢の中かと思うほど現実味が薄かった。

 「そうだよ。明臣様のご指示で、今日からはべつの部屋に移るんだとさ。それも使用人が使う部屋とは段違いときた」

 梅は片手で部屋の中を雑に指しながら鼻を鳴らす。

 「墨契婚をした以上、いつまでもこんな埃っぽい部屋にいるのは筋が通らないってことなんだろうよ。明臣様がわざわざそう言うんだから、ありがたく従いな」

 清花は言葉を返すこともできず、布団の上で固まっていた。

 (……私がそんな……明臣様のご指示で……?)

 現実とはかけ離れ過ぎていて、ただただ唇が乾いていく。

 「ほらさっさと顔洗って、荷をまとめな」

 梅はぶつぶつ言いながら踵を返した。引き戸が再び音を立てて閉まると、薄暗い部屋に清花だけが残った。
 清花はしばらく動けず、布団の縁に手を添えたまま、目は引き戸が閉まった先の暗がりをぼんやりと見つめている。体がすぐに動かないのは、ただ眠気が残っていたからではない。あまりに状況が急で、感情の整理が追いつかないからだ。
 部屋の隅に積まれた衣服と小さな箱は、どれも質素で色褪せている。それらをここではない別の部屋へ持っていくことが信じられない。場違いに思えて仕方がないのだ。

 とはいえ明臣の指示と言われれば、従う以外にないのだ。
 清花は梅に命じられたように荷物をまとめ、部屋を出た。

 (だけど、いったいどこへ行けばいいの……?)

 梅は段違いの部屋としか言っておらず、清花には場所がわからない。荷物を抱えて闇雲に歩いていると、梅が廊下の遥か遠くから大きく手招きをした。

 「なにをしてるんだい。こっちだ、こっち」

 賀茂家の人間はまだ寝静まっているため声は抑えているものの、静かなせいではっきりと聞き取れる。
 清花は足音を立てないようにすり足で進み、梅の元へ急いだ。また叱られたくはない。
 年齢の割に梅の足は速い。荷物のせいで視界が遮られる清花だったが、必死についていく。

 「街の広場に命字を完成させたって本当なのか」

 前を歩く梅が肩越しに尋ねる。横顔に疑念が見え隠れするが、感心するような声色でもあった。

 「はい……」
 「無墨民のお前がねぇ。本当に不思議だこと。訓練でどうにかなるとは思えないけどねぇ」

 納得できないのは清花も同じだ。未だに自分でも信じられない事態が起こり続けている。
 ひとり言のようにぶつぶつ言いながら、梅は首を左右へ傾げた。

 「ほら、ここだよ」

 ふと梅が足を止め、引き戸を大きく開け放つ。
 新しい部屋の戸をくぐった瞬間、清花は思わず息をのんだ。そこには、これまで過ごしてきた煤けた使用人部屋とはまるで違う空間が広がっていた。
 床には絹の畳が敷かれ、足を踏み入れたときの感触は驚くほどやわらかく、心まで沈静するよう。壁には上品な墨彩画が飾られていて、墨神を象徴する獣の姿が流れるような筆致で描かれている。
 障子は薄く、朝の光をやわらかく取り込むために工夫されたものらしく、室内全体が淡い白に包まれていた。

 部屋の奥には縁側があり、そこから手入れの行き届いた庭が見える。白砂が月のような形に敷かれ、小さな灯籠が並ぶ。風に揺れる枝の音すら、どこか格式を感じさせる。
 部屋の中央には黒漆の文机が置かれていた。筆と墨、硯が丁寧に並べられており、まるで墨魂に触れる者を歓迎するかのようだった。

 (私に……こんな部屋が……)

 清花は立ち尽くした。
 使用人から格上げされた扱いに対する喜びよりも、むしろ言いようのない恐れが胸の奥から溢れてくる。

 (この部屋を使う資格が、私にある?)

 そんな疑念が浮かんでは渦を巻いていく。

 「ぼさっと突っ立ってないで、持ってきたその荷物を片づけたらどうだい」
 「は、はい」

 荷物を抱えたまま部屋の奥に目を向けると、黒漆の文机に並ぶ筆硯と向かい合うように重厚な造りの箪笥が佇んでいた。
 漆が艶やかに光り、引き手の金具には桜の意匠が彫られている。表面にはなんの傷もなく、なめらかな反射が部屋の淡白な光を捉えて静かに揺れている。きっと、名のある職人が手掛けたものなのだろう。

 清花は戸をそっと開け、衣をしまおうとしたが、一枚一枚手に取るたびにその手元がためらう。布の端がほつれた綿入れ、色褪せた羽織、縫い目が頼りない襦袢、それらが煌びやかな箪笥には不釣り合いに思えた。

 (こんな粗末な着物を……ここにしまっていいの?)

 畳の上に広げられた衣が、箪笥の前で小さく身をすくめるように見えた。ここではないと訴えているかのようだ。
 とはいえ、ぐずぐずしていたら梅の厳しい声が飛んでくるだろう。朝の掃除の時間になる前に片づけなければならない。
 清花は着物を丁寧に折りなおし、引き出しにそっと収めていった。