虐げられた墨の華は、冷酷貴人の幸せな花嫁になりました

 その夜、清花は賀茂家の裏庭でひとり、地面に小さな文字を書いた。
 〝美百合〟と書くと墨魂が蝶となって舞い、母の記憶が清花を包む。庭の池に映る月が揺れていた。

 (どうして私はいきなり墨魂を込められるようになったの……)

 無墨民の自分がなぜという思いは、今も清花を困惑させている。真美子にかけられた辛辣な言葉も影響しているだろう。
 ふと人の気配を感じて顔を上げると、そこに思いも寄らない人が立っていた。明臣だ。

 「明臣様……」
 「なにをしていた」
 「も、申し訳ありません」

 いつもの癖で謝罪が先に口をつくと、明臣はわずかに眉を動かし、小さく息をついた。

 「なにをしていたと聞いている」

 その様子には問いへの答えを逸らされた苛立ちと、清花の反射的な謝罪に対する戸惑いが滲んでいるよう。

 「もう、……字を書いていました」

 再度謝りそうになった言葉を飲み込み、今度こそきちんと答える。

 「地面にか」

 頷く仕草だけで答える。
 明臣はふと、清花が書いた文字を見た。

 「お前の字は美しい」

 驚いた清花が顔を上げると、明臣は目を逸らして夜空を見上げた。

 「……もったいないお言葉です」

 清花は大いに恐縮して膝を抱える。膝の上で指が強張り、小さく震えた。

 (明臣様に褒められるような字ではないわ)

 褒められることに慣れていないため、どう返してよいかわからず、ただ身を縮めるしかない。

 「お前は、無墨民だからと自分を低く見すぎだ」

 夜の空気に明臣の声が静かに溶け込んだ。
 言葉の余韻が庭に漂う中、彼の視線が清花に向けられる。口元にわずかな硬さは残っているものの、その眼差しには真意を伝えようとする思いが込められているように見えた。

 「ですが、やはり無墨民ですので」

 それは覆せない事実だ。清花は膝を抱えたまま俯いた。
 声は控えめだが否定の色は濃く、胸の奥に根づいた劣等感が言葉のかたちをして零れる。
 明臣は清花を見つめながら、しばらく沈黙した。その眼差しは変わらず淡々としているが、先ほどの苛立ちは消え、どこか静かな思考の淵に立っているようだった。

 「墨魂は血筋を選ばないのかもしれない。お前があの命字を記した瞬間、すでに無墨民という枠は意味を失った」

 言葉は冷たくはなかった。ただ真実を述べているようで、それがかえって清花の胸に静かな衝撃を与える。
 清花は顔を上げ、明臣の横顔をそっと見た。夜空の下、その輪郭は冴え、闇に溶け込む蝶の軌跡を追う瞳は遠くを見据えている。

 (無墨民という枠が、意味を失った……)

 その言葉が清花の中で何度も反響する。そう言い切る明臣の声には、いつもの厳しさとは違う芯の強さがあった。
 墨魂の蝶は、夜空の月光を受けて儚く光りながら消えていく。
 清花はそっと立ち上がった。まだ不安はある。力の揺らぎも、逆筆の影も残っている。だが今は、明臣が肯定したひと言が、清花の背を支えてくれていた。
 屋敷に向かって歩きだした明臣が振り返らずに言う。

 「書は心を映す。お前がその心を持っている限り、墨は応える」

 夜の風がふたりの間を抜け、池の水面が静かに揺れる。その瞬間、清花はなにかに触れた気がした。
 それは、墨魂が応えてくれた理由を探す問いの答えではない。だが、問いそのものにぬくもりが差し込んだような感覚だった。